祖父の手帳
人気のない林道から山に入り、かなり高いところまで登ってきた。
(方向は合ってるはずなんだけど)
木々の隙間から見えるのは、山の谷間に覗く青空と、彼方に小さくかすむ街。
店のある足立区から電車とバスを乗り継ぎ、ホテルと簡易テントで一泊ずつ。
夜明けとともに目覚めて、木の根に覆われた道なき道を登り、ふくらはぎが張っている。
松の幹に背中をあずけ、休息がてら手帳に目を落とすと、鉛筆で描かれた手書きの地図が木漏れ日のもとに浮かぶ。
斜面に、家屋がぽつんと一軒。
(本当にあるのかな、こんなところに――そういえば、斜面の角度が目の前の景色と似てる?)
手書きの地図に誘われて頂上付近を探すと、緑の天蓋の隙間にきらりと光るものがある。
日の光を浴びて白く輝く、瓦葺の屋根だった。
(あれか?)
手帳は、祖父の遺品だ。
深緑のビニール張りの年季が入ったもので、日付から計算すると、祖父が二十五歳の年のものだ。
カレンダーとメモ欄があって、手書きの地図が残っていた。
万象は、その地図を頼りに山を登ったのだった。
(〈裏〉の薬を分けてくれる人が住んでいるはずなんだ――じいちゃんも、その人を探してこの山を登ったんだから)
祖父が登ったのは五十年以上前のはずなので、当時は存在した家が、いまもあるとは限らない。
標高はすでにかなり高く、道もない。
資材を運ぶトラックどころか、人が辿り着くのもやっとの場所だ。
その家がいまあったとしても、ログハウス程度の山小屋だと万象は思っていた。
でも、見つけたのは、黒い瓦屋根の民家だ。
山頂には、田舎の農村にありそうな、広々とした豪邸がぽつんと建っていた。
(うそだろ。どうやって、こんなところまで瓦なんか運ぶ?)
そうだ。と、胸に落ちる言葉がある。
あやかし――。
『そりゃあ、効くだろうさ。人間のための薬じゃねえもんなぁ』
その家に住んでいるのは、人間ではないかもしれない。
万象一家が代々営むのも、あやかし向けの〈裏〉の薬を密売する薬局だった。
(ここまできて、引き返すわけにもいかねえしなぁ。いくか)
多少のふしぎは、あって当然か。
進まなければ〈裏〉の薬は手に入らないし、万象も一生むだに呪われたままだ。
(そうだよ、このままじゃ――)
幽牙堂に呪われて、万象の身体はとんでもないことになっている。
このままでは、人生が終わったも同然だ。