1.押し付けられた妻
「私のことは信じていただけなかったというのに、私がどうやってあなたを信じればよいのでしょうか、まして今更…」
静かに、けれどどこか自嘲するように微笑んで、彼女はそう言った。
……その時、誰も何も返せなかった。
信じるも信じないも、最初から――俺も、王太子も彼女を「信用していない」と言い放っていたのだから。
◇◇◇◇
リディア・グレイスが、西の山脈のふもとの我が領地に「嫁いできた」日、俺は彼女を玄関で迎えた。
ライラック色の髪とナデシコ色の瞳を持つ王都の貴族の娘。しかも、貴重な癒しと治癒能力の使い手であり、王家と縁のあった女。
そのライラック色の髪は、肩の上で切り落とされている。
書状によると、癒しや治癒能力は虚偽であり、王家をたばかった罪を問う象徴として、王太子殿下の命により髪を切られたらしい…。女性にそれはあまりに酷な仕打ちだとは思う。
彼女はこの地に「押し付けられた」のだ。
リディアが王都を去る原因となったのは、二つあった。
リディアは、孤児院を訪問していた際に、けがをしている子どもや、病気の子どもの治癒を行っていたらしい。それを売名行為と罵る者が少なくなかった。
また、陛下の御前で一度、敵国の計略を見抜いて進言したこともあったという。しかし、王太子殿下は「怪しげな力を持つ女」として公言しはじめたという。
そして「聖女」として謳われる女性の出現だった。
セレナ・リュミエール。
王太子と親しい貴族の娘であり、周囲の推薦によって、予言と癒しと治癒能力を持つ「聖女」として一部貴族から強く支持され、祭り上げられていた。
リディアの力を偽物と言い切り、本物は自分であると公言し、それを王太子殿下も支持したという。
このような事態に彼女の家族も何もしてくれなかった…いや、できなかったのだろう。
俺は、王都での噂の全てを真に受けたわけではなかった。
けれど、「信じよう」とも思わなかった。
自らの意思で嫁いできたわけでもなく、政略の末に「流されてきた」のだ。
ならば、俺が関わる必要も、彼女の味方になる理由もない。
「今までの貴族としての肩書が通用するとは思わないでくれ。また、信頼や同情を期待するな。俺は君を信用していない」
出迎えの場で、俺はそう告げた。
彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情を消して、ただ小さく頭を下げた。
「……承知しました。必要以上の接触は控えます」
その声には、感情の揺れがなかった。
まるで、感情そのものを、奥深くに沈めてしまったかのように。
◇◇◇◇
リディアの生活は静かだった。
彼女は一切、俺に私的な言葉をかけてこない。
屋敷の中では誰よりも礼儀正しく、誤りなく、冷淡とすら言えるほど事務的だった。
夫婦生活はなく、彼女には客室で過ごしてもらっていた。
その事にも不満を言うわけでもなく、態度に出すわけでもなかった。
そんな彼女を、俺はどこかで警戒していたのかもしれない。
”やはり、仮面をかぶっているだけではないのか”
”ここでの振る舞いも、王都での噂と同じ策略で――”
そうやって、どこかで疑いの目を向けていた。
また、使用人たちも彼女に対しよそよそしかった。
別に彼女を暴力で虐げた者がいるわけではない。。
ただ――彼女に「極力関わらない」ようにしていた。
それは、誰かが意図して命じたわけではなく、ただ、なんとなく。
”あの人はこの家のご当主様に信用されていないから。”
”あの人は、王都から厄介払いされて来た人だから――”
そんな空気が、知らず知らずのうちに、皆の間に根を張っていた。
廊下ですれ違っても、声をかける者はいない。
部屋の清掃も、食事の準備も、「最低限」のことしか行われない。
それでも、彼女は何も言わず、それを是として受け止めていた。
慣れない環境、腫れ物に触るよりも遠巻きにして最低限の事しかしない使用人。
体調を崩しても彼女は何も言わず、いや、何も言えず。
体調に合わせた食事が出てくるでもないため、食べきる事ができず、残された食器を見た料理人は「また残すのか」と眉をひそめる。
それでも、誰も彼女の体調を心配する者はいなかった
そんな中で彼女は、ひっそりと痩せていっていた。
頬はこけ、目の下には隈。指先は細く、衣服の袖が余るほどに。
しかし、館にいる皆が誰も、その事から目を背けていた。
俺自身も……