2
王国師団の隊員達は、近付く足音に向けて全員銃を構えていた。目的の者が入ってきたなら、一斉に発砲する手筈だった。
しかし、それは叶わぬこととなる。
扉が開け放たれると同時に、突風が吹き荒れたからだ。それは隊員の列をたやすく乱し、照準を揺るがす。
「うろたえるな!」
ギルマン隊長が叱咤する。
その声すら阻む暴風は礼拝堂を縦横無尽に駆け巡り、壁面の色硝子に亀裂を残す。
飛び散る破片。
転がる長椅子。
礼拝堂にいるもの全てを弄ぶ、烈風の発生源に、彼はいた。
煽られて乱れる黒髪。
か細い月光が照らす姿は。
見据える双瞳は夜よりも闇よりも尚暗く。
すらりとした長身に墨色の服を纏った。
風を操り炎を生む、異能の反国者。
――黒夜。
ギルマン隊長は手早く銃を構え直した。
「勅令により、貴様を抹殺する」
引き金に指をかける。
倣うように他の隊員達も次々と彼に狙いを定めた。
「死んでくれたまえ。――我が国と、国民のために」
荒れる風のなかでも、この数で撃てば必ずや当たるだろう。ギルマン隊長の胸に任務遂行への確信が灯る。
揺れる銃身を懸命に支え。指に力をこめる――
刹那。光が、踊り狂った。
「……っ!?」
炸裂する甲高い音。それに被さるのは隊員達の悲鳴だ。
「ひィィっ!?」
「落ち着け! 撃てる者は撃――」
そう言う間にも次々と隊員達の銃は不能になっていく。大蛇のように揺らめく炎がギルマン隊長を嘲笑う。
黒夜は、この惨事のなかにあって尚悠然と佇んでいた。
「――……俺は」
低く、押し殺した声がギルマン隊長の耳を掠める。烈火のごとき視線に足が怯む。
「俺は別に、生きたいわけじゃない……やりたいことも、叶えたい夢もない」
独白のようなのに、何故かそれはよく聞こえた。
「だから意味はないと思っていた。このまま、拒絶されたまま生きるのも、今ここで死ぬことも。俺にとっては、同じことだ」
「ならば……ならば、死を。我々は――望む」
「……そうだろうな。だが、俺は思い出した」
ゆるりと足を踏み出す黒夜の瞳はどこか茫洋とした眼差しで。
「――何を、だ」
ギルマン隊長は知らずうちにのまれている。
この異常な事態に。
黒夜が纏う、静かなる威圧感に。
黒夜は、笑った。
「いくら同じだからって――生きるも、死ぬも、それは俺の選択肢ってことだ。俺だけに許された選択肢だ。選んでいいのは、俺だけだ! 理不尽な謂れでお前らに剥奪される生であっていいはずがない!」
だから今まで生きてきた。意味などないに等しい生でも。納得出来ぬまま死を強要されてたまるかと。
生死を選ぶ自由すら、奪われてなるものかと。
「炎よ……焼き尽くせ。俺に害を齎すもの、すべて――」
黒夜が腕を振るう。酷く優雅に、しなやかに。烈火の羽根を吹き散らす。
「……っ貴様が! 存在している事実こそが、我々を苦しめているのだぞ! 国民の平穏な暮らしを脅かしているのだぞ! 数多の民の為に――それでもまだ理不尽だと言うのか! 理解出来ぬと言うのか!」
ギルマン隊長は吠える。
ささやかだった月光は既に炎に絡めとられた。降り注ぐのは、部下の呻き、火の粉、せわしなく壁を踊る影。
「あんたはまだ夢を見ているんだな」
「夢……?」
「それはきっと覚めない夢だ。気付かないようにと、自己暗示をかけているだけだ。解いてやろうか、そのまやかし――」
にい、と。口の端を吊り上げて黒夜が笑った、そのとき。
「――何をしているのです!」
黒夜の背後から現れたのは、リヒャルトその人。異変を感じ駆けてきたのか、珍しく息が荒い。
礼服の裾をなびかせ黒夜を庇うように立ち塞がる。
「リヒャルト……!」
「あんたが……ここの祭嗣か。すまないが、自業自得だと諦めてくれ。黒夜なんぞを匿う方が悪いのだ」
月明かりに光る銃口が代わってリヒャルトを捉えた。続くギルマンの冷淡な台詞。
「そこをどかなければ――祭嗣から撃つことになる」
「自業……自得だと? ふざけんな!」
激情のままに炎を生み出しかけた手を誰かが止めた。
「――いけません」
リヒャルトの声はよく通る。
「ここは……火神の神殿です。その場所で、怒りにまかせて火を遊ばせるなど……しては、いけません」
青白い相貌に反論を許さぬ瞳。思いの外強く押し止める力。
「何言ってんだ! 今は……、火神だとか何とか、そんなどうでもいいこと気にしてられるか! それにお前――本当は信じてないんだろう!?」
ずっとずっと思ってきた。もしやこの神主は彼の神を信奉などしていないのではないかと。
燃え盛る火の神も。
暗い黒夜も。
彼には、信じるに足るものではないのではないかと。
そんな虫の良い想像を。空っぽの祈りを捧げる彼の姿に何度となく重ねた。
信じていないのなら――信じるものでないとするなら――、
「神なんか――……黒夜でさえ、信じてないんだろう!?」
ただ、あるがままの自分として、彼と関係を築けるかもしれない、と。
夢見ていたのだ。
死を許容しながらも、そのどこかで。
――淡い、夢を。
「いいえ」
静かな拒絶の言葉が響き渡る。
拒絶、だと黒夜には思えた。
「神の存在も、心に巣喰う黒い夜も、私は認めています」
ギルマンはおろか黒夜よりも細い体をしているくせに、リヒャルトはこの場の誰よりも毅然としていた。
「認めているからこそ、私は神の恩恵たるものを信じない」
低く、だが強い声で。
「神は人々の祈りの声などに耳を傾けてはいらっしゃらない。故に恩恵など存在しない。
それらはただの……自然の持つ恵みの力。大地に雨が降り、花が咲き、風が吹くのは彼らも私達と同じように生命を持っているから。作物がたわわに実るのは、人間が精魂こめて育てたから。日照りの日もあれば豪雨の日もある。それが自然の営み。
――……決して、神がたわむれに起こす奇跡などではないのです」
その肩に手をかければ、思いもよらない冷たさにぞっとする。
「貴方方は、安易に討伐を決めず、黒夜についてきちんと調べるべきだった」
「調査はしたよ。その男の」
「彼は黒夜ではない。貴方方に……いえ、私達に、明けない闇夜、拭い去れない恐怖の幻影を押し付けられた、普通の、人間です」
――普通の人間。
リヒャルトの言葉が、すとんと黒夜のなかへ落ちる。
それは彼自身が欲していた言葉だ。これまで過ごしてきた何百何千の月日に渇望してきた言葉。
思わずこみあげる熱いものを黒夜はなんとか堪えて、ゆっくりと瞼を閉じる。決して忘れまいとするように。
「祭司の目は節穴か? 今の烈風を見ただろう。あの異能の力も”普通”だと言うのではあるまいな」
せせら笑うギルマンの台詞にもリヒャルトは動じない。僅かに愁眉を寄せ、
「……未知のもの、理解し難いものは弾圧しますか」
「そうは言っていない」
「私にはそう聞こえます。貴方は、この世に存在する全ての理を、私達人間が知り得た気にでもなっているのだとしたら。――それは、傲慢と呼ぶに相応しい所業です!」
リヒャルトの一喝が響く。
祭嗣はその細い指をギルマンに向けると、
「ならば貴方に問いましょう。その手に携えた力ものの構造を、製造方法を、貴方は知っていますか? 理解した上で、彼を殺傷せしめようとしているのですか?」
「なっ――兵士に知る必要があるのは使い方だけだ!」
ギルマンも引かない。
静かに零れた溜め息は誰のものだったか。
「では」
吐息まじりにリヒャルトが言葉を紡ぐ。一切の甘えも許さぬ、凜とした声と眼差しで。
「私は、貴方を化け物と呼んでもいいのですね」
「とうとう狂ったか? 祭嗣! 私のどこが化け物に見える!」
「私は寡聞にして銃というものを初めて目にしたのですが」
「剣にかわる最先端の武器だ。もう騎士は古い」
どこか見下すようなギルマンの自慢は、リヒャルトの次の言葉によって粉砕された。
「未知の力によって私達に危害を加えようとしている貴方を化け物、と呼んで構わないのですね」
あまりの暴言にさすがのギルマンも呆気にとられた。
「祭嗣……! 私は国から勅令を受けている!」
「そのような理由は無意味です」
リヒャルトは一蹴する。
「何故なら、貴方は聞かなかった。彼の言い分、言葉。その何からも汲み取ろうとはしなかった。今貴方は私を酷い男だと思いましたか? ……それはそのまま、彼の心情そのものであることに何故気付けないのですか!!」
普段の彼からは想像も出来ない、激しい怒り。
「彼だけが特殊だから? 多数ならば良くて小数なら切り捨てる、そんな暴力、を――」
リヒャルトの弾劾は唐突に途切れた。
突然、何の前触れもなく。
ひとつの銃口が、火を噴いていた。
「……っリ、リヒャルト!」
糸の切れた人形のようにくずおれるリヒャルトの向こうで、名も知らぬ兵士がこちらを狙って銃を構えている。
黒夜が非難の眼差しを送ると、兵士は一瞬裏返った悲鳴をあげ、
「は、反逆者だ! そいつはッ! 神職にありながら人心を惑わす……ッ!」
「てめえっ!」
「怖くて……、――怖くて何が悪い! 自分と違うものを否定して何が悪い! 戦争にでもなれば誰もが自分を守る為に相手を殺すんだ!
敵の心中なんか忖度してたら自分が殺される……夜毎悪夢にうなされて、一生脅えて暮らすことになる!
これは必要な犠牲だ。生きていく為に殺す。お前等なんか家畜以下なんだよ……綺麗事だけじゃ何も収まるわけないだろう!」
浴びせられるいくつもの言葉の刃が黒夜を切り裂きえぐっていく。それは痛いというより酷く悲しくて、やるせない。
「……俺が、」
絞り出した声の震えを止められない。
唯一の理解者をその腕に抱き、黒夜は視線をあげ、己の敵を見据えた。
「俺が死ねば、お前達の世界は平和になるのか。夜が――来なくなるのか」
「ああ、そうだ」
なら、
ならば。
俺の生は、何の為に。
この問いは、誰に。誰に、向ければいいのか。
人にも、世界そのものにすら、拒絶されて否定されて。
自分は何故生を受けてしまったのかと。
ただひとりの友人を凶弾にさらしてまで、何故俺は生きているのかと。
「……っ、じゃあ、訊いてみろよ……」
零れ落ちるものが涙だと、解りながら。
「訊いてみろよ! お前等の神様ってやつに! お誂え向きにここは神の根城だ。信じる者には加護があるんだろ!? 見せてみろよ……本当にいるなら……神がいるなら……! ――神の奇跡を見せてみろ!」
掌にじわりと広がる生温かい液体の感触が余計に彼を責め立てる。
黒夜は天蓋を仰いだ。
神の象徴たるこの礼拝堂で。
幾多の人間が崇め奉るその力を。
きっと誰よりも信奉していたであろう、この者の為に。
今にも消えゆきそうな命の灯に、新たなる火を。
「ナハ……ト」
掠れ声は耳を塞ぎたくなるほど頼りなく。
「リヒャルト! もうしばらく我慢しろ……! 俺がこいつら倒して、手当してやるから……だからっ」
「ナハト……火神様を信じて……」
「え……?」
予想だにしない台詞に黒夜は思わずリヒャルトを凝視した。
……生まれてこのかた、他人に与えられたものと言えば拒絶だけ。黒夜に信ずるものなど、はなから存在しない。そんなもの、必要ないのだと――。
なのに。
よりにもよって「神を信じろ」とは。
「生、き……」
血の気の失せた顔。それでも微笑むリヒャルトの身体をぐっと抱き寄せ、その鼓動に耳を澄ます。
覚束ない命の音をかき消さないように低く、黒夜は呟く。
「俺は、誰も信じない」
彼にだけ聞こえていればいい。
「この世界の、どんな人間でもだ」
拒絶。
それが黒夜に残されたただひとつの選択肢。
自ら辛い道など歩きたくなかった。これ以上傷付きたくなかった。
裏切られることが、何より怖かった。
「そう……思って、いたんだ。だけど今は違う。お前を、信頼してる」
応えるように触れられた手を固く握り返す。
『ここに奉られているのは火の神です。永久に尽きることのない、紅蓮の炎……それが、火神ユリウス様の御力』
いつか聞いたリヒャルトの言葉が蘇る。
「俺の火は……燃やして尽きるだけだから……」
己の存在意義を否定されるだなんてことは今はどうでもいい。
ただ、自分に手を差し延べてくれたひとりの為にそれを願う。
誰もが信じてやまない、神の加護――神の、顕現を。
(どうか)
静かに涙を流す黒夜へ追い打ちをかけるように、かちゃりと冷酷な機械音が響く。
ギルマンが銃の引き金に指をかけたのだ。
ギルマンを惑わせていた、あの呪術めいた抑揚を吐く祭嗣はもう喋ることはないだろう。
「全員予備の弾薬に入れ換えたな? 銃が破損した者は、間違っても生き延びぬよう――剣で、とどめを刺せ」
自分は間違っていない。
ギルマンの裡にあるのは、自分が正義であるという自信。己が受けた使命に迷いを植え付ける、それすなわち反逆者。魔性の言葉に耳を傾けてはならないのだ。
もはやギルマンに迷いや躊躇いはない。
隊長の指示に兵士達も無言で倣い、各々銃口を向ける。彼等の瞳にあるものは、ただただ異形のものへの畏怖、それだけ。
「人心の安寧の為、我らシュセルベク王国の未来の為に!」
(――どうか、奇跡を)
「来い! ――火神ユリウス!」
それは、どちらが先だったのか。
続けざまに放たれる発砲音と、床を舐め尽くさんとする業火と。
黒夜を穿つのは止まない衝撃、その激痛。
見る間に壊れていく友の身体が悲しくて。
視界を埋めるその事実に、やはり神は居ないのだと、慟哭する。
何故姿を現さない。
何故何もしてくれない。
黒夜の心を絶望が染めあげる。
『認めているからこそ、私は神の恩恵たるものを信じない』
それはリヒャルトが口にした台詞だ。
人は神に奇跡を請うてはいけないのか。
そもそも、奇跡などありはしないのか。
信仰なんて、所詮はただのお飾りなのか――
〈……都合の良い奇跡など神にも起こすことは出来ない〉
真白い空間。黒夜の心が見せた幻想の世界だったのかもしれない。
突如聞こえた声は、どこか沈んだ低いもの。
「誰、だ……」
〈それでも奇跡を望むのならば、その心に火を燈せ〉
「火……? あんた、」
のばした手が何かに触れる。
まるで蜃気楼を思わせる。儚く揺らぐ姿は、艶やかな黒髪を背中に流した美丈夫。凛々しい相貌に、今はほんの少しの憂いを乗せ。
彼の者は、自らの名を名乗った。
〈私は火神ユリウス。決して尽きぬ情熱の炎を司る者。私を信じることすなわち……己が心を信じ、貫くこと〉
――火神様を信じて。
つまり、リヒャルトは、黒夜に、自分自身を信じろと。己の意志を貫けと、そう言っていたのだ。
〈茎王に愛されし人の子よ、信仰というものは、神に縋ることではない。奇跡はいつでも、人の手によって起きるもの〉
「情、熱の、炎……ケイオウ?」
しなやかな指が彼方を指し示す。
〈見なさい。ほら、夜が明ける――〉
黒夜が目にした最後の景色は、眩しい朝焼けだった。清廉な白光に奪われる暁闇。深い夜の名残。残骸。
一面荒野と化した大地に新たな息吹を齎すような、清々しい日の光。
「神様……、見て、か……?」
本当に何もかもが滅してしまった。
そよぐ風にさらわれて、絶え間なく灰が降る。
「リヒャルト……」
奇跡は、起こせなかったよ。
喉を震わせるたび、生温い液体が咳とともに零れる。それは赤いはずだが、彼の目はもうその色彩を判別出来ない。
灰色の液体が、仰向けに倒れた彼の頬から首筋へ、涙のように残して流れ落ちていった。色のない視界に映るのは、真っ逆さまの世界。夜の終わり。
「か……、」
黒い、夜。
猜疑と不安を誘う、漆黒の時間。朝の到来さえも信じ難くなる、真の闇。
それは、彼の全てを飲み込んで、今終焉を迎えようとしている。
彼自身と、共に。




