第43話:未知
「ねぇ、
――言いたいこと、それでオシマイ?」
声は、あまりにも冷たかった。
シエルの動きが、初めて、僅かに止まった。
ルージュは、拘束された身のまま、真っ直ぐに彼を見据えていた。
頬を伝っていたはずの涙は、いつの間にか止まっている。
「知ってたわよ、そんなこと、とっくの昔にね」
「――え?」
シエルの声に、初めて、戸惑いに似た響きが混じった。
「おばあちゃんが、夜眠る前に、コッソリお祈りしてるの、聞いたことがあるの」
ルージュの声は、震えていなかった。
「『あの子に、決して知られませんように』って」
地下室の中に、沈黙が落ちる。
「知ってたわ。
……ずっと前から。
あなたに言われるまでもなく」
彼女は、顎を上げ、シエルを睨みつけた。
「でも、私にはね」
声が、僅かに揺れた。だが、それは涙のためではなかった。
「すぐそばで、寄り添って、温かい手のひらで頭を撫でてくれるおばあちゃんがいたから」
喉の奥から、熱いものが込み上げてくる。それでも、彼女は言葉を止めなかった。
「おばあちゃんがいなくなってからは――
先生が、ずっとずっと、傍にいてくれたから!!」
叫びにも似たその声が、地下室の壁に反響した。
「だから、何?」
ルージュは、シエルを、真っ直ぐに見つめたまま続けた。
「両親に望まれなかったことなんて、とうの昔に、乗り越えてる。
あなたが今更、それを"贈り物"みたいに教えてくれたところで
――私の中の、何一つ、揺らがない」
シエルは、しばらく、無言でルージュを見つめていた。
その表情から、いつもの余裕が、
僅かに――
ほんの僅かに、翳ったように見えた。
拘束されたまま、その様子を見ていたノワールの目が、驚愕に見開かれていた。
彼女が、こんなにも強く、こんなにも真っ直ぐに、あの化け物の言葉を跳ね返すとは、思っていなかった。
「――ルージュ」
声が、掠れた。
自分が、涙を見せることしかできなかったその同じ地下室で、彼女は、今、まるで違う何かに変わっていた。
守られる側だったはずの少女が、今、誰よりも強く、その場に立っている。
ノワールの中で、何かが、静かに、けれど確かに、揺らいでいた。
「――貴方って」
ルージュの声が、地下室の冷たい空気を切り裂いた。
「人の一番大切な秘密を、美味しいところだけ食い散らかしてる。悪趣味な人ね」
シエルは、答えなかった。
「この世の終わりくらい、性格が悪いって、自覚してる?
――ああ、そんなこと、思いもしないか」
彼女は、乾いた笑みを浮かべる。
「だってあなたは、『狼』さんだものね。人の心が揺れる瞬間なんて、これっぽっちも分からない。
ただの、虚しい偽善者」
声に、軽蔑が滲んだ。
「神様気取りで、人を操って、
いい気になって……本当に可哀想な人。
貴方って」
シエルの中で、何かが、静かに軋んだ。
これまで、幾度となく人の顔を見てきた。
怒り、
悲しみ、
絶望、
そして懇願――
そのどれもが、見慣れた反応だった。
だが、今、目の前にあるこの表情は、違った。
憐れみ。
自分より遥かに弱い立場にいる人間から向けられる、純度の高い憐憫。
ぞわり、と、彼の背筋に、何かが這い上がった。
怒りではない。
もっと別の、名前のつけようのない感覚だった。
「――ゾクゾクしたよ、今のなに?」
彼は、思わず呟いていた。
「ねえ、どうしたらその顔、
そこにいる狩人さんみたいに、絶望に歪めることができるの?教えてよ」
彼は、口の端を上げる。
だが、その笑みは、いつもの余裕とは、僅かに質が違っていた。
「君の名前――確か」
彼は、一拍、間を置いた。
「ルージュちゃん、だったよね」
二人は、互いに視線を逸らさなかった。
どちらも、不敵な笑みを浮かべたまま、一歩も譲らない。
◆
紅い頭巾が、よく似合う子だった。
最初に目に留めたのは、アンブルの家に祈りを捧げに赴いた、ある日のことだ。まだ幼い少女が、野原に膝をつき、小さな白い花を摘んでいる姿を見かけた。
「おばあちゃんのために」
そう言って摘んだ花を、少女は大切そうに両手で包み、家路を急ぐ。
夕暮れの野道は、既に薄闇が這い始めていた。
木々の影が長く伸び、風が梢を揺らすたび、獣か何かの気配を思わせる音がする。
それでも、少女は足を止めなかった。
小さな背中が、震えているようにも見えた。それでも、彼女は歩き続けた。
アンブルは、その花を受け取るたび、静かに、けれど心から嬉しそうに微笑んでいた。
俺は、しばらく彼女たちを観察することにした。
アンブルの方は、あっけないほど、脆かった。
優しい言葉を幾つか紡げば、すぐにその心の柔らかい部分が、ぽろりと零れ落ちてくる。
抱えている秘密も、罪悪感も、まるで最初から差し出す準備ができていたかのように。
あっけない。
それ以外の感想は、浮かばなかった。
だが、あの少女は、違った。
諦めない。
生きることに、いつも真正面から向き合っていた。
ある日は、花を摘みに。
ある日は、遠く離れた市場まで、幼い足で新鮮な果物を買いに行く。
あの、老婆のために。
帰り道、彼女の靴は、爪先がすり切れ、土埃にまみれていた。
「足、痛くありませんか」
セラファンの顔をして、そう尋ねたことがある。
少女は、少し驚いたように瞬きをして、それから、はにかむように笑った。
「平気です。おばあちゃん、喜んでくれるかなって思うと」
自分より、他人のことばかりを、いつも先に考える。
意味が、分からなかった。
俺は、その意味の分からなさに惹かれて――
いや、違う。
俺は、その先にある苦悶の顔が見たくて、丁寧に、丁寧に、言葉をかけ続けた。
まるで、それが許されているかのように。
積み上げて、積み上げて。
その頂点に達した瞬間に、呆気なく、手を離す。
誰もが、同じ顔をする。
「――えっ?」
その一瞬の、崩れ落ちる表情。
堪らない。
その瞬間を経た肉は、いつも、最も味わい深いものになる気がしていた。
だが、あの少女だけは。
あの誰もが持っている、
崩れ落ちる気配がどこにも見えなかった。
いまだに、理解できないままだったのだ。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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