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「立花はこちらの獣医ですが。どちら様ですか?」
楓さんは男性に対して気後れもなく話し始める。
「申し遅れました。わたくし、浜風ペットサロンのオーナー、浜風 楓です」
「ああ。わたしは椿の内縁の夫の渡辺 瑞光です」
渡辺さんは、アルミの名刺ケースから名刺を出した。見たところ、ふつうの名刺よりいい紙を使っているみたい。
「それで? 椿を裏切っておいて今さらなんの用ですか?」
楓さんは背筋を伸ばしたまま、厳しすぎる表情を変えずに行った。
「誤解なんです。椿が見たのは年の離れた妹で、浮気相手なんかじゃないんです」
「だとしても、あやまりに来るのに時間がかかりすぎたのではありませんか?」
「わかってます。でも、骨髄バンクから呼び出しがあったから遅れたんです」
思いがけない言葉にはっとする。渡辺さんは嘘をついているようには見えなかった。
「椿とは、猫エイズの野良猫を飼ってました。ララと言います。が」
「うん。それで?」
「椿が見たのは全部誤解なんです。あの日、わたしは妹にせっつかれて病院まで連れて行かれたのです。骨髄バンクに合致する患者さんがいたから。でも、それは言うことができなかった。大切な椿を引き留めることすらできずに、それからしばらく入院していましたから」
しん、と水を打ったように音が消える。やがて、ジャンガリアンハムスターのボタンがからからと車輪を回り始めた。
「妹に、瑞希に連れられなければ、わたしは逃げてしまっていたことでしょう。実は、妹は白血病を患っていたことがあり、骨髄バンクで命を救われたことがあるのです」
ここまで話を聞かされたら、楓さんももうなにも言い返すことができなかった。
命をたすけて、愛を失った。そのことがこんなに重くのしかかるとは。
「だから、電話ではなく、直接話をしにきたのですが。やっぱり都合が良すぎますよね」
「都合良すぎだよまったく。すっかり目が覚めちゃたじゃん」
いつの間にか二階から椿さんが降りてきていた。てっきり出かけていると思ったから、二度驚いた。
「なんにしても、お互い体を大事にしましょ。あと、あなたとはその前から終わってるの。勝手に内縁の夫とか言うな!」
「ララのこと、今でも後悔しているんだ。安楽死を選んだことできみの心をこんなに傷つけるとは思わなかったんだよ」
弱ったな、と椿さんはぼりぼりと頭をかじる。
「安楽死云々はともかく、その前からあなたへの気持ちは終わっていたの。ララがいないのだから、もうお互いにもたれかかって生きていく必要はないでしょう?」
そこまで言われて、渡辺さんは、ああ、そうかもしれないな、と肩を落とした。
ふたりの会話に、誰も言葉を挟むことはできなかった。
つづく




