005
◆◆◆
「――おーい。軽井沢ー」
気がつけば、釘波が顔の前で手を振っていた。
「……ん。悪い。ぼーっとしていた」
――あれ、どうしてぼ……私はここにいるんだっけ?
確かカフェに……いや、それは今いるか。
いつものそれを見渡し、疑問を覚える。
「んん? どうしたんだい。軽井沢。誰かに名前でも呼ばれた?」
「僕のことを呼ぶやつなんて、お前以外に……」
いない、そう言いかけた瞬間頭の片隅から、誰かの声がした。
(…………さん!)
虚ろながらも、確かに自分を呼ぶ声がした。
しかし、自分を知っている相手なんて、誰もいない。高校の友達も上京と共に別れた。
僕の存在を知っているのは、今目の前にいる釘波友だけのはず。
それにこの声は……誰だ。知らない。
では、この声の主は一体誰だ。幼さと強気が混じった、この女の子の声は誰だと言うのだ。
「…………軽井沢。具合悪い?」
幻聴に戸惑う私を、心配そうな目で見た。
「――あ、ああ。大丈夫だ。誰かに呼ばれた気がするんだけど……いやなんでもない。聞き間違いだったみたいだ」
「ふうん……聞き間違い、ね」
何か含んだ言い方で友は私を見た。
「ああ。それで、なんだっけ。話聞いていなかった」
私が聞き直した刹那、友は「――五百井」と、呟いた。
「へ?」
五百井? 誰だそれ?
そんな人知らな……――いや、知っている?
おかしい、誰だ。けれど私は知っている。その子を知っている。
だがどこで……?
「――ここは夢の世界なんだ。……と言うより、生死の狭間というべきかな?」
「生死の狭間……?」
わからない。友は何を言っているんだ。
「そう。生死の狭間。君は現世で一時的に仮死状態となっていると言ってもいいかな? ……尤も、君が倒れたのはあのお嬢ちゃんのせいだけどね」
友はどこか遠くを見ていた。
「――早く行ってあげなよ。君はまだ、ここに来るべきじゃない」
「行くってどこに? 私……私? ――僕は、友の願いを叶えるはずじゃ……」
「その願いはもう解き放たれた」
私は不意に、背中を押された。
振り返えると、釘波友は塵のように消えかけていた。
「待ってくれ!」
薄れゆく友を掴もうとする。しかし、それは虚空を掴むだけだった。
「もうしばらくお別れだ。だから……」
「友!」
『――あんまり早くこっちに来ちゃダメだよ?』
だんだんと小さくなっていった友の言葉は、僕の頭をリフレインした。
◆◆◆
「…………起きます」
――と思ったら、目の前には涙目の亜里沙がいた。
それに柔らかい感触が……はっ。これはまさか!
膝枕……だと……?
膝枕、それはその名の通り、誰かの頭を膝で枕がわりに支えるという恋愛的シチュエーション。
大概これは弱っている、意中の男性のために女性が身を挺してするもの……っ!
一般的に見ればそれは嬉しい光景だと思うが、やる側はとんでもなくしんどい。
何せ人っこひとりの頭を支えるのだ。
人間の頭部は体重の十パーセントを占めると言われている。
女性はそれを支え、苦しい足の痺れに耐えながらも、愛する人のために身を粉にするのだ。
――僕は冷静にその光景を俯瞰してみた。
高校二年生に膝枕される三十代おっさん……うん。アウトだ。
「えーっと。亜里沙ちゃん? 一先ず退いてくれない?」
「――ん。わわ! 恭介さん、目が覚めたんですか?」
「……ありがとね。確か、僕倒れちゃったんだよね。――ここは?」
「恭介さんの自宅です。――ここが都合いいですので」
亜里沙の顔はどこかやつれていた。経過観察と言って、その日に倒れたのだ。
霊媒師として責任を感じないわけがない。
「……あの、恭介さん」
恐る恐る亜里沙は口を開いた。
「何?」
「――まずはごめんなさい。私はひとつ勘違いして言いました。こんなミス、普段なら絶対しないはずなのに……申し訳ございません」
案の定、彼女は謝罪を口にした。
「気にすることないよ。僕もごめん。体調悪いのに、無理に外出ちゃって。久しぶりの外出だから、少しテンションが上がっちゃった」
「……いいえ。恭介さんはまったく悪くないです。調子が悪いのも……全て私のせいですから」
「……?」
「――私のせいです。なぜなら――」
「あなたには人並みの霊力しか保有していなかったんですから」
僕は彼女の言葉を信じられなかった。
「あ、亜里沙ちゃん……? なに冗談を――あ。そうか。僕を元気づけようとしてくれたんだね。ありがとう」
「――冗談ではありません。大真面目です。私だってこんなミス、生まれて初めてです。けれどしょうがなかった。勘違いしてもおかしくなかったんです」
独り言のように呟く亜里沙に首を傾げる。
「詳しい話を聞かせてくれるかい?」
「…………」
彼女は力無く頷いた。
「さっきも言った通り、私は勘違いしていたようです。私は初めから、巨大な霊力の正体は恭介さん自身にあると思っていました。だから私は、あなたの霊力を周囲に分散する術式を刻んだんです。普段は抑えるものですがあなたのは少し多すぎるので。ですが、多ければ周囲に流布させればいい。簡単です。――しかし、これが間違いでした。時に恭介さん、具合が悪くなったのはいつですか?」
いつだろう。あまり思い出せない。
ゆっくりと、じわじわ疲労が溜まっていったから、老化が原因だと思っていた。
「当然ですよね。一般の人に分散術式を施したんです。霊力が多い人ならまだしも、普通の人は耐えられるはずもありません」
――つまり、今回は君の見間違いってこと?
「それは少し違います。私の眼は確かに巨大な霊力を捉えました。間違いありません。それに最初確認したのは、私ではなく、霊媒師連盟の大ベテランです。間違えるはずありません」
でも僕は霊力は人並だ。
「はい。そうです。あなたの霊力は人並み――、ただし、あなたの周りにあるものは全て、巨大な霊力が宿った霊物です」
彼女は一呼吸つき――、
「つまり、あなたは霊物を作るのが少し、得意なようです」
言い放った。
「どう言ったらいいのでしょうか。本当はあなたと外出した時に気づくべきだったんです。――けれど、気づけませんでした。当然です。特濃の霊力に包まれた家に住んでいたら、私の感覚だって麻痺します。もはや霊媒師でさえも扱いきれない危険霊物。調べはついています。今まで書かれてきた原稿用紙……これらには、べっとりと霊力が宿っていました。――さて、これからするのは尋問です。答え方次第によっては、あなたを処分することも考えます。答えてください。――あなたは一体、何者ですか?」
僕を見る彼女の眼は鋭く、そして冷たいものだった。まったくの赤の他者を見るような眼、物乞いをする貧しい人間を、見て見ぬ振りする冷酷な眼差しだった。
「僕は…………」
その続きの言葉を言おうとするも、彼女の剣幕に思わず言葉が詰まる。
僕は目也恭介。小説家だ。それは変わりのない事実。
でも――――、
「ただの、小説家だよ」
そう答える他なかった。
「そうですか。では質問を変えます。二択です。ひとつ、あなたは小説家活動を今後一切しないと約束し、私のことを忘れる。そしてひとつ、小説家活動をすると言い切り、霊媒師連盟に強制送還される。……どちらかひとつです」
「僕の原稿は……?」
「もちろん処分します。勿体無いですが、規則ですので」
僕は彼女の眼を見直して気づいた。
亜里沙は、今までのことを水に流していたわけじゃないということを。
たかが一日やそこらの関係にも関わらず、彼女はそんな僕を見逃そうとしている。
ひとつ目の選択肢……それはきっと霊媒師連盟に知れたら、罰則を受ける行為のはずだ。
実際、僕がこうして自宅に戻れているのも彼女の温情なのだろう。
しかし、答えはもとより決まっている。
「――ごめん。君の言い分は聞き入れてあげない」
刹那、僕は亜里沙を押し飛ばし、その隙に原稿を抱えて、家を出た。
僕は小説家、それは〝あいつ〟との約束だ。
原稿の感触を確かめながら、森を駆け降りていく。
「――腹減った〜〜〜」
翌朝。とりあえず、手持ちを確認してみた。財布にスマホ、そして原稿用紙……っと。
よくあの状況下でこれだけ持ち出せたと思う。
財布の中にはクレカもあるし、少なくとも金銭面で困ることはない。
「――でも、問題は僕のこの術式だ」
心臓から中心に体の力が抜けていくこの感じ、
――亜里沙の術式はしっかりと機能している。
「それでこの原稿用紙……と」
普通の原稿用紙ではない。これは想い出が詰まった大事な大事な一作なのだ。
あいつとの約束、あいつとの記憶を結ぶ唯一の綱。手放すわけにはいかない。
しかし同時に爆弾でもあることもわかっていた。
亜里沙の話が本当なら、僕は今、危険霊物を携帯している、ただのテロリストだ。
亜里沙のことだ。きっと応援も呼ぶに違いない。
こうしてじっとしているうちに、追っ手がやってくるかもしれない。
彼らに捕まったら、僕は小説家を辞めさせられるのだろう。
記憶を消去されて、何の疑問もなくあの家で余生を過ごすのだろう。
それは同時に、僕の消失でもあるとわかった。あの場で応えたら、確実に自己同一性が壊滅する直感――、それを無視することはできなかった。
ふと思考をはべらせていたその時、大きな音が鳴った。雷鳴のように音割れし、大型動物の咆哮のような音。
僕の腹の虫だ。
「……まずは腹ごしらえ、かな」
僕は苦笑いした。
○○○
「――やられました」
五百井亜里沙は悔しそうな顔をしました。しかし同時に、安心感も覚えています。
恭介さん……ちょっぴり変で、優しい人。
過ごした時は少なくとも、この恩義は忘れてはいけません。
目也が倒れた時、五百井は焦りました。何をしでかしたのかと慌てたものです。
一生懸命目を凝らして見つけたのは、霊力の消失……スルスルと抜けていく霊力を視て、彼女はすぐにその意味に気づきました。
彼があの霊力の持ち主ではなく、彼の身の回りのものがそうだったのだ、と。
目也は霊力をものに込めるのが得意なようです。
事実、彼の家にある原稿用紙は全て濃く霊力が込められていました。
けれど、霊媒師の家系でも何でもない人間がどうしてここまでの霊力を……?
そんな疑問を胸に、五百井は家探しに見つけた、一冊の本を手に取りました。
『諧謔自虐伝』という、彼のデビュー作を。