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花開いて散る(※)

 思案する猶予もなく、シオンが一歩踏み出したと同時に、経験したことのない浮遊感に襲われる。なんと、女神由来の底なしの魔力を使って、アイシャを抱えたまま宙へ飛んだのだ。

 足元に集まった人だかりが小さく見え、背筋を吹き上げる風にゾクゾクッと産毛が逆立つ。


「ひゃああッ!? し、シオン様!?」

「おっと」


 思わずシオンの首へしがみつけば、安心させるように力強く抱き寄せられる。ぐるぐると回る視界の片隅に、彼の腰から風でするりと解けたスカーフが湖の上へ飛んでいくのが見えた。そうなるともう、二人の素性は集まった民衆に筒抜けだ。


「まぁ見て、シオン殿下とご一緒よ!」

「復縁したって話は本当だったのか!?」

「シオンさまぁ~! アイシャさまとでぇと?」

「そうなんだ。こっそり楽しんでいたのに、結局バレてしまったが」


 こちらを見上げる小さな女の子へ微笑み返し、シオンは大衆の面前でしれっと惚気た。目下の女の子は大きな丸い瞳を輝かせ、「らぶらぶだ~っ!」と大はしゃぎである。何がそんなに嬉しいのか、兎のようにキャッキャと飛び跳ねた。


 不安定な空中で身動きが取れないアイシャは、初めて体験するタイプの羞恥を一方的に浴びて打ち震えることしかできない。


(グリツェラ家の威光が、お父様から継承した威厳が、戦場で築き上げた強い当主のイメージがっ……!)


 想像力で補って少し大げさに描いてもらった肖像画にヒビが走り、ボロボロと崩れ落ちていく幻覚が頭を過る。

 こんな浮かれた姿を晒して、民に失望されやしないだろうか。不安で下を見れないでいると、不意に地鳴りのような大喝采が巻き起こった。


「アイシャ様とシオン殿下に幸あれ!」

「お二人がいればグリツェラ領国の未来は明るいぞ!」

「殿下、姫様を頼みます!」

「アイシャ様、どうかお幸せに~ッ!!」


 二人を祝福する歓声はいつしかミスティ中に広まり、景気づけの爆竹や祝砲まで響き渡る。まるでお祭り騒ぎだ。

 目を丸くするアイシャの耳元へ、シオンが唇を寄せる。


「アイシャは色々と抱え込みすぎだ。もう少し肩の力を抜いて周りを見てみろ。ほら、君が民を愛しているのと同じくらい、こんなにも多くの人が君の幸せを願ってる」

「私の、幸せを……?」


 そう言われて、アイシャはシオンの腕の中から民へ目を向けた。誰もが晴れやかな笑顔でこちらに手を振っている。アイシャがタウンハウスへ発った八年前の光景よりもずっと幸せそうだ。何て小さなことを悩んでいたのだろうかと、自分でも呆れてしまうくらい胸がすく。


「さて、これは俺も責任重大だな。今まで以上に君を愛さないと」

「そ、それはもう十分です、勘弁してください……」

「遠慮しなくていいのに」


 幸せそうに見つめ合う二人を見上げ、歓声がよりいっそう大きくなる。

 すると、この騒ぎでアイシャに伸された男たちも目が覚めたようだ。熱狂に吼える周囲の視線の先に宙に浮く神々しい二人を見つけて、すぐさま腰を抜かす。まさか本人の前で胸か足かを争っていたとは、夢にも思わなかっただろう。


 その様子に目敏く気づいたシオンがにやりと口元をつり上げた。「ああ、これは悪いことを考えている顔だ」とアイシャは察する。再会してまともに言葉を交わすようになってから気づいたのだ。シオンも異母兄とは違う方面で性格がひん曲がっていることに。


「アイシャの身体で一番そそられるのは胸か足か……だったな?」

「「ヒッ……」」


 シオンがゾッとするほど美しく微笑んで見下ろすものだから、男たちはそれぞれ縮み上がる。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのこと。少し可哀想に思えたが、アイシャはそれ以上に彼が何を言い出すのか気が気じゃない。頼むから余計なことは言わないでくれと強めに念じるも、とうとう形の良い唇が開かれた。


「どちらも選び難いが、素肌の背中の美しさは二つを凌ぐほど極上だぞ。まぁ、簡単に見せてやるつもりはないがな」


 生まれつき喉に拡張器でも装備されているのかと思うほどよく通る声が、特大のマウントをぶちかます。


 瞬間、熱狂したミスティ中の男たちが雄叫びと共に腕を天高く突き上げた。


「うぉおおおおっ! せ・な・か! せ・な・か!」


 謎に息の合った熱い背中コールが始まる。実際に目にした者からもたらされる情報ほど信頼と解像度の高いものはない。女性陣は男たちの盛り上がりに負けまいと、身の回りのバケツや箒を使って唐突に背筋トレーニングを始める。もはやカオスだ。


 アイシャを敬愛して熱愛する民にとって、彼女の新たな魅力は熱効率の高い上質な燃料――言うなれば、アイシャを愛でることによって成り立つ永久機関なのである。


(大丈夫かしら、この国……)


 自分が思っていた以上に民から愛されていることは理解できたが、同時にめまいがした。


「ふふっ、君の民は愉快だな。俺と気が合いそうで気に入った」

「それは喜んで良いのでしょうか……」


 反応に困っているアイシャを抱き上げたまま、シオンは満足そうに笑って観衆の上をぐるりと一周する。その間、またポケットからカスミソウがポンポンと咲き乱れた。天を舞う二人から降り注ぐ愛の証を手にし、再び大きな歓声が沸き起こる。

 だが、シオンの腕の中にいる人物だけはなぜか少し不服そうだ。


「帰ったら種は没収です」

「何でだ? 皆もこんなに喜んでいるのに」

「……あなたからカスミソウを受け取るのは私だけがいいと思ってしまうのは、さすがに狭量すぎますか?」


 愛する民にだって、彼が咲かせたカスミソウを渡したくない。そう思ってしまうくらい、アイシャにとっては特別な花だ。だから無闇やたらにポンポン咲かせないでほしい――と伝えようとしたら、カスミソウのシャワーがぴたりと止んだ。代わりに湖を囲む葉桜が魔力の影響で輝き始め、一斉に開花する。ぶわっと狂い咲いた季節外れの満開の桜に、誰もが息を飲んで圧倒された。

 突然の絶景に目を点にしたアイシャは、婚約者の赤らんだ顔を凝視する。


「あの、シオン様、これはどういう……」

「帰ろう、今すぐ」


 何かを堪えるように、シオンは顎にくっと皺を寄せる。気を悪くしたのかと問いかけようとしたら、ぐんと飛翔された。初夏の風に乗って桜吹雪が舞い散るミスティの空を飛び、一目散に桜の館を目指す。物凄い速さで遠のく街の方からは、二人の名を熱烈に叫ぶ声が絶えず響いていた。




 ⚜




 桜の館の門の前に降り立った瞬間、アイシャは重大なことに気がついた。


「大変です、ルフ様を置いて来てしまいました! どうしま――……んぅっ!?」


 焦る肩を押され、長い睫毛を伏せたシオンに問答無用で唇を塞がれた。石の門柱と彼との間に挟まれて身動きが取れず、されるがまま口内を貪られる。余計なことを考えるのは許さないと言わんばかりの荒々しいキスだ。困惑する唇に軽く歯を立てられ、熱い舌が奥へと入り込む。


「ふ、ぁっ……シオン、さま……?」


 息継ぎのわずかな間を縫って呼びかけると、それに応じてうっすらとまぶたが上がった。ギラリと情欲を宿した菫色の瞳が至近距離でアイシャを射抜く。脳髄をぞくりと駆け上がった熱に思考を絡め取られている間に、また唇が重なった。舌先にじゅっと吸いつかれて、爪先から力が抜けてしまう。


「んっ、んぅ、ふっ……!」


 キスだけで砕けてしまった腰を支えるように回された手の大きさに、アイシャはびくりと肩を震わせた。広い肩幅の影になって、唇へ降り注ぐ愛にただ溺れてしまう。まるで彼の庇護下にいるか弱い令嬢にでもなってしまったかのような気分だ。


「ゃ、シオン様、も、もう……!」


 果ての見えない執拗な口付けに音を上げたアイシャが懇願するように胸板を押せば、ようやく解放された。酸欠で火照った頬にひんやりとした手が添えられて、心地良い。空からの逃避行で乱れてしまった銀髪を耳にかける指先の仕草一つに翻弄される。うっとりと蕩けた氷の瞳でシオンを見上げれば、いつになく余裕のない表情をしていた。


「ああ、もう……一日でも早く何もかも全て片付けて、君と一つになりたい」

「あ……」


 込み上げるものを押し殺したような顔で、アイシャの額に唇が押し当てられる。自分も同じ気持ちだと伝えたくて、唇を開こうとした瞬間。門の奥から肌を刺すような魔力の波動を感じた。戦場で何度もそばで浴びたからこそわかる。この研ぎ澄まされた真っ直ぐな魔力は――。


「……ロイさん?」

「屋敷の様子が妙だな」


 それに気づいてしまえば、二人の頭の中は甘やかな夢から覚めて瞬時に冴え渡っていく。

 思えば、今の時間帯なら訓練場から騎士見習いたちのかけ声が聞こえてくるはずなのに、やけに静かだ。出迎えの使用人の姿も見えない。何か、何かがおかしい。


 すると、門の奥の正面扉がわずかに開かれた。片足を引きずってぎこちなく歩くのは、今朝手合わせをした白桜騎士団最年少のノース・ランバルディである。バランスを崩して倒れ込んでしまった少年のもとへ、二人は慌てて駆け寄った。


「ノース!」

「アイシャ様……ああ、よかった。今、街へ探しに行かなければと思っていたんです」


 ノースは蒼白になった顔を苦悶に歪め、主君を涙ながらに見上げる。身体中に打撲痕や骨折などの負傷が見られるが、命に別状はなさそうだ。安堵で気が抜け今にも意識を飛ばしそうなノースのそばに膝をついて、アイシャは彼の手を握る。


「ノース、中でいったい何が……」

「ステファンが――()()が来ています。今、謁見の間でロイさんが一人で相手を……」


 その来訪者の名を聞いた瞬間、ミスティに桜颪(さくらおろし)の暴風が吹き荒れた気がした。つい先ほどまで感じていた幸せを全て吹き飛ばす、望まぬ嵐が。


 アイシャは弾かれたように立ち上がると、シオンすらも置き去りにして一目散に自室へ走る。ワードローブにかけた騎士服と剣を取りに行くためだ。

 こんな腑抜けた格好で()と対峙するわけにはいかない。無我夢中で走りながらコルセットワンピースの紐を解く。騒動の中心に人が集まっているせいで、廊下に衣服を脱ぎ散らかすアイシャを見咎める者はいなかった。下着代わりのワンピースと裸足の恰好で自室へなだれ込み、ワードローブの扉を勢いよく開け放つ。


「どうして、今になって……!」


 純白の騎士服と剣を手にした彼女を映したドレッサーが、怒りで煮立つ瞳に貫かれる。


 ステファン・スパーダ・ディ・グリツェラ――グリツェラ家の長い歴史におけるただ一つの汚点であり、その悍ましい悪行から弟のルーカスの手によって流刑に処された、アイシャの伯父君である。

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