第七話
「起きろ、時間だぞ」
ドアがノックされて目を覚ました。
フーリアの声だ。
「ああ、今行く」
そう答えてベッドから抜け出す。空気が冷たい。
体をこすりあわせると、見ていたように外から声がした。
「外套がクローゼットに入っている筈だ。それを着てこい。まだこの時期は冷える」
有難い。
廊下で待っていたフーリアは既に俺と同じ黒い外套を着込んで立っていた。廊下の端にある窓の外はまだ薄暗い。
「眠れたか?」
「ああ、大丈夫だ」
フーリアは先行して物置の鍵を開けると、窓もない真っ暗なその中を進んで行く。
俺もすぐに後を追い室内に滑り込んでドアを閉めたが、他の宿泊客はいるのだろうか。
階段を降りた先もまた真っ暗で、木の板一枚挟んだだけの厨房からも何の音も臭いもしない。
「昨日話した通り、ベッカーの件の下見だ。ファイアル寺院の場所は分かるな」
「昨日はその裏を通った」
よし、とフーリアは頷き、外の様子を窺ってから出た。
市壁に向かい合っているこの裏口の周りは昼でも薄暗いが、この時間帯は更に闇が深い。
俺達はそこから宿屋の玄関側に回り、人通りのない静まり返った道を歩く。
息が白く呼吸に合わせて吹き上がる。この辺りは大陸でも比較的温暖な地域らしいが、それでも早春に当たるこの時期はまだ夜明け前は冷える。
露出している手や頬を冷気で刺されながら昨日とは違う、ファイアル寺院の正門に至る道を歩いていく。
ファイアル寺院は市内最大の寺院で、市民の他にもよそからやって来た行商人や冒険者たち、或いは敬虔な巡礼者も訪れることがあるそうだが、それでも通りにまだ誰も出ていないようなこの時間は静まり返っているだろう。
「この道だ」
大通りに面した角でフーリアが立ち止った。
石畳の大通りは左右に煉瓦造りの大きな建物が立ち並び、左に少し行った所でL字型に折れており、頭に浮かべた地図が正確なら、あの折れた先に寺院の正門がある筈だ。
「まずは狙撃ポイントを見に行くぞ」
そう言ってフーリアは歩き出す。
俺もそれに続き、大通りをL字の方に進む。
L字の丁度折れる場所、そのコーナーの外側にある一軒の間口の狭い建物に道を突っ切って近づいていく。
陰気な建物だった。
その建物は周りにある同じようなそれらと比べて特別古い訳ではないが、どことなく煤けて、うらぶれた印象を与える。
黒い木製の扉は意外にも鍵がかけられておらず、ギイッっと耳障りな音を立てて開いた。
外見通り細長い室内は、元々は繊維関係の仕事だったのだろうか、入口近くに小さい木製の事務机が置かれており、俺達が足を踏み入れると机の下にいた鼠が奥の方へ逃げていく。そしてその奥には壁に張り付くようにして二基の機織り機がおいてあったが、どちらも今ではいくつも張られた蜘蛛の巣の土台にしかなっていない。
俺達が更に足を踏み入れると、久しく絶えていた来客に鼠たちが大興奮で走り回った。
「こっちだ」
フーリアはその騒ぎもものともせず、一番奥にある急こう配の階段を上っていく。
2階でもう一度鼠のパレードを見てから、今度は道路側に向かった。
この二階は元々何に使われていたのだろうか。空の戸棚が一つある以外は、蜘蛛の巣と鼠の糞を覗けばだが――何もないがらんとした空間。
「ここから見てみろ」
そう言って窓側の鎧戸を少し開けるフーリア。
言われて近づいてみると、そこから下の通りが一望できる。
うん、俺の脳内の地図は正確だった。長い直線の石畳は、左右の量産型のような煉瓦の細長い建物に挟まれ、その一番奥で僧侶が寺院の正門前を掃き清めている。
誰もいない、静寂に包まれた通りを見下ろしている俺に横から声がする。
「奴は毎日この通りを使って礼拝に訪れるそうだ。見ての通り、この辺りはこの時間には誰も他にいない。狙撃するには絶好のポイントと時間だろ」
昨日の俺の発言について、彼女は何も言及しない。
俺の心の中を見透かしているのか、それで、俺が途中で投げ出さないと確信しているのか。それとも、いざとなれば俺の意思などねじ伏せて実行させる方法があるのか。はたまた、人の失敗を――つまり彼女からすればあの時の俺の考えなど噴飯ものだという事だが――掘り返さないという礼儀をわきまえているのかは分からない。
まあ、どれでもよい。どの道俺はやる。
あの男を、ベッカーという商人を、殺す。
「確かにな。で、何で狙撃する。銃があるのか」
「じゅう?さて、じゅうと言う物がなんだか分からないが、今日中にロブが誂えるさ」
そうだった。この世界には銃火器の類は存在しない。
というより、火薬が存在しないのだ。
しかしそれでも現実世界の現代に比べて劣っている点ばかりでもない。
確かに科学技術の点では火薬の件しかり数百年単位で遅れている。
だがこの建物や街並みを見る限り、建築技術は多少低く見ても明らかに現実世界で言う近世ぐらいのものを作れる技術は十分にある。
他にも、農業、医学、製鉄、流通、教育等々、現実で言えば下手をすれば近代レベルのものまである。
例えば教育水準などがそのいい例で、現実世界では江戸時代の日本の識字率が五割、つまり二人に一人は字が読めない状態でも同時期の世界的には抜きんでた高水準だったと聞く。
だがこちらの世界では、正確に調査したわけでないので何とも言えないが、特別裕福でも発達した大都市でもないこの辺りで恐らく七割以上ではなかろうか。
もしかしたら、アフリカなどでは現代でもこのレベルに達していないかもしれない。
そして一番大きな特徴として、現実世界には無い魔術が存在するという事だ。
これが言ってみれば科学の代わりで、先程挙げた進んだ分野も、これと密接に結びついているケースが多いらしい。
だがそれ故にと言うべきか、気がかりな点が一つある。
「一応言っておきたいんだが、いいかな」
「何だ?」
フーリアはこちらには顔を向けず、道を見下ろしたまま答えた。
「俺、魔術の心得は無いぞ」
俺は暗殺者だ。与えられたスキルもそれに使う物ばかりだ。
つまり、ロブが魔術を使用する道具を持ってきたら、残念ながらご期待に添えないという事だ。
「大丈夫だ。私もロブもそんなもの無いし、貴方にだけはあるなんて思ってはいない」
そう言われて安心した。無茶振りされなくて済みそうだ。
そう思った矢先、フーリアの目が急に鋭くなった。
「見ろ、来たぞ」
そう言われて俺も道に目をやると、俺達と同じような外套を羽織った男の背中が見えた。
まだ日の登り切っていない、辛うじて東の空が明るくなり始めたような時間にその男は寺院の正門に向かって歩いていく。その確かな足取りからして酔っ払いではない。
「あれが?」
ベッカーか?と訪ねる前に鎧戸は閉められ、部屋は再び真っ暗になった。
「ついてこい」
そう言うなりフーリアが階段を駆け下りる。
慌てて後を追うと、彼女は玄関前に置かれた木の机の前にかがみ込んで外の様子を窺っている。
声を掛けようとしたが、こちらに振り返りすらせずに、ただ手で「かがめ」と合図するだけだった。
言われるがままに鼠の運動場に腰を下ろして、彼女が見ている先に目をやると、男は既に小さくなっていた。
「よし、出るぞ。奴の人相を確かめてこい」
そう言うが早いがフーリアが外に飛び出し、はす向かいにある同じような建物まで走って俺の方に手招きした。
再び言われるがまま彼女のもとに走ると、彼女はその建物の木製の柱をコツコツと指で叩いて言った。
「奴が朝の礼拝を終えて戻ってきたら、待ち伏せしてこの柱の前で奴を呼び止めろ」
「何で?」
「奴の人相と体格を確認したい。呼び止める理由はそうだな……、町に来て羽目を外した旅人という態で自分の宿屋を聞け。『太陽の鱗亭はどこですか』と聞けば怪しまれない」
太陽の鱗亭はこの町で一番大きな宿屋だ。当然客も俺達の隠れ家となっているあそこより遥かに多い。個人を特定される可能性は低いだろう。
そこまで言うとフーリアは元の机の下に戻っていった。何故俺にやらせたのかは不明だが、まあいい。
徐々に日の光が東の空を明るくしていくのをぼんやりと眺めながら、男の礼拝が終わるのを待つ。
外套を羽織っていても日光が十分にあたらない今の時間は寒い。こんな時間に毎日礼拝に訪れるというあの商人は大した信仰心の持ち主という事だ。
それにしても冷える。そう言えば起きてからここまで何も口にしていない。そのせいか体の内側から冷えてくるような気がした。
おい、そろそろ替わってくれ。思わず隠れているフーリアにそう言いそうになった時、目の前の角から あの男が、ベッカーが顔を出した。外套のフードを脱いだ姿は人相書きの通りの白髪で中肉中背。
「おっと失礼」
曲がり角で震えている俺にぶつかりそうになり、彼は咄嗟に身をかわした。
「あっ、あのっ」
「はい?」
言われていた通り目の前で呼び止める。
「すいません。道に迷ってしまいまして、太陽の鱗亭という宿屋を探しているのですが……」
一瞬の沈黙の後、ベッカーがすぐに「ああ!」と声を上げた。どうやら頭の中で現在地からトレースし終わったらしい。
「それなら、ここをまっすぐに行きますとほら。あそこに大きな寺院が見えますでしょう?あそこの右よこの道に入って橋を渡り、最初の十字路を左に曲がった二件目の宿屋ですよ」
指で寺院をさし、その指を右へ、次に左を示すため再び前をさして説明してくれた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ、それでは良いお導きのあらんことを」
深々と頭を下げると、彼も同様に頭を下げ、敬虔な者に特有の挨拶を返して去っていった。
彼が信仰する宗教が何教かは知らないが、あまり生命の安全についてはご利益がなさそうだ。何しろ、礼拝の帰りに道を教えてやった相手が、その礼拝の時間を狙って自分を殺そうというのだから。
(つづく)
更新遅くなりまして申し訳ありません。
更新直前にいくつか手直しが必要な点が出て来ましたので作業しておりました。
それでは、また明日