第11章 月夜に溶ける想い
夜の宮殿は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
寝台に横たわっていたエリナは、窓の外から差し込む月光をぼんやりと見つめていた。
――眠れない。
昼間の出来事が、何度も胸の中でよみがえる。
訓練で馬に乗ったこと、皆と笑いながら食べた昼食、そして……レオンハルトの横顔。
凛としていて、けれど笑うと少し少年のような優しさを見せる人。
その穏やかな声と、まっすぐな瞳が、何度思い出しても胸の奥をざわつかせた。
「……少し、外の空気を吸おう」
エリナは静かに呟き、薄手の外套を羽織って部屋を出た。
廊下には灯火がぽつりぽつりと灯り、風に揺らめく光が壁に柔らかな影を落としている。
外へ続く扉を開けると、夜気が頬を撫で、星々が宝石のように瞬いていた。
庭園の噴水のそばまで歩くと、月光の中に誰かの姿があった。
「眠れないのか?」
静かな声が、風の中で優しく響く。
そこにいたのは、レオンハルトだった。
白いシャツの袖を軽くまくり、夜風に髪を揺らしている。
月明かりに照らされた彼の姿は、どこか現実感が薄れて見えた。
「……レオンハルト様こそ、こんな時間に?」
「眠る前に少し考えたくなることがあってな」
そう言って、彼はベンチを軽く叩き、隣を促した。
エリナは少し戸惑いながらも、その隣に腰を下ろす。
夜の静けさが、二人を包み込んだ。
「昼の訓練、よくやっていたな」
「ありがとうございます。でも……あの、少し怖かったです」
「怖がりながらも最後までやりきるのは、強さだ」
レオンハルトは穏やかに言いながら、遠くの月を見上げる。
その瞳に映る光が、どこか切なく見えた。
「あなたは……いつも強いですね」
「俺も、昔は何もできなかった。守りたいものができて、ようやく強くなれた」
「守りたいもの……」
エリナが小さく呟くと、レオンハルトはふと彼女の方を向いた。
月明かりが二人の間に淡く落ちる。
「今は……お前たちだ」
「……え?」
「護衛たちも、お前も。誰ひとり欠けてほしくない」
その言葉に、エリナの胸がきゅっと締めつけられた。
彼が見つめるその瞳には、嘘がひとつもなかった。
――ただの任務、なのに。
心のどこかが、ふと温かく疼く。
風がそよぎ、エリナの髪が肩からこぼれ落ちる。
レオンハルトが無意識に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
その一瞬の動きに、ふたりの呼吸が重なり、静寂が揺れた。
「……風が、冷たいですね」
エリナがそっとつぶやくと、レオンハルトは微かに笑った。
「そうだな。風が冷たいと、誰かのぬくもりが恋しくなる」
――その言葉が胸に落ちて、波紋のように広がっていく。
やがて彼は立ち上がり、エリナに手を差し出した。
「部屋まで送ろう。夜は冷える」
差し出された手を取ると、温もりが指先から伝わり、胸の奥まで染み込むようだった。
月の光がふたりの影を重ねて、長く伸ばしていく。
「……レオンハルト様」
「ん?」
「今日、一緒に訓練できて嬉しかったです。皆さんと笑い合えて……本当に」
エリナが微笑むと、彼の表情もふと柔らかくなる。
「それなら、明日も笑わせてやらないとな」
「……はい」
並んで歩きながら、エリナはそっと月を見上げた。
その夜、彼の隣を歩く自分の心が少しずつ変わっていくのを、
エリナはまだ気づいていなかった。
けれど、確かに――恋のはじまりは、静かに芽吹いていた。