第八話
ベッカーが去ってから今度はフーリアが戻ってきた。
彼女はベッカーについては何も言わず小刀を取り出すと、俺達のすぐ後ろにある太い木の柱に小さな傷をつけた。
茶色の塗料が剥げ、白々とした木の部分を覗かせる。
「何してるんだ?」
「ふん……、大体このぐらいか。私より少し小さいぐらいだな」
すらりと背筋を伸ばした彼女は女性としては背の高い部類だろう。傷は丁度彼女の鼻のあたりの高さで、ベッカーの背もそれぐらいだった。
「よし、もう一度2階に戻って上から私を見下ろしてくれ、正門の辺りまで行って戻ってくる。どのくらいの大きさに見えるか覚えておけ」
そう言われてようやく、彼女がどうして俺にベッカーに声を掛けさせたのか分かった。
言われるままもう一度先程の鎧戸に向かう。
既に日が登り始めて明るくなっているからか、先程は気付かなかった階段側の小さな鎧戸の隙間から朝日が差し込んでいて、これまた先程は気付かなかったが階段を登りきった所に貴族の晩さん会に使うような長方形の仰々しいテーブルが置いてあった。
本当にここは何に使われていた建物だったのだろう。
再び鎧戸を開け、下にいるフーリアに合図を送ると、彼女はベッカーが先程通ったルートをゆっくり歩きはじめる。
この建物、2階がかなり高い位置にあるのか、上から見下ろしていると、背の高いフーリアもかなり小さく見える。
彼女が遠ざかるにつれてだんだん小さくなっていく。俺はライフルを構えるような手を作り、左手の中に彼女の姿が映るようにする。
俺は暗殺者にはなったが、スナイパーではない。当然ながら徐々に小さくなっていく彼女=仮想ベッカーを撃つには、ある程度の距離以内でなければ狙いをつけることすら難しいだろう。
仮に銃だとして、小さくなっていく彼女を狙撃するにはこれ以上不可能なサイズと判断した時、構えを解いてそのあたりをよく観察する。
左手には青銅色の屋根の同じような建物。右手側には有難い事に街路樹が立っていたのでこれを使う事にする。この建物から4本目だ。
フーリアはその後も正門まで同じペースで歩き続け、Uターンして再び同じペースで戻ってきた。
今度は彼女が見下ろせる限界を探る。いくら近くともこちらの足元に入り込まれてしまっては見えない。となると当然俯角の最大は限られてくる。
つまり、ある程度の場所からある程度の場所までの間に狙いを定めて撃つ必要があるという事だ。
「分かったか?」
戻ってきたフーリアに背中から聞かれた。
「ああ、十分だ」
答えながら振り返ると、その時には彼女は階段側の鎧戸を開けて下を見下ろしていた。
「よし、なら戻ろう。本番はこっちから脱出する。地図を確認して、実際に歩いてみよう」
俺が横から覗き込むと彼女はそう言った。
確かにこの鎧戸も人一人くぐれるぐらいの大きさはある。
こちらの下は反対側と違いまさに裏通りと言う言葉がぴったりな薄暗い路地で、すぐ横を石造りの護岸に囲まれた小川が流れている。朝日に照らされた水面がどす黒く反射している所を見るとそれなりに深さも濁りもあるようだ。
「ロブが用意した道具がここをくぐれるような物だったら、証拠隠滅はあの川だな」
「そういう事だ。さあ戻ろう」
分かって来たじゃないか。とフーリアの顔が言っていた。
二人で階段を降り、元の入り口から出て、さっき来た道を戻る。
外套の前をしっかりと閉めて、フーリアが言った。
「本番はもっと温かい外套を用意してもらおう」
同感だ。
出てくる時にはゴーストタウンの様に人通りのなかった道だが、帰りには早朝から仕込みを行う商人たちや屋台の売り子たちの姿があった。
何かを温めているのか、白い湯気がそこかしこに上がっている。
何か口に入れたいとも思ったが、生憎まだどこも開店前だったのでそのまま宿屋に帰った。そして静まり返った宿屋の厨房を見て、この宿屋が大して繁盛していない理由の一つを知った気がした。
「さて、作戦会議だ。食べながら聞け」
それから少しして、俺達は例の地下室にいた。
俺とフーリアの口には小さな黒パンが咥えられている。
俺達が戻った時丁度出て行くところだったロブが戻り際に買ってきたそれはまだ少し温かかったが、彼が結局何をしに行ったのかは分からなかった。
「見て来てもらった通り、狙撃をするには絶好の場所だ。奴は明日の朝も礼拝に現れるだろう。ここ数年一日も休んだことがない。大雪だろうが、嵐だろうがな。見て来てもらったようにあの通りはあの時間は誰もいないし、上手くいけば死体が見つかるのも今ぐらいの時間にならなければ見つからないだろう」
もさもさと黒パンを口の中に完全に収める。少し酸味の効いた麦の香りが広がる。
「それで、どうやって撃つんだ?」
同じくもさもさやっていたフーリアが尋ねる。
ロブがにやりと笑った。
それから半日、夕日でオレンジ色に染まったボロボロの2階に俺はフーリアと腰を下ろしていた。
階段側の鎧戸だけが開かれて、そこから差し込む夕日が階段周りを照らし、室内の暗さを際立たせている。
今朝使った通路側の鎧戸は固く閉ざされ、俺達はその左側に腰を下ろしていた。
俺は壁に背中を預け、フーリアはその隣で鎧戸の前を占領する、今朝見つけた例の晩さん会の大きなテーブルにそうしていた。
テーブルの上にはあの会議で渡された大型の狙撃用クロスボウが、トリカブトを塗り込んだ毒矢と一緒に幌を被せられて鎮座している。この毒矢なら急所を外したところで確実に対象を殺せるだろう。
テーブルは鎧戸のさんより少し背が高く、この上に寝そべってクロスボウの照準を覗けば狙撃にお誂え向きだ。
このクロスボウは会議の場でロブから引き渡された。
ロブによれば他の転生者が開発に関わったらしいそれは、各国軍で猟兵など精鋭部隊用に採用されているという。
通常のクロスボウを大型化し、重量を増した本体とストック、発射口上に取り付けられた照星とよばれる突起と発射口左右につけられた二脚など確かに現実世界のスナイパーライフルに似たデザインだ。
本体上部には流石にスコープは取り付けられていないが、代わりに目盛りを刻んだ定規のような鉄板が取り付けられていた。
ロブによるとこれは転生者が持ち込んだ技術でタンジェントサイトと言うらしい。可倒式になっているこの鉄板を起こすことで仰角をつけて曲射する際にも照準をつけられるようになっているそうだ。
もっとも今回は俯角をつけて使用する上にそこまで距離もないためこれを平射用に倒したまま使用するが、転生者の中にはこうやって現実世界の技術を持ち込む者も多いそうだ。これを生み出した転生者はおそらく元々軍事、というか銃火器に関する知識があったのだろう。
皮肉な話だ。転生者を大口の顧客にして利益を得ていた男が、転生者の持ち込んだ技術で造られた兵器によって転生者に殺される。
ある意味、この世界の縮図のような兵器だろう。
転生者を利用して、やがて転生者によって殺される。では、その殺した転生者は……?
いや、今はよそう。
兎に角、今そのクロスボウは古く仰々しいテーブルの上に載せられ、明日の早朝を待っている。
俺達はここで一夜を明かし、明日の早朝にこいつで奴を撃つ。
この部屋に上がる階段は他のガラクタで塞ぎ、既にここに入れる者はいない。
階段側の鎧戸には十分な長さのロープが纏めて置かれ、狙撃後はここから脱出する。
勿論、降りてすぐの川で証拠隠滅も行う。
日が完全に沈み、部屋が完全に真っ暗になった頃、フーリアの手元でカチカチと音が鳴って、小さな種火が生まれた。
彼女はそれを俺達二人の間に置いた小さな燭台に立てた蝋燭に移した。
日本国内で見るそれよりも太くて長いそれは、かなり長い時間持つ。
「これが燃え尽きたら交代だ」
そう言ってフーリアはぼんやりと揺れ動く火に手をかざした。
話し合った結果、先に寝ることになった俺は、支給された今朝より暖かい外套を布団代わりに頭からかぶって目を閉じた。
外套をかぶってすぐに、強い睡魔に襲われそのまま眠りに落ちた。
朝早くここの下見を行った上にその後の作戦会議と逃走経路を実際に歩き、その後はクロスボウの試し撃ちや分解しての運び込み、ここでの作業等やることは色々あったとは言え、我ながら随分図太い神経をしていると思う。
人を殺すと言っているのに、葛藤よりも睡魔が勝るのだから。
(つづく)
こいつらいつも下見してんな
次回いよいよ作戦開始です。
それでは、また明日。