二択論争
酔っ払った中年男性二人がテーブルを勢いよく叩き、お互いの胸倉を掴んで「胸だ!」「いや足だ!」と罵り合っている。
それを聞いたルフは太い眉をムッと吊り上げた。せっかく二人が良い雰囲気だったのに、これではデートが台無しだ。空気が読めない酔っ払いたちを鋭い眼光でギロリと睨みつける。
「ぬぅ……! いくらスカーフで気づかないとは言え、アイシャ様の前で猥談とはけしからん! 止めて来ましょうか?」
「構いません。昼間からあそこまで酒を煽れるなんて、平和な証拠ですし」
得物に手を添えて腰を浮かせたルフに言われて喧騒へちらりと視線を投げたアイシャは、水を飲みながら苦笑をこぼした。高貴なレディなら露骨な話題に嫌悪で顔をしかめるのだろうが、騎士団の男所帯に身を置いているせいか、あまり気にした様子はない。それに女国主だからと言って、男性に貞淑さを強いるほど狭量でもないつもりだ。そんなのは思想統制になってしまう。民にはできるだけ自由に暮らしていてほしい。
すると、恰幅の良い女店主が大論争を繰り広げる男たちのテーブルへ近づいた。眉間に深いしわを寄せた鬱陶しそうな顔をして、問答無用で樽ジョッキを取り上げる。
「あんたら飲みすぎだよ、まったく。白桜騎士団の耳にでも入って、その不敬な口を切り落とされちまいな」
「おいおい、これはミスティの男たちを分断させちまう大問題なんだぜ?」
「アイシャ様の胸と足、どっちがそそるかってな!」
「ブッッッ! げほっ、げほッ!」
それまで涼しい顔をして聞き流していたアイシャは、喉に水を詰まらせて盛大に咳き込んだ。
「大丈夫か?」
「す、すみません……」
心配そうにしたシオンからハンカチを受け取り、口元を拭う。まさか自分のことで争っていたなんて。突然当事者にされてしまい、急激に羞恥が込み上げる。
だが背後の男たちも渦中の刃物姫が近くにいるとは夢にも思わず、酒の力で声ばかりが大きくなっていく。彼らはこれでも大真面目なのだ。
「姫様は名のある娼館でもなかなかお目にかかれないたわわなものをお持ちだ。戦場で傷を負ったらあの胸に顔を埋めて死にてぇ!」
「ハンッ! さてはお前、よそ者だな? ミスティ育ちの男ならあのしなやかな足に踏まれて死にてぇと一度は考えるもんだ!」
「……そうなのか?」
「知りません、私に聞かないでください」
真顔のシオンに問われ、赤面したアイシャは顔を両手で覆ってテーブルに突っ伏した。何かの拷問なのだろうか。
だが市井のリアルな声というのは、何も清廉なものばかりではない。美しい国主へ向けられる生々しい欲望もまた、民の率直な声だ。
(そう言えばテンが「最近ポニーテールの勝気な娼婦がやたら増えてちょっと気まずい」ってぼやいてたような……)
その時は「へぇ、そうなんだ」と意味もわからず返したのだが、プロである彼女たちが客の好みに合わせてサービスを提供していると考えたら、つまり……ああ、これ以上は深く考えたくない。
思考を放棄しかけたアイシャをよそに、酒を取り上げられてもなお胸か足かの二択論争は燃え上がり続ける。
「いっぺん痛い目を見ないとわからねぇらしいな!」
「やってみろ、クソッタレ!」
「きゃあっ!? あ、あんたたち、おやめってば!」
男たちは皿が乗ったままのテーブルを酒の勢いでひっくり返し、石畳の上で取っ組み合いを始めた。陶器が割れる音と女店主から上がった悲鳴に、通行人が騒然と足を止める。
二人の腰にはそれぞれ護身用のダガーがある。これ以上乱心しては血が流れると思い、アイシャは仕方なく立ち上がった。
デート中のため、コルセットワンピースの腰に剣はない。にもかかわらず勇んでずんずんと進む背中へ、ルフが慌てて制止をかける。
「丸腰では危険ですアイシャ様、ここは自分が――」
「いえ、私がやります」
民の醜態は国主である自分の醜態。シオンの目と耳を汚してしまった責任を取らなければ。それに何というかこう、自分の手でお灸を据えないとどうにも気が済まない。胸でも足でもどっちでもいいが、昼間の往来で、しかもシオンの前で唐突に辱められたことへの羞恥と怒りがアイシャの内で沸々と沸き上がっていた。
「いい加減にしなさい、見苦しい」
「ああ!? 女は引っ込んでろ!」
胸派の男がアイシャを振り返る。泥酔して目が回っているのか、視線が上下左右に動いて忙しない。だがブラウスの襟ぐりにふわりと盛り上がる白い谷間を見た瞬間、いやらしく目が据わった。酒乱の下卑た欲を感じ取り、銀の前髪がかかる額に青筋が浮かぶ。
「へへへ、姉ちゃんいいモン持って――へぶぁっっ!!」
不躾な手が伸ばされたので反射的に身を翻し、がら空きの脇腹へ回し蹴りをお見舞いした。丈の長いワンピースが大輪の花を咲かせ、編み上げブーツの太いヒールを叩き込む。仕置きの意味で少しだけ魔力も込めて。その結果、砲撃のような勢いで吹き飛んだ男は湖の柵へ後頭部を強かにぶつけ、白目をむいて転がった。
その見事な一蹴を前に、足派の男が鼻息を荒くする。アルコールとは別の理由で興奮しているのは明らかだ。
「姫様を彷彿とさせる美しい回し蹴り……お、俺も蹴ってくれぇええ!」
「いやだ」
アイシャは民のことを愛しているが、何でもかんでも要求に応じる必要はない。
すげなく言い返し、両腕を高く上げて襲い来る変態の右手首を捻り上げた。体勢が崩れた隙に懐へ入り込み、男の腰のダガーを抜く。太陽の下で刃先が鈍く光った。それを一瞬で逆手に持ち替え、硬い柄の先端で首の後ろを一突き。急所への衝撃で気絶した男が、あっけなく石畳へ崩れ落ちた。
流れるような動作で自身より大柄な男二人を瞬時に伸した謎の町娘に、人だかりが水面を打ったようにしんと静まり返る。だが一拍置いて、辺りはどっと沸き立った。
「やるなぁ姉ちゃん!」
「いい蹴りだったわよ!」
「おねーちゃん、かっこいー!!」
老若男女から拍手と歓声が送られ、アイシャはハッと我に返った。慌ててシオンとルフがいる方を見れば、雑踏に紛れて優雅に手を叩く二人の姿が。シオンなんて「さすが俺のアイシャだ」と言わんばかりのぺかーっとした満面の笑みまで浮かべている。どうしたものかと対応に困っていると、店主の女性が申し訳なさそうに駆け寄って来た。
「ごめんなさいねぇお嬢さん。普段は気の良い連中なんだけど、お酒が入るとどうも……」
「気にしてません。あっ、テーブルの片づけ、手伝います」
「あらそう? 何から何まで悪いわね、本当にありが――」
そこで大らかな笑顔がぴたりと固まる。不思議に思って瞬きをすると、アイシャの右肩を濃紺のスカーフが滑り落ちて行った。先ほどの大立ち回りでほどけてしまったのだ。
タイミングよく湖面を拭き上げた風に乗り、スカーフは天高く舞い上がる。手を伸ばしてももう遅い。アイシャを町娘に見せていた魔法は、あっさり解けてしまった。
そうなるともう、目の前の店主は見る見るうちに表情を引き攣らせる。口元を覆い、肉厚で重そうなまぶたを限界まで見開いた。
「――うそでしょ、あたしったらどうして気づかなかったのかしら……! ア、アイシャ様じゃありませんか!」
「あ、えっと、これは、その……」
「あれ? 姫様だ!」
「アイシャ姫がミスティに来てるぞ!!」
「えっ、本物!?」
「キャーッ! アイシャ様ぁああ!!」
黄色い歓声と野太い喝采が、アイシャ目がけて一斉に押し寄せた。逃げようにも津波のような人だかりが全方位から迫り来る。
揉みくちゃにされる自分を想像して立ち竦んだその時、こちらへ駆け寄るシオンの姿が見えた。思わず伸ばした手をしっかりと引き寄せられて安堵したのも束の間。視界がくるりと天を向く。
「少しふわっとするが、暴れるなよ?」
「へ?」
悪戯を思いついた子どものような笑顔で囁かれる。肩と膝裏に添えられた手から横抱きにされたことはわかったのだが、「ふわっとする」とは。




