人生桜の木のごとし
桜の花と言えば、入学式の頃だというイメージがある。けれど、比較的温暖な気候のこの地方では卒業の頃に桜が咲く。
「もうすぐ定年ですね。寂しくなります」
会社の近くにある公園のベンチ。そろそろ桜のつぼみが開き始めている。そんな桜の木を眺めながら彼女が言った。
「これを機会に君も早く相応しい男性を見つけなくちゃな」
「私、結婚する気なんかありませんよ」
「だからと言って今のままではよくないと思う」
彼女は俯いてしばらくの間無言でいたけれど、ゆっくりと顔を上げると、私の方を見て微笑んだ。彼女は別れを告げられたのだということを理解してくれたようだ。きっと、私の思いは伝わっているはず。だから、笑顔を見せてくれたのだと私は思う。
数年前に私は妻を亡くした。それ以来、彼女がずっと傍に居てくれた。男女の関係を期待などしていなかった。けれど、私には妻に先立たれた寂しさがあったのかもしれない。いつの間にか彼女を傍に置くことを強く望むようになっていた。親子ほど年の離れた彼女を。
彼女にしてみれば私を父親のように慕っているだけなのだと解ってはいても…。
「私、小さい頃に父を亡くして、その頃の父の面影をずっと追いかけていたのは確かです。でも、部長とは一人の男性としてお付き合いしたいと思っています」
そう彼女が告白してきたとき、年甲斐もなく私は彼女を抱きしめた。
そして、現在に至る。これからもずっと彼女が傍に居てくれたらどんなに嬉しいことか…。けれど、それは決して彼女のためにはならないだろう。これから年老いていく私に比べたら彼女の未来はまだこれからなのだから。
3月。私が生まれた月。誕生日を迎えれば私は長く勤めた会社を定年退職する。そんな日もあと間もなくだ.
そして、最後の出勤日。
「長い間お疲れ様でした」
そう言って部下たちを代表して花束を差し出したのは。彼女だった。
「ありがとう。君たちのこれからの未来を祈っているよ」
“君たち”と言いはしたものの、これは彼女にだけ向けて言った言葉だった。
「はい」
彼女はもう吹っ切れたようだ。「はい」と答えた時の笑顔がそれを物語っている。
会社を出た私は公園のベンチに腰かけた。満開の桜は既に散り始めている。
「さて、これから何をしようか…」
仕事を辞めても立ち止まっている時間はない。先の短い人生だからこそ、今まで以上の何かを見つけよう。そう心に誓って立ち上がった。
惜別に
花びら散らす
桜かな
されど未来へ
時は流るる
花を散らせた桜の木は青々とした新緑に覆われる。そして、また春には花を咲かせる。人の人生もその繰り返しだ。終わりの後には始まりがあるのだ。
時の流れが続いていくかぎり、立ち止まってなど居られない。さあ、今度はどこへ向かって歩いて行こうか…。