序章
雲一つない夏空の下、ペルー・マチュピチュの遺跡全域が突如として静かに歪んだ。
あの日――1996 年 7 月 3 日――石積みの階段が青黒い光に包まれ、観光客の悲鳴が山峡に吸い込まれるのを、世界は衛星映像で目撃した。わずか数分後、同様の光がアメリカのマンモス・ケイブ、フランスのカルカソンヌ、トルコのカッパドキア地下都市など計四十四か所の世界遺産に連鎖。後に〈ヴォイド・ゾーン〉と呼ばれる空間歪曲は、遺跡とその周囲を迷宮へ変貌させ、一帯の物理法則をねじ曲げた。
最初に失われたのは、火だった。
ライターも銃の発射炎も、ヴォイド内部では空気を震わせるだけで燃え上がらない。爆薬は不発、エンジンはただの鉄塊となり、戦車も航空機も立ち往生した。だが歪曲域の岩肌には一目で純度が分かる金脈が現れ、地面に散った砂は低質のダイヤを孕んでいた。人類は武力を握りしめたまま、それを使えない世界へ放り出されたのだ。
各国は軍を解散させはしなかった。
けれど兵士たちの肩章から部隊章へと刺繍が替わるまでに時間は要らなかった。
“攻略隊”――火薬の代わりにセラミック刃と振動子を携え、闇に潜む獣を討ち、鉱脈を掘り当て、やがてダンジョンの最深部に眠る〈核晶コア〉を奪取する専門集団。
国連は調停機関 AEGIS を、環太平洋諸国は連合隊 PADB を、欧州は旧軍需企業を軸にした多数の公私混成隊を設立し、やがて民間ファンドが参入して数百の私設隊を生み落とした。世界の地図は国境線ではなく、攻略権を示す光のドットで塗り替えられていった。
2025年12月。
奈良・吉野に口を開けた地下迷宮で、第五番目の攻略が成った。
隊長・神樂烈司は撤退信号が鳴る直前、暴走しかけた核晶を大剣で押さえ込み、仲間全員を地上へ送り出した。真夜中の昇天花火のように青光が爆ぜ、洞窟の天井が収まらない轟きとともに崩落した。翌朝、陽光が差し込む裂け目の底に、遺体は見つからなかった。ただ残骸の中から、煤にまみれた一本の黒い刀――試作フォトンブレード〈黎明〉だけが回収された。
葬儀の日、祭壇に立った息子・蒼真はまだ二十一だった。
彼は涙を見せなかった。
父が叶えた五つの攻略権は国庫へ譲渡され、莫大な歳入が生まれた。司令部の壇上で政府高官が功績を讃え続ける間、蒼真の視線はただ父の遺影ではなく、その下に横たわる黎明の刀身に向けられていた。
「借金も、遺産も、誰の手も借りない」
心の奥でつぶやいた誓いは、柔らかな弔鐘よりも硬質で、熱かった。
翌年――2026 年春。
桜の花びらが横浜港の倉庫街に舞う午後、十人の男女が小さな事務所に集まった。
元自衛艦の解体スクラップを転売して得た三億円――その札束と、父の形見の刀が会議机に並ぶ。蒼真が創設を宣言した私設攻略隊の名は 黒曜機関。
「目標は吉野地下迷宮の深層、《結晶蟻の王庭》のコアだ」
資金は充分とは言えない。協賛企業も政治家の後ろ盾もない。資源取引所の相場は日々乱高下し、失敗すれば即座に借金地獄だ。それでも仲間たちは頷いた。誰もが父の最期の戦闘記録を見ていたし、蒼真の背に同じ光が宿っていると感じたからだ。
夜更け、港に停めたトラックの荷台から揚げられた木箱には、改修を待つ振動槍の部品と、最新鋭ドローンの組み立てキットが入っている。
潮の香りと鉄の匂いが混ざる中、蒼真は黎明を抜き放った。
黒い刃がわずかに青白く発光する。電力を介さず、ヴォイド内部の光子を束ねる奇跡の剣――それは父が世界へ投げた最後の問いであり、蒼真が受け取る最初の答えだった。
いまだ三十九のダンジョンが手つかずのまま残る地図を、夜風が無言でめくる。
戦争の代わりに迷宮が、銃火器の代わりに刃と鉱脈が、人々の運命を塗り替えた世界。
黒曜機関はその最底辺から頂を目指す。金と宝石を掘り当て、借金知らずで深層に至り、そして――父の死が指し示した“地球の意志”に、蒼真自身の声で返事をするために。
刃が闇を裂いた瞬間、乾いた金属音が序章の幕を滑らせた。