第十話
照門越しに地面に寝そべっている奴が見えた。
死んでいる、というより電池が切れたと言った方が近そうな姿。苦しんだ様子も、恐れた様子もない。
フーリアが白い布を取出し鎧戸から突き出して何度か振った。
作戦成功の合図。
鎧戸を閉じ、テーブルから飛び降りる。
クロスボウを掴み上げてスリングで肩に担ぎ、テーブルを元あったように部屋の隅へ引き摺って行って横倒しにする。
ここで狙撃が行われた痕跡が残ってはならない。
ここに俺達がいたことが分かってはならない。
俺達は存在しない。
俺がそうしている間にフーリアは荷物を全てまとめあげ、階段側の鎧戸を開いていた。
一端を柱に巻きつけたロープがおろされる。下は誰もいない、薄暗い路地裏。
俺はクロスボウを前に回すとストック右側のピンを引き抜き、ストックを本体左側に折りたたむ。
次に本体中央部のストッパーを外して弦のテンションを下げ、弓の部分を畳み込み、先程までの半分ほどに小さくなったそれを再びスリングで担ぎ上げながら階段側の窓に向かう。
もう一度背負うまでに時間にして数秒とかかっていない。良いペースだ。
革の手袋を手に馴染ませ、先にそうしていたフーリアが下りたのを確認してから後を追う。クロスボウを引っかけないように慎重に鎧戸のさんに足を掛け、ロープで降下する。
革の手袋から熱々の摩擦音をあげながら路地裏に下りると、そのまま予定していた通り川沿いに出た。
町の暗い所を流れる陰気な小川。昇る朝日を反射する水面すら黒く淀んで見えるそれは、俺達の仕事に丁度いい暗さだった。つまり、ここに捨てた凶器は見つからない。例えいま投げ込んだクロスボウのような物でも。
「焦るなよ。まだ死体は見つかっていない」
クロスボウが水中に没したのを見てから、フーリアは俺の方を見て言った。
そう言いながらしかし、俺達は人通りがある辺りに出るまで走ることにしていた。
寺院前の通りは人々が両脇の量産型の建物に仕事に向かうか、巡礼者が訪れるような時刻にならないと人通りがない。
つまり死体が見つけられた後、普段なら誰もいない筈のこの付近をうろついていた二人組がいるなどという情報が衛兵隊の耳に入ってはならない。
警戒はしているが、速やかに離れるに越したことは無い。
走りながら頭の中にあったのは、あの妙に静かなベッカーの死体だった。
いや、死体が静かなのは当然だが、本当に苦しんだ様子もなく死んでいたのだ。
初めて人を殺した。にも拘らず、不思議と俺の心は落ち着いていた。
いや、違う。
初めて殺した?違う。落ち着いている?違う。
故意と過失の差こそあれ殺したのは二度目だしこれは落ち着いているのではない。衝撃がでかすぎて実感がわくのに時間がかかっているだけだ――前回と同様に。
前回と違う点があるとすれば、今回は仕事だと割り切って殺した。だがどこかで冷静になった時には、きっと――。
「この辺で良いだろう」
数分後、陰気な小川を超える橋のたもとに差し掛かった時にフーリアが言った。
この橋を渡れば、その向こうには宿屋や飯屋が立ち並ぶ地区に入る。
当然、朝のこの時間は忙しくなりはじめる時間であり、通りすがった二人組をいちいち気に留めておくような暇人ならまだ寝ている時間だ。
幸い今の格好はいつもの行商人である。早朝の宿屋通りなら、仮に人通りが全くない中であっても全く怪しまれないだろう。
古く狭い木造の橋を渡ると、突然人が湧いてきたかのように活気が満ちている。
足元の川を挟んでこちら側が明るく活気のある地区、向こう側が陰気で沈んだ地区という明確な境界線が引かれているような気分だった。
宿屋から同じような格好の旅人が姿を現した。恐らく宿代をケチったか、素泊まりで済ませて早々にここを発とうという判断だろう。
別の宿屋から同じく旅装をした男女が横切っていく。こいつらもその口かと思ったが、向かうのは町の広場の様だ。
夜市が開かれている広場には、反対に朝早く店を出す屋台もある。恐らくそこで腹ごしらえするつもりだろう。
そしてそうした連中のおこぼれにあずかろうという魂胆か、白い野良犬が一匹そちらの方へ歩いて行った。
“浅井君ってさ、どっちかって言うと犬っぽいよね”
結局、どういう意味だったのだろうか。
巻いた尻尾を左右に動かして歩くその野良犬の尻を見ながらそんな事を考えていた。
橋の向こうで甲高い悲鳴。何人かがそちらを振り向く。
ついで男の叫び声、人殺し!死んでる!
「見つかったな」
俺にしか聞こえない声でフーリアが言った。
俺達は予定通り宿屋に戻ってきた。
ロブ達は先に戻っていたようだったが姿は見えない。酒場の方に顔を出してもバーテン役の細面の中年連絡員がグラスを磨いていた。まばらに来る客のための演技の仕込み。
「どうだ?」
「戻ってくる途中であれが見つけられた。今頃衛兵どもが大騒ぎだろう」
バーテンの質問にそれだけ答えると、彼は何も言わず磨き終えたグラスを食器棚にしまい始めた。
「ひとまずお疲れさん」
振り返った彼がカウンターにコップを二つ。
片方はフーリアの分。
「水か?」
「分かるぜ、本当はこっちが良い」
そう言って自分の後ろにでんと置かれた酒樽を顎でしゃくるバーテン。
「だが一応任務中だ。全部終わったら報酬で飲みな」
置かれたコップを受け取り、よく冷えたそれを一気に煽る。
報酬が支払われることは、最初にフーリアから聞いていた。
その時に提示された金額は勇者一人分だったが、それが相場から見て安いのか高いのかは当然ながらよく分からなかった。
ただ一つ思ったのは、人間の命にしては安いという事だった。
「……すぐ慣れる」
空のコップをじっと見つめている俺に彼は静かにそう言った。
「いや、大丈夫だ……。ああ、そうだ」
別の話題に切り替えよう。そういう扱いをされるとそういう気分になりそうだ。
「俺、犬っぽいって言われた事があるんだが、そんなに犬っぽいか?」
一瞬バーテンが沈黙する。
「おいお目付け役」
そして答えは俺ではなくフーリアへ。
「こいつ昨夜飲むかキメるかしたか?」
「私の知る限り素面よ」
そんなやり取りの最中、初めてこの店の入り口が開けられるのを見た。
入ってきたのはこの前のスキンヘッドだった。
「丁度良かった」
「いらっしゃい。何にします?」
急ぎ足で俺達のカウンターにやって来たスキンヘッドにバーテンが素知らぬ顔で尋ねる。
スキンヘッドが俺達を一瞥すると、フーリアは彼が今来た道を辿るようにドアを閉めた。
彼女が戻ってくるとスキンヘッドは小さな紙切れをカウンターの上に置く。
「じゃあな。伝えたぜ」
「ああ、どうも。たまには一杯ぐらいどうだい?」
バーテンがそう言うと、スキンヘッドは背中を向けた。
「兄貴の使いの辛い所だ」
彼が出て行くとバーテンは紙切れを一瞥してにやりと笑った。
「新しいお仕事だ」
タイミングが良かった。
新しい事をしていれば、それに没頭していれば、冷静に振り返らなくて済む。
バーテンから紙切れを受け取ると、ロブの字で暗号が殴り書きされていた。
事前に伝えられていた方法で解読する。
至急ボールトン兄弟馬具製造所マデ来イ
「ご馳走さん」
空のコップをバーテンに返した。
(つづく)
あ、私は犬の方が好きです(唐突)
では、また明日。