初めての
訓練が終わった昼下がり、アイシャは汗を軽く流して着替えをした。いつもの騎士服ではなく、襟ぐりが大きく開いた白いブラウスの上にブラウンのコルセットワンピースを着た、よくある町娘スタイルである。というのも、最後の追い込みで訓練場を十周して顔を青白くさせたシオンから「このあと街へ行かないか」と誘われたのだ。
山の中腹に建つ桜の館の麓には、湖に面した街が広がる。名をミスティと言う。湖面が映えるように赤瓦と白の石壁で景観が統一された美しい街だ。
支度を手伝っていたソフィアが、慣れた手つきで雑に髪を一つに結わえるアイシャの後ろ姿へ語りかける。
「アイシャちゃん、本当にその恰好でいいの?」
「騎士服は目立つもの。変に騒ぎを起こしたくないし、お忍びにはちょうどいいでしょ?」
「殿下とのせっかくの初デートなのに?」
「……でぇと?」
「え、デートでしょ?」
言われて初めて気がついた。好意を寄せ合う二人が同じ場所を歩いて同じ景色を見て同じ時間を過ごすのは、一般的にデートと言える。ぴしりと固まったアイシャだったが、すぐに顔を横に振った。
「市井を見たいって言ってたの。だからそんな浮ついたものじゃなくて……」
「えーっ!? そんなのこじつけに決まってるじゃん! こっちに帰って来てからロイ様とかテン様があれこれ理由をつけてアイシャちゃんにずっとべったりで、なかなか二人きりになれる時間がなかったでしょ?」
「それは……」
「だいたいさぁ! あんな劇的な復縁をしたばかりなんだから、今が一番お熱い時期なんじゃないの!? 押しても引いてもくっついていたいって思うのが普通でしょ!?」
鼻息荒く迫るソフィアから、アイシャは恥ずかしそうに顔を逸らす。少しだけ図星だったからだ。
「でも次の聖下が決まらない状態で、そんな風に浮かれてる場合じゃ……」
「ここはレトじゃなくてグリツェラ領国なのよ? アイシャちゃんのことが大好きな民しかいないんだから、ちょっとくらい肩の力を抜いても大丈夫だって! ほら、こっちに来て」
手招きされて鏡台の前に座らされる。連日の軍議で疲労が見える顔に、問答無用で軽く白粉を叩かれた。化粧っ気のない頬と唇に淡い色の紅をさして、自然な血色を足していく。
「アイシャちゃんがずーっと殿下のことを想ってたの知ってるからさ、少しでもたくさん幸せな時間を過ごしてほしいんだ」
「ソフィア……」
「それに、二人が幸せになってくれないと拗らせちゃいそうな奴もいるし」
「拗らせる?」
「ううん、何でもない」
口裏合わせの口実として屋根の修繕を頼んだ弟分を思い浮かべ、ソフィアは密かに苦笑した。テンからはあの件を口外しないよう言われている。「本当のことを告げれば、アイシャは悩み苦しむだろうから」と。どこまでも優しい彼のためにも、アイシャにはレティガント大陸で最も幸せになってもらわないと困るのだ。
簡素なポニーテールを編み込んで華やかに整え、最後に花の香りがするコロンを項に吹きかけて、両肩を軽く叩く。
「はいできた。デート、楽しんできてね。お土産は惚気話でいいから!」
「……もう、ソフィアったら」
華やいだ顔で照れくさそうに笑い、アイシャは自室を出た。向かったのは、シックなダークブラウンの木材が艶めく桜の館のエントランスホール。絵画や彫刻などの調度品が品良く並ぶ厳かな空間に、二人の人影があった。
「シオン殿下、よくぞ生きてお戻りになられました……!」
「お前にとってロイとの鍛錬は刑罰か何かなのか? というかいちいち涙ぐむな、暑苦しい」
「あの運動嫌いなぐうたらおすまし殿下が身体を鍛えると言い出した日には、天地がひっくり返るかと思いましたよ」
「ほぉ……言ってくれるじゃないか、ルフ」
親しげに会話しているのは、シオンとその護衛騎士のルフ。二人ともアイシャのように人目を忍ぶため、襟のないゆったりとしたラフなシャツをベルトで締めた町人の服装をしている。金の刺繍があしらわれた黒い聖服姿のシオンばかり見ていたので、新鮮な驚きにアイシャの胸が人知れず高鳴った。
だが護衛であるルフの腰には、サーベルのように反りのある珍しい得物がしっかりと差されている。鍔は小ぶりで護拳と呼ばれる枠状の柄もない。サーベルではなく、トリス・ガリテでは一般的な「カタナ」と呼ばれる武具らしい。「一度振るっている姿を見てみたい」と、アイシャの中の武人が顔を覗かせる。が、今回は戦ではなくただの外出だ。しかも行き先が目と鼻の先のミスティなのだから、そのような機会はほとんどないだろう。
そんなことを歩きながら考えていると、こちらに気づいたシオンが途端に顔を甘やかに綻ばせた。まるで春が訪れたような微笑みを向けられ、アイシャは思わず足早になって駆け寄る。軍靴とは違う編み上げブーツの軽快なヒールの音が響いた。
「シオン様、お待たせして申し訳ありません」
「気にするな。……ん? 顔色がいいな。ああ、化粧をしたのか」
「こ、これは、その……」
「ふふっ、待ったかいがあった。すごく綺麗だ、アイシャ」
頬と唇を指先が掠め、慣れない化粧をした気恥ずかしさとは違う理由で赤く染まっていく。服装だって普段よりもずっと質素なのに、妙にこそばゆい。その感情が「嬉しい」というものだと気づき、アイシャは心の中でソフィアに礼を伝えた。やっぱり彼女には敵わない。
「そうだ、アイシャにこれを」
シオンはルフからとあるものを受け取ると、編み込まれたポニーテールの根に結ぶ。磨き上げられた鏡面の床に映る自分の姿を確認して、アイシャが問いかけた。
「スカーフ、ですか?」
髪に結ばれたのは、大判のスカーフ。柄はなく、光沢のある深く濃い紺色がリボンのように広がった。
「幻惑効果のあるダチュラス大蜘蛛の糸を混ぜて織った特注品だ。これを身に着けていると、他人の視線を本質から逸らして人物の特定を防ぐことができる」
「シオン殿下はこのスカーフを使って城を抜け出す常習犯だったのです」
「お前だって俺に付き合って良い思いをしたじゃないか」
「ええ。殿下の付き添いで下町の隠れた名店をたくさん見つけられましたから。特に菓子店が素晴らしくて……!」
そんな他愛のない昔話をしながら、二人もアイシャと同じスカーフを腰のベルトに通す。
「同じものを身に着けていればお互いに幻惑作用は効かない。これで思う存分ミスティの街を練り歩けるな」
「あっ……」
流れるような動作で手を引かれ、シオンが歩き出した。手を繋いだまま歩く二人の横を顔見知りの使用人たちが通り過ぎるが、誰一人として声をかける者はいない。普段なら足を止めて一礼されるのに。これがスカーフの効果なのだろう。今はレトの第二皇子とグリツェラ領国の姫君ではなく、ただのシオンとアイシャとして歩いている。不思議な気分だが、嫌ではない。
「気に入ったか?」
「ふふっ、ええ。たまにはこういうのも良いですね」
「よかった。ここには君を愛する者がたくさんいるが、せっかくのデートを邪魔されたら堪ったもんじゃないからな」
「でー、と……」
「もれなく大きな熊もついてくるが」
「殿下の護衛騎士ですので。まぁ私のことは壁や空気と思って、気にせずいちゃいちゃしてください! 慣れてますから!」
ゴワゴワとした短いダークグレーの髪と同色の顎髭を撫でたルフが、背後でガハハと豪快に笑う。繋いだ手から伝わる熱が胸の奥に伝播して、むずむずと甘く疼いた。
デート――最初に婚約していた頃、同年代の令嬢たちが砂糖菓子のような唇で夢見心地に語っていた甘やかなイベント。付き合いで参加したお茶会の席で「アイシャ姫とシオン殿下には無縁かしら」と笑い物にされても、困ったように微笑み返すことしかできなかった。あの頃は形だけの婚約だったから。惨めで、虚しくて。それがまさか――……嬉しいと、素直に思っても良いのだろうか。
そんな追想をしていると、突然ぐいと肩を引き寄せられる。側頭部が隣を歩くシオンの胸元にこつんと当たった。それは心を許し合った者たちの距離に違いない。
意識したとたんに心音をドクトクと跳ねさせたアイシャを、菫色の瞳が上から覗き込む。視線を絡め取られ、無意識に息を飲んだ。
「今だけは何も考えないで、俺だけのアイシャでいてほしい」
胸の奥から込み上げたものが、指先までじくじくと染み渡る。惜しみなく注がれる愛情が苦い記憶を掻き消して、乾いた大地が水をぐんぐん吸うように、アイシャを満たしていく。
「……はい、シオン様」
気がつけば、口元が自然と綻んでいた。それまで思考を支配していたこれからの不安はあっという間に霧散し、何物にも代えがたい淡い幸福が身体中に広がる。
仲睦まじく肩を寄せ合った二人は、長い坂道を下ってミスティの街へ降り立った。




