つめたい夏
閉め切った窓を開け放ち、雲の中に隠れる朝日を見つめて目を細めた。
部屋の反対側にある壁に掛けられた時計を見れば、時計の針は朝の五時十分をさしている。
加奈子はキッチンの冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出してコップにいれ、テレビをつけるとラグマットの上にそのまま腰をおろした。
テーブルの上には昨日の仕事帰りに買って来たロールパンが置いてある。それを彼女は無造作に袋から取り出して、何も付けずにそのままかぶりついた。
焼きたてではないが、パンの芳醇な香りがした。だからといって、特別おいしいというわけではない。
彼女はパンを食べたのは久しぶりだなと思い出し、普段の朝食よりたくさんの量を食べた。
加奈子は今年で二十九歳になる。そして入社してから九年目を迎えた、会社ついて熟知した中堅の会社員だ。
彼女の両親は共に宮城で二人だけの年金生活をしている。そして、愛娘の加奈子は未だ独身で一人暮し。会社へ行けば頼りになる先輩として後輩に慕われ、上司もそんな彼女を認めてくれている。たまに大きな仕事を任せてくれ、彼らの信頼に応えたくて夜を徹して働いたこともある。もしかすると、近いうちに昇進の話があるかもしれない。上司が飲み会の席で何気ない一言を呟いていたことを思い出す。
壁掛け時計が六時を知らせるメロディーを流すと、彼女は椅子の上に投げ出されていた鞄を手にして外に出た。
外はすっかり夏仕様で、電車に乗れば目に付くものは全て目に涼しい物ばかりだった。
例えば広告も白や青などの清潔で涼しさを思わせるものだし、電車に乗ってくるOLも、やわらかい皺を寄せた薄くて軽そうなスカートにミュールをはく姿ばかりが目に付いた。かくいう加奈子も、その内の一人だ。
彼女は七駅乗って、東京駅の一つ前で下車した。
外は日が高くなり、車の交通量が増えた事もあって一段と熱気を帯びていた。アスファルトの道路は陽炎が立ち昇って遠くが歪んでいるように見える。
加奈子がぼんたりとその日一日のスケジュールを考えながら歩いていると、いくらもしない内に白い外壁のビルが目の前に現れた。
「加奈子先輩、おはようございます!」
一足早く来ていた後輩が、コンビニの白いビニール袋を提げて彼女のすぐ脇を元気よく挨拶しながら通りすぎていった。
「白石、コンビに弁当もいいけど栄養が片寄るわよ」
と、加奈子は白石という後輩社員に声をかけ、呼ばれた白石は少し恥かしそうな笑みを見せた。
加奈子は彼が男子更衣室のある廊下の角に消えていくのを見送ってから、その足をオフィスの方へと足を向けた。
「部長、おはようございます」
いつもと同じように笑顔で挨拶し、キャスター付きの椅子に腰掛けた。部長はデスク回りに積んだ資料の合間から顔を出して「おはよう」と挨拶を返してくれる。
加奈子の座る目の前のデスクの上には数枚の資料と名簿ファイルにノートパソコンがあるだけで、他と比べると綺麗に整頓されている。
加奈子は鞄の中から四つ折りにした硬く白い紙を取り出して、人に見つからないようにそれを見つめた。
紙の中に書かれているのは数字の羅列。
どこかへ繋がる電話番号である。
彼女の脳内スクリーンには、いつかの彼の顔が思い起こされ、再生ボタンが押された。
――もし僕が帰ってこなかったら、ここに電話していくんだよ。
ある朝突然告げられたその言葉に、まるで夫から離婚を突きつけられたような、戦時下で赤い封筒を受け取ったときのような激しい衝撃を受けたことを覚えている。
目の前に──机を挟んで対峙して──座る彼の顔から真意を見出そうとして、朝日でほのかに色づくその顔を覗き込んだが、目じりに薄い皺をつけて微笑む彼の表情からは結局何も読み取ることはできなかった。
そこでいつもフィルムは途切れる。
そして、彼は三年経った今も加奈子の元へ帰ってきていない。
三年間、加奈子は彼の居場所も、それどころか生死さえもわからずに暮らしてきた。それでも、こうして最後に残った彼の手がかりである電話番号に、加奈子は電話をする気になれなかった。
なぜなら、この電話番号へかけてしまった時、きっと認めたことになってしまう。
それを私は怖れている。
加奈子は紙を鞄の奥へ押しこみ、ノートパソコンを立ち上げた。すると、彼女の中のどこかにあるスイッチも入って仕事に専念できるようになる。
時間が経ち、続々と社員が入社してくる。加奈子も短い間隔で人に挨拶する回数が増えた。
「隣堂さん」
と、部長に呼ばれて今度行うプレゼンテーションの打ち合わせに向かう。
「わかりました。ここの部分だけ、直せば良いんですね?」
加奈子はマーカーペンで印された部分を指して確認し、それに部長も頷いた。
「君には期待しているよ」
と、立ち去りかけた彼女の耳に部長のやさしい声援が届いた。
時計の長い針と短い針がぴったり十二時の上で重なった。
加奈子は若い女性社員が群れをなして部屋を出ていってから、財布と携帯が入ったミニバッグを手に席を立った。
「部長、お先にお昼いただきます」
ぺこりと軽く頭を下げて彼女は人の多い廊下を抜け、非常階段の方へと向かった。なぜなら、この時間帯のエレベーターは非常に混雑して待ち時間がとにかく長い。階段を使ってしまえば待っている間に目的地に着けるからだ。
加奈子はするすると軽い足取りで五階から四階、四階から三階へと降りて行った。
「それじゃあ、すみません」
二階の連絡通路の方から、一人の若い男が頭を下げて部屋を出て来た。
彼の服装は空色のポロシャツ姿で、それは誰もが見覚えのある宅配便の制服だった。
加奈子とその宅配便の青年は目線だけで会釈をして擦れ違い、青年はエレベーターのボタンを押した。
カチ、とオレンジ色のランプが二階のところに点く。 加奈子はそのまま階段をおりてしたに行こうとして、
「あの」
彼女は一段降りた所に片足を置いたまま、エレベーターの前に立つ青年を振り返った姿勢で声をかけていた。
「はい」
自分に声を掛けられたと知った青年も、小包を抱えた姿勢で振りかえる。
都合よくエレベーターは8階の所で止まっていた。
相手が何も言ってこないことをいいことに、加奈子はじっと青年を見つめた。
彼の汗で色の濃くなった空色のポロシャツが鮮やかだった。
このビルには二機のエレベータと二ヶ所に階段があり、外部の人の多くは玄関口近くのエレベータを常用する。奥まったこちら側のエレベータはともかく、階段などまったく使われていない。人の出入りがほとんど無いこちら側のエレベータや階段は、荷物の搬入などに多く使われている。
白い蛍光灯が二人の頭上でチカチカと明滅し、タイル床に落ちた二人分の影を揺らした。
廊下が、なぜだか肌寒い印象を受ける。
「その、小包は──」
加奈子は言いかけたところで、
あ、と息を呑んだ。
目の前に立つ青年の肩口に、赤い髑髏毒しいものが見えたからだ。その瞬間から、彼向かって話しかけている自分の声が遠くなっていく。
青年の瞳から輝きが失われ、真っ直ぐ底の無い暗闇が彼女を捕らえようと押し迫ってくる。
気が付けばその肩には黒いような赤い二つの目玉が覗いていた。
──咲け。
加奈子は、赤黒い目を見て強く念じた。
もしここで、気持ちを曲げたり自身の念が弱ければ、逆に自分が『咲か』されてしまう。彼女は目に強い意思を浮かべて二つの目玉を見つめた。
──咲きなさい。
強く強く念じ続ける加奈子の頭の中に、再びスクリーンが現れる。そして失踪してしまったあの時の彼が、その画面の中で微笑んでいた。
明るい茶色の髪を振り、すこしふっくらとした北陸生まれの白い頬を両端に引いて幼く笑う彼の姿が見えた。
優しく差し出す太くて暖かそうな手。それをもう一度握り返したい……。
加奈子は強い力で歯を食いしばり唇を噛み切った。すぐに血が滲み出てきて口の中は鉄の味で満たされる。じくじくとした痛みが彼女を辛うじて現実に引き止める役割を果たしてくれた。
必死に「負けてはいけない」と自分の弱い心に言い聞かせ、硬い盾を作った。
──目を逸らしてはいけないよ。そしたら逆に、相手に『咲か』されてしまうから……。
かなり前、彼から聞いた言葉を思い出し、加奈子は何度も息を吸った。瞬き一つせずに血色に染まった目玉を睨みつける。
咲け──!!
刹那、パンと花火が弾けるような音がして赤黒い二つの目が膨れあがり、一瞬の内に真っ赤な花弁を辺りに散らした。
「あぁ、小包ですか?」
青年の黒い瞳に、柔らかく穏やかな輝きが戻っていた。
加奈子の額や首筋からは気持ち悪い汗が噴き出し、額の汗粒が頬を伝った。
「営業課にお届けなんですけど……」
「営業課? 営業課は六階ですよ。今度は間違えないでね」
にっこりと加奈子は微笑み、エレベーターの扉の上に点いた数字を見た。
六階で止まっていた。
「あ、ありがとうございます。最近担当になったばかりなんです。この辺りの事にまだまだ不案内で……」
配達員の青年は、そう言って被っていたキャップを取って軽く頭を下げた。
「そうなの」
加奈子は硬くなった顔の筋肉を無理矢理引っ張りあげて笑顔をつくると、それじゃあと言って何事もなかったかのように階段を降りて外に出た。
久しぶりに見てしまった……と外の空気を吸って最初に彼女は思った。加奈子が顔を上げると、目の前には昼休みで人のごった返す横断歩道があった。
まさか彼が『咲か』されたはずがない。私よりも強い意思と力を持っていた彼が……。
そう信じているのに、何故か胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
加奈子は軽くため息をついて、高いビルで影になった道路を見た。それから面を天へ向ける。
そこにはずっと高い青空が広がり、あちらこちらから蝉の声がうるさく聞こえてきた。
必ず帰ってくるわ。信じて、そして待っていましょう……。
止めていた歩みを進め、昼食を食べようと予定していたレストランを中止して、近場のカフェへと入っていく。
彼女の体は汗ですっかり冷えきり、店内にきかせたクーラーの風がいつも以上に肌寒く感じられた。