吼える牙
強張るニネミアの耳元に毒を吐く犬歯が噛みつこうとしたその時、開け放たれた正面扉の奥から旋風が吹き抜けた。否、それはステファンの首を狙った魔刃が一直線に駆けた跡。わずかに傾けた銀の頭のすぐ横を通り過ぎた鋭利な殺意は背もたれの一部を容赦なく剥ぎ取り、家門の旗を提げた柱を斜めに両断した。
その研ぎ澄まされた切れ味に、ステファンはニネミアに向けていたものよりもさらに醜悪な笑みを浮かべる。
「ようやくお出ましか。待ちくたびれたぞ、我が姪よ」
凛とした足音をカツンと響かせ、薄氷の瞳を異能で輝かせたアイシャが謁見の間に姿を現した。体内から迸る魔力の影響で、群青色の裏地に白桜が刺繍されたペリースがふわりと広がる。
「謁見の日でもないのに、呼んでもいない者を待つ必要がどこにあるのです。ましてやあなたを待っていた者など、この国には一人もいない」
怒りで声まで冷え切らせ、アイシャは有無を言わさず剣を素早く縦横に振った。十字に重なった魔刃が白銀の光を放ちながら絨毯を切り裂き、招かれざる客へ襲い掛かる。
ステファンはニィッと歯を見せて笑うと、肘置きにかけていた大剣から柄を引き寄せ、魔力を込めて攻撃を受け流した。七聖家同士の力がぶつかった衝撃で、ビリリと肌を刺すような衝撃波が広がる。
「イカレた女だ。自分の母親もろとも叩っ斬るつもりか?」
「人質を取らないと女とやり合えない腑抜けだと認めるのですね?」
ステファンの右腕に抱えられたニネミアを見ても、アイシャはどこまでも冷静だった。この男は女子供を殺すことに何の躊躇いもない。自分よりも下等で無価値な生き物だと思っているからだ。だからカーテンの裏で怯える子どもの前で母親を犯すような最低な遊戯も楽しめる。
そんな風に女を蔑視する男が、見下しているはずの女を相手に人質を盾になんてしない。
「それは違うな。はなからまともにやり合うつもりがないのさ。わかるだろう?」
「なら何用です」
不遜な態度で当主の椅子に座る姿を見れば一目でわかることをあえて問う。その不躾な口で直接言葉にさせ、舌を切り落としてやろうと思ったのだ。柄を握る手に力を込めて、いつでも踏み込めるように足を半歩下げる。
無精髭が覆う口元を歪につり上げたステファンも当然それに気づいていた。だからこそ、革手袋に包まれた指先でわざとらしく肘置きをコツコツと叩く。
挑発されている。間合いに招かれている。わかっていようとも、アイシャにもグリツェラ家の当主として譲れないものがあった。
「下見だ。俺の物を返してもらうためのな」
その瞬間、アイシャは刃と化して馳突した。
眼光が残像を残すほどの一瞬で間合いを詰めた勢いそのままに、剣を振り抜く。速度と魔力が乗った一撃の重みはアイシャの体つきで繰り出せる威力を優に超え、ステファンに襲い掛かった。
血潮が沸き立つ興奮に、ステファンは表情を狂喜で歪める。小脇に抱えていたニネミアを邪魔そうに突き飛ばすと、片腕で納刀状態の大剣を構えた。身の丈以上ある得物の重量をまるで感じさせない軽々とした動作で、アイシャの猛攻を次々といなしていく。
「フン、猫がじゃれつく程度かと思っていたが、少しは心得ているようだな」
力が拮抗したまま剣と鞘が交差した。瞳孔を開いたアイシャの鋭い眼光に牙を剥く銀の狼を見たステファンは、忌々し気に鼻で笑う。
「その顔、ヴェタリア城に押し入った時のルーカスにそっくりだ。くだらない義憤に駆られた身の程知らずの顔に」
民と妻の嘆きに研ぎ澄まされたルーカスの牙はステファンの右腕に深々と食い込み、その身を王座から引きずり下ろした。あの時の屈辱は思い出すだけでも虫唾が走る。奴の面影が色濃く残る姪を見ていればなおさらだ。ステファンは暗くギラついた瞳でアイシャを睨みつける。
だが、相手に憎悪を抱いているのはステファンだけではない。
「生きていたのにお父様の死に目に現れず、グリツェラ領国が大陸中から後ろ指を指されている間も身を隠し、ほとぼりが冷めた頃になって国盗りにやって来たあなたは、野生の狼ですらない。卑怯なハイエナに渡すものなんて、ここには何一つない。――それは私の椅子だ。さっさとどけ」
怒気を孕んだ冷たい声色で吐き捨てると、剣先をずらし、相手の大剣を弾き返した。
がら空きになった逞しい懐へ突き入ろうとするが、分厚い魔力の防壁に切っ先が阻まれてしまう。己の魔力をぶつけて突き破る前に頭上で振り上げられた大剣を見上げ、舌打ちをしながら横へ飛び退く。そこにはステファンから突き飛ばされたニネミアが立ち竦んでいた。
アイシャは怯える母を背に庇い、再び剣を構える。
「お母様、ロイさんのところまで走れますか?」
「え、ええ……」
「なら振り向かないで、走って!」
「ッ!」
突きの構えで瞬時に踏み込んだアイシャが叫ぶと同時に、ニネミアが走り出す。
ありったけの魔力を込めた切っ先は、再び光る魔力防壁に突き刺さった。風圧が周囲に広がって防壁に細かいヒビが走るが、渾身の一突きが心臓に届くことはない。力を込めたブーツのヒールが床を抉る。奥歯を噛みしめて必死に食らいつこうとするアイシャを見下ろし、ステファンは厳めしい顔に嘲笑を浮かべた。
「ひ弱だな。どれだけ牙を研ごうと所詮は女だ。どうせ第二皇子の子を孕めば当主の椅子に座れなくなる。グリツェラ領国の王座を空にする気か?」
「私が女の役割を果たすために剣を置くことになっても、そこに座るのはあなたじゃない。私とシオン様の子だけがこの椅子を継ぐ。絶対に誰にも渡さない!」
「なら力づくで奪うまでだ!」
「ぐぅっ……!?」
重量のある大剣が横に勢いよく薙ぎ払われ、柄を握った両手から剣が弾き飛んだ。指先まで痺れるような衝撃に、アイシャの顔が苦悶に歪む。間髪入れずに鞘入りの大剣が頭上へ振り下ろされた。とっさに右手を翳してステファンのように魔力防壁を展開させるが、その重量と威力に片膝をついてしまう。このまま押し潰してしまおうと、ステファンはさらに力を込めた。
アイシャの周囲だけを残し、床が圧力で次々と抜けていく。だがこれでいい。背後ではロイがニネミアを無事に抱き留めているし、彼の準備も整った。
「手足の片方ずつでも潰せば大人しくなるか? ガキは産めるだろうから不便はないだろう? ここで生意気な牙を全部折ってやる」
どこまでもアイシャの性別を侮蔑するステファンを見上げ、銀狼は牙を見せて低く唸る。
「私の牙は、たくさんあるの」
その瞬間、ステファンが背にした二階の窓辺から俊敏な影が飛ぶ。ソフィアから屋根の修繕を頼まれていたテンだ。
「うらぁああッッ!!」
「ぬぅ!?」
獰猛に吼えた黒虎が身体を捻って双剣を振りかぶる。完全な死角から飛び出した攻撃に一瞬反応が遅れたステファンは、反射的に剣を持っていない右手を翳した。そこへ体重に重力、さらに魔力も乗せたテンが身体を回転させながら重い一撃を打ち込む。衝撃で魔力が火花となって周囲へ飛散し、空気に触れて一瞬だけ炎が迸った。
切り込みは十分。双剣が何かを捉えた手応えも確かにあった。だがテンは底知れぬ悪寒を感じ、着地と同時にアイシャを抱えてステファンから大きく距離を取る。
「テン……?」
「悪い、仕留め損ねた」
苦々しく言う友の腕の中からすぐに視線を移すと、攻撃を受けたはずの右腕を軽く払うステファンの姿が。斬られた袖を邪魔そうに引き千切り、乱雑に投げ捨てる。アイシャはその光景に気圧され、唇を震わせた。




