1
――それは、夜の果ての黎明。
黒夜を染め抜く、暁の夜明け色。
彼に翼は必要なかった。ましてや永遠に老いることのない身体など、欲したことも願ったこともなく。
望んだのは、平穏な毎日。ひとりの「人間」として生きて死にゆく――たったそれだけの、慎ましい願いすら、彼にとっては雲上の夢。
この世に神がいるのなら、どうしてこのような仕打ちを黙って看過出来るのか。
「神様……、見て、か……?」
喉を震わせるたび、生温い液体が咳とともに零れる。それは赤いはずだが、彼の目はもうその色を認識出来ない。
灰色の液体が、仰向けに倒れた彼の頬から首筋へ、嫌な感触を残して流れ落ちていった。
色のない視界に映るのは、真っ逆さまの世界。
「か……み、さま」
黒い夜。
何物をも滅する、漆黒の時間。
それは、月の明かりも星の瞬きさえも飲み込み、嘲笑う。
同じ色と名を宿した、彼を見下ろして。
町外れの礼拝堂には、人の姿が絶えない。そのほとんどは町の住人である。しかし彼らは礼拝などせず、その主たる目的といえば、話をする。それだけだ。平素と違ったといえば、今日は目新しい話題があったということだろうか。
リヒャルト・シュタイナーは、とめどなく続く彼らの話に耳を傾けていた。
不意にひとりがリヒャルトへ話を振る。
「神主さんは王国師団、見たかい? 儂なんか気後れしちまいましてなあ」
「いえ、まだ」
リヒャルトはやんわりと首を傾げた。神主さんとはリヒャルトのことだ。実際はそんな名の役職ではないのだが、町の人間は皆そう呼ぶ。
「早く捕まらんものですかねえ。あの、」
老いた男性は不自然に台詞を切る。目だけで問われたリヒャルトは了解して、
「黒夜を捕らえるために――来ているのですか?」
「そらそうさね。あの怖い化けもん追ってこんな田舎まで来てくれたんですよ。聞きゃ不思議な技を使うらしいじゃないですか。突風を吹かせたり、森を燃やしたり……ほんと、王国師団には感謝しないとねえ」
男性の台詞に、他の人々も頷く。
その様子にリヒャルトは顔を曇らせるが、誰ひとり気付くことはない。
「今日――来るかねえ」
近隣の農夫が震える声音で尋ねた。何が、とは聞かずとも解る。
「今夜はまだ、月の御光があるようですよ」
明日は、月隠れになるかもしれないが。
微笑むと、農夫だけではなく、皆一様に安堵した表情を浮かべた。彼らは心底怖いのだ。
月のない夜が。
この国では、そんな夜を『黒夜』と呼ぶ。
それは畏怖の対象であり、恐怖そのものであり、終末の前触れでもある。
暗い世界に怯え、明かりを頼りに朝を待つ。黒夜の日は不思議と星も瞬かない。真の暗闇が訪れる。あるのは、人工の明かりだけ。だから午後は訪問客が多い。胸の裡にわだかまる不安を、誰かに打ち明けさえ出来ればいいのだろう。すっきりとした顔で帰っていく住人達の後ろ姿を見送りながら、リヒャルトは苦い溜め息を零した。
すでに夕刻だ。夜が近付くこの時間に誰かが来たためしはない。茜色の空を視界の隅に留めつつ、門扉を閉め――ようとして、ふと振り返る。
「……、?」
今。人の気配を感じたような気がする。
しかし見えるのは、丘を下る坂道と、まばらに生えた雑木林だけで、人影などどこにもなかった。
怪訝に思いながらも、リヒャルトは改めて門を閉ざす。
当たり前だが、中は静まり返っていた。
整然と並ぶ長椅子。色硝子を嵌め込まれた壁面を臨むだけの、偶像すらない祭壇は一見、何を奉っているのか判別し難い。
板張りの床を鳴らして、檀の前に進み出ると、リヒャルトはいつものごとく祈りを捧げた。胸に手を宛てただ目を瞑るだけのそれを、彼はもう何年も続けている。
そんなに毎日何を祈っているのかと友人に尋かれた折、リヒャルトは少し困ってから、己の意志を確かめているのだと答えた。
友人の感想は一言、「馬鹿じゃねえの」だった。やさぐれているせいもあるが、彼の言動は基本的に辛辣だ。
しかし彼のような人間ならば、神に願いをかけたりもするのかもしれない。本人に言えば全力で否定されるだろうが。
リヒャルトにしてみれば、神はただ自らの神であればいい。救われるか救われないかは己自身の問題であって、神が無慈悲だとかそんなこととは全く無関係だ、と思っているから、神に向かって祈りを捧げたことは一度もない。たとえ自分が信奉している神であってもだ。
けれど、友人のような立場になっても尚そう思えるかどうかは、正直判らなかった。
「世界は不条理にして理不尽、ですね」
呟くと同時に、壁のガス灯に火が点り、礼拝堂を赤々と照らし出す。
何の変哲もない備え付けのガス灯にそんな便利な機能が付いているはずもないのだが、リヒャルトは別段驚くこともなく、奥へ続く通路へと足を向けるのだった。
*
――当たり前だと思っていた。
風の声が聞こえるのも、揺らめく炎の暖かさが解るのも。生まれたときから、それは何の苦もなく出来たから。皆も口にしないだけで、自分と同じだと、思い込んでいた。
――当たり前だと思っていた。
夜を忌避するのも、神を信じるのも。
それは義務とか日課とか、そういったものではなかった。とりわけ意識に上ることのない、言うなれば精神の礎に刻み込まれたことだったから。
当たり前のことが、当たり前じゃないなんて、
思ったことも、なかった。
*
「この国を出た方がいいかもしれませんね」
部屋に入るなり、開口一番そう告げた台詞を、彼は鼻で笑った。
「何? いきなり。今さら何処行ったって変わるものか」
酷く投げやりな返答を聞きながら、リヒャルトは今しがた閉めた厚い鉄製の扉に内鍵をかける。
「ナハトは王国師団を知っていますか?」
「はあ?」
突如話の内容が変わって面食らう顔を視界に入れつつ、手近な椅子に腰掛けた。
さして広くはない部屋は、ふたり入れば少し手狭に感じられる。あるのは寝台と質素な机のみ。窓すらないここは、牢獄とたいして変わらないのかもしれなかった。
「王国師団というのは、国家に仕える騎士団のトップに君臨する組織です。騎士――とはもう呼ばないのでしたか、確か……」
「ふーん……で、何をするんだ、そいつらは」
「領土の防衛、治安維持など。様々です」
顔を上げると、彼は口の端を歪めてみせた。
「人ひとり追いかけ回すのが?」
漆黒の双眸が自虐に染まる。それでも尚、夜より暗い黒色はリヒャルトを惹きつけてやまない。
……彼は幾分変わった容姿をしている。
と言っても体格は普通だ。かなりの長身であるほかは、ごく平凡な二十歳そこそこの青年――だが、その髪、その目は共に比類なき漆黒。混じり気のない真の黒。本来ならば、美しいと称されてもいいはずの色。
しかしこの国、近隣では珍しい。
それが彼にとっての不幸だった。
リヒャルトは僅かに目を伏せる。
「……感情というものは、えてして不明瞭です。目に見えることがありません。優しさや愛情などは、だからこそ心に染み入るもの……ですが」
言葉を切り、寝台に座る彼に視線を合わせる。
「――人は、形のない恐怖に耐えられない」
「……」
「目の前に殺人鬼がいる現実より、殺人鬼に狙われているかもしれない、という不確かな状況の方が遥かに精神的苦痛を伴うのです。一度、怖いと感じてしまったら、抜け出すのは容易ではありません。例えばここに銃剣があって、それが恐怖をもたらしている原因ならば、銃剣をどこかへやればいいだけのこと。でも、その恐怖には実体がない。実体がないから、対処が出来ない。この場合の対処とは――物理的に、ということですが……」
彼は黙って聞いている。
「ただ怯えるしか出来ないのに、恐怖心だけはどんどん増していく。どうにかして打ち消したい、排除したくて――その恐怖に実体を作ってしまうんです。見知らぬ殺人鬼ならば、手近な不審者を犯人に。そして、」
俯くのを止め、リヒャルトは静かな闇を見据えた。
「防ぎようのない現象ならば――その化身を敵愾視することで、彼らは心の安定を保とうとする」
この国の人々は、怖がっている。
月のない夜を。
街並みを覆う、夜色の闇を。
リヒャルトの友人と同じ、……その漆黒を。
「化身かよ……そんな身に覚えのないことで迫害されるのか、俺は」
「…………」
リヒャルトには何も言えない。
もし彼が、この国に生まれなかったら。この国に、黒夜という終末思想がなかったら。彼が黒髪黒目でなかったら。
それから、
「澱んでんな……気持ち悪い」
彼の呟きに招かれたかのように、一陣の風が舞い込む。部屋は閉めきっているはずなのだが。
出元を捜して天井を仰ぐと、角に四角い孔があった。
「通風孔があるんだよ。この部屋、窓ねえだろ」
「外の風ですか?」
「そうだよ。……何なら明かりも点けてやろうか?」
言うが早いか、机上のカンテラが、礼拝堂のガス灯と同じように、音もなく灯る。灰色の壁に生まれる、炎の影。
リヒャルトはしばらくの間それをただ見つめていた。
……もし彼が、この国に生まれなかったら。この国に、黒夜という終末思想がなかったら。彼が黒髪黒目でなかったら。
それから、
――異能の力がなかったら。
彼は、きっと皆と同じように暮らせていたに違いない。
なんて、夢物語のような妄想だろうか。
リヒャルトの溜め息は涼風に散らされて、彼には届かない。
この心すら。
届くことは、ないのかもしれない。
「……――王国師団が本格的に動き出したのなら、ここもいずれは見つかります。彼らは貴方を、」
一瞬、言い淀む。
「貴方を、排除しようとするでしょう。本気で」
それは命を奪われることと同義だ。しかし彼は、どこか諦観にも似た不思議な表情を浮かべ、
「何も変わらねえよ。このまま生き続けることも、死ぬことも。……俺にとってはな」
「そう、ですか」
哀しい台詞だ。
リヒャルトは目を閉じた。
おそらく自分は――彼に、生きていて欲しいのだと思う。
こんな、人目を忍ぶような暮らしではなく、当たり前の、暮らしを。
「ただ、あんたには迷惑かけられないからな。近いうちにここを出てくよ」
「……」
呟きのような彼の言葉を、リヒャルトは苦い思いで聞いていた。
同時刻。
その言葉に耳を傾けていた者達が他にもいた。
彼らは、地面を這うかのように身を屈めて聞き耳を立てていた。厚手の揃いのジャケットには国章であるセベルの剣が縫い込まれている。
礼拝堂の外れに建つこじんまりとした離れ。特徴のない灰色の壁の下方に、ちいさな嵌め格子の窓がある。硝子はない。奥はただ暗く、どこに続いているかも判らない。
判らないが、風に乗って微かに漏れ聞こえるのは、会話だ。
ひとりが連れに向かって囁く。
「確認するが、ここの祭嗣は独居だったな?」
「はい、ギルマン隊長。村人達の話によると間違いありません。一年前に、ここに遣わされてきたようです。それまでは余所の国に居たらしく……」
「他国人か……なるほどな。だから黒夜を匿ったりするわけだ」
ギルマンと呼ばれた壮年の男は目を眇めた。
黒夜信仰は近隣にも根付いているが、この国の浸透度は桁外れだ。それこそ傍目からすれば、狂信的ととられかねないほどに。
「――黒夜は抹殺しなければならない。必ずな」
「我が国の光ある明日のために」
顔を見合わせ、互いに頷く。
「今夜のうちに決行しよう。大丈夫だ、我々には月の御光の加護がある。それに――」
彼は己の傍らにそびえる建物を見上げた。
「ここは、闇を払う火の神の神殿だ。きっと守ってくれる」
*
日が沈んだ。
日光の名残をじわりじわりと染め抜くように、藍色へと変わる空。それは確かに、浸蝕しているかのよう。
そう感じてもやはり、心のどこかで安堵している。
自分の時間が来た、と。同時に、酷く憎らしい。
相反する気持ちを抱えながら、彼は出窓の桟に腰掛けた。膝を抱えて、夜空を仰ぐ。細く細く欠けた月が、微弱な光を纏って浮かんでいた。
透けて見える自分の髪は、あの夜空より暗い。
「……」
おもむろに手を翳してみる。青白い肌だ。
(あいつも、白い顔してたな)
自分と違って毎日太陽の光を浴びているというのに、焼けもせず白い肌をして。神官だというのに神の敵を匿って。不信心なのかと思えば変に信仰が篤い。
たまたまこの神殿に逃げ込んで以来、気付けば随分長い間世話になってしまった。
(そろそろ潮時か)
夜明け前にここを発つ。
いずれ死ぬのだとしても、迷惑をかけるような死に方を選ぶわけにはいかない。
「――、」
(俺は、生きることを諦めているのか?)
そう、かもしれない。
呟きともとれない声が彼の口から漏れる。
何を、言おうとしたのか。
彼自身にも、判らなかった。
どれほどそうしていただろうか。
不意に、異変を感じた。
風の流れがおかしい。どこか慌ただしい。リヒャルト……ではない。あの神官はこんな乱れた風を纏わない。
「! 向こうの方が早かったか……!」
――神殿の内部に、第三者がいる。
そろりと廊下に降り立ち、彼は辺りを見回した。風は礼拝堂の方から流れている。侵入口はおそらく礼拝堂の裏。
(――俺は、)
少しの逡巡ののち、彼は走り出す。
(俺は……!)
暗い廊下に冷たい靴音が反響する。階段を駆け降りて、目指すは侵入者のもとへ。
別に生きたいわけじゃなかった。
理不尽に生を侵害されることが、腹立たしかった。
だから今日まで抗って、生き延びてみせた。生きていることこそが、反抗の証だった。胸の裡に燻る、僅かな意志だった。
だったけれど。
いつの間にか――死を受け入れている。
(疲れちまったんだ。何処にも俺の場所はない。理解されないのなら、抗っても無駄だ。どうせ、あいつらには解らないのだから)
前方に人の気配。かなり多い。
彼は躊躇わず扉を開けた。夜更けの礼拝堂にその音は高く響き――




