氷華の戦端
あれからミオ・セントソルジュ・レトの葬礼の儀は無事に閉じられた。
聖都レトからアイシャが戻ったグリツェラ領国に、初夏と歓喜を運んだ薫風が駆け抜けて行く。
先代当主の被った汚名が払拭され、その娘にも喜ばしい縁が舞い込んで。暴君となりかけた仇敵の出鼻を見事に圧し折った話も、国中へ瞬く間に広まった。グリツェラ領国ではそこら中から鼻歌が聞こえてきそうなほど、国民たちは皆一様に上機嫌だ。
「ルーカス様、今ごろ御柱になられたミオ様の元へ飛んで行ってるんじゃないかしら。大型犬みたいに、『ワンワンッ!』って」
月命日の早朝、桜の木の下の墓標の前。
乙女のようなあどけない顔で、おっとりとしたニネミアが冗談交じりに微笑む。
それを隣で聞いたアイシャは、誇らしげに片膝を着いて唯一の主にかしずく父の姿を思い浮かべた。大型犬というより、大きな銀色の狼だが。
七聖家は今でこそ七つの国を治める王だが、その始まりは海から浮上したレティガント大陸へ最初に降り立った人々だと言われる。女神メリューから魔力を授かり、大陸全土にへばりついた海の亡霊たちを女神と共に一掃した。その忠誠は永久に受け継がれ、七聖家の人間は女神の血を前にすると、今でも本能的に片膝をつきたくなるのだとか。
尽くすべき相手に恵まれて生涯仕えた父は、それは幸せそうだった。少しだけ羨ましいと思ってしまうのは、アイシャの中に七聖家の血が流れる何よりの証拠なのだろう。
今のレティガント大陸に、アイシャが跪くべき聖下はいない。
用意されたただ一つの椅子を巡り、これから様々な謀略の飛び交う新しい時代が始まる。
シオンと二人で手繰り寄せたのは、より良い未来を選ぶための茨道だ。アイシャも無傷で通れるとは思っていない。現に同じ七聖家でも、正当な血統を理由にリヒトを次期聖下に立てるクーパー家とルプスレクト家との決裂は避けられない状況だ。生家からの制止を振り切って桜の館について来たテンには、祖父であるクーパー家の当主ヴェルナーからしきりに帰還命令が届いている。
悩ましい現状に表情を硬く強張らせる娘の眉間を、ニネミアがちょんと指でつついた。
「また怖い顔してる。おでこのシワはなかなか取れないんだから、気をつけなさい」
「威厳があっていいじゃないですか」
「国主としてはいいけど、レディとしては失格よ。そんな顔をシオン殿下が見たら……」
そこでニネミアは言葉に詰まった。うっとりと頬を染めて「仏頂面も最高だ」と宣う美貌の第二皇子が容易に想像できてしまったのだ。
アイシャも同じだったようで、険しい表情が解けた代わりに苦笑を浮かべる。
「でも、シオン様が一緒に来てくれて良かったです」
思い返すのは、葬礼の儀が閉じた翌朝。
シオンが身を寄せていたグリツェラ家のタウンハウスへ、突如メーヴェの聖兵たちが押し寄せたのだ。
⚜
「シオン殿下、兄君から登城命令が出ました。御同行願います」
朝の支度が始まったばかりの明け方。武装した物々しい連中にエントランスホールへ押し入られ、タウンハンスの使用人たちは不安そうに声を潜めた。
ミオの遺言が発布された今、リヒトはもう聖下代理ではない。継承権で言えばシオンも同等の立場だ。それなのにわざわざ聖兵を使って城へ呼びつけるなんて、当てつけ以外の何物でもない。
着替えもそこそこに叩き起こされたシオンは、ラフなシャツとスラックス姿で無礼な聖兵たちを睥睨した。
「卿らは今、誰の命令で動いている?」
「先ほど申し上げた通り、リヒト様のご命令で――」
「メーヴェの聖兵が仕えるべきはメリューの後継者たる聖下ただ一人。聖下代理の任を解かれた兄上の私兵に落ちぶれたことを恥じる心が少しでも残っているなら、今すぐここから立ち去るべきだと思うが?」
淡々と指摘され、一番上等な金の兜を被った隊長各の男が悔し気に唇を噛んだ。図星だったからだ。
「聡い貴方様なら我らの立場もよくおわかりのはず。どうか、御同行を」
唯一絶対の聖位継承権を失った今、あの狡猾なリヒトが聖兵までも手放すはずがない。何かしらの弱みに付け込まれて不本意に掌握されていることは説明されなくてもわかった。だがそんなことはシオンの知ったことではない。悪行から目を背け、腐敗した皇家に付き従っていただけの者たちの自業自得である。
シオンは不遜な態度を崩さず、細い顎を軽く上げて金兜を睨みつけた。
「断る、と言ったら?」
「無理にでもお連れすることになります」
背後の副官二人が大槍をバツ印に重ね合わせた。鋭い金属音に、菫色の瞳が剣呑に細まる。
使用人たちが声を出せないほどの緊張がエントランスに張り詰めたその時、中央の階段から凛とした声が響いた。
「私の婚約者をどこへ連れて行こうと言うのです」
現れたのは、この館の主――アイシャ・ルドヴィカ・ディ・グリツェラ、その人であった。
薄手のナイトドレスにガウンを羽織っただけの隙だらけの恰好だが、不思議と息をも吐かせぬ威圧が周囲へ満ち、氷冷の瞳で不躾な闖入者たちを順に突き刺していく。研ぎ澄まされた刃物を眼前に向けられているような感覚に、冷や汗を浮かべた聖兵たちがじりりと後退った。
一方でシオンは、切り裂くような威光を放つ愛しい人の姿にうっとりと目尻を蕩けさせた。陶酔しきった表情で、階段を降りる神々しい婚約者の手を恭しく取る。
「アイシャ、起こしてしまってすまない。躾の行き届いた愚かな犬が迷い込んでしまってな」
「そのようですね」
エスコートする指先から感じる鋭い怒気すらも心地良い。刃物姫の静かな激昂で冷え切った周囲に反し、シオンは麗しい白皙の横顔を薔薇色に染めた。




