試練の朝
桜の館の敷地内に設けられた屋外修練場から、木剣を振るう五十人ほどの若い騎士見習いたちの声が響く。生家から宿舎に身を寄せて修練に励むのは、グリツェラ家の家臣の子やその臣民たち。十歳から十八歳の男子が多い。冬になる頃にはアイシャに騎士の誓いを立て、剣を授かることを目標にしている。ちなみに騎士団の本隊はダリオの指揮の下、国境付近の偵察に出ていた。
シオンの様子を見に来たアイシャは、あえて息を潜めて修練場へ近づく。そこで見た光景は……。
「オラ殿下、いつまでちんたら腕立てやってんだよ! あと十回追加!」
「んぐぅぅうッ……!」
鬼教官のようなテンと、今にもぺしゃりと潰れそうな真っ赤な顔で腕立て伏せをするシオンの姿だった。
事の始まりは、テンの何気ない一言である。
――殿下って、ひょろいっすね。
シオンがグリツェラ領国へ来てから半月。少しずつ周囲と関係が打ち解ける中での発言だった。
改めてアイシャを取り囲む人物たちを思い浮かべてみる。ルーカスの時代から鍛え抜かれた騎士たちは皆、壮年でありながら逞しく若々しい。双璧の二人もすらりと伸びた身長に実践的な筋肉を纏い、芸術的な肉体美を誇る。さらにトライノーツへ流刑中に目の当たりにしたのは、上裸の戦闘民族たちが見せつけるパンパンに発達した屈強な胸筋。厳つい入れ墨も強烈だった。一人につきシオン三人分はあろうかという筋肉の壁に囲まれたあの二年間は、思い出すだけで圧死しそうになる。
だが、そう言う自分はどうだろう。膨大な魔力を制御し意のままに扱う技術は群を抜いている自負はあるが、それによって剣や肉弾戦とは無縁の人生だった。日陰者として生きてきたので肌も色白でなよなよしい。母親譲りの女性的な造形美も相まって、男臭さともほど遠い。黒虎と金獅子の間に立てば、それはもう確実に「ひょろい」のだ。
逡巡に要した時間、僅か一秒。
テンがへらりとした笑顔で放った世間話は、アイシャの婚約者であることのプライドを圧し折り、砕き、磨り潰し、粉に変え、燃え盛る炎を灯したのである。
「まさかこんなんでもうへばってんすか? 見習いたちの方がよほど根性ありますよ。なっさけねぇ」
「うるさい……!」
シオンは薄っぺらい背中に砂袋の重しを乗せ、生まれたての小鹿のように四肢を震わせる。だが折れそうなほど奥歯を噛みしめテンを睨む菫色の目には「後で絶対ぶん殴る」という闘志が天高く燃え上がっていた。
火花を散らせる二人の様子を見守っていたもう一人の人物が、やれやれと肩をすくめる。
「そんな貧弱で大丈夫ですか? アイシャならシオン殿下の倍の砂袋を乗せて軽々とこなすのに」
「何だそれ、最高すぎる、それでこそ俺のアイシャ――ぐぇええッッ!?」
「僕たちの、です。復縁したからって調子に乗らないでくださいね。崖に吊るしますよ?」
朝に相応しい爽やかな微笑みを浮かべた鬼教官その二であるロイが、片手で掴んだ砂袋をシオンの背に軽く放り投げた。私怨のような何かが見えた気がするが、触らぬ神に何とやら、だ。
細い腕と貧弱な胸筋では加重に耐えきれず、シオンは蛙が潰れたような情けない声を上げてとうとう地面へ突っ伏してしまう。忠誠心をぐわんぐわんと揺さぶられたアイシャは居ても立ってもいられなくなり、隠れていた物陰から慌てて飛び出した。
「テン、ロイさん! シオン様になんてことを……!」
「よぉアイシャ。基礎体力付けたいから朝練に参加するって言ってたのに、お前の婚約者、全然ダメだわ」
「やり方っていうのがあるでしょ!? シオン様は訓練初心者なのよ!?」
「初心者だからこそ、今のうちに僕らが徹底的に鍛え直しておかないと。このままじゃ戦場で馬に蹴られて死んじゃうかも」
「ロイさんまで……! もう、シオン様が前線に立つわけないじゃないですか! というか、私が絶対に立たせません!」
地に伏した婚約者を容赦なく潰す砂袋を難なくどかしながら、アイシャがくわっと牙を剥く。その姿に気づき、若い騎士見習いたちは木剣の素振りを止めて釘付けになった。
グリツェラ領国の民を導く美しきレジーナで、白桜騎士団の一番槍を駆ける勇猛な銀狼。南部戦線の平定を成し遂げ、愛する人と共に名君であった父の汚名を濯いだ不屈の精神は、研ぎ澄まされた刃物のようにしなやかで錆びることを知らない。壮麗でいて凜然。両極端な性質を併せ持つ類稀な君主への憧憬は、民の間で日々増すばかりだ。
「アイシャ様、今日も麗しい……」
「後光が見える」
「アイシャ様のいらっしゃる場所がレティガント大陸の中心に違いない」
「グリツェラ領国に生まれて良かった」
胸に手を当て天を仰ぎ静かに涙する者まで現れる始末。新しい国主への過剰なまでの羨望は留まることを知らず、今や神聖視に近い何かが独り歩きしているような状況だ。
いつの時代も、民衆は物語を求める。自分たちの現状に重なる境遇と、それを跳ねのける強大な力、そして栄光の結末を。今まさに、その最たる希求が話題の『刃物姫』へ向けられていた。
「シオン様、大丈夫ですか……?」
「問題ない。それよりも君の前でこんな醜態を晒したことの方がよっぽど堪える……」
「ひ、人には得手不得手がありますから。それにシオン様には他を寄せ付けないほどの圧倒的な魔力があるんですから、無理に身体を鍛えなくたって……」
「アイシャ、甘やかすなよ。いざって時にお前のことを担いで逃げられるくらいの体力はつけてもらわねーと困るんだ」
「そうだよ。剣を持たない殿下に僕らの一番大切な宝物を預けるんだから、これくらいは余裕でこなしてもらわないと」
南部戦線の熾烈な戦場でアイシャの背中を守り抜いた双璧の二人が、どす黒い威圧を放ってひ弱な第二皇子を見下ろす。金獅子と黒虎と呼ばれ敵将から恐れられた二人に比べたら、大抵の男はみんなひ弱だ。そこでアイシャは何か思いついたらしい。
「いざとなったら、私がシオン様を担いで逃げたらいいんじゃ――」
「それだけは本当に勘弁してくれ」
シオンはアイシャの細腕に颯爽とお姫様抱っこされる自分を想像して、即座に拒否した。魔力を体内に循環させて男女の力量差をカバーすることに長けたアイシャなら本当にやりかねないし、妙に絵になるのも解せぬ。それに、今のままでは本当にそんな展開になってしまいそうで怖い。げっそりした顔で、だが確かな決意を宿して再び腕立て伏せを始める。その様子を不遜な態度のテンが得意げに見下ろした。
「そうそう、しっかり励めよ殿下」
「テン、その口の利き方をどうにかしなさい!」
「いいんだアイシャ、あとで絶対に処すから」
「はっ。グリツェラ家に保護してもらわないとすぐ潰されそうなよわよわ殿下からの処罰なんて、ぜーんぜん怖くありませーん」
「……わかった、なら私が処す。テン、久々に手合わせするわよ!」
「やだ」
「えっ」
思いがけない拒絶に、腰の剣に手を置いたアイシャが間抜けな声を上げる。
テンは影で狂剣と囁かれるほど、剣技に関しては非常に好戦的だ。当然実力も申し分なく、南部戦線には彼に並ぶ剣客はロイ以外いなかった。ダリオやドルトンなど古参の騎士たちからの信頼も厚い。何より、本人が剣の道を愛している。アイシャから手合わせに誘われたら、どこで何をしていようとそれを放り投げて飛んで来るほど。
なのに、初めて誘いを断られた。アイシャは呆然として、抜きかけた剣の柄から手が離せないまま固まってしまう。
 




