2.体調異変と散歩
俺が異変に確実に気づいたのは、ある雨の日だった。
あまりに大人しいことが逆に不安になり、様子を見るために客間をノックした。返事はなかったが、何かが落ちる音が聞こえた。
部屋の中にいることはわかったが、返事がないのは怪しい。
「入るぞ」と声をかけ、ドアを開けてみると、彼女が倒れこんでいた。
手にしていたらしい皿が片隅に転がっている。テーブルの上の料理はあまりにも少なく、しかもそれらはほとんど手がつけられていなかった。
「……おい、どうした……っ」
駆け寄った俺の声に、彼女はかすかに目を開けた。
「すみません……すこし……」
その声は弱々しく、今に消えてしまいそうだった。
抱き起こすと、あまりにも冷たくて軽すぎる――これは、明らかに異常だ。
俺はすぐに医者を呼び、介抱の準備をさせた。
集めた使用人たちは動揺していて言い訳ばかりを口にする。
「すみません……私たち、ちゃんと見ていたつもりだったんですが……」
「悪気は……いえ、本当に、何も……」
彼らの言葉に嘘はなかった。ただ、誰も“彼女を見ていなかった”だけだ。
俺を含めて、皆が。
彼女が何を感じ、何を思って、日々を過ごしていたのか。
信用していない、と言い切って背を向けたのは俺自身だ。
彼女は、ずっと一人で、声も上げずに、冷たい空気の中にいた――
その事実が、胸に重く刺さった。
◇◇◇◇
それから彼女は俺の部屋に近い部屋へ移された。
医者の指示のもと、食事管理と体温管理を徹底し、俺自身が看病にあたることにした。
「これくらい、使用人に任せても」
と執事は言ったが、首を振った。
「俺が見ていなかったせいだ。これは、俺の責任だ」
湯を含ませた布で額を拭き、スープを口に運ぶ。
手首に触れるたび、骨ばった細さに胸が痛んだ。
最初、彼女は申し訳なさそうに目を逸らし、口にしようとしなかった。まだ心は開いていなかったのだろう。
だが、俺の差し出すスプーンに自ら口を開けることが増えた。
目が合えば、一瞬だけ逸らすのではなく、まっすぐ見返してくる日もあった。
ある夜、静かにぽつりと言った。
「……温かいものって……ちゃんと、体に沁みるんですね」
その一言に、俺は何も言えなかった。
人として、当たり前の温かさを与えることすら、してこなかったのだから。
それから、少しずつ。彼女は言葉を返すようになってきた。
庭へ散歩へ誘うと、ためらいながらも頷いてくれる。
「庭は祖母が整えていた。花の種類にかなりうるさかったらしい。季節ごとの咲き方にもこだわっていたとか」
「……きれいですね」
短く、けれど素直な言葉が返ってきた。
「……お祖母様が整えていた、とおっしゃいましたが、お母様は…?」
彼女の一言にわずかに身をこわばらせる。
「母は……俺がまだ幼い頃に亡くなっていて。庭作りにも携わっていない」
嘘ではない。
それが、女性に人気のあった父への嫉妬の挙句の自死だったことは言わなくても良いだろうと思った。
母の悋気はあまりにも苛烈で、幼かった俺ですら恐ろしかった。
父が本当に浮気をしていたのかどうかは、今でもよくわからない。ただ、母と父を見ていて、幼心に人を信じる事が怖くなったことは確かだ。
「……余計な事をお聞きしてしまいました」
申し訳なさそうに謝るリディアに、構わない、と答えながら、俺も彼女も、初対面の時の冷たさと硬さがなくなりつつあることを感じていた。
げんに、わずかな微笑を見せるようになってきている。
そう、微笑むようになってきていた、はずだった。