狂嵐
ステファン・スパーダ・ディ・グリツェラは、苦し紛れに良く言うなら武勇に優れた豪傑であり、言葉を選ばなければ悪辣の限りを尽くした外道だ。
人々がステファンついて語る時、本名ではなく『狂嵐』の名称が用いられる。
彼の悪行の数々に苦しんだ臣民にとって、ステファンによる治政の時代は理不尽な嵐が吹き荒れ続けた凶事であった。当時の仔細を知る者の多くは、その名を口にすることすら悍ましいと揃って言う。敵うことならグリツェラ領国の歴史から彼に関する全てを消し去りたいと、できもしないことを願うほど赫怒したのだ。
ルーカスが生まれてすぐのこと。狂嵐は両親を丸め込み、十五も年の離れた弟を祖父母が墓守をしていた桜の館へ放り込んだ。この頃の桜の館は、次代に譲位した先王が身を寄せる隠居先である。王都からも遠く、自分の継承権を脅かす目障りな弟を押し込めておくには丁度良い檻だった。
健在だった父が不自然な崩御をし、心身を病んだ母も自ら後を追った。そんな悲劇を経て順当に王位を継いだ暴王ステファンにより、グリツェラ領国に狂嵐の吹きすさぶ暗黒期が始まる。
ステファンは娯楽と呼ばれるものには何でも手を出した。酒に、女に、賭けに薬。民を先導する王がそのようであるから、国内の治安はすぐ地に落ちる。
海を越えた先から不正に流入した危険な薬が街に溢れ、勤勉だったグリツェラ領国の民は毎夜知らない誰かと裸になって死んだように惰眠を貪るようになった。個人の借金は膨らんで自滅する者が後を絶たず、税収は衰え、国力が衰退する悪循環。
そんな中、狂嵐の最も傾倒した娯楽が、戦である。
城では四六時中酒を絶やさず女と情事に耽っていても、いざ戦いとなれば負け知らず。身の丈以上の大剣を振り回して敵の鎧を砕く音に滾り、許しを乞う断末魔に下腹部を固くして、殺した敵の血で顔を洗う。ステファンの狂気じみた戦い方は、共に戦場を駆ける白桜騎士団の者たちですら嫌悪した。
狩りの獲物となった者の多くは、グリツェラ領国のさらに北東の凍土マイトレニアに巣食う背信者たち。メーヴェが唯一神と唱える女神に背き、別の神を立ててメリューを邪神とする異教徒集団だ。
彼らの侵略から女神の土地を守ることも、七聖家たるグリツェラ家、そして東に隣接する同じ七聖家のルプスレクト家に科された責務である。その大義を免罪符として必要以上にマイトレニアへ侵攻し、絶え間なく血を浴び続けた。
一方で成人した王弟ルーカスは、兄の暴政に苦しむ臣民の声の受け皿として奔走していた。だが長兄の世襲観が未だ根強い七聖家でルーカスにできることは限られる。己の無力感に苛まれながら、無為に過ぎ去っていく日々に歯噛みした。
そんなある日、戦に明け暮れるステファンの代わりに出席した聖都の社交パーティーで、ルーカスは皇家の末席に名を連ねる小さな家門のレディと出会った。その日は丁度、ニネミアのデビュタントでもあったのだ。
可憐なニネミアを一目見て雷に打たれたルーカスは、彼女の美貌に群がる中央貴族たちを押し退け、初めてのダンスの相手役という名誉を手にした。曲目が終わる頃にはお互い恋に落ち、ルーカスはステファンの了承も得ずその日のうちに求婚。政略的価値の低い婚姻に家臣たちからも苦言の声が上がったが、ルーカスを子ども頃から可愛がってくれた祖父母からの全面的な協力もあって、二人は晴れて結ばれた。
優しく愛情深かった祖父母がメリューの御許へ旅立ち、桜舞うミスティに元気な女の子の産声が響いてしばらくした頃。
ようやくたどたどしく歩き始めたアイシャを見守りながら、戦場へ派兵されたルーカスの帰りを待っていたニネミアの元へ、桜を散らす暴風が吹きつけた。夫の留守を見計らったように、ステファンが桜の館を訪れたのだ。
異教徒の血を浴びすぎて本能に歯止めが利かなくなった狂嵐によって、貞妻だったニネミアはその身を穢された。カーテンの裏で震え上がる娘の前で最低な扱いを受け、新たに授かっていたルーカスとの子も流れてしまった。
街を侵食する薬に苦しむ民を無視して。
城では肉欲を貪る酒乱と化し。
その暴力的な本能を剝き出しにして、弟の愛妻すら手籠めにした。
戦場から帰還したルーカスは、二度と子を産めないほど内臓に深い傷を負った妻の惨憺たる姿に激情を抱えたまま、聖都レトへ駿馬を走らせた。これ以上グリツェラ領国に狂嵐を吹かる訳にはいかないと、ミオに直談判するために。そうして聖下直々に王降ろしの許可を賜り、ステファンに反旗を掲げた白桜騎士団の有志たちを率いて、王都のヴェタリア城へ攻め入ったのだ。
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激しい剣戟の音が謁見の間に響く。祝勝会でアイシャが民と言葉を交わしていた場所だ。兄を処したルーカスがヴェタリア城から当主の椅子を持って遷都してからは、ここが城の代わりとなった。
本来であれば、当主の椅子の前で剣を抜くなどあってはならない。だがロイは戦場と同じ殺気を放ち、重く鋭い一撃を侵入者へ繰り返し叩き込んだ。その覇気はブラント家の血に流れる魔力と融合して光る白刃と化し、剣身が打ち込まれるたびに明滅しながら周囲へ飛散する。
燦爛たる様子で猛攻を繰り出す金獅子の背後では、気絶した騎士見習いたちが地に伏していた。辛うじて息があるのは、相手が人の背ほどある大剣を鞘に納めたままだから。太い鉄鎖で鞘と鍔を雁字搦めにした大剣が、ロイの攻撃を阻む。
事を大きくする気がないのか、単純に舐められているのか。白刃の光を浴びて輝く金の前髪を振り乱し、ロイは怒りで底冷えした翠眼を暗く覗かせる。並みの相手ならその視線に射抜かれただけで剣を落としそうなほど。
「狂嵐の時代はもう終わったんだ。下賤な手でニネミア様に触れるな」
春の麗のように朗らかな普段の雰囲気は消え失せ、ロイは厳冬を思わせる低い声で言い放つ。
太く逞しい男の右腕には、今にも気を失いそうなほど青褪めた様子のニネミアが抱えられていた。踏み込み具合を少しでも間違えれば彼女まで傷つけてしまう。
気を取られるロイの一瞬の迷いを突き、男は鞘を被ったままの大剣を左腕一本で軽々と振り翳す。瞬時に先端から膨大な魔力が放出された。それは間違いなく七聖家の純なるもので、ロイはとっさに剣を構えて受け身の体勢を取るが、あえなく吹き飛ばされてしまう。背中から衝突した壁が砕け、衝撃波が周囲に広がった。
「はぁ、ハッ……く、そっ……!」
霞む視界で剣を支えにし、ロイがどうにか片膝を立てる。白桜騎士団の本隊を率いて国境の視察へ向かった父のダリオから留守を任されたというのに、これでは面目が立たない。
一方で、大剣を背に担ぎ直した壮年の大男は顎を上げ、肩で息をするロイを鼻で笑った。
「南部戦線の英雄、金獅子か……フン、期待外れだな」
山を動かすような力強さと傲慢さに満ちた、生まれながらの支配者の声だ。その身に流れる血を何より物語る銀の長髪は後頭部で無造作に結ばれ、毛先まで色がくすんでいる。浅黒く日焼けした肌と顎を覆う無精髭は、長い流浪の日々を思わせた。剥いだ動物や蛇の皮を肩にかけた野盗のような出で立ちにもかかわらず、完全には拭い去れない高潔な血筋が歪な威厳を放つ。
ステファン・スパーダ・ディ・グリツェラは、静寂を取り戻した謁見の間を濁った池底のような瞳でぐるりと見渡した。
満身創痍のロイと、使い物にならなくなった騎士見習いたち、そして外へ続く扉の先で息を潜める無力な使用人が数名。この状況で飛びかかるような命知らずがいないのを確認すると、硬直するニネミアを侍らせたまま当主の椅子にどかりと腰を下ろす。
「随分と軟弱な椅子になったものだ。姪の柔尻に合わせて作り直したのか?」
娘に対する明け透けな侮辱に、捕らわれていたニネミアが蒼白な顔に怒りを浮かべて、唇を震わせた。
「もうあなたの椅子ではないからです、ステファン。あの子が命がけで守ったものに腰をかける資格が自分にあるとお思いですか? 今すぐここから出て行って!」
「そう癇癪を起こすな。それとも、また可愛がってほしいのか?」
「ッ……!」
岩のように硬く無骨な手に細腰を引き寄せられ、無理やり片膝に乗せられる。かつての悪夢が脳裏に蘇り、ニネミアの少女めいた美貌がとたんに恐怖で引き攣った。
この男にされた仕打ちは、絶対に開かない箱の一番奥にしまったつもりだったのに。ヴェタリア城へ攻め入ったルーカスが激闘の末にステファンの利き手を切り落として大剣を奪い、そのまま荒野へ追放を命じたのだから。もう二度と顔を見ることはないと思っていた。それなのに勝手に箱から這い出して、ようやく訪れたほんのわずかな平穏のひと時を壊しに現れた。
腹立たしさと己の無力さに苛まれ、ニネミアは桜色の瞳を血走らせて涙を浮かべる。恨めしい視線を浴びせると、ステファンは厭らしく舌なめずりをして見せた。
「その顔、変わらんなぁ。貞淑なお前のことだ、どうせあの馬鹿な弟が死んでからご無沙汰なんだろう? 今度はお前の娘も一緒に楽しませてやろう。あの時は言葉もろくに話せないただのガキだったが、たいそう美しくなったそうじゃないか、刃物姫は――」




