1 その婚約がもたらしたもの
緊張で自分の真っ白い毛に覆われた耳と尻尾がピンと立つのが分かる。
白い鱗に甲を覆われた手の位置をどうすればいいのか分からなくて、大きな袖で隠れるのを良いことにお腹あたりでもぞもぞさせてしまう。
ぼくと相対する彼女は、普段通り冷静に空と同じ色の瞳でぼくを見つめていた。
いつもは簡単に見つめ返すことの出来るその瞳から今日ばかりは目を背けたくなる。
でも、今日のような日こそ、しっかり目を合わせて言葉を紡がなければならない。
ぼくの黒い肌とは正反対の白い肌は、今日は健康的に一部色づいている。
そのことに安堵しながら、涙が出るのを堪えてそれを口にする。
「シアナ、ぼくとの婚約を破棄してくれませんか?」
王子のぼくは今日――婚約者である隣国令嬢シアナとの婚約破棄を提案する。
ぼくは、もう真実の愛に気づいてしまったから。その選択を取るしかない。
そうでないと、彼女が可哀想だ。
彼女もきっと、ぼくと出会う前からそれを望んでいただろう。
***
シアナがぼくの婚約者になったのは、ぼくが生まれる前のことだった。
きっかけは父の初恋だ。
人の形をしていながら角と尻尾と鱗を持つ父上は、最高権力者の血を引いていても幼い頃は奴隷同然の身であった。
迫害され、命を狙われ、なんとか亡命した隣国にいたシアナの母に出会い、自身の在り方を大きく変えて貰った。
そうして父上は帰国してから、父上同様に人間とそれ以外の動物の要素を持つ『尾有り』と今では呼ばれる存在を纏め上げた。
それから虐げてきた国に革命を起こし、新たな国が誕生した。
だから父上は王になってからもシアナの母親が大好きだったし、シアナの母親はぼくらの国の尾有りのみんなからも人気が高かった。
時は結婚しようともしたけど、隣国や自国の政治的な事情で断念したらしい。
父上は、恋愛感情はないが信頼のおける側近で国内からの評価も高かった白狐の『尾有り』と結婚した。
シアナの母親も、隣国内の有力貴族と結婚していた。
でも父上はシアナの母親とは何かしら関係を持っていたくて、彼女の影響で自分が変わり国も変わったからその血を取り入れたくて、まだ3歳だったシアナと、お腹の中にいたぼくの婚約を取り付けた。
父上は、昔からぼくに会う度にシアナの母のことを語った。
とても優しくて芯のある尾無しの女性だったと。
彼女に優しい言葉を掛けてもらったことで、自分の価値を見つけたと。
彼女の激励で自分たちが虐げられるだけの存在では無いと、立ち上がって反抗できる存在だと気づけたと。
とても幸せそうに語るのだ。
そうして結びに、「お前は彼女の娘と結婚できる幸せな子なんだ」と頭を撫でられた。
ぼくはその時間がそれなりに好きだった。
誰かが誰かを好きって言ってるのや、誰かと誰かが仲良くしているのを見るのは安心するから、怖くないから。
たまに父上の想い人が母上でなくて悲しくないのか心配してくれる臣下もいたけど、別に悲しくはなかった。
幼い頃からそれが当たり前だったし、恋愛感情はなくとも共に革命を起こした父上と母上にはしっかりと絆があったから。仲が良かったから。
仲が悪くて喧嘩とか、互いの悪口を吹き込み合うとか、そんなことが起こっていたらぼくも多分辛かっただろうけど、両親は互いを信頼し尊敬していたから。
両親の関係性で苦しく思うことは無かった。
母上は革命以前に国内の尾無しに、友人家族の尾有りが嬲られ殺されたのをずっと恨んでいる。
ぼくは会う度に「強い王になって、邪悪な尾無しを支配して、尾有りを守るんだよ」と言い聞かされる。
そんな母上も尾無しのシアナとの婚約には
「理性では彼女の娘ならうちの国の尾無しとは違うと分かってる。国益もあると分かっている。それでも顔に出てしまうだろうね。だから私は何も触れないでおくよ」と口を出さない方針だ。
大の尾無し嫌いの母上がそう認めるくらいなのだから、よっぽど信用の出来る子がぼくの婚約者なのだと感じた。
ぼくが8歳、シアナが11歳の時、ぼくは初めて彼女と対面で会った。
それまでも手紙の贈り合いなどをしていたが、国を跨ぐということもあって、直接話すのは初めてだった。
形式的な対面を済ましたあと、婚約者ということもあってぼくらはすぐに二人きりになった。
それまで緊張で俯いてぼくは最低限のことしか口にせずにいたけど、流石に二人きりになってその態度でいるのは失礼だと思い顔をあげた。
茶色の髪に、鱗も毛皮もない白い肌、そして空の色をまんま移したようなつり目にぼくはドギマギした。
それが婚約者に会う緊張なのか、
尾無しと初めて二人きりになる緊張なのか、
彼女自身の雰囲気への緊張なのか、
どれかは分からなかった。
緊張しているぼくに、シアナは自身より背の低いぼくと目を合わせる為か、礼儀の為か分からないけど、跪いた。
「はじめまして、ファリード様。突然ですが、一つ質問をしてもよろしいでしょうか?」
静かな室内に響いた凛とした声に、自分の大きな耳がピクピクと動いたのを失礼かなと思い抑えようとしたけど、多分上手くはいかなかったと思う。
でも、なんとか頷いた。
「私とファリード殿下の婚約は、親世代の勝手な感情と、国と国の思惑が混ざり合った複雑なものです。殿下の意思も感情も視野に入れられてません。
だからこそ、殿下がこの婚約についてどうお考えなのか教えていただけませんか?」
ぼくの緊張とは反対に、彼女は淡々と言葉を発した。
慣れない言語の筈なのに、さっきまでの挨拶では辿々しく言葉を発していた筈なのに、その時だけは何度も練習したように流暢だった。
どうして、そんなことを聞いたのか分からなかった。
分からなかったけど、彼女が真剣にそれを聞いているのは分かったから、とりあえず自分の意見を素直に口にした。
「……父上が望むから、この婚約は良いものだよ。ぼくは王子だから……みんなの望む王になるよ。……だから、仲良くしてくれるとうれしいな」
でもそれを紡ぐ声は酷く辿々しいものになってしまった。不安になった。
けど目の前の彼女と仲良くしたいから恐る恐る手を差し出す。
彼女はそんなぼくの手を、淀みのない空と同じ色の瞳で少しの間見つめて硬直していた。
その間、ぼくの耳はぺたんと下がりそうになるし、手もやっぱ引っ込めた方がいいかな、でもこれで引っ込めてもなんか駄目だしと頭ん中もぐるぐるしていた。
「……そうですか、分かりました。こちらこそ仲良くして頂けたら嬉しいです。これからよろしくお願い致します」
だから彼女に伸ばした手を握り返してもらった時にはホッとしたし、耳もピンと立った。
笑顔でそのまま「こちらこそよろしくね!」と言おうとした時、握られた手に更に力を込められて思考が止まった。
「でも……もし殿下が望むなら私はこの婚約についてどうしたって良いと思っています。
その時には力を貸します。それだけは覚えていてくれませんか」
どうして、彼女が泣きそうな顔でそんなことを言うのか当時は理解出来なかった。
理解出来なかったから、混乱しておそるおそるだったけど、
「うん、でもそんな日は来ないと思う」
そんな残酷な言葉を発せた。
でも優しい彼女は笑って、それから一緒に遊ぼうかと母国から持ってきたボードゲームを取り出したっけ。
すっごい楽しかったけど、ゲームの結果は全部ぼくの負けだった。
シアナはすっごい頭が良いんだ。それに嘘を吐かない。
ぼくがシアナを慕うのは、そう時間が掛からなかった。
年が近いから、臣下とはまた違った付き合いだったから、優しかったから、色々理由はあると思う。
でも、一番は彼女が異国で生まれ育ったのが大きかったと思う。
ぼくの周りはいつも『尾無し』『尾有り』と口にした。
それ程、ぼくらの国では根深い問題だってことだけど。ぼくはそれが苦手だった。
父上が王になる前、尾有りは尾無しに差別され、虐げられていた。
凄い数の尾有りが死んだ、殺された。
戦場に駆り出され死んだ、
酷い労働環境で酷使されて死んだ、
遊び道具として嬲り殺された。
老若男女問わず殺されたし、犯されたし、傷つけられた。
それを父上達が変えた。
大国である隣国の協力もあって、国中の尾有りが力を合わせ革命を起こし、尾無しの権力者を一掃した。尾有りが権力を持ち、虐げられることが無くなった。
でも、それで全て解決したってことには当然ならない。
尾有りも尾無しも住むこの国では大きな分断が残り続けている。
尾有りは、尾無しを恐れ恨み続ける。国の尾無しを全員鎖に繋げと、そうでないと安心出来ないと吠え続ける。
尾無しは、尾有りを見下し蔑み続ける。畜生もどきの癖に人に逆らうなと、いつか目にものを見せてくれると。お前らも同じことをしているだけだと嘲笑う。
国の中の空気はいつもピリピリしていた。
いつも誰かが何かを恨んでいるのを感じた。苦しかった。
ぼくは誰も恨みたくないし、嫌いたくないし、攻撃したくなかった。
みんな仲良くが良かった。
でも、そんなの夢物語だと知っていたし、口にしたら怒られることが分かっていた。
ぼくが昔を知らないから、尾無しについても、尾有りについても、よく分かって無いからそんなことを思えるんだって分かっていた。
そして、口を開かなければ巻き込まれないと言うわけでもなかった。
――だってぼくはこの国の次世代を担う、王子だから。
『尾有り』からは『尾無し』を恨むように、支配するように望まれた。
『尾無し』からは『尾有り』を弱体化させる為に死んでくれるように望まれた。
何度か『尾有り』に国中の『尾無し』を皆殺しにしようと唆されたこともある。
何度か『尾無し』の反乱勢力に暗殺されかけたこともある。
その度に、
耳を塞ぎたくなる。
目を閉じたくなる。
友達の狐達と高い木にでも登って一生見つからなければ良いと思う。
地面に穴掘って隠れたくなる。
でも、彼らのその恨みから逃げてはいけなかった。
見て、聞いて、感じて、受け止めて、学ばなければいけなかった。
ぼくはこの国の王子だから。王子のぼくがこの国の闇から目を背けたらいけない。
しっかり見て、向き合っていかなくちゃならない。
どんなに辛くとも、苦しくとも、それが王子のぼくがみんなから望まれる運命だったから。
分かっているんだ。昔から、そんなことはね。
でもいつまで経っても苦手なんだ。
……だからぼくはシアナとの時間が大好きだった。
だってシアナだけは『尾有り』も『尾なし』も憎まなかったから。
ぼくに王子として『尾無し』や『尾有り』への感情をどうすべきかなんて決めつけなかったから。
ピリピリとした空気に落ち着きが無くなり、ちょこまかと動き回るぼくの手を引いて、空が綺麗だねとか、この物語が面白いだとか、美味しいものがあったとか、勉強で興味深い内容があったとか、関係のない話を始めるのだ。
誰かが恨みの感情混じりの話を始めると、用があると割り込んできてくれた。
脅迫状が届いたり、命が狙われていたって噂の後は、丸くなって眠るぼくの頭をいつまでも撫でてくれた。
彼女の側なら息がしやすかった。
彼女の髪を瞳を目にしている時は安心した。
自分の甘ったれた考えも許される気がした。
「ファリは満月みたいに綺麗で強い子だね」
王子の癖に頼りの無い、シアナはぼくに向かってそんな風に優しく微笑むのだ。
母上にとってぼくは息子というより、『尾有り』の国を強固にする為の道具だった。
父上にとってぼくは息子というより、初恋の相手との繋がりを維持する手段だった。
尾無しにとってはぼくは王子で、蔑み憎んでる対象の象徴だった。
尾有りにとってはぼくは王子で、復讐と安寧の為の道具だった。
みんなが望むようでなければ、ぼくはきっとみんなから必要とされない。
だって、みんなの望みがなければ、ぼくは生まれてこなかった。
父上と母上は信頼関係こそあるものの、互いに恋愛感情は持っていなかった。ただ国を維持する為に、ぼくと言う後継者を作るために結婚した。
それを知っていた。
だから彼女が母国に帰る度に、泣きたくなるのだ。心臓にぽっかり穴が空くのだ。
弱い、ただの子供のぼくを受け入れてくれるのは彼女だけだったから。
帰国している間にもシアナは頻繁に手紙を送ってくれた。ぼくのことを気にかけてくれるのが分かるから嬉しかった。
でも手紙の内容を見ると、いつも心が乱された。
国の外を知らないぼくの為に、何処へ行ったとか、何を見たか、誰と会ったとか、いつも詳細に書いてくれる。それはもう鮮明に、彼女が生き生きと故郷で過ごしているのが分かるのだ。
届いた手紙を何度も読み込んで、感情がぐるぐるなって手紙をぐしゃぐしゃにしては、慌てて広げて伸ばした。涙で彼女の字が滲んでしまっては、更に涙が溢れてきた。
手紙の字単体を見れば、シアナを近くに感じてホッとするのに、
その文字列の意味を認識すれば、シアナを遠くに感じて不安になる。
でも、手紙の返事にはその不安を書かない。
自分の寂しい気持ちが少しでも出てたら手紙を全部書き直す。
シアナが母国で楽しく過ごしているのに、ぼくが水をさしちゃいけないからさ。
その分って訳じゃないけど、シアナがこっちにいる時には出来るだけ彼女と一緒にいる。
ぼくがすぐにシアナの居場所を聞くものだから、お付きの人はぼくが視線を向けた途端に「シアナ様は今は○○にいらっしゃいます。それとも他の御用でしょうか?」と先読みするようになってしまった。
ぼくの国は暑いといつも口にしているのに、本を読むのが大好きなのに、読書中に尻尾がふわふわで暑苦しいぼくがひっついても「なぁに、ファリ?」と本を閉じていつも空と同じ色の瞳を向けてくれるのだ。
それがとっても嬉しくて、結婚したらずっとこんな日々を送れるのかと考えたら幸せで、彼女の側ではいつもぼくの表情筋は緩んでいた。
彼女の誕生日に近づけば毎回欲しいものをきくけど、シアナは毎回「ファリが元気ならそれでいいよ」とはぐらかした。
だから、ぼくは毎回頭を悩ませて、みんなに相談して、彼女にプレゼントを渡すのだ。
栄養豊かな土のような髪色に映えるかなと真っ白のシュシュだったり、
彼女の瞳と同じ色の宝石のついたブローチだったり、
知的好奇心が強く読書好きだから、紙職人のところへ行って教えてもらいながら作ってきた栞だったり、
出かけるのが好きらしいから、沢山の商人や冒険家が使いやすいと太鼓判を押す形の鞄を彼女用に特注したり、
砂漠で夜空を一緒に見るのが楽しいと言っていたから、海の向こうからの部品も取り寄せて作った最新式の望遠鏡だったり、
そんなものを毎年考えてプレゼントをするのだ。
『尾無し』相手のプレゼントなんて適当に渡せばいいだろうと言う人達もいたけど、ぼくは『大好きな人のこと考えてプレゼント選ぶのは楽しいから』と流した。
文句を言われたって、それは譲れなかった。
『ファリはすごいね。毎回私が最高に気にいるものを、喜ぶものをプレゼントしてくれる。君はほんと人のことをよく考えられる良い子だね』
そう空と同じ色の瞳を細めて微笑んで、頭や耳を撫でてくる彼女に手が心地よくて、ぼくがずっとその場を離れられずにいても許してくれた。
彼女の誕生日なのに、ぼくが一番幸せな思いをしていた。
シアナといれば息がしやすかった。
シアナといれば苦しくなかった。
シアナといれば安心できた。
シアナといれば幸せだった。
シアナといれば、『尾無し』も『尾有り』も関係なかった。
そんな風に王子のくせに、彼女に甘え続けた。
この国の毒から目を背けた。
その結果、起こったのがシアナの暗殺未遂だ。




