09 鍋を食えるのは鍋に選ばれた者だ
空が眠る頃、アルバ、プルース、ステラは一つのテーブルを囲っていた。
テーブルの中央には、火にかけられた鍋が置かれている。
「アルバさん、ステラちゃん、今日は僕が仕切りますからね」
鍋。それは、肉や野菜、選ばれし具材の溶けだした極旨い汁がはびこる戦場だ。
その戦場で仕切る……ましてやアルバとステラの前で宣言するのは、死刑を意味している。
何を隠そう、アドーレの家族鍋は、セキを含め、三人の戦場となるのだから。
とはいえ、プルースは若手ながらも計画的に鍋を進めるタイプである。
この先に油断をすれば、箸が届かないどころか、テーブルに落ちた汁一滴も飲めない可能性すらある。
現状、セキが食卓に参加していないのは好都合だろう。
アルバ自身、この戦争には勝たないといけないのだ。
「アッちゃん、うちは譲らないよ」
「……ステラ、今日の肉は実に手入れがいいじゃないか」
まず手始めに必要なのは様子見だ。
相手の出方を窺うのは愚策だが、下手をすればステラの箸による目スナイプ、プルースの鍋奉行による絶対防御態勢で、具材そのものに手が届かない可能性は十二分にある。
アルバは今、集中しているのだ。
油断をすれば滝のようによだれが垂れてしまうほど、真剣に。
「アルバさんとステラちゃんが喧嘩しないように、僕が保管しておきましたから」
「おいおい、人を喧嘩する生き物みたいに言うなよ。ちょっと具材が空飛ぶだけだろ?」
「うんうん。うちとアッちゃんは喧嘩しなければ、箸が火花散るだけだよ?」
「なんで具材が空飛んで、木を加工した箸が火花散るんですか! もう、二人共、今日という今日は気をつけてくださいよ」
プルースは前回、アルバと同じく鍋のお預けを受けたからこそ、何気に楽しみにしていたのだろう。
灰色七三で真面目に見えても、その黒い瞳は無邪気な子どものように喜んでいるのだから。
鍋をやる時はよくある事だと思うが、結局家がボロボロになるのは、あるあると言いたくなるだろう。
ふと気づけば、まだ何も入れていない汁の入った鍋から、甘くも優しい、コクの効いた特製の香りが漂ってきている。
刹那、漂う空気は重く息苦しいほどに、アルバとステラ、プルースを取り囲んでくるようだ。
「それじゃあ、お野菜を入れますね」
ちゃぽり、ちゃぽり、と音が重なる。
水面を揺らしていないのに、野菜は汁に浸かり、重なり合っているのだ。
それはまさしく、食べてくれ、と言わんばかりの構えだ。
「おいおい、ステラ、行動しなくてもいいのか?」
アルバは手始めに、揺さぶりをかけることにした。
大事なのは、いかに自然と鍋に近寄るかだ。
現在、鍋奉行たるプルースの支配の隙から攻撃をするには、生贄は必要だろう。
ステラは豊満な脂肪を持っているので、鍋に溶けだす分には問題ない筈だ。
鍋を食べる前とはいえ、鍋に選ばれるための試練は始まっている。
「アッちゃん、行動はしているよー」
「な、なにぃ!!」
ステラは先手を打っていたのだ。
(あの構えは、特製ダレの構え!!)
むやみやたらに行動すればプルースに警戒されるのを見越した、敢えて自分の休場を構える方法だ。
ステラはテーブルに置いてあるボトルや特製粉を取り、自身の小皿に入れてブレンドしていたのだから。
しかしそれでは、いざ食べるとなった時にブレンドしたタレは常温になり、鮮度が落ちてしまう。
相手は鍋の中で煮込まれている、野菜。そして、次に投入され始めている、脂が程よく落とされた舌触りが滑らかな上品なお肉だ。
アルバが見て理解出来る以上、ステラが理解していない筈はない。
ステラは知った様子を見せずに、ゆっくりと箸で小皿に入れたタレを混ぜている。
「アッちゃん、今日の仕入れてある野菜とお肉はね、湯に入れても鮮度が落ちにくいんだよー」
「や、やられた……」
「いやいや、何待っている間に落胆してるんですか!」
プルースは気付いていない。
今まさに、アルバとプルースは、この小娘であるステラの手の平の上で踊らされていたことを。
戦場……それはまさしく、地形に風向き、相手の情報を知っていてこそ、優位に立てる条件があると言うものだ。
そして現在、ステラが仕入れてきた謎の野菜とお肉は必ずと言ってもいいほどに、鍋の為に生まれてきたような具材たちである。
刹那、アルバの脳内には幻想が映った。
なんなくと忍び込めた敵陣の本拠地とも言える城内で、アルバは後ろから刺されたのだ。
後ろを振り向けば、ステラが「えへへっ」と真顔で笑みを浮かべている。
その手に持った、黒い箸刀で急所を抉りながら。
「ふっ、まさかこの手を使うことになるとはな」
「なんですかそのボタン? アルバさん、ふざけないでくださいよ?」
「な、なにぃー!」
ステラは珍しく驚きの声をあげた。
ステラが驚くのも無理はないだろう。
アルバは今、地球で生まれ育ったからこそ出来る伝家の宝刀を引き抜いたのだから。
手に持ったボタンを押せば、アルバの隣にはホクホクに炊かれている釜と、一掴みの卵が姿を見せたのだ。
釜の蓋を開けると、ふわりと漂う湯気の中から白米が姿を降臨させる。
その刹那、幻想は共鳴した。
アルバを刺した筈のステラは驚き「鍋にご飯の付け合わせ……」と言葉を失っている。
そう、鍋はカロリーが高く、人によって白米は敬遠されてしまうものだ。
焼肉だってそうだ。美味しく焼かれたお肉をたくさん食べたいからと、ご飯を食べない人はいるだろう。
だがアルバは、それを見越した上でご飯を用意しておいたのだ。
幻想の中で着ていた鎧を脱げば、愛ラブ鍋アンドご飯、と書かれた着物が降臨する。
ステラに刺された傷はない、あれはフェイクだ。
今まさに、アルバは蛹という偽の殻を破り、鍋に辿りつくための羽を得たのだから。
「きょ、今日のお野菜やお肉の質はいいけどー、ご飯と一緒に食べたら味が落ちちゃうよー?」
ステラは揺さぶりをかけてきている。
動揺した様子の声を最初にすることで、こちらの戦場を崩しに来たのだろう。
「あまいな。ご飯はあくまでおかずだ。そして、本来おかずである鍋の具材がタレに染みこんだ時、新たなる世界はご飯の上に載って君臨するのだよ、ステラ」
「はいはい、アルバさんにステラちゃん、どうでもいいですが、出来たので盛りますよ」
「なん、だと」
「灰色七三、ちょっとは考えた方がー」
時にプルースは、悪戯に笑みを浮かべた。
今までツッコミを放棄した上に、黙っていたのはそういう事だったのだと、この時アルバは初めて理解した。
初めからプルースが戦場に参加していない、と誰が思ったのだろうか。
一夜城も驚くくらいに、彼の城は戦場に最初からあったのだ。
ただ、ハリボテではない、背景と同化してしまう程に、繊細に創られたそのお城はまさしく鍋奉行の構え。
審判とは時に、プレイヤーの死角となる。あそこにはいないだろう、待っていないだろう、そんな幻想を錯覚させてしまう程に。
同じ城から見上げたアルバとステラは、その神々しさゆえの迫力に視界を腕で覆った。
我に返ったアルバは思わず拳を握り締めた。
鍋さえ完成した後、故意的に具材を飛ばしてどさくさに紛れて食べてしまえば、戦場は選ばれし者だけが残るはずだったのだから。
「アルバさん、ステラちゃん」
プルースは三人分具材を取り分けながら、名を呼んできた。
「たまにはこうして、家族で分け合ってもいいじゃないですか。それに、みんなで食べられる時間が、僕は好きですから」
「プルース……仕方ねぇな」
「灰色七三、今日だけだよ。アッちゃん、うちにも卵とご飯ちょうだい」
「あいよ」
鍋を食えるのは選ばれた者だけだと、アルバは思っていた。
だが時に真相はそれだけではない、選ばれた者のその先が必要だったようだ。
プルースは確かに、今回の鍋に選ばれただろう。
鍋に選ばれたにも関わらず、こうして家族に、みなに分け与える食の尊さ、感謝を教えてくれたのだ。
均等にお皿に盛られたお肉とお野菜、白銀に輝くご飯、そしてそれぞれのオリジナルのタレを前にして、手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきまーすー」
時にはこうして、平和な家族団欒の時間も悪くないだろう。
飛び交うもの、飛び散る火花はあったが、アルバたちは結局、みんなでワチャワチャして食べる鍋が大好きなのだから。