その九 雪の煩悶、もしも乱が……
道場からも宿場町からも離れた、人目につかない隠れ家のような場所。
そこに帰ってきた雪は、吹き抜けの台所に立ちながら――懊悩していた。
(今日はランさまと、宿場町の通りを歩き、道場に顔を出して……気が付けば、拙、どんどん秘密を言い出せなくなっています――!? あああ、どうしましょう、どうしましょう……時が経つほど泥沼のような……このままだと、露見てしまった時の反動が大きくなるばかりでは……!?)
乱のお披露目は結果として、雪を後戻りできないところにまで引き込んだ。これが狙いなら大したものだが、恐らく乱に他意はない。
そんな他意なき乱が、派手な顔塗りを落として小袖(※日常着)に着替えた、落ち着いた風体で雪に声をかける。
「ユキ、良い香りをさせているな。今日の夕飯の御数(※おかず)は何だろう?」
「! ら、ランさまっ、はい! ええと今日の帰り際、例のおばあさん達から立派な鮎を頂きましたので、塩焼きにしようかと! す、すみません、お待たせして。すぐ準備しますからっ! ふう……てややややややっ」
「おぉ……何という包丁捌きと炊事の手際、剣ならともかく、割烹の腕前では己など足元にも及ばんな……!」
しきりに感心する乱が、瞬く間に食膳の準備を終えた雪と、夕飯を共にする。
さて、上機嫌に食を進める乱とは対照的に、雪の迷いは晴れない。
(はあ……どうしましょう、この家を出て、拙に行くところなどありません。なら、秘密を守り通すしか……ですが、このままで良いはずが……だって)
「もぐ、もぐ……ううん、美味いッ……ばあさん達の鮎もだが、ユキの塩加減がまた絶妙だなっ。鱗を丁寧に落として、腸も抜いているのか……苦味を感じないのは、己好みの味付けだ、ん~♪」
(この、凛々しくて、けれどお優しいランさまを……騙している、なんて。拙は、許されぬほど非道なことをしているのでは……)
罪悪感に苛まれる雪だが、ため息を吐けば、また心配させてしまうだろう。そんなことを考えつつ、夕飯を堪能する乱の横顔を見つめた。
派手な顔塗りを落としてしまえば、悪童らしい傾奇ぶりは鳴りを潜めて、本来の整った面立ちが明らかになる。右眼側を眼帯で塞いでいてすら、すっきりと通った美貌と呼べる乱の素顔に、やはり雪はため息を抑えられなくなった。
「はあ……」
「もぐ……? どうしたユキ、また何か、気にかかることでも? もぐ――」
「ランさまが女であったら……」
「んぐんんーんっ!? け、けほっ、けほっ……ゆ、ユキ?」
「……はっ!? こ、声に出てしまって……!? も、申し訳ございません、ランさま! 失礼なことを……!」
「い、いや、別に構わんが? だが、その……な、何か、そんなことを口走ってしまうような、こう……何か、見たり? した、とか?」
「へ? あ、はい……その、顔塗りを落としたランさまの素顔が、ええと……お、お綺麗で、つい……ご、ごめんなさい、拙ったら、また失礼を……」
「あ、ああ、なんだ。いや、綺麗だとか言われるのは面映ゆいがな、別に構わんさ。は、ははは、そう気にするな、ユキ!」
(! あんなに腕も立ち、道場主も務める立派な男に対して、侮辱と捉えられても仕方ないのに……ああ、ランさまは、やっぱりお優しい……)
なぜか乱がしとどに汗を流しているのは気になるが、雪は雪で感極まって頬を赤く染めている。しかし、笑って許された雪は、だからこそ気にかけてしまう。
(ランさまが女であったとして、だから何だというのでしょう……こんなに素敵なランさまに、拙が釣り合うはずもありません。いいえ、秘密を抱えている拙など、なおさら……これ以上、引き返せなくなる前に、もう……!)
追い出されるのを覚悟で、秘密を明かしてしまおう――雪がそんなことを考えていると。
「……ふふっ」
「? ら……ランさま?」
先ほどまで慌てていた乱が急に笑い、雪が戸惑っていると、そのまま話は続いた。
「いや、なんだかな……こんな風に、誰かと膳を共にするなど、いつ以来ぶりだったかと思ってな。悪童として肩肘を張って、いつも一人で過ごしてきたし……ああ、そうだ。母のことを、思い出す」
「! ……ランさまの、母君さまと」
若くして道場を継ぎ、悪童として振る舞い、実父を〝糞親父〟と評する、そんな乱が今までどういう人生を歩んできたか、雪は知る訳ではない。
だが、妙に共感してしまうのは、母を大切に想う心が共通しているからだろうか。
雪が目を逸らせず見つめていると、乱は柔らかに微笑みを返した。
「だから今、ユキと、こうして過ごせる時間は……己にとって、心安らぐ時間で。……決して手放したくない、生きてきて一番、幸せな時間だよ」
「――――!!」
それだけ言うと、乱は照れ臭そうに食事に戻り、また〝うまい、うまい〟と舌鼓を打つ。
雪はといえば、乱に微笑まれた際、雷に打たれたような衝撃を覚え、何かが溢れ出さぬように、きゅっ、と口をきつく結ぶ。
異様に早く打つ心の臓、こんなことは初めてで、今の雪には理由が分からない――が、片手で胸を押さえつつ思う。
(……ま、まあその、もう少しだけ……秘密を、守りましょう……)
自身の性別の秘密を明かすのは、先送りにすることを、雪は決めたのだった。




