一言、ごめんなさいと。
坂田コウジは高校時代少しばかりヤンチャだった。
所謂不良学生で、悪いことは一通りやってきた。しかしそれらは全て若気の至り。高校卒業後は真っ当な人間として生きてきた。
それというのも全ては新しくできた家族のため。家族の存在が彼を変えたのだ。
高校卒業後に出会い、付き合い始めた彼女の妊娠が発覚した。互いの両親の反対を押し切り彼女と籍を入れ同棲を始めたのだが、そこからは苦労の連続だった。
就職が決まっていた町工場での勤務に加え、コンビニのアルバイトで昼夜を問わずに働いた。それでも暮らしは決して楽ではなく、小さなアパートで大きなお腹を抱えた妻と二人、爪に火を灯す暮らしをした。
やがて二人暮らしが三人暮らしになり、生活は益々大変になった。家事と子育てを妻に任せきりにするのを心苦しく思いながら、彼は子供に将来苦労をさせないため更に仕事に精を出した。
しかし彼はその生活を一度も辛いと思ったことはない。
妻は夫の気持ちを理解し、毎日笑顔で仕事に送り出してくれた。そして家に帰れば我が子が笑顔で出迎えてくれた。
そんな生活が何よりも幸福だった。
彼はこれまでの人生で多くの間違いを犯してきた。けれどそれは正すことができるのだと、人は変わることができるのだと家族に教えられた。
そして彼は全てを清算するため、人生の中で犯した最も大きな間違いを正さねばならないと考えていた。
*
「娘ちゃんもう小学生だっけ? 大きくなったよな」
「ああ、最近はようやく生活に余裕も出てきてさ。今度初めて遊園地に連れてってやるんだ」
「あのコウジが今やマイホームパパかよ、ウケる」
この日は、コウジが通っていた高校の同窓会が開かれていた。パーティー用のホールを貸り切り、皆自由に移動しながら思い出話に花を咲かせている。
10年振りに再会した同級生たちはそれぞれに様々な人生を歩んでいたが、その中でもコウジの変わり様は皆の話題を浚うほどだった。
「いいなー、幸せそう。あたしも早く結婚したい」
「俺今フリーだけど、どうよ?」
「ええー、ヤダ。あんたちょっと前髪後退してきてんじゃん」
友人たちはそんな冗談めかした会話を交わし、笑い合う。コウジもそれに参加しているが、時折何かを探すように会場を見回していた。
「どうしたの?」
「いや、あいつ来てないなと思って」
「あいつ?」
その時、会場の入り口付近がしんと静まり返った。
「え、何?」
それまで談笑していた者たちも一様に声を潜め、不穏なざわめきが拡がる。凍り付くような空気は次第に伝染し、コウジの元にも届いた。
「あ……っ」
空気の中心にいる人物の正体に気付き、コウジは人波を掻き分けその人物に駆け寄った。
「小高! よかった、来てくれたんだな!」
「コウジくん……」
ざわ、と一瞬だけざわめきが大きくなった。会場内に、この二人の関係性を知らない者は誰一人としていない。
コウジは安堵したような表情をしているが、小高と呼ばれた男はどこか怯えたような表情をしている。小高の表情こそが二人の関係性を指し示していた。
小高は目を逸らして一歩後ずさったが、振り返られる前にコウジが引き止めた。
「待ってくれ、話を聞いてくれ! オレはずっとお前に謝りたかったんだ!」
小高が振り返るのをやめて再びコウジの姿を目にした時、彼は深々と頭を下げていた。
「本当に……色々とすまなかった。あの頃オレは両親と上手くいってなくて、ムシャクシャしてたんだ。それで、お前に……――あの頃は本当にどうかしてたと思ってる」
突然の謝罪に、周囲は困惑していた。当事者である小高も、戸惑った様子でその言葉を聞いている。
「謝るから、許してほしい。頼む、この通りだ」
「ひとつだけ」
いよいよ膝をつきかねないというところで、小高が口を開いた。恐る恐る、コウジは頭を上げる。
「ひとつだけ、約束してくれる? もう二度と、誰にもあんなことはしないって」
「それはもちろんだ! もうしない。お前にも二度と手は出さないって約束する!」
「判った、もういいよ」
突き放したような端的な返事。周囲に緊張が走る。
「謝ってくれたんだからさ。許すよ」
そう続けた小高が予想外に穏やかな顔をしていたものだから、コウジは力が抜けて危うくつかなくてよくなった膝を床につけるところだった。
「本当か? 本当にいいのか?」
「うん。君の事情は判ったし、ちゃんと謝ってくれたから。これで許さなかったら、僕がおかしな人になるじゃないか」
安堵したのはコウジばかりではなく周囲を取り囲んでいた同級生も同じだった。野次馬は散っていき、再び談笑を始めた。
「こんな大勢の前で謝ってくれるなんてさ、緊張したでしょ。僕、飲み物取ってくるよ」
「あ、それならオレが……」
「いいっていいって。飲み物を持ってくるのは、昔から僕の仕事だっただろ?」
コウジの申し出を断って、小高は会場の隅のテーブルに飲み物を取りに行った。
こんなにもあっさりと謝罪を受け入れられたことも、小高がこのような軽口を叩くことも、コウジにとっては予想外だった。
けれどコウジは、人は変われるのだということを知っていた。自分が過去の過ちを認めて謝罪する強さを得たように、小高もこの10年の間に他人を許すだけの強さを身に着けたのかもしれない。
「おまたせ、これでよかったかな?」
「ありがとう。なぁ、乾杯しようぜ」
「ええ、なんか照れ臭いな」
はにかみながらも、小高は乾杯を受け入れた。
ドリンクを一気に飲み干し、コウジは胸のつかえが取れた気分だった。
この同窓会に来た大きな目的は果たした。これで心置きなく今日の同窓会を楽しむことができる。
和解したとはいえ若干の気まずさのある小高とは早々に別れ、コウジは旧友たちの許へと戻った。友人たちも小高が離れるのを待っていたらしく、コウジは瞬く間に取り囲まれた。
「もー、びっくりしたよ。いきなりあんなことするんだもん。勇気あるねー」
「まぁ円満解決だったみたいじゃん? よかったな」
遠巻きに様子を窺っていた友人たちは口々にそんなことを言った。一躍ヒーロー扱いである。
「あ、オレちょっとトイレ」
先程ドリンクを一気飲みしたせいか、急な尿意に襲われコウジは場を離れた。
「早く戻ってこいよー」
しかし、それから10分経ってもコウジは戻ってこなかった。
「ねぇ、遅くない?」
「俺さっき便所行ったけどいなかったぜ」
「帰ったんじゃね? 明日早いって言ってたし」
皆、久しぶりの再会に話題は尽きず、関心も移りやすい。少し前まで話題の中心だったコウジへの関心は長引くことなく、また、注目を集めていたもう一人の人物が会場から姿を消していたことに気が付く者はいなかった。
*
小高タダシは高校時代イジメを受けていた。
楽しい高校生活を夢見て入学したはずが、何が良くなかったのか不良に目を付けられてしまった。
一体何が良くなかったのか、あえて挙げるとするならば彼が自分の鞄に好きなアニメキャラクターの缶バッジを付けていたことだろうか。それを目ざとく見付けた生徒の一人が『小高』をもじった『オタクくん』というあだ名を付けてからかい始めた。
ある日の休み時間、小高はその生徒から自販機でジュースを買ってくるように頼まれた。自身も丁度の喉が渇いていたので快く了承した。ジュースを買って戻って来ると、その生徒は軽く礼を言ってジュースを受け取った。彼はジュースの代金を受け取っていなかったが何となく言い出せず、まあいいかとその場は諦めてしまった。それも良くなかったのだろう。
そういった出来事は積み重なり、エスカレートしていった。ジュースを買いに走らされ、少しでも遅くなれば罰ゲームだと言って遅れた秒数分タバコの火を腕に押し付けられ、ジュース代の何倍もの金銭を要求される。
初めはただの違和感だったものが、これはイジメだという確信に変わった。
小高は二年間それを耐えた。
そして高校三年生の春、彼は学校に行くのをやめた。
*
コウジは目を覚ますと、見知らぬ部屋の中にいた。
同窓会に出席していたはずだが、トイレに行くため席を外してからの記憶が途切れている。おまけに頭が鈍く痛む。
「あ、起きた?」
声のした方に目をやると、小高がスマートフォン片手にベッドに腰かけていた。
コウジは徐々に自分の置かれた状況に気が付く。飾り気はないが清潔感のあるこの部屋はおそらくどこかのホテルの一室。小高が座っているのはその部屋のシングルベッド。そして自分はといえば下着以外の衣服を脱がされ肘置き付きの椅子に手足をロープで縛り付けられていた。
「なんだよこれ?! 小高!」
「コウジくんって子供いるんだね。小学生くらい? 口元とか君にそっくりだね」
怒鳴るコウジを意に介さず小高は手元のスマートフォンを触っている。そのスマートフォンにコウジは見覚えがあった。当然である、なぜならそれは自分自身の物だったからだ。
スマートフォンの中には家族の写真も連絡先も入っている。それに気が付いた瞬間、嫌な言葉が頭に浮かんだ。
――――復讐。
「か、家族に何をする気だよ……家族は関係ないだろ……」
怒鳴りつけた威勢はどこへ行ったのやら、コウジの声は掠れて震えていた。一方小高は、とても意外な意見だと言わんばかりに丸くした目を瞬かせた。
「ああ、うん。家族は関係ないよ。返すね」
そう言って小高はベッドの上に置いてあったコウジのズボンのポケットにスマートフォンを捻じ込んだ。だがそれだけではまだ安心するまでには至らなかった。自身の置かれた状況があまりに異常過ぎる。
「どういうつもりなんだよ?」
何度目かの疑問を投げかける。
「ええと、土日と長期休暇を除いて、大体200日くらいかな?」
質問への答えとも思えないことを言いながら、小高は自分の鞄に手を伸ばした。
「カケル2で400回」
「何の話だよ?」
コウジには小高の言わんとするところが全く判らない。
小高はごそごそと鞄の表面を探り、取り外したそれを掲げて見せた。アニメのキャラクターが描かれた缶バッジ、それに付いた安全ピンの針。
「これを、とりあえず君にイジメられた日数分、君に刺そうと思います」
ゆっくりと、はっきりとした口調で小さな子供に言い聞かせるようにそう言った。言い方はともかく、内容は空恐ろしいものだった。
「なんだそれ……復讐のつもりかよ……オレのこと許すって言ったのは嘘だったのかよ……?」
「ううん、嘘じゃないよ。ちゃんと許すって言ったじゃないか。だから、これはそれとは関係ないことだよ」
「だったらなんで……」
「コウジくん話してくれたよね。親と上手くいってなかったって」
確かにそう言った。しかし家族の話が今の状況に関係しているとはとても思えない。
そんなコウジの心情を察したのか、小高は頷いた。
「そう、家族は関係ないんだ。君の家族と僕は、何の関係もない。それなのに君は関係ない僕をイジメてた。それって君がそうしたいからそうしたってだけだよね? だから、僕も家族とか復讐とか関係なく、君にしたいことをすることにしたんだ」
とんでもない理由だった。復讐だと言われた方がまだ納得もできただろう。
「ふっざけんな! こんなことしてどうなるか判ってんのか!」
精一杯虚勢を張って怒鳴りつける。しかし昔のように小高が怯むことはない。
「殴る? 殴らないよね? 約束してくれたもんね、もう二度とあんなことはしないって」
約束などなくても、手足を縛られた状況では今すぐ殴り掛かることなどできはしない。
「判ってんのかよ……これは犯罪だぞ」
「判ってるよ。僕は君と違ってちゃんと学校に通えなかったけれど、多分君よりは頭がいいから。これが終わったら通報しても構わないし、ここ結構壁が薄そうだから外に声が洩れたら誰かが通報するかもしれない」
あっさりと、小高は自分が犯した罪とこれから犯そうとしている罪を認めた。
「でもさ、君は判ってなかったんだよね。暴行も恐喝も未成年の喫煙も、全部犯罪行為なんだよ?」
それはイジメという言葉で一纏めにされた、コウジの犯してきた罪の名前だった。
刑法で裁かれるべき罪。しかし法律と被害者の感情は別物だ。
コウジは許されることを願って謝罪をした。小高はそれを受け入れ、彼の罪を許した。
「心配しないで、死ぬような所には刺さないから。それに後でちゃんと謝るよ。だからさ――――」
小高はコウジの罪を許した。たった一度の謝罪で、コウジの罪は許された。
「謝るんだから許されないとおかしいよね?」
一言、ごめんなさいと。