桜が散った頃
数本の燭台が灯るだけの薄暗い部屋の中。
手持無沙汰な様子で窓際に立つアイシャは、城門をくぐる人々の列をじっと眺めた。
一目で貴族とわかるような立ち振る舞いの者たちは我が物顔で中央を闊歩し、質素な身なりの平民たちは線引きされたように道の両端を歩く。門を守るのは武装した信者で構成される聖兵。まるでこの国の縮図を見ているようだ。
今宵はレティガント大陸で最も尊い血族の一人である、聖下ミオ・セントソルジュ・レトの葬礼の儀。
世界地図の大半を占める大陸を海の底から浮上させた女神メリュー――彼女の御許へ旅立つミオを見送るため、聖都レトに暮らす全ての者、そして大陸中の有力者が城へ弔問しに訪れる。
葬儀を取り仕切るのは女神を主神として祀るメーヴェ教会。城門の聖兵も彼らの一派だ。
すると、わずかに開いた扉の向こうから人影がするりと入り込んだ。聖楽隊の奏でる葬送の賛美歌が一瞬聞こえたが、扉が閉まると洗練された足音に支配される。
「アイシャ、ここにいたのか」
軍職らしくピンと伸びた華奢な背中を、第二皇子のシオンが背後から包み込んだ。
紫黒色の髪の隙間から覗く菫色の双眸と、窓越しに目が合う。
父との別れはとうに惜しんだ後だ。今は涙を拭った後の瞳が蕩けそうなほど幸福に満ちた表情を浮かべるシオンに、アイシャは凛冷な氷華に似た瞳を細める。この葬礼の儀は終わりではなく、二人にとって間違いなく始まりだった。
「ここに来るまでに貴族たちが君の噂をしているのを聞いた。何て言っていたと思う?」
「さぁ?」
「触れたら切れる刃物姫――それが本当なら、俺はもうズタズタになってるな」
きっと生家由来の卓越した剣捌きと、抜き身の刀身のように研ぎ澄まされた美貌のことを言っているのだろう。
シオンは美しく微笑むと、冴え渡る白波の色をした騎士服をさらに強く抱き締める。少しの隙間も惜しい。たとえその刃で血だらけになろうと構わなかった。むしろ本望だ。
「もうすぐ時間だから緊張しているのか? 震えてる」
「違います、ただの武者震いです」
「ふふっ」
「……シオン様」
彼女らしい気丈な返事がおかしくて、つい笑いが込み上げてしまう。恨めし気に名前を呼ばれるのも嫌な気持ちはしない。
「誰よりも勇猛で美しい君を堂々と愛することが、ずっと夢だった。もうすぐそれが叶うと思うと、らしくないほど気分が高揚する」
月光に煌めく白銀の髪を指で掻き分け、飾り気のない耳元に寄せられた薄い唇が甘く囁く。百年凍土も解けてしまいそうなほど甘美な熱に、さすがのアイシャも頬を赤らめた。
「……少し、手加減していただけると助かるのですが」
「無理だな。もう我慢しないと言ったじゃないか」
「あ、あなたには情けってものがな――んぅっ!?」
羞恥で身をよじった下顎が美しい指先に捕らわれ、唇を同じもので塞がれた。
薄くて柔らかいその感覚に、大きく見開いた氷の瞳が溶けていく。何せ目の前の男は仕えるべき主君であり、これから戦場を一心同体で駆ける同志であり、そして……。
「――私も、あなたにちゃんと愛してほしかった」
もう二度と愛さないと誓った、最愛の人なのだから。
ほんのわずかな隙間から漏れた、ぐずぐずに溶けた本音。それを食べ尽くすように再び唇が重なり、アイシャは潤んだ瞳をようやく閉じる。
騎士が主君と認めた相手に跪いて剣を捧げるのと同じだ。刀身を溶かして鋼に還してしまうような熱情を惜しみなく注いでくれる彼をもう一度愛し、愛される覚悟をしたのだ。
二人はこれから二度目の戦へ向かう。
何の準備もできていなかった一度目の戦いは、血に呪われた皇家と女神の狂信者たちの玩具にされて幕を下ろした。悲しいほど弱くてちっぽけな存在だった二人が共に過ごした時間など、どれほどあっただろう。
三度目はない。ここでやり直す、全てを。
そのための宣戦布告が、もうすぐ始まる。