第九話
久しぶりに夢を見た。
「浅井君ってさ、どっちかって言うと犬っぽいよね」
俺は高校生で、昔の記憶が再生されていた。
俺の人生で数少ない浮いた話――というか俺が浮かれていた話。
高校生の頃、人生最初で最後の彼女が出来た。織田恵という隣のクラスの女子だ。
結局一年ぐらいで自然消滅したし、今にして思えば向こうはそんな気は無くて、ただ共通の友人がいて知り合っただけの友達だったのかもしれない。
これはその子に言われた言葉だ。
意味はよく分からない。多分、大した根拠もない直感だろう。大体――こういう場合は「猫と言うよりは」という事なのだろうと思うが、何と比べてどっちかって言うとなのかも分からなかった。
あの子は今どうしているだろう。
明るくて活発な子だったから、多分どこかで楽しくやっているんだろう。
まあ、今となってはもう知る術は無い。
「おい起きろ。時間だ」
そんな懐かしい夢は、今や聞き慣れた声が終わりを告げた。
瞼を開くと、真っ暗闇の中で目の前だけぼんやりと明るかった。
交代の時間だ。真っ暗な所を見るとまだ日が登るのには早いのだろう。睡眠時間を示す蝋燭は風変りなランタンの中に収められていた。
四角柱型のそれはランタンでありながら上の面以外は光を通さない青銅製で、空気取り用の穴が開いているだけだ。灯篭流しの灯篭を小さく青銅製にしたものといった所だろうか。
唯一の露出である上の面も青銅製の蓋をつけることで全く外から見えなくすることが可能であることは、本体の足元に置かれたその蓋が物語っていた。
「外に光が漏れたら仕事がやりづらいだろ?」
俺の目が目の前の変化に集中しているのを見て俺を起こした張本人にして、恐らくこれを用意した張本人でもあるフーリアがそう言った。
外に光が漏れる、つまり鎧戸を開けているという事だ。
そう言われて首をのけ反らせてみると、確かにほんの少しだけ鎧戸が開いていた。
何で開けていたのかはフーリアの手の中にあった望遠鏡でわかった。外を見ていたのだ。だが何故?
「今はまだいいかもしれんが」
そう言いながらフーリアは俺にその望遠鏡を寄越した。
そのままおもむろに立ち上がると、俺を促してクロスボウの横から顔を覗かせる。
「あそこの建物が見えるか?」
鎧戸の隙間に同じように顔を突っ込むと、L字の正門とは別の側に周辺より頭一つ高い建物が見えた。
暗いためシルエットしかわからないが、周辺の量産型の建物と同じようなデザインだろうと思われるそれは、夜空の中でその頂上部分を黒く突きだしている。
それを俺が見つけたことを悟ってフーリアが続ける。
「あそこにロブ達が張っている。あの下の道がベッカーの自宅兼店舗に通じていて、あそこからなら家から出て、ここに向かうベッカーの様子が見える」
そこまで言って俺の手の中にある望遠鏡を指さした。
「それであの建物を監視してくれ、もしベッカーが出てきたら合図として旗が出ることになっている」
成程、こちらはその合図を確認してから狙撃の準備を始めればいいという訳だ。
試しに望遠鏡をのぞいてみる。
現実世界のそれよりよほど古めかしい折りたたみ式のそれは倍率変更なんて上等な機能はついておらず、おそらく4倍ぐらいだろうか、やたら大きくなった世界に少し戸惑ったが、例の建物のテラスが開いているのを確認した。
この時間帯、いくらあの高さとは言え普通はテラスを開放するのは不用心だ。その上寒い。
「あそこのテラスが開いている建物がそうだな?」
「そうだ。見つかったようだな」
フーリアはそう言うと欠伸を一つ。望遠鏡から目を離すと、今度彼女は例のランタンの方に目をやった。
「おそらくこれが燃え尽きる頃には今朝ここに到着した時間になるだろうが、その前には連中が旗を揚げる筈だ。あの建物から目を離さないようにな」
ランタンの中の光はその頂上付近でゆらゆら燃え続けていて、俺が眠ってからほとんど変わっていないように思える。つまり先程交換したばかりという事だ。
フーリアはそこまで言うとここに来るとき持ってきた小さな肩掛け鞄からガラスの小瓶を取り出した。
中が黒っぽい液体で満たされているそれは、丁度栄養ドリンクの瓶ぐらいの大きさで、飾り気のない質素なデザインだ。
彼女はそれを俺に寄越しながら言った。
「飲め」
「これは?」
「気つけの酒……と言いたいところだが、ただの眠気覚ましだ。中毒性はないから安心しろ。ただ、飲んですぐにという訳ではないから、少しの間は自力で耐えろ」
そう言われて蓋を開けると、コーヒーの様な強烈な苦い香りが鼻をついた。
その色や香り、瓶の大きさから顔を天井に向けて一気に煽る。
中身は、予想通りと言うかなんというか、物凄く濃いコーヒーに薬品を混ぜたような、現実世界でも流通している眠くならない飲料をさらに強力にしたような味だ。
「暫く心臓の動悸が速くなるかもしれんが、別に病気じゃなく、それの正常な効果だ。もっとも、異常な――それこそ全力疾走したような状態がずっと続くようであれば起こしてくれ。解毒薬もある」
恐らく大量にカフェインが含まれているのだろう。昔運転中にこういうドリンクを2本同時に飲んだら同じ現象を起こしたことがある。
その時は意味も分からず、場所が心臓ということもあって死すら予感したが、幸いネット上で致死量ではない事が分かったし、実際に時間の経過で何とかなった。
流石にこれ一本でそこまで強い効果はないだろう。
彼女はそう言うと俺の手から空の瓶を持っていき、鞄の中に入れた。
「用が済んだらすぐここから離れる。何も痕跡は残しておくなよ」
「ああ、分かった」
そう言うと鞄を置き、彼女も俺と同様外套に包まると、早速寝息をたてはじめた。
一人になった俺は、今言われた通り望遠鏡でロブ達がいるという例の高い建物を監視する。
遠くに夜市の喧騒が残響の様に聞こえるが、それ以外には自分の起こす衣擦れの音ぐらいしか音がない。
ふと上を見上げると、現実世界では見たことも無いほど真っ暗な夜空だ。
こちらに来て最初に驚いたのは、この夜空の暗さだった。むしろ暗いというより黒いのだ。それも塗料を塗った黒さとは違う、本当に何もない虚ろの黒さだ。
考えてみれば、宇宙空間の星の無い所がこの暗さ、黒さなので、そう感じているというより実際にそうなのだが、それでも山奥や海の上でもない限りどこかしらに明かりがある現実世界の夜と比べて、こちらの夜は極めて暗い。
人間は本能的に闇を恐れるという話をどこかで聞いたことがある。最初にこの世界の夜空を見た時は成程と思ったものだ。
それほどまでに暗闇は恐ろしく、それを遠ざける明かりは人を引き付ける。
俺は天文学者ではないから、この世界に見えている星が現実世界と同じものか違うものかは分からない。
しかし、一つだけ言えるのは、ここに来る途中、人のいない野原の真ん中でこれを見た時に感じたのは、よく星空について語られる時に出てくる浪漫や感動ではなく、恐怖だった。
自分を遥かに超越する圧倒的なものに取り囲まれているという恐怖が、恐らく原始人の頃から人間の抱えていた恐怖だった。
夜は恐ろしい。そしてそれほどまでに夜の闇が恐ろしかったからこそ、昔の人は火を起こす方法を得て、夜空に浮かぶ大量の星に神話を生み出したり、それを見上げて哲学したりしたのではなかろうか。
何もわからないという事は恐怖を生み出すが、それに一応の説明がつくと少し恐怖が和らぐものだ。眠気覚まし2本飲んで初めて激しい動悸に襲われた時の様に。
そんな事を頭の片隅に遊ばせながら、俺は建物の監視を続けた。
ロブがあそこで旗を揚げる。俺がフーリアを起こし、横にでんと鎮座ましますこのでかいクロスボウの幌を外し、毒矢を装填する。
慎重にやらなければならない。何しろ鏃には致死量を遥かに超えるトリカブトが塗り込んであるのだから。
発射準備が完了しても、すぐに鎧戸を全開にしてしまってはダメだ。ベッカーはここの真下を通るのだから、普段は誰もいない廃墟に動きがあることを警戒するかもしれない。
奴が完全に背を向けてから鎧戸を開き、狙いをつける。
急所は多少外しても構わない。何しろトリカブトだ。確実に殺す矢だ。
幸いなことに投擲と同じく投射武器に関しても熟練のスキルが与えられている。
クロスボウに関しても同じで、分解組み立てから始まり、矢をつがえて狙いを定め実際に発射するまで淀みなく滑らかに行える。
試し撃ちした時の感想は、弾道は非常に素直だという事だ。
今朝がたフーリアで実験した、ベッカーが狙える限界の距離を数字で割り出し、同じ距離を直射してみたが、照準に収まっていればまず体のどこかには当たる。
更に言えば、限界点より手前の街路樹には風向きを確認するために旗が巻きつけてある。
これで風向きを確認していれば、急な突風でもない限り外すことは無いと言っていい。
そう、外すことは無い。
当たれば死ぬ矢を撃ち、外すことは無い。
つまり、そうつまり、俺の意思以外に奴が生きて帰る可能性はない。
監視を続ける。その事実は敢えて考えない。
監視の合間に確認する蝋燭は、当然だが徐々に短くなっていく。
蝋燭を確認するたびに、その横で転がっているフーリアに目をやる。
彼女は寝息を立てている。
もし俺が途中で心が折れて逃げ出したら、彼女はどうするだろうか。
彼女はあの昨夜のあの一件以来、この事については一切口にしていない。
暫し眠っている彼女を見る。こちらに背中を向けている。
ふん。と鼻息を一つ吐き、もう一度建物の監視に戻る。
それから少しして、事態は動いた。
そろそろ色が分かるぐらいに明るくなってきた頃、テラスに人が現れ、手旗を大きく振っている。
「来たな」
俺は咄嗟に呟き後ろを振り返る。
起こそうと思った時俺が動き出すより一瞬早くフーリアが起き上った。蝋燭が丁度終わる少し前の事だ。
彼女は起き上がってすぐ、状況を察したようだった。
すぐに立ち上がるとランタンの中に直接息を吹き込んで火を消し、テーブルの上の幌を剥ぎ取った。
俺はそれにあわせて毒矢を取り、クロスボウの先端につがえる。
装填し、安全装置を解除し、俺自身もテーブルの上に寝そべってこのでかいクロスボウを抱えるように構える。
奴が来る、あと少しでここに来る。
クロスボウの横、テーブルの上を嫌味な姑のごとく指先でこする。
埃はつかない。昨日ここに到着した時にふき取ってある。別に清潔にするという意味ではなく、埃をかぶった上に寝そべると人の形に跡が残ってしまうからだ。
「来たぞ」
フーリアの声がして、鎧戸が開かれた。
照門と呼ばれるタンジェントサイトの手前側にある凹から照星と呼ばれる先端の突起を中継して視界の下から上がってきたやつの背中を捉える。
昨日と同じ外套で、昨日と同じように歩いている。今日この直後に死ぬなんて、全く思っていない足取り。
悪いな、でも死ぬんだ。
奴の全身が現れる。
頭の中に声がする。恐らく良心の呵責という奴が。
(本当にやっていいのか?こいつは無関係だぞ?)
奴が徐々に小さくなりはじめる。
頭の中に、今度は現実世界で出会った連中の顔が浮かんでくる。
死んだ両親、妹、地元の友達、中学や高校の友達、職場の上司、先輩、同僚、入ったばかりの後輩、織田恵、俺を取調べした刑事、弁護士、裁判官、看守、現れては消え、また現れて回り出す。ぐるぐる、ぐるぐる。
風向きを表す旗は全くはためかず、地面に向かって垂れ下がっている。
良心の呵責に変わり、現れた顔が口々に何か叫んでいる。
両親が、妹が、友達が、織田恵が、職場の人間が、刑事が、法廷の人間が、看守が。
限界点まであと少しだ。
声が大きくなる。ほとんど耳元で騒がれている。
(黙れッ!)
完全な無音。
引き引き金に指を掛ける。
息をゆっくり口から吐きだし、上下の前歯の間に舌を挿して息を止める。
割り切れ、仕事だ。
「ヒット!」
フーリアが小さく鋭く叫んだ。
奴がひっくり返った。
(つづく)
海の上の夜怖いよマジで(実話)
それでは、また明日。