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ひんやりとしたタイルを踏んだ時、ぐらりと揺れた。
気分が悪い、吐きそう、めまい、貧血──
ツンツン、と頬を突かれてる感触がある。まだまだ眠いのに。
誰だよもう…突かれる。重い目蓋を上げた。
「ぎゃあっ」
ぎょろりと飛び出したような目、シワの多い浅黒い皮膚、耳近くまで避けた口からは鋭い牙が覗いている。
それが至近距離。驚いて何が悪い。
…何が悪い、って思うんだけど、すごく傷つけたみたいで…ええと、ごめんなさい?
疑問符が付いちゃったので少し拗ねさせたみたいだけど意図は無事伝わったみたい。
──こんなところで何してるの?おなかすいてない?
んー、寝てた、のかな? ていうかここどこだろ?
──ふうん。ここはもりのなかだよ。
そう言われて辺りを見回してみたら見事に木だらけだった。うんうん、森だね。
──これおいしいよ。
差し出された果物のようなものを齧る。
わ、美味しい。甘くてジューシィ。
──ずーしー?
小首を傾げるのがたまらなく可愛い。
皮膚がむき出しの皺だらけの頭を撫でてみると気持ち良さそうにしていた。
ニンゲンの住むところだよ、と近くの村まで連れて行ってもらった。
──ここはやさしいニンゲンがいるからすき。たまにくるからまたあそぼうね。
来た方向へ帰っていく背中に手を振って見送った。
一緒に来て欲しかったけど、あのこの家は森の中なんだ。
後姿が見えなくなって、さあ村に入ってみようと振り返って少し歩くと広場のような場所に出た。
そして村も見えてきたので柵沿いに歩いてみる。
入り口はあそこかな?
気付けば、手に手に農耕具だと思われるものを持った村人が数人、こちらを凝視していた。
マントの前をしっかりと握り締めて、愛想笑い全開で挨拶してみたけど村人さんは怖い顔のままだ。
えーと、やさしいニンゲンさんはどこですか。
「おい、あんたっ」
優しそうな人を探す間もなく、怖そうな人に声を掛けられてしまった。
大きな声で詰め寄られて怖い。
「どうしたんだ! 何が、あ、いや、その格好は、いやいや、まずは場所を変えた方がいいな」
怖がったのがわかったのか落ち着いた声で語りかけてくれたこの人は、もしかすると良い人?
顔は怖いけどね。
それにしても何という違和感。妙に色彩が豊かで。
何となく考え事をしていた私に、少し腰を落として目線を合わせて、もしや喋れないのかと心配までしてくれている。
近くで見るととても大きい人だ。筋肉すごい。…でも髪がピンクで可愛い。
ゴツ可愛いギャップに、にやりと笑ってしまった。
ちょっと引かれたっぽいけど、気にしない。
村の中へと案内される途中で名前を聞かれた。そこで、気が付いた。
さっき目が覚めてから、何となく流されてここに来た、んだけど。
私はどこの誰で、何でここにいるだろう?
「わたしはだれ、ここはどこ?」
定番だと閃いた言葉を口にした途端、ピンクの人は盛大に躓いた。
よし、ウケた。
******
「ティアナ」
呼ばれて振り向くより先に、手から桶の重さが消えた。
「ありがとう。でもこのくらい大丈夫なのに」
水汲みくらい、子供でもする手伝いだ。井戸が遠いわけでもなく、桶が大きすぎるわけでもない。
「ティアナがこんな仕事をする必要はない。何度も言っているだろう」
ゴツ可愛いピンク頭の人のこんな態度は、最初こそときめいたものだったけど、今や過保護すぎて鬱陶しさすら感じてしまう。
思わず吐いたため息を正しく理解して、そして独立させてください。
この村に来た私が簡単に受け入れてもらえたのは「巫女」という能力のおかげだった。
「巫女」というのは人ならざる者と交流できる存在で、その中でも魔物と心を交わせる「魔物の巫女」は人気で引く手数多なんだとか。
「魔物の巫女」の他にも「精霊の巫女」や「自然の巫女」などいろいろと分かれているけれど、精霊はプライドが高く自然はちょっとぼんやり、つまり扱いにくい。
魔物は人や家畜を襲うこともあるものの、巫女がうまく交流すれば天変地異や危険が近付くと警告をしてくれるという、防災面で大変役に立つ。しかも交流が上手くいっていさえすれば襲って来ない。
と、いうものらしい。
要するに、私にはこの村まで送ってくれたような「魔物」と仲良くできる能力がある。
村の辺りには下位の魔物しかいないけど、下位の方が脅威に対し敏感で役に立つことが多い。
この村に置いてもらえるのは「魔物の巫女」の能力のおかげ。そして魔物たちが教えてくれることのおかげ。
それは大切なお仕事。警告だけじゃなくて森の中の様子も聞き逃さないように気を付けないといけない。
大切なお仕事とはいえ、普段は近くに気配があったら挨拶をするくらいで特別なことなんてしてない。
しかも考えるだけで伝わるから、疲れもしなければ歩き回る必要さえないのだ。
巫女とはそういうもので、どーんと構えてれば良いそうだけど。そんなことだけで三食昼寝付きは居心地が悪くて、できることはさせてもらってる。
森の中にある小さな村だから皆で助け合って暮らしているのに、体だって動くのに、一人だけ特別扱いなんてイヤだ。
他の人たちは、それで良いなら助かる、と微笑んでくれるのに、この人一人だけは頑固というかなんというか。
事あるごとに私から仕事を取り上げてしまう。
最初は「魔物の巫女」だから何もしなくて良い、と言っていたのが途中から、手が荒れるからダメ、日に焼ける、髪が痛む、靴ズレができる、爪が欠けるetc…
流石に言ってる事がおかしいと彼の父親である村長さんに言いに行くと、
良い所見せたいんだろう、我慢してやってくれないか、と苦笑され。
あいつも三十路になろうというのに良縁に恵まれて無くてね、いや無いこともなかったんだがこの村へ嫁ぐとなるとなかなかね、いろいろあってヤキモキさせられたものだが良い相手に巡り会えたようで良かった、よろしく頼むよ。
と口を挟む間もなく一息で言うと足早に去って行った。
私にも選ぶ権利をください。
相変わらず私の記憶は戻らない。
この村に来たときは、マント一枚羽織っただけで、身元を表すものは何も持っていなかった。
かなり高級品のマントだから身分は高そうだと言われたけれど、下着もつけずに素肌にマントというほぼ裸で放り出されていたあたり、何かトラブルに遭ったんだろう。
領主さんから身元引き受けの話があったけど、人前に出て、また揉め事に巻き込まれる可能性があることを考えると怖くて行けなかった。
それなら良くしてくれる村の人たちの役に立ちたい。
******
抜けるような青空の下、子供たちがキャーキャー言いながら走り回っている。
正確には人間の子供と魔物が。
「ティアナが来てからすっかり安全になったよ」と言われるようになったのはこういう光景が当然になってから。
人にとっては貴重で珍しい果物を取って来て、ありふれたお菓子やヤギの乳と交換しては喜ぶ魔物。
森に迷い込んでしまった子供を、大怪我をしながらも守ってくれていた魔物たちもいた。
偏屈の名を欲しい儘にしている大婆に「ずー」と名前を付けられて可愛がられているのは最初に出会った魔物。
話すたびにずーしーずーしー言ってるんだよ、と話したら何やら大婆のツボだったらしい。
それまでは害獣と同じ扱いだった魔物が、実は気の良い存在だったと気付いてからは早かった。
一部、警戒を続ける人もいるけれど、村として魔物を受け入れ、協力体制を組む。
そして、下位の魔物ながら人間と連携を取って戦えば盗賊など敵ではなかったらしい。
周辺に盗賊が出なくなり、格段に安全になった村にはいろんな人が来るようになった。
領主や国の偉い人だというややこしい人たちも「魔物の巫女」目当てに来たけど、村長さんがうまく取り成してくれた、と後で聞いた。
巫女の中でも魔物のは、巫女の意思を無視して連れ出すと魔物が暴れるから大した手間でもないとのこと。少し安心。
そんなことよりも、商人が来るようになったことが嬉しい。
今までは時間と労力をかけて旅をしなければ入手できなかったものが、村にいて手に入る。
それにはすっかり甘味に嵌った魔物たちも喜んだ。
森の奥深くにある貴重な薬草を取ってきてもらっては売り、その対価で彼らが欲しがっているものを購入する。
もちろん、その交渉窓口は私なのだけれど、言葉が通じないなりに身振り手振りで何とかなっていたり。
そういえば意外にも、魔物の一番の理解者はゴツゴツピンクだった。
彼は今までも魔物が近くに来ていても見逃すどころか、たまにパンや菓子を置いていたりしていたらしい。
悪意は感じなかったし、羨ましそうに見てたから、と少し照れながら白状した彼に胸が高鳴った、ような気がした。
******
頭の中にたくさんの声が響く。中でも一際大きいのが。
──いたいいたい? こわい? しんじゃうの?
「大丈夫っ、痛いけどこれは大丈夫なのよ、たぶん! ちょっと、ずー達におやつあげて!」
頭に響き渡るずーの声が余計に苦しくて、口封じを図る。
──ごつぴん、てぃあらが…、 アイス! たべていいの? わああーい!
作戦成功。
隣の部屋にいて見えないけど、幸せ顔でアイスを食べているんだろう。
そんな気配が伝わってくる。ああ羨ましい。
どうでも良いことを考えて気を紛らわせるけど、痛みは容赦なく襲ってくる。
いたいいたいいたいーーー!! いやホント鼻からスイカ出そう!
「もうちょっとだから頑張るんだよ」という声が聞こえるけど痛いものは痛い!
すいかってなぁに?っていうのんびりした声も聞こえる。もう心配してくれないのね…。
スイカは果物、あれ?野菜かな?甘くてジューシーでおいしくてね、日本の夏の風物詩…、って、日本?
「あっ!!」
と思わず叫んだ次の瞬間、待ち望んでいた産声が響き渡った。
「おぎゃぁぁぁぁ」
「おめでとう、五体満足の玉のような女の子だよっ」
胸に乗せられたその子は小さくてシワシワで、ちょっと魔物みたいだと思ったけれど。
こんにちは、私の赤ちゃん。