番外編:「嫁入り前夜」
ルージュは、その日、嫁入り支度で慌ただしかった。
「明日、ちゃんと式に来てくださいね」
畳んだ布地を抱えたまま、彼女が振り返る。
「……分かってる」
「ちゃんと、笑ってくださいね」
「難しい注文だ」
そんな、何気ない会話だけを交わして、二人は別れた。
◆
夜。
ノワールは、一人で、行きつけの小さな酒場に入った。
カウンターだけの、狭い店だった。木の椅子は年季が入り、腰を下ろすたびに、微かに軋む。壁に並んだ酒瓶の向こうで、ランプの灯りが、揺れている。
いつもなら、一杯だけ飲んで帰る男だった。
だが、その夜だけは、違った。
一杯。
二杯。
三杯目のグラスを、彼は、静かに傾けていた。
酔いたいわけでは、なかった。
ただ、家へ帰れば――
もう、明日から、そこにルージュはいないのだと。そのことを、考えたくなかった。
カウンターの向こうで、バーテンダーが、グラスを拭きながら、口を開いた。
「今日は、珍しいですね」
「……元弟子が、嫁に行く」
その言葉に、バーテンダーは、手を止め、僅かに目を細める。
「それは――おめでとうございます」
「ああ」
それだけだった。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
それなのに、胸の奥に、ぽっかりと、穴が開いているような感覚がある。
言葉にできない、その矛盾を抱えたまま、
ノワールは、四杯目を頼んだ。
◆
酒場を出ると、夜風が、頬を撫でた。
見上げた空には、星が、静かに瞬いている。
「――ヴァイオレット」
妻の名を、久しぶりに、口にした。
「イリス」
娘の名も。
そして、一拍置いて、もう一つ。
「――ミュゲ」
声が、僅かに、掠れた。
顔も、見たことのない、生まれることさえ叶わなかった、小さな命。
それでも、その名を知ったその日から、忘れたことは一度もなかった。
三人のことが、脳裏に浮かぶ。
もう、随分と、色褪せてしまった記憶。
それでも、輪郭だけは、まだ、鮮明に残っている。
彼は、少しだけ、笑った。
「……あいつ、一人前になったよ」
誰に向けるでもない、独り言だった。
泣かない。
泣けない、男だった。
◆
家に着くと、そこは、いつも通り、静かだった。
だが、その静けさが、いつもより、少しだけ、重く感じられた。
椅子に腰を下ろし、彼は、卓上のグラスに、最後の一杯を注いだ。
ふと、脳裏に、幾つもの記憶が、蘇る。
ルージュが、初めて銃を持った日。細い腕で、それでも懸命に構えていた、あの日。
「先生」と呼んで、必死に、後を追いかけてきた、いくつもの日々。
そして――「ノワール」と、初めて、彼女がその名を呼んだ、あの森の日。
グラスを、一つ、静かに空ける。
「――おめでとう」
小さく、呟いた。
誰にも、聞こえない声で。
これが本当に最後のお話です。
本編並びにここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。
感謝いたします。
また、どこかでお会いできたら嬉しいです。




