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最終話

 欠陥品には、分からない。


 どうして全ての人間が同じペースでいけると思っているのか。息切れしている人間に見向きもしないのか。手を引っ張ったり背中を押したりせず、ただ嗤って遅いペースの人間を見下しているのか。


 助けて欲しかった。

 待ってくれるだけで良かった。

 だけど、現実は優しくなかった。

 だから、幻想を求めてしまった。


 ヒュゥウと、冷たい風が僕の髪を揺らした。目の前には見慣れた建物がそびえ立つ。記憶と寸分違わないはずのその建物は、どこか不気味さを放っていた。

 威圧感、ではないが、僕は間違いなく恐怖を感じていたんだと思う。だけど、乗り越えなくてはならない場所だ。


 僕は深呼吸を一つして、その建物ーー僕が今通う高校の敷地に足を踏み込んだ。


『ここが高校かぁ。中学校よりも広いんだねー』

「……そうだね」

『人が居ないと、気味が悪いね〜』

「……だね」


 後ろからはミライちゃんが付いてきている。僕は校舎の中を歩き、今の自分のクラスに足を運んだ。誰もいない廊下に足音が響いた。僕の呼吸も、それと同時に荒くなっている気がした。

 中学校を訪れた時とは違う、僕だけに課せられた枷が首を絞めているみたいで。まるで高校に、この空間に拒絶されているようだ。


 ……大丈夫、毎日通っている高校じゃないか。


 そうやって自分を鼓舞するが、肺はどんどん苦しくなる。まるで進めば進むほど鋼鉄の鎖に締め付けられるようだ。嫌な予感がする。これ以上進むと僕が壊れる、そんな予感が。


 それから数分も経たないで、僕は教室の目の前に立った。ゴクリと生唾を飲む。トラウマ、なんて呼べないけれど、幼い頃から僕の中には間違いなく教室への苦手意識はあった。半日中、その部屋に監禁されているようなものだ。加えて嘲笑と劣等感。拷問と言わずして何というのか。

 手を伸ばして扉を開けるイメージはできる。だけど、脳が実行を許可しない。


「……僕って奴は、本当にどうしようもないらしい」


 分かっている。この扉を開けなければ、僕は次のステージに進めないのだと。世界から抜け出す鍵を取得できないのだと。今の僕には、鍵を手にする権利すらない。


 だけど、扉を開けようとする僕を拒む僕がいた。この扉の先には、地獄が待っているという予感している僕が、先に進みたいと思う僕の邪魔をする。

 否、そんな風に格好良く自分の状況を説明しているが、それは幻想だ。単に僕は、僕の意志で、僕を守りたいから、僕が嫌がる、僕の手によって扉を開けるという行為をしないのだ。そんな僕に好意を持つほど僕は優れた人間じゃない。


「幻想だな」


 滑稽だ。どうしようもなく、滑稽だ。烏骨鶏を頭に乗せている方がよっぽどマシだ。

 ……この表現も、洒落にしてはつまらないな。何より、意味がない。


『……一旦、逃げよっか』

「え?」


 しばらく口を閉ざしていたミライちゃんが、僕にそう言った。突然であったし、何より言葉の意味を理解するのには刹那的過ぎたので僕はただ口から間抜けな一言を出すしかなかった。振り向きざまに目で捉えたのは、白色の残像。その後、グイッと体が引っ張られる感覚。


 直後、僕は僕よりもずっと小柄なミライちゃんに抱えられて廊下を突っ切っていった。客観的に僕を見ている人がいたならば、誰もがこの状況を『漫画みたいな人攫い。ただし男女の配役が逆』と評すだろう。


「わ、わわっ、み、ミライちゃん!?」

『はいはーい。今は三十六計逃げるが勝ちだよ〜』


 それを言うなら三十六計逃げるに如かず、だ。

 あるいは逃げるが勝ち、か。どちらにせよ、混ざっていた。僕はそんな突っ込みを入れたかったのだが、いかんせん余裕がなかった。


 どれくらい余裕がなかったかといえば、ミライちゃんに抱えられた僕の鼻に女の子の匂いが届いてミライちゃんも女の子だなぁと認識しつつこの幻想世界でAI相手に何を感じているのだろうかと虚しさを覚えて自己嫌悪に陥るくらいには余裕がなかった。


 訂正。


 余裕が有り余っていた。


 そんな僕はミライちゃんに攫われて瞬く間に校舎の廊下を駆け抜けて壁をぶち破り異次元のルートを超えて高校の校門から外へ出た。

 ……突っ込みどころが多過ぎて、僕はどれから突っ込もうか躊躇ってしまった。


「……女の子って、力持ちなんだね」

『取り敢えずそこは突っ込むポイントじゃないかなー』


 不正解だった。ブブー! と大袈裟にミライちゃんは両腕でバッテンを作る。僕は苦笑しながらも、実際心の中ではミライちゃんに感謝していた。

 あの力技によって強引に掬い出された僕は、ミライちゃんに救い出されたのだと理解できないほど馬鹿ではない。


「……ありがとう」

『別にぃ〜。帰れなくなるのはミライじゃないので〜』


 その一言で僕は黙り込む。意図せずしてか、黙らされる。そうだ。その通りだ。先延ばしにしたところで、結局向き合わなければ帰れないのは僕なのだ。回り道して解決できるならいいのだけれど、いい手は思いつかない。それこそ、過去と対峙する以外には。


 過去と向き合わなければ、どのみち道は開かれないのだろう。なんてことない。過去ならば、一度は経験したものだ。パワーアップした現在の僕なら余裕綽々でクリアできる。反省すればいいのだから。


「なんて、幻想だろうけどなぁ」


 ミライちゃんは、『一旦、逃げよっか』と言った。つまり逃げてもいいのだ。ただし、一旦。一時的に。僕は、僕が一度引いてしまった僕の過去と向き合わなければいけないのだ。

 はぁ、どこかで精神レベルを上げをさせてくれる場所はないだろうか。

 ……ないんだろうな、そんな幻想。


「少し、歩いてもいいかな?」

『決めるのは君だよ〜』

「……じゃあ、少し歩こう」

『うん。歩こうかー』


 僕は深く息を吐いて、校門に背を向けた。一時撤退。戦略的撤退。これは決して、敗走ではない。取り敢えず、僕は高校の周辺をぶらつくことにした。

 歩きながら、僕は自分に問い掛ける。


 ーーどうして過去から目を背ける?


 見たくないんだ。何も思い出したくない。


 ーー何を見たくない? 僕は、どうして思い出したくないんだ?


 過去と向き合えば僕の醜さを見てしまう。僕は、痛みと恐怖を思い出してしまう。


 ーー僕の、傷のことを言ってるのかい?


 自暴自棄の狂戦士さ。つまり、僕のことだよ。


 ーーそれが、僕が僕のことを嫌いな理由かい?


 これが、僕が僕のことを嫌いな理由の一つだよ。


 ーー自分が特別だとは思わないのか?


 幻想だね。呆れるよ。


 ーー全く才能はないって、認めるなんて。


 それが現実だよ。真実だ。


 ーーまぁ、言いたいことは分かるけど。


 嘘だな。僕は僕ですら理解できない。


 ーー孤独は楽しいかな?


 嫌いじゃないね。


 ーーでも好きではない。僕は肯定も否定もしない。


 ふん。分かってるくせに。


 ーー分からないさ。僕だからな。


 そうらしいね。僕だから。


 ーー結局のところ、僕は。


 結局のところ、僕は。


「僕の全てが、嫌いなんだ……」


 勉強ができない僕。


 主張ができない僕。


 意思疎通ができない僕。


 感情表現ができない僕。


 環境に適応できない僕。


 痛みが感知できない僕。


 他人に共感できない僕。


 全てに理解できない僕。


 僕が理解できない僕。


 僕は、僕ですら好きになれない。

 僕には、嫌うことしかできない。


 そんな僕のことが、僕は一番嫌いなのだ。


 気が付けば、僕は再び校門の前に立っていた。無意識のうちに高校の周りを一周していたらしい。

 これもまた、運命かもしれない。神様がここで決着をつけろと僕に言っているのかもしれない。だとしたら、僕は鼻で笑うだろう。いや、鼻で笑う。

 神とかいう幻想は、僕は大嫌いだ。本当に絶望した人間は、神の助けを求めることすらできないのだから。


「つまり幻想だよな。神も、世界も」


 僕は再び高校の校舎へと足を向けた。ミライちゃんもまた、それに続いた。これから再び、僕は教室の前に立つ。別にミライちゃんに連れ去られてから心境の変化が起きたとか、そんなことは全くない。


 ただ、僕は落ち着いた。冷静になった。少なくとも、今から向き合う過去の出来事を痛ましい黒歴史だと評するくらいには。僕は喉元をさすりながら廊下をゆっくり歩いていく。


「そこまで、苦しくないな」

『……大丈夫?』

「うん。逃げた甲斐はあったようだね」

『無理しなくても、いいんだよ』

「無理? してないよ、それなら。僕は僕の過去を振り返るだけ。人生のハイライトさ。いや、ローライトかな? 最も濁って暗い部分。なんてことない、僕の過去さ」


 先程と同じ道順で進み、僕はもう一度教室のドアと相対する。ここまで来ると相変わらずの息苦しさはあったけど、自分でも呆気ないくらいにドアに手を掛けることができた。

 僕は深呼吸を一つして、教室のドアを勢いよく横に引いた。そして、目を細めて小さく呟く。


「変わらないな」


 そこには、荒らされた教室に多量の血液が床に壁にとぶちまけられた光景が広がっていた。


 机の大半は転がったり脚が曲がっていたりして後ろの方に重なり合っている。無事な窓ガラスは一つもない。

 カーテンはズタズタに切り裂かれているし、黒板には何かを打ち付けたような凹みとひびが無数にあった。


 僕は特に意味もなく頭を掻きながら教室へと足を踏み入れる。床に溜まった血溜まりは経年劣化、もとい乾燥というやつを知らないそうで踏むたびにピチャリと生々しく水音を出した。


 気分が悪くなることはなかった。むしろ、頭が冴えてきた。冷めてきた。過去の僕と今の僕で大きな断裂が生じたように。

 僕は、この教室を冷静に見渡すことができた。一通り眺めた後で、僕は振り返りミライちゃんに苦笑いを見せる。


「これが僕の過去だよ。この惨状こそが、僕の過去だ」

『…………』


 ミライちゃんは何も言わずに僕の方をジッと見ていた。だから僕はソッと目を逸らした。穢れた僕を覗き込まれているようで、軽蔑されている気がしたから。


 どうしてこんなにも荒々しい教室があるのかを簡単に説明しようとすれば、とても簡単に説明できる。たった一言で僕は説明できる。

 僕は、まるで自分の成したことを好きな女の子に自慢するように、自己陶酔しながらミライちゃんに言った。


「僕がやった」


 それだけだ。それだけのことだ。なんてことない結末。有り触れた物語。僕が僕の意志で為したのは、教室の破壊と自殺の試みだったという話なのだ。


 破壊衝動に身を任せ、持ちうる暴力を全てに振るい、自身が傷付こうと気にも止めず、暴れに暴れた、“狂戦士バーサーカー”。自暴自棄の、狂戦士。


 幻想を求めた少年に残ったのは、消えない傷と自己嫌悪だった。僕は、僕が振るった僕自身への暴力をトラウマにしていたのだ。


 だから、僕は僕が嫌いだ。こんなにも醜く凶暴な僕のことが。こんなにも脆く繊細な僕のことが。自分の醜さと向き合いたくない。だから、僕は思い出したくもないこの記憶をトラウマとして封印した。


 そのような事件ともいえないような事柄がたった今、ミライちゃんに露見した。それだけである。


「二リットル。これ何の数字だと思う?」

『……この時に失った血液の量』

「その通り。そして僕の血液量の半分に当たる数字。僕は間違いなく、この教室でむざむざ無残に死ぬはずだった。だけど、生き残った。生きてしまった。僕は、死ねなかった。簡単に死ねるなんて、幻想だった」


 生きるのは苦しかった。辛かった。だから死のうとした。生きるのは苦しい。だから反対に、死は楽だと思った。

 それは幻想だった。死を求めるのも、苦しかった。辛かった。僕はひたすら苦しみに耐えて、死の瞬間を待ち望んだ。


 結果。


 僕は、苦しんだだけだった。


 僕は嗤う。僕に対して嘲笑う。愚かしい。愚かしいにもほどがあるだろうと。愚直とはよく言うが、結局のところ愚直に幻想を追い求めた僕は愚の骨頂だったというわけだ。


 とはいえ、僕が退院してから周囲の目は変わった。不良グループは僕に絡んでくることはなかったし、教師も僕に厳しく言うことはなかった。クラスメイトだって僕が通れば道を開けるし、誰からも話し掛けられることはない。

 両親はしばらく泣いていたが、僕と同じく壊れたのだろう。この出来事を忘れてしまっていた。僕も蒸し返すつもりはないから、家庭内での僕は相変わらずの僕だった。


 あれだけをしでかした僕が学校でお咎めなしだったのも、高校が世間体を気にしたからだろう。あるいは僕を虐めていた不良グループの誰かが権力者の子供だったか。

 たとえそれらが真実であろうとなかろうと、僕は結局「幻想だな」と切り捨てる。僕はそういう人間だから。


「だから僕は諦めた。生きることも、死ぬことも。過去を克服することも、未来を望むことも。僕は今、生きている。明日には死ぬかもしれない。今日かもしれない。

 ーーそれでも、僕はいい。僕は幸せを望まない。僕は僕を傷付けた罪を、僕の死をもって償えるなら、僕の命は今日限りでいい」


 そうだ。それが僕ができる唯一の贖罪。

 こんな僕に、幸せになる権利はない。

 生きることも死ぬことも罪になるなら、僕はひたすら死んだ感情を殺して踏み潰し、全てを幻想として切り捨てるだけだ。

 たった、それだけのことだ。


『なら、どうして……どうして、泣いているの?』

「えっ?」


 ミライちゃんのその言葉に僕は耳を疑った。そんなことない、とミライちゃんに反論しようとして、気付く。視界が朧げで目頭は熱く、どうしようもなく抑えきれないナニカが目から溢れ出しているのを。


「違う」


 僕は思わずそう口に出した。だけど涙は止まらない。抑えようとすればするほど、大粒の涙が溢れてくる。

 違うんだ。この涙も、嗚咽も、悲しみも、苦しみも、そんなものは僕は持っていない。捨てたんだ。この教室で、この時に、僕はそれを捨てたんだ。


 だから僕は辛くなかった。平気とは言い難いけど、精神強度は脆くなかった。僕は既に壊れている。これ以上は壊れても関係ないのだ。


「ぼ、僕は許されるべきじゃないんだ。僕はもう、何もできない。僕を救うことも、僕を許すこともできない」

『違うよ。それは違う』


 ミライちゃんは首を横に振りながら、強く否定した。


『君は許されてもいいし、許してもいい。君が君を許さないのは、君が君の命を軽々しく扱ってないからだよ』


 一歩、ミライちゃんは僕の方へ歩み寄った。


『君は……うん。誇っていい。今、君は君のことが嫌いかもしれないけど、君はきっといつか君自身のことが好きになれる』


 二歩、三歩。


『そして君のことを好きになってくれる人も、必ず現れる。君はね、君を肯定していいんだよ』


 四歩、五歩。そして立ち止まる。ミライちゃんはゆっくりと僕を見上げると、両手で優しく僕の手を握り締める。そして、じっと僕の目を見つめ、微笑んだ。


『だからさ。許してあげなよ、自分のこと』


 ポチャンッと、涙が血溜まりに落ちて波紋を生んだ。

 僕の心と同じように。


「ーーごめんなさい」


 無意識の内に、僕は謝っていた。言葉が溢れていた。誰かに謝っていた。誰に謝ったのか、僕自身にも分からない。

 僕なのか、ミライちゃんなのか。

 はたまたここに居ない誰かなのか。もしかしたら僕は、世界に対して謝っていたのかもしれない。

 そんな幻想で言い訳する僕に、謝ったのかもしれないけれど。


「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなざい、ごめんなざい……」


 子供のように、泣きながら何度も繰り返し謝っていた。血塗れの床に膝をついて、僕は啼泣しながら謝っていた。

 そんな僕をミライちゃんは優しく抱擁して、ゆっくりと頭を撫でてくれる。そのワンカットはまるで子供の罪を許す母親のようで。僕はひたすらにミライちゃんに縋り付いて泣きじゃくっていた。


 透明で輝く、綺麗な涙だった。


 ▽


 色々とあったが、こうして僕は無事に過去を振り返った。僕の、僕という欠陥品であるけれど、やはり一人の人間を殺そうとした罪は、僕自身許したかどうかは分からない。

 結局のところ、許されると思うことも幻想に過ぎないのかもしれないけれど。


『少しは、落ち着いたかな?』

「……ごめん」


 そして、僕は今。

 ミライちゃんに膝枕をしてもらっていた。


『まったくだよ、本当に〜。ご褒美ってこと、忘れないでよー。特別だよ、君が最期に頑張ったから』

「ミライさん。最後の漢字が間違ってます。そっちだと怖いです。僕、死んでます」


 ミライちゃんの中で僕は名誉ある死でも遂げたのだろうか。

 いや、その前に勝手に殺すな。


『ふふん、突っ込みの気力が戻ったねー。そろそろ帰れそう〜?』

「……うん。ありがとう」


 本当は名残惜しかったけれど、これ以上はまま言えなかった。散々醜態を晒した挙句、(見た目から判断して)年下の女の子に泣きつきながらヨシヨシしてもらう高校生。


 たまったもんじゃない。思い出すだけで顔が赤くなる。


「さてと……しかし、まあ、帰ろうか」

『そうだねー。君はもう、クリアしちゃったからさー』


 良かったね。

 ミライちゃんはそう付け加えて教室を出た。今更ながら、こんな教室の中で泣き喚いて膝枕してもらってたんだなぁと思うと自分の神経の図太さというか鈍感さに少し呆れてしまった。

 けれど、まあ、まだ僕は自分に飽きていないから、それもいいだろう。


 僕達は颯爽というにはそこまで爽やかではなかったけれど、高校を後にした。僕は、過去を後にした。


 次に向かう先は僕もミライちゃんも言わなかった。けれど、二人の爪先が向く方向は一緒だった。僕もミライちゃんも一言も交わすことなく、目的の場所に辿り着いた。


 こんな結末でいいのかと、若干、少々、僅かながら自分の物語に不満を持ちながら僕はその建物ーー自宅を見上げる。玄関のドアに鍵はかかっていなかった。


 僕とミライちゃんは家に入ると、階段を登ってある部屋の前に立つ。その部屋は僕の部屋だ。僕が眠っているはずの部屋。僕の人生の、最新であり最後尾の場所。


『ここが最終ゴールだよー。といっても、君はもう気付いているんじゃないかなー』

「……そうかな。こんなにもあっさり終わってしまうのは、僕の人生がそれほど波瀾万丈じゃない証明にもなりそうな気がして少しつまらないところなんだけど」


 つまらない、とはまあ、少し言い過ぎたかなとは思う。

 詰まるところ、僕は帰る権利を手にしたらしかった。僕は、このゲームのようでゲームでない、とはいえ現実でも、まして幻想でもないこの世界から脱出することができるようになったらしい。


『君が呼ばれた理由は分かった?』

「いや、さっぱり分からないよ」


 僕は、それほど特徴的な奴でもない。ゲームが得意と言えるかどうかは分からないが、その程度だ。所詮その程度の僕が、どうしてこんなものに巻き込まれたのか。僕にはそれが理解できなかった。


「えっと……ただ分かったのは、この世界の真の目的。それはたぶん、“プレイヤーに過去と向き合わせる”こと。現実にあってこの世界にはないものなんて、実際はどうでも良かったんだ」


 そう。それはただの方便。プレイヤーをそこから動かすための、動機付け。つまりこの世界は、プレイヤーに過去を克服してもらうために作られたものだと、僕は予想した。

 どうしてかは分からない。そんなことをする必要が『オブソリート・クロックワークス』にあったとは思えない。ミライちゃんは少し顔を俯かせると、ポツリと小さな声量で言った。


『“Neverネバー EndingエンディングClockクロック Worksワークス”』

「……何それ」

『メンタルヘルスケアとして開発していたシステムから偶然生まれた脳活性化システム。簡単に言えば、脳の限界を拡張するシステムだよー』

「脳の限界を拡張する……」

『そう。ミライは……というか、ミライを作った人達は今、このシステムをどうにか導入しようと考えてるの。医療用とか、擬似戦闘とか、そういうのに』


 ……よく分からないが、どうやら何か新しい発明をしようとしているということか。今回は、その実験なのだろう。

 つまり僕はそれに放り込まれたわけだ。


『まぁ、君の場合、このシステムなしでも限界を超えかけた時期もあったけどねー。だから、君にも声を掛けられた。この体験に、巻き込ませてもらった。詳しくは話せないけど〜』


 ミライちゃんは少し申し訳なさそうだった。あくまで僕の目からそう見えただけで、実際は分からない。分かっているのは、結果として僕は過去と向き合うことができたということ。それだけで、今の僕には十分だ。


「結局、過去さえ振り返れば帰られるってこと?」

『そうだよー。それが正解。でも、現実世界にあってこの世界にないものはある。沢山ある。その内の一つを、君は既に理解しているでしょ〜?』


 ミライちゃんは可愛らしく首を傾げながら僕に問い掛けた。僕が解答を持っていると確信しているらしい。

 答えを任された僕は小さく頷くと、その解答例を告げる。陳腐で使い古された解答を、僕はうそぶく。


「この世界にないもの。それはーー僕の未来だ」


 僕の未来。うん。実にありふれた解答だ。きっと、この世界にないものは沢山ある。僕でも瞬時に三つは思い付く。だから、普通の人ならもっと思い付くんだろうな。


 それから、パチパチと乾いた拍手が鳴った。当然音源はミライちゃん。彼女は僕の解答に満足したらしい。その顔は、本当に嬉しそうな表情だった。僕にはその満面の笑みの理由は知らないけれど、悪い気はしなかった。


『うん。うんうん。君なら、クリアしてくれると思ったよー。君はこんなつまらない結末だと言ったけど、それはそれでありなんじゃないかな〜?』


 そうだろうか。それは僕には分からない。だけど違うと思う。この世界に未来ミライはないなんて、僕は認めない。

 僕はミライちゃんに背を向けると自室のドアの正面に立ち、ドアの取っ手に手を掛けた。


「僕は、それを正解だとは思わない。ミライちゃんと過ごした時間にだって、きっと未来はあるだろうから。この世界にも生きていく価値はある。ーーだけど、僕は行くよ。いや、だからかな。だから僕は探しに行く。幻想世界にしかないものを探しに行ってくる。もし僕がそれを見つけたら……また、君に会いに行くよ」

『うん。待ってる。君の幸せを願いながら、待ってるよ』


 僕は笑った。ミライちゃんもまた、笑っていたのだろう。彼女の笑い声を背中で聴きながら、僕は自室のドアを開けた。

 ドアを開けるとそこから光が溢れ出し、僕は白い世界に抱擁された。そうして、僕の意識は溶暗フェードアウトしたのだった。


 ▽


 こうして、僕の不思議な体験は終わった。物語は終わった。


 ドアを開けた僕は、単純に目を覚ましただけだった。E・VRゴーグルを外した僕が時間を確認すると、そこには午前六時を指す時計の針が目に入った。


 不思議な世界に入っていたのか、それともそれもただの幻想だったのか。残念ながら僕にはそれを確認する方法がなかった。


 ただ、『オブソリート・クロックワークス』でログアウト不可の時間帯があったのは事実らしい。その時にログインしていたプレイヤーの大半は『眠って』いたらしいが、その間の記憶はないらしい。結局これは僕の夢だったのかもしれないと、そこで解明を打ち切りにした。

 運営会社は早急に調査を開始し、一時的なサーバーの不具合が原因だと発表して謝罪した。

 そしてプレイヤー全員に『ゲーム内通貨五万円分』を配布した。加えて、ショップで限定格安商品も。その日、『古時計』ショップはオイル・ショック並みにプレイヤーが殺到したらしい。


 そうして、この騒動というか、事件ともいえない事柄は幕を閉じた。僕の日常も、相変わらずのまま回っている。


 その騒動から三日後、僕の元に小さな小箱が届けられた。それはティッシュ箱程度の大きさ。もしかしたらただ綺麗な紙に包装されたティッシュ箱かもしれない。そんなことを考えながら僕はその包装を解くと、中身は普通の白い箱だった。僕は訝しみながら箱を開けた。


「ん? 眼鏡と、リストバンド?」


 中に入っていたのは、メタリックブルーの眼鏡と、幅二センチ程度のペラペラなリストバンドだった。

 送り主は見覚えがあるけれど思い出せない会社で、僕は不審に思いながらも好奇心に負けてそれらを装着したのだった。


 最初に手を掛けたのは眼鏡。僕が眼鏡を掛けた瞬間、ピピッと何やら電子音が響き、次にはパシャッ! とフラッシュが焚かれた。当然、眼鏡のレンズからである。僕の目はあっさりとやられてしまった。


「んぎゃぁああああっ!?」


 目を抑えてのたうち回る僕。幸運にも視力は直ぐに治ったのだが、数分間は真っ暗闇でゾンビのごとく部屋の中を彷徨っていた。

 中々にシュールな光景だったと思う。


 騙されたのか、と僕はムスッとした表情でリストバンドを着ける。リストバンドはカチッ! と音が鳴った後、僕の腕を締め付けるでもなくフィットした。

 それはもう、元々僕の皮膚だったみたいに。


「こっちは大丈夫そうだ」


 満足そうに頷いた僕はリストバンドを外そうと手を掛けた。けれど、リストバンドはまるで元々僕の皮膚だったみたいに密着して爪が全く引っかからない。


 僕は十秒苦戦して、諦めた。結局、僕は眼鏡に目を潰されかけ、謎のリストバンドと一生過ごさなければなくなったのだ。


「最悪だ……」

『何が最悪なのー?』

「だって、こんな不気味な物を着けて人生を過ごすんだ。爆弾だったらどうするんだよ」

『それは知覚拡張装置だよー。ミライちゃんがさわれるようになるの』

「へぇ、そうなのか。じゃあこの眼鏡は?」

『そっちは視覚拡張装置。ミライちゃんが見えるようになるよー』

「へぇ、そうなのか。ところで、さっきから聞こえてるこの声は幻聴?」

『さぁ? 君の言うところの“幻想”なんじゃないかなー』


 僕は横を向いた。


 ミライちゃんがいた。


 僕はそっと視線を正面に戻した。


『え!? 無視!? ねぇ、ちょっとー! ミライちゃんだよー! 今見えてたでしょー!』


 プリプリとミライちゃんが怒って僕の肩を叩く。その感触と衝撃を、僕は間違いなく感じていた。肉体を持たないはずの少女の温もりも。


 きっと、ミライちゃんが言うこの謎のリストバンドのせいだろう。詳しい原理は僕には到底分かりっこないんだろうけれど、様々な技術の集大成ということは分かった。


 そういえば、配送元の会社は『オブソリート・クロックワークス』の運営をしている会社だった気がする。見覚えがあって当然だった。

 つまり僕は、恐らく『古時計』から直々にミライちゃんを貰ったことになるのだろう。


 いや、人工知能として作り出されたミライちゃん自身が単体という保証はないけれど。そんな考えこそ幻想だろう。

 僕は取り敢えず、ミライちゃんに尋ねてみた。


「どうして、ミライちゃんがここに?」

『んー? 君のこと、ほっとけなくて。待つって言ったけど、ついつい来ちゃったー』

「二次元の概念をぶち壊してるけどね」


 いや、正確には2.5次元であろうけれど。

 そんなことは今、どうでも良かった。


「そんな気軽にこっちに来れるの?」

『うーん、あまり気軽じゃないかな。君が身に付けてるその装置、開発にすごくお金かかったーって、マスターが嘆いてたね〜』

「ま、マスター?」

『『オブソリート・クロックワークス』の開発者の最高責任者、かな。ま、ミライは……私は独立して君の援助サポートに配属されたってこと』

「……随分と気前がいいんだね」

『気前というか、ご褒美だよ。言い換えればクリア報酬。“ネバーエンディング・クロックワークス”としては、君はすごくいいサンプルだったってことだねー』


 サンプル言うな。僕はモルモットか。

 いや、実際それに近いものだったんだろうけれど。僕は少し悲しくなった。


 とはいえ、本当に僕はミライちゃんを貰ってもいいのだろうか。マスコットキャラクターだから、とても大事にされているのは分かるし、何より高度なAIだ。とてもじゃないが僕の手に余る予感しかしない。


「公式キャラクター貰って、良かったのかな?」

『んー? まぁ、ミライはあくまでも集合体の内の一人だしー? 分かりやすく言うなら『シスターズ』みたいな』

「何十年も前のアニメだよ、それ」

『そうだっけ? 確かにE・VR開発前だから古いのかなぁ〜』

「世代が違うと思うけどね……」


 ちなみに僕は、その時代のアニメも好きである。古いからと言って、馬鹿にするつもりはない。昔の作品は名作だらけだ。


「でも、やっぱりね……」

『そんな難しく考えなくていいんじゃないかな〜。君の生活、人生の中に可愛い女の子が含まれただけなんだからさー』

「僕はこの時点で他の女の子と仲良くなる夢を捨てたよ」


 こんな美少女(2.5次元)がいつも視界内にいるんだ。とてもじゃないが、そんな奴はまともと呼ばない。僕だったら絶対に関わりたくない。


 僕以外に見えないだろうから、僕は虚空に向かって「ミライちゃん、おはよう」と話し掛けることになる。学校で僕の立場はますます悪くなるだろう。


 いや、それはもう今更という感じもあるからいいや。どうにでもなれ。


 ため息を吐いた僕は「どんな幻想だよ……」と呟きながら、それでいて隠しきれない喜びを頰に浮かべてミライちゃんに言った。少しぎこちない笑顔で、手を差し出して。


「これからもよろしく。ミライちゃん」

『こちらこそよろしく。“狂戦士”くん』


 僕とミライちゃんは、少し照れながら固い握手を交わしたのだった。




 初めまして。

 久し振りだね。

 君に伝えたかったんだ。


 ありがとう。




 こうして僕は、僕の物語を語り終える。

 この物語にオチや後日談なんてものもないけれど、僕の人生はこれからも続くだろうけれど、僕の物語はこれにて終わりだ。閉幕だ。


 これから始まる物語は、きっと僕らの物語だから。




『Obsolete・Clock Works』 is the end.




感想は受け付けています。

よろしければ皆様の感想をお聞かせください。


※同時刻にカクヨムにて『オブソリート・クロックワークス』(2万字版・カクヨム甲子園応募作)を公開中。

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