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あの日の帰り道に、やっと追いついた気がした

作者: 黒月遥
掲載日:2025/10/11

長い人生の終わりに、人は誰を思い出すのだろう。

時を越えてもう一度だけ会いたいと願う相手がいるとしたら、それはきっと、「青春」という名の季節を共に過ごした誰かだ。

本作は、そんな“ひとりの老人の心がたどり着いた帰り道”の物語です。

秋の風が、窓の向こうで梢を揺らしていた。

 ここ「桜ヶ丘ホーム」に来て、もう三年になる。朝は七時のチャイムで起き、リハビリのあとに薄いコーヒーを一杯。テレビの音を聞き流しながら昼を待つ。そんな日々が続いていた。

その日、新しい入居者が来ると聞いた。

「成瀬昭さん、八十七歳」

職員が読み上げたその名前に、誠一は手を止めた。

――昭。

まさか、と思った。世の中に同じ名前はいくらでもある。けれど胸の奥が、どうしても静まらなかった。

昼食の時間、ふと視線を向けた先に、その男はいた。

背筋はまだ真っすぐで、笑うと皺が深くなる。

「これ、ぬるいな。猫舌ばっかりなんだろ、ここは」

そう言って隣の席の老人を笑わせていた。その笑い方。まるで、あの頃のままだった。

それから数日、誠一は少し離れた席から昭を眺めていた。昭はよく喋り、誰とでもすぐに打ち解ける。新聞を読む時も、将棋を指す時も、誠一はなぜか目で追ってしまう。胸の奥で、何かが少しずつ確かめられていくようだった。

ある昼下がり、昭が将棋盤を片付けているところへ、誠一は歩み寄った。

「よかったら、次、私と一局どうですか」

昭は顔を上げて笑った。

「いいよ。弱いけどな、こっちも」

駒を並べながら、自然と会話が始まった。昭の声は穏やかで、どこか懐かしかった。それからというもの、二人はよく食堂で隣り合わせになった。

「このスープ、今日もぬるいな」

「温いほうが飲みやすいですよ、年を取ると」

そんな他愛ない会話を重ねるうち、気づけば笑う時間が増えていった。

 秋の午後の光が、食堂の窓から静かに差し込んでいた。夜、部屋に戻ると、誠一は枕元の引き出しを開けて、一枚の古い写真を取り出した。その写真には肩を組んで笑っている若いふたりが写っていた。峠道のカーブの向こうに、自転車の影が小さく写っていた。

――昭、元気にしてるか。

いつかの風の匂いが、胸の奥でよみがえった。


高校時代の二人は、いつも一緒にいた。同じクラスで、席も隣。放課後はいつも自転車で遠くまで走った。誠一の家は町工場を営んでいて、夕方になると油と鉄の匂いがした。昭の家は魚屋で、朝が早いくせに夜更かしばかりしていた。

「お前、また寝坊したのか」

「いいだろ、魚は逃げない」

くだらないことで喧嘩して、すぐ笑って仲直りした。卒業の日、昭が言った。

「お前と走るの、これが最後かもしれないな」

「また行こうよ、峠まで」

「約束だ」

けれどその約束は果たされないまま、時間だけが過ぎた。

誠一は工場を継ぎ、家族を持った。昭は事故で、峠の手前で命を落とした。新聞に載ったその記事の切れ端を、誠一はいまも手帳に挟んでいる。約束の場所は、それきり行けなかった。


ホームでの暮らしにも、少しずつ秋の深まりが見え始めていた。

昭は朝の散歩を欠かさなかった。

「外の風を吸うと、生きてる気がするな」

そう言って誠一を誘った。ゆっくり歩きながら、落ち葉を踏む音が心地よいリズムを刻む。

「なあ、誠一」

「ん?」

「俺たち、昔からこうして歩いてた気がしないか?」

「……そうだな」

その声に、誠一の胸が少しだけ締めつけられた。言葉の裏に、過去の景色がにじむ。風が頬を撫で、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。

ある日、昭がぽつりと呟いた。

「最近、よく夢を見るんだ。昔の道を走ってる夢を」

「それはいい夢だ」

「夢ならいいけどな……」

昭は笑って空を見上げた。その目は、少しだけ透けて見えたような気がした。

その夜、誠一はふと目を覚ました。月明かりがカーテンの隙間から差し込んでいる。ドアの外に気配を感じて、起き上がった。

「誠一、起きてるか?」

昭の声だった。

「どうしたんだ」

「行こう。峠まで、もう一度」

廊下に出ると、昭が立っていた。若い頃と同じ笑顔で、手を差し伸べている。冷たい風が二人の間を抜けていった。施設の外は静かで、夜露が草を濡らしていた。

「こんな夜に外出たら怒られるな」

「誰に怒られるんだ。もう自由だろ」

二人は笑いながら歩いた。やがて道は坂になり、懐かしい峠の影が見えた。昔、自転車で駆け上がったあの道だ。

「お前昔、自転車の後ろに俺を乗せて行ったろ」

誠一が言うと、昭は少し笑った。

「よく覚えてるな」

「忘れるわけないだろ」

月が雲間から顔を出し、二人の影を長く伸ばした。風の音がやけに優しかった。

「昭」

「ん?」

「お前といると、昔に戻った気がする」

「戻ってるんだよ。今が、その時だろ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。誠一は思った。ーーきっと、これは夢じゃない。それでも、夢であってほしいとも思った。昭の姿が、月明かりの中で少しずつ薄れていく。その笑みだけが、最後まで残った。


翌朝、職員が巡回に来たとき、誠一は静かに眠っていた。顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。手には、一枚の古い写真。そこには若い二人が笑って肩を組んでいた。机の上には、昨夜配られたはずの名簿が開かれていた。“新入居者一覧”の欄に、成瀬昭という名前はなかった。


窓の外、木の葉が揺れ、光が差し込む。

 風の中で、誰かの笑い声が微かに聞こえた。

 まるで峠の上を走るタイヤの音のように。


――あの日の帰り道に、やっと追いついた気がした。


 秋の空は高く澄み、遠くで鳥が鳴いていた。


書き終えたあと、ふと窓の外を眺めていました。

夕暮れの光が街の屋根を照らし、自転車の通る音が聞こえてきました。その音を聞いた瞬間、思いました。もしかすると人は、人生の終わりに「時間」を遡るのではなく、「想い」に導かれて誰かのもとへ帰っていくのかもしれないと。

この物語の中で、誠一が最後に見た景色は、現実と夢のあわいにある“もう一度会いたい人”のいる場所です。

彼が歩いたその帰り道は、きっと誰の心にも存在している。

 読んでくださった方が、大切な誰かを思い浮かべてくれたなら、これ以上の喜びはありません。

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