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8.

 目を覚ましたのは一つの部屋だった。


思い切り身体を伸ばすと同時に、小さな黒い羽がぱたぱたと羽ばたいた。


 あれ…僕は、こんな姿をしていただろうか。


 そう思いながら黒い尻尾を見つめ、ふとベッドに眠る男に気がついた。

 それは、やせ細った老人だった。

 誰だか分からない。

 それでもひどく悲しい気持ちがあふれた。

 男の身体は黒い靄のようなもので覆われていた。

 ベッドへ飛び移り、男の腕に鼻先を触れると靄は一瞬で晴れ消えていった。

 男は老人のような姿から若々しい姿へと変わっていた。

 その懐かしい姿に、思いがけず嬉しくなる。

 男は大きく息を吸った。


 「ありがとう…すごく楽になったよ」


 そう言って、男は頭を撫でてくれた。


 「ああ、本当にここにいたんだね。…良かった」


 男が弱っているのが分かった。

 このままでは命が尽きてしまう。

 力を使おうとしたが男は静かに首を振った。


 「いいんだ」


 男は目を伏せた。


 「もう疲れてしまった。魂が身体から離れようとしている」


 ひどく悲しくて、思わず声を出した。


 『いかないで』


 しかし、きゅううという鳴き声が響くばかりだった。


 「すまない。もう眠りたい。君のお母さんに会えるしね」


 『たわけが』


 そう声が響いて振り向く。

 そこには黒い髪をした美しい女性が立っていた。

 赤い瞳に金色の虹彩が光っている。


 『せっかく間に合ったというのに』


 男は大きく目を見開き満面の笑みを浮かべた。

 その目に涙が浮かんでくる。


 「はは、まさかまた君に会えるなんて」


 男が差し伸べた手を、女は黙って握るとベッドの端へと座った。


 『生きたいと願ったり、眠らせろと願ったり人間は自分勝手だ』


 「悪いね。これでいいんだ」


 女は静かに男の額に軽く口づけた。


 『よく頑張ったな』


 そう言って男の頭を撫でると、男の瞳から涙が零れ落ちた。


 「ありがとう…エラ。ありがとう」


 男は目を閉じた。


 『じゃあな、セドリック』


 女は男から手を離し、今度は自分の頭を撫でた。


 『我々も万能ではない。命は長らえたとしても魂は離れ、二度と目を覚ますことはなかっただろう。長く呪いに抗い続け、魂を擦り減らしてしまったのだ』


 女はそう言って、自分から手を離した。


 『さて、私も時間だ。お前は行くのだろう?彼女を探しに』


 女が何のことを言っているのかは分からなかった。


 それでも、自分は強く頷いた。


 『それなら行くがよい。…お前と過ごせて楽しかったよ。―――。』


 名前を呼ばれたのが分かった。

 それが誰の名前かは分からなかった。

 立ち上がり翼を広げると、窓辺へと飛んだ。

 ふと振り向くとそこには安らかに眠る男だけで女の姿はなかった。

 今度は振り向かず、空に向かって翼を広げた。


 飛び方は知っている。


 それなのに、いても立ってもいられないほどもどかしい…この感情は知らない。

 

 それでも…。


 それでも行くんだ!



 ばさりと翼を羽ばたかせ、ドラゴンは湖のすぐ横へと降り立った。

 黒い影に地面へと運んで貰うと、シャルレーネはふらつきながら地面へと下りて膝を着いた。


 「大丈夫?レーネ」


 振り向くと巨大なドラゴンの姿は消え、エデュランが姿を現した。


 「え、ええ」


 シャルレーネは立ち上がろうとしたが、足が震えて力が入らなかった。エデュランはシャルレーネのすぐ横に座ると、なんなくシャルレーネの身体を抱え上げた。


 「きゃっ」


 シャルレーネは思わずエデュランの首にしがみつくと、エデュランは嬉しそうに微笑んだ。


 「へへ、軽い。こんな風に君を抱えられる日が来るなんて、最高だね!」


 シャルレーネは慌ててエデュランの身体から手を離した。

 こんな風に男の人に抱えらえるのは初めてのことで、恥ずかしさに言葉が詰まる。


 「あ、あな、あなたは…大きくなり過ぎなの。…下ろして」


 「足の力抜けちゃったんでしょ?家まで運ぶよ」


 そう言いながらエデュランは歩き出した。


 「高い所怖かった?」


 「怖いわ。あんな高いところ」


 「そっか、ごめんね」


 そう言ってエデュランは微笑んだ。


 正直戸惑ってばかりだ。

 ドラゴンが人間になることにも戸惑っているのに、それがエデュランだなんて。

 それなのに…シャルレーネは、今こうしてここにいる彼がエデュランだと信じてしまっている。


 「ね、ねえ」


 「なあに?」


 そう言って満面の笑みを浮かべるエデュランの笑顔を直視できず、シャルレーネは目を伏せた。


 「―あなた…今までどうしていたの?」


 「…眠ってた」


 「眠って…?」


 「ドラゴンとして目を覚まして…僕は僕のことを忘れた」


 「まあ…」


 「それからしばらくは色々な場所を彷徨っていた。…どこに行けばいいのか分からなかった。でも、身体は自由でどこにでもいけた」


 「あなたは、一体どこで目を覚ましたの?」


 「…記憶があるのは父上の隣かな」


 「セドリック様の?」


 「そう…今ならわかる。あれは父上だった。でも、その時は大切な誰かだってことしか分からなかった。父上を救おうとしたけど…もう眠りたいって」


 「そう…だったの」


 「父上が眠った後、僕は外へ出た。あれはいつのことなんだろう」


 「セドリック様が亡くなったのは二年前よ」


 「二年!そんなに僕は空を彷徨っていたのか」


 エデュランは目を伏せた。


 「行きたいところがあるのに…それがどこか分からなかった。どうしてもしないといけないことがあるような気がして」


 エデュランは、そう言って唇を噛んだ。


 「それが分からなくて、もどかしくて。考えれば考えるほど苦しくて…ずっと空を巡っていた」


 「…自分を思い出せなくて大変だったのね」


 「違うよ」


 ふいにエデュランはシャルレーネの方を向いた。


 「君だよ」


 「え?」


 「君のことを思い出したかったんだ」


 エデュランは、熱の籠った目でシャルレーネを見つめた。


 「空を飛んでばかりだった。高い場所ばかり巡っていた。君を見つけたあの日、ここの空に戻って来たばかりだったんだ。王都に行ったのはそこに…懐かしい魔力を感じたから。そこで…君を見つけた」


 エデュランの縦長に入った金色の虹彩が煌く瞳を見つめ、シャルレーネは勝手に心臓がとくとくとうるさく高鳴り出すのが分かった。


 「自分が何なのか、どうしてここにいるかなんて考えたことなんてなかった。でも…レーネ、君の姿を見て君だって分かった。それでここまで追って来た。どうしても自分が何なのか思い出せなくて…ただ君のことが」


 「うぅっ」


 美しい顔がどんどんと迫って来るのに耐えきれず、シャルレーネは手をエデュランの顔の前に出してこれ以上近づくのを拒んだ。


 「…なんで嫌がるの」


 「だって…だって。わたし…慣れてないの」


 「何に?」


 「男の人によ!」


 「そりゃ…男だけど、僕だよ!エデュランだよ!」


 「わ、分かっているけれど!」


 「もう」


 エデュランは少し口を尖らせながら、シャルレーネを家まで運んでくれた。


 「ありがとう、もう大丈夫よ」

 

 シャルレーネは家の前に下ろしてもらうと家の鍵を探した。


 「とりあえず何か服を探すわ。男性の服ってあったかしら…」


 シャルレーネが鍵を開けて中に入ると、エデュランは家の中を見渡しながら奥へと入っていった。


 「今ならこの場所…上手く扱えそうだ」


 エデュランはそう言った。


 「人間の姿になることが必要だったのか」


 シャルレーネは首を傾げた。


 「ここは、魔法使いのあなたのお母様が住んでいた場所なのでしょう?」


 「違うよ、ドラゴンだよ」


 エデュランは何でもないことのように言った。


 「え?…どういうこと?」


 「僕がドラゴンなのだから、母上もドラゴンだよ。名前はヴァラクノエラ。エラって呼んでた」


 「…会ったことがあるの?お母様に」


 「この家で暮らしていたんだ。釣りもエラから教えてもらったんだ。街にも行った。…まあ、全部夢の世界の話だけど」


 そう言って、エデュランは浴室の扉へと向かった。


 「服…だよね」


 「そこは浴…」


 エデュランは少し扉に手を翳し、扉を開いた。

 シャルレーネは呆気に取られながら、浴室だった場所を見つめた。

 そこは、様々な服があふれる衣裳部屋になっていた。浴室だった場所よりもずっと広く、壁一面に様々な服が並んでいる。


 「さすが。長く生きていると色々な服を持ってるもんだね」


 シャルレーネは呆気に取られてエデュランの方を向いた。


 「何…これ」


 「異空間」


 エデュランは、ぽかんとしているシャルレーネに微笑んだ。


 「魔法だよ。物を保存するのに便利なんだ。劣化しないからね」


 「こんな魔法…聞いたことないわ」


 「人間は戦うのが好きだからってエラが言ってた。こういう魔法はもの好きしか知らないって」


 「エラ様は…ドラゴンって言ったわよね」


 「そうだよ。人の言葉を理解し、人の姿にもなれる」


 「そんなことが出来るなんて…。普通のドラゴンとは違うの?」


 「…そうかもね」


 エデュランは淡々と続けた。


 「エラは色々な場所を巡ってかなりの年月が過ぎた頃、ここで暮らし始めた。それで、そろそろ肉体も限界かなって時に…父上が来た」


 「セドリック様が?」


 「父上は結構勝手な王様だったらしくてね。己の力に酔って、人を見下してたって。愛人だって散々作りまくって。嫉妬で王妃が狂って父上を呪って死ぬほどだったって」


 「愛人を…散々…」


 シャルレーネは思わず目を丸くした。

 オリヴィア王妃がセドリックを呪ったのは、深く愛していたからでは…。


 「呪い殺すのも殺人罪だからね。王の暗殺未遂を犯したオリヴィアの生家ノスタクス公爵家は、爵位を奪われ国外追放になったってわけ。でも呪われるほど浮気しまくった父上が責められないなんて、ひどい世の中だよね」


 確かに、シャルレーネが幼い頃そんな騒動があった。

 ノスタクス公爵家の仕事まで引き受けるようになったルーファスが、ひどく苛立っていたことを覚えている。


 「子どもは僕と姉上しかいないみたいだけど。で、エラに呪いを払って命を助けてって願ったんだけど言うこと聞くふりして躾をしてやったんだって」


 「躾って…セドリック様を?」


 シャルレーネはさらに目を丸くした。


 「女のことをバカにしてるから、女の姿でぎたぎたにしてやったんだって」


 「ぎた…ぎた?」


 「でも、なんか最後には可哀そうになってね。もう身体が弱っていたから、新しいドラゴン…つまり僕を産んで呪いを消してあげようとしたんだって。そしたら、自分の身体の方が持たなくて…僕を産んだら消えちゃったんだって」


 「そう…なの」


 シャルレーネは話の内容について行けず、頭の中で整理しながら聞いていた。


 「つまり、あなたはドラゴンと人間の間に産まれたのね。だから、ドラゴンになった。でも…」


 「ねえ、僕ってどんな恰好をすれば…」


 そう言いながら部屋に入ったエデュランは、ふと壁にある姿見鏡をじっと見つめた。

 まるで奇妙なものでも見るように自分の頬に触れる。


 「これが…僕?」


 じっと鏡を見つめ、目を細める。


 「なんか不思議な感じ。髪伸びたなあ。それに目って…こんなに赤かったっけ?」


 「目はドラゴンの時に近いかしら」


 「ねえ、僕…何歳になったのかな」


 「あの時から六年だから…」


 「六年!」


 エデュランは目を見開いた。


 「え、ええ。…十八歳かしら」


 「君と同じ歳ってこと?」


 シャルレーネは溜息を吐いた。


 「…わたしも六年経ったの」


 「じゃあ二十四歳?」


 思い切り年齢を言われると、シャルレーネはなんだかおもしろくなかった。


 「…ええ」


 「昔と全然変わってないよ。いや、昔よりずっと」


 エデュランの視線が鏡越しにシャルレーネの身体に走ったのが分かった。


 「…大人になった」


 その視線に戸惑い、シャルレーネは思わず身体を背けた。


 「変わらないわよ」


 「あーあ。でもがっかりだな。…大きくなったら父上みたいに超美男になれると思っていたのに」


 エデュランは確かにセドリックには似ていなかった。

 セドリックの明るい印象とは違い、どこか影がありながらも人を惹きつける魅力がある。


 「似ていないけれど…違う美しさがあると思うわ」


 シャルレーネは思わずそう口にしていた。

 エデュランはゆっくりと振り向くと嬉しそうに微笑んだ。


 「それって…かっこいいってこと?」


 シャルレーネは思わず目を細めてエデュランを睨んだ。


 「さあ」


 シャルレーネは、話を遮るように歩き出すと服を見て回った。服はどれも男性物ばかりで、主に暗い色が多かった。


 「なんだか…魔法使いが着ているような服が多いわね」


 ローブやマントなど、今はあまり使われていない形ばかりだった。


 「あら、これは女性物だわ」


 そう思って思わずドレスを手にする。


 「素敵だけど…」


 「着てみたら?わっ」


 ビッと音がするとエデュランが声を上げた。


 「ご、ごめん。レーネ。君の肩掛けを…」


 エデュランの足元を見ると、歩いていて腰に巻いていた肩掛けを踏んだのか破れてしまっていた。


 「あらま…」


 「本当にごめんなさい」


 「いいの。縫えば使えるわ」


 「お詫びじゃないけど…ここの服昔エラが着ていたらしいから、君が貰ってもいいとおもうけれど…」


 「いえ…背と胸とお尻がとても足りないわ」


 「ああ…エラは色々と大きかったからね」


 「自分で好きな服を選んだ方がいいと思うけど」


 「うーん、今まで選んだことがないから…何が合うのかよく分からないや」


 「じゃあ、これなんか…どうかしら?」


 シャルレーネは胸元を紐で結ぶ白いシャツと濃紺のフード付きのジャケット、黒いズボンを選ぶとエデュランに合わせてみる。


 「これ…あなたの大きさに丁度みたい。本当に背が高くなったわね」


 「そう?」


 ふいにエデュランの手が、優しくシャルレーネの頭に触れそっと撫でて来る。


 「…そうだね。君が小さくなったわけじゃないんだよね」


 「…ええ」


 シャルレーネがその手から逃げるように一歩下がると、エデュランは微笑みながら手を引いた。


 「えっと、下着はどのへんかな」


 「そ、それは自分で探してもらえるかしら。靴は…」


 シャルレーネは自分の足とエデュランの足を近づけて大きさを確認した。足もずっと大きくなっている。


 「…大体の大きさの靴を探してみるわ」


 「ありがとう」


 エデュランは微笑みながら、服を受け取ると部屋の奥へと向かった。

 シャルレーネは何着かエデュランに似合いそうな服を選び、部屋の一番前の棚につり下げた。それから靴も歩きやすそうなブーツや革靴など何点か選んで並べた。靴も並んだものは、ほとんどがエデュランの大きさに丁度良いものばかりだったので、思わず首を傾げた。


 「エラ様は…女性なのよね?」


 「レーネ」


 その時、服を着替えたエデュランが奥から現れた。

 エデュランが悠々と歩くその姿は、美しいだけでなく男らしい逞しさ纏い、シャルレーネは思わず呆けて見つめていた。


 直視出来なかったのは、裸だったからだと思っていたのに。

 思わず手を伸ばして触れてみたくなるような雰囲気が…。


 シャルレーネははっとして頭を振った。


 「どう?おかしくない?」


 「え、ええ、似合っているわ。良かった、服が見つかって」


 見惚れていたことを悟られないように、シャルレーネは口早に答えた。


 「この髪ってどうにかなる?出来れば結って欲しいんだけど」


 「じゃあ…こっちに鏡台があるから座って」


 シャルレーネは、部屋にある鏡台の前の椅子にエデュランを座らせ、置いてあった櫛で髪を梳き始めた。

 少し癖のある髪は、櫛を通せばすぐに綺麗に整った。

 その髪を撫で、シャルレーネは思わず微笑んだ。


 「髪も昔と変わらないわね」


 ふいに鏡に映るエデュランと目が合い、ただじっとこちらを見つめる視線に戸惑う。


 「わ、わたしの話…聞いてる?」


 「あ、ごめん。聞いてなかった。…昔の話だっけ?」


 「え、ええ」


 「君は変わらず綺麗だ。…初めて会った時からずっと」


 うっとシャルレーネは言葉を詰まらせた。

 こんなこと…さらりと言う子じゃなかったのに。


 「そ、それはどうも」


 シャルレーネは、口を閉じた。エデュランは髪の量が多かったので、大きな三つ編みを作ってひとつに纏めた。


 「リボンを…」


 そう言った瞬間、エデュランが胸のポケットを探り紺色のリボンを取り出した。

 それはシャルレ―ネが贈った金木犀の刺繍のリボンだった。


 「…これも空間魔法なの」


 「そうだよ、すごいでしょう?首には今は巻けそうにないからね」


 そう言ってエデュランは太くなった自分の首に触れた。

 シャルレーネは仕方なくそのリボンでエデュランの髪を結った。


 「…本当にごめんね、レーネ」


 「え?」


 「このリボンを…君に投げつけた」


 エデュランはそう言って悲しそうに目を伏せた。

 まるで昨日の出来事のように言うエデュランに、シャルレーネはなんと答えていいか分からなかった。


 「…もういいの、エデュラン。もう…昔のことだわ」


 「でも…僕には―」


 「とりあえず今はこれでいいかしら」


 髪を結び終えるとシャルレーネは言った。


 「後で昔みたいに短く切る?」


 三つ編みに纏めた髪をエデュランは見つめた。


 「前髪は切って欲しいけど。後ろの髪は…伸ばしたままでいいかな」


 「そう?邪魔じゃない?」


 「切ったら僕の立派な鬣がなくなるかもしれないし」


 「ドラゴンになった時のこと?」


 「そう。それに…君に毎日結ってもらえるし」


 エデュランは顔を上げにっと笑ったが、シャルレーネはその笑顔に向かって言った。


 「自分で方法を覚えて」


 「なんか…冷たくない?レーネ」


 エデュランがそう悲しそうに言うと、シャルレーネは深く息を吐いた。


 「とにかく…話をしましょう」


 衣裳部屋を出て居間へ戻るとエデュランは、ふいに窓辺に置いてあるシャーロットの肖像画を手にする。


 「この人が…君の母上、シャーロット様なんだね」


 「え、ええ」


 「すごく綺麗な人だ。君に似てる」


 シャルレーネは目を伏せた。


 「君の父上が全部捨てたなんて…僕知らなかったよ」


 「…今その話はいいじゃない。あなたの話を聞かせて」


 エデュランは、肖像画を置くと長椅子へと座った。

 シャルレーネはその隣にある別の長椅子へと座った。


 「なんでそっち座るの?隣に座ってよ」


 「いいの。その姿にまだ慣れてなくて落ち着かないの」


 エデュランは諦めたように肩を落とした。


 「僕がいなくなって…君はどうしていたの?あの身体中の傷跡…君は一体」


 「傷跡?ああ、あれは…」


 シャルレーネははっとして思わず両手で身体を覆った。


 「あ…どうして?」


 「どうしてって…僕はノエだよ」


 シャルレーネは顔が一気に熱くなるのを感じた。


 「不思議だよね。君の身体ってすごく細くて華奢なのに胸とお尻だけが大きくて」


 無邪気に笑うエデュランを睨みながら、シャルレーネは熱くなった頬を両手で覆った。

 ノエはシャルレーネの胸に顔を摺り寄せるのが好きだった。

 赤ちゃんみたいだと思っていたけれど…あれは。


 「胸は僕の顔がおさまる丁度いい大きさで、めちゃくちゃ柔らかくって…」


 「…愚か者」


 「へ?」


 「エデュランの愚か者!破廉恥!変態!」


 「っ…ひどいな!笑って許してくれたじゃないか。赤ちゃんみたいでかわいいって」


 「だって、だって!…うぅ」


 恥ずかしさに悶えながら、シャルレーネは顔を上げられずにいた。


 「そんなに恥ずかしがる君初めてみたよ。レーネ…かわいい」


 そのエデュランの言葉に、さらに体温が上がる。


 「も、もういいから!黙っていて」


 シャルレーネは大きく息を吸い、顔を覆っていた両手を下ろすと、楽しそうに微笑みを浮かべているエデュランを忌々し気に睨んだ。


 「へらへら笑わないで」


 「僕の自由でしょ?」


 シャルレーネはさらにエデュランを睨んだ。


 「あなたは、いなくなっていないわよ」


 思わず怒りを込めた声でエデュランに告げた。


 「へ?」


 シャルレーネは大きく息を吸うと、気持ちを落ち着けて言った。


 「あなたは…ジュリエッタと結婚したわ」


 「はぁ?」


 エデュランは、ぽかんと口を開けてシャルレーネを見つめた。


 「どうして!」


 「どうしてって…あなたも結婚式を見たでしょう?」


 「結婚式?」


 「わたしと会った日よ」


 「そんな…僕が…結婚?」


 「わたしは、婚約を破棄されてからは家を出たの。あの傷跡は、召使いとして働いていた時に受けた罰よ」


 「召使い?罰って…殴られたってこと?」


 エデュランの瞳の色が赤みを増した。


 「どうして君にそんなひどいことを…一体誰が」


 「もういいの。…セドリック様にここに住まわせて貰ってからは、洋裁店で働いているから」


 「ドレスに刺繍することが仕事?」


 「そう。マーサさんの娘さんのリリシュさんのところで」


 「マーサの娘なんだ、あの人。…でも、分からない。僕は消えてない上に結婚?しかもジュリエッタな 

んかと?」


 混乱するように言うエデュランに、シャルレーネは思わず言った。


 「なんかって…あなたはジュリエッタが好きだった」


 「…好きなんかじゃない!」


 エデュランは苛立った声で言った。

 昔と違い低く凄みのある声に、シャルレーネは思わずびくりと肩が震えた。

 エデュランはそれに気がついたのか、慌てて言った。


 「ご、ごめん、強く言って。昔のあれは…その…ごめん。僕が他の女の子と仲良くしていたら、君が妬いてくれるかなって。あいつ…ライに…言われて」


 「…あなたはわたしよりもライオット・ドルガーを信じていたものね」


 「そ…そうだね。僕は…」


 そう言ってエデュランは深く息を吐いた。


 「でも、ジュリエッタのことなんか好きじゃない。本当だ。そんな気持ち全然なかったんだ。あの子は王子って地位にしか興味がなかった。だから太って醜い僕が運命の相手だなんて…」


 「そんな、ぷにぷにしててかわいかっ…」


 「かわいくない」


 エデュランは目を細めてシャルレーネを睨んだ。


 「僕が居なくなっていない上に結婚したなんて。まったく、なにがどうなっているんだ」


 「エデュラン…」


 「でも、僕だよ」


 エデュランは勢いよく立ち上がるとシャルレーネの足元に跪いて手を握って来た。


 「本当に僕なんだ。レーネ、お願い。僕が本物だ」


 シャルレーネは戸惑いながらもエデュランを見つめた。


 「今すぐその偽者に会いに行こう。すぐに証明するよ。僕が本物だって!」


 「お、落ち着いて、エデュラン」


 赤く目を煌めかせ、興奮したように言うエデュランを宥めるようにシャルレーネは言った。


 「大丈夫よ。…今こうして話しているあなたがあなただってわたしはそう思うの。なぜだか分からないけれど…」


 「レーネ…」


 エデュランは目を細めて昔と同じ屈託のない笑顔を見せた。

 その懐かしい笑顔に、シャルレーネは再び胸がきゅっとなり泣きそうになった。


 「でも、まずは…」


 「いますぐに結婚しよう!シャルレーネ!」


 「え?」


 「世界で一番幸せにするよ!」


 涙は驚きのあまり乾いてしまった。


 「何度でもいうよ。好きなんだ、君のこと」


 「ちょっ…え?」


 「初めて会った時からずっと好きだったんだ。君が僕を庭の茂みの下か見つけてくれた…あの時から」


 「…は?」


 「僕が君のことを好きになってしまったから、父上に君を僕の婚約者にしてもらったんだ」


 「そんな…だって年上は嫌だって…」


 「嘘だよ、あんなの」


 「嘘って…」


 「だって、あんな醜い僕を君はきっと好きになんかならない。僕に好きだなんて言われたら気持ちが悪いでしょう?」


 「そんなこと思うわけ…」


 「あの時の僕は自信がなかった。君を誰にも渡したくなくて無理やり婚約者にしたくせに、嫌われるのが怖くてこっちから嫌いなふりをしたんだ。最低だよね」


 「エデュラン…」


 「素直になれなくてごめん。婚約破棄だなんて嘘だ。君のことずっとずっと好きだったんだ」


 エデュランはそう言って顔を上げた。

 真摯な瞳を見つめられると、シャルレーネは頬がだんだんと熱くなる。


 「待って。待ってよ、エデュラン。あなた好きだなんて一度も…」


 「言ってたよ。毎日…ずっと。…心の中でだけど」


 エデュランは穏やかな笑顔を浮かべ長椅子に上がってくると、呆気に取られたままのシャルレーネの手を自分の方へ引き寄せ、顔を近づけて来る。


 「い、今さらそんなことを言われても」


 シャルレーネは慌てて顔を背けた。


 「僕、君と今すぐしたいことがあるんだ」


 エデュランに低い声で囁かれると、ぞくぞくとする不思議な感覚が身体に走る。


 「な、なに?」


 逃げ腰のシャルレーネを逃がさないように、エデュランは手に力を込めた。


 「交尾」


 「……は?」


 その屈託のない笑顔を、シャルレーネは口元を歪めて数刻見つめた。


 「ああ、じゃなくて性…」


 「エデュラン、待ちなさい!」


 シャルレーネは、声を強めて言った。


 「無理よ、無理!」


 「な、なんで?」


 「なんでって!…無理よ!」


 シャルレーネは無理やりエデュランの手から自分の手を引き抜いた。


 「大丈夫だよ。閨の作法なら十二歳になってからきちんと学んだから。昔はよく分かってなかったけど、今のこの身体になってから十分分かった。君に触れるたびに抑えられないほどの昂ぶりが…」


 「も、もうやめて!」


 シャルレーネは耳を塞いで首を振った。


 「そ、そういうことが目的なら、どこか違う人に頼みなさい!」


 エデュランが目を見開いた。


 「はあ?何言ってるの!嫌だよ!」


 「いい、いきなりそんなこと言うなんて…愚か者!変態!」


 「えー?」


 シャルレーネは、不満げに口を尖らすエデュランを前に両手の拳を握りしめた。


 エデュランは、身体は大人なのにまるで無邪気な子どものようだ。

 中身は十二歳の頃と変わらないのかもしれない。

 でもこんなに好きだなんて簡単に口にする子じゃなかったのに。

 それもこんな性的なことを開けっ広げに…。


 シャルレーネは、自分を落ち着かせるように大きく息を吸って吐き出した。


 「とりあえず…落ち着きましょう」


 「…落ち着いてないのは、君じゃないか」


 「分かっています!あなたが変なことを言うからよ!」


 「好きな人を閨に誘うのは変なことじゃ…」


 「そういう話は禁止!一切禁止よ!」


 「ええー」


 エデュランは肩を落とした。


 「エデュラン…結婚も…閨事も…愛する人同士ですることだわ」


 「もちろん…」


 エデュランは、はっとした様子で目を見開きじっとシャルレーネを見つめた。


 「僕のこと…もう好きじゃない?大好きって言ってくれたのは嘘なの?」


 「あれは…」


 シャルレーネは思わず口を噤んだ。


 「…子どもの…もう昔の話よ」


 「そ、そうだけど。ずっと一緒に居たいって…言ってくれたじゃないか」


 「…」


 「僕が王子じゃないから?僕が王様になれば…君はずっと一緒に居てくれるの?」


 「そういう話じゃ…」


 「じゃあ、僕…王子に戻るよ」


 「え?」


 「偽者を追い払って、姉上から王座を譲ってもらうんだ」


 「エデュラン…」


 「僕が君を傷つけたジュリエッタや君の父上、みーんなに罰を与えてこの国から追い払ってあげる」


 そう無邪気に笑うエデュランの瞳は、ぞっとするほど赤く煌めいていた。

 金色の虹彩の瞳は、人間の形をしていながらもドラゴンそのもののような威圧感がある。


 「そして、君と僕とで永遠に幸せに暮らす。今の僕にはその力があるんだ。最強のドラゴンだからね」


 その笑顔を少し怖いと感じながら、シャルレーネは口を開いた。


 「城に戻りたければ…そうすればいいわ」


 「じゃあ、今すぐ君も一緒に…」


 「わたしは行かない」


 「…どうして?」


 「どうして…ですって?」


 シャルレーネは思わずエデュランを睨んだ。


 「婚約を破棄したのはあなただわ」


 エデュランは大きく目を見開いた。


 「…わたしはそれをもう受け入れた」


 「…っそれは…だから…ごめん。あんなの嘘で…僕…僕は素直になれなくて…でも…シャルレーネ。僕は本当に君のことが…ずっとずっと好きで…」


 エデュランは悲しそうに目を細めたが、シャルレーネは顔を背けた。


 「もう六年も過ぎたの、エデュラン。今さら…」


 「…王子様は要らないって話?」


 「…ええ」


 「レーネ、でも僕は…僕は…」


 エデュランは、悲しそうな声で言った。


 「僕…僕すごい力があるんだ。あの頃とは違う。みたでしょう?ライオットなんかの攻撃も通用しないんだ。ダークウルフだって…どんな魔物よりも強いドラゴンなんだ。君を永遠に守ってあげる。欲しいものだってなんでもあげる。だから…だから…」


 「大変だったの、今まで!」


 悲しそうなエデュランの声を遮り、シャルレーネは思わず声を強めた。


 「…色々な…色々なことがあって…大変だった。…あなたのことなんて思い出せないほどにね」


 「レーネ…」


 「あなたのことなんて…もう忘れていたの。忘れていたのよ」


 シャルレーネはそれだけ言うと口を噤んだ。


 長い沈黙が流れた。


 「…はは」


 エデュランがふいに乾いた笑いを漏らした。


 「バカだな…僕。戻って来られたのが…君を思い出せたのが嬉しくて。君に…僕だって気付いてもらえて…ひとりで盛り上がっちゃって。君が大変な時に傍にいなかったくせに」

 

 エデュランの声は、震えていた。


 「今さら守ってあげるなんて…本当に…バカだ」


 シャルレーネは今にも泣き出しそうなその声に思わず声を掛けようと思ったが、堪えて目を伏せていた。


 「…すごいね。君は」


 「え…」


 「ひとりで…乗り越えて来たんだね。すごいね、レーネ。頑張って来たんだね」


 その言葉に、シャルレーネは驚いた。

 そんなことを言われたのは初めてだった。


 「…やっぱり僕はだめだね」


 エデュランは暗い声で続けた。


 「エラの言う通りだ。ドラゴンなんて…最強だとしても、人間にとっては最低最悪な醜いバケモノだ。こんな僕は…」


 「あなたがドラゴンだからだめ…とかじゃ…ないの」


 顔を背けながらも、シャルレーネは思わず口を開いた。


 「…あなたが…ノエがいてくれてとても楽しかったわ。でも…」


 俯くシャルレーネの膝に、ふいに小さな前足が乗っかる。シャルレーネがはっとして顔をあげると、小さなドラゴンの姿になったエデュランが目を潤ませてシャルレーネを見ている。


 「エデュラン、お願いだから急にこんなこと…」


 『…なら僕はこのままでいい』


 そう頭にエデュランの声が響く。


 『飼いドラゴンに戻るよ』


 「エデュラン…」


 『僕は…僕はただ君の傍にいたい。ずっと、ずっと居たいんだ』


 そう言いながら、小さなドラゴンのエデュランはシャルレーネの手に顔をすり寄せて来た。


 『エデュランが嫌なら…ノエでいるから』


 「嫌だなんて…」


 シャルレーネは戸惑った。


 「違うの。あなたは…またいつか…」


 ジュリエッタに縋るエデュランの姿が脳裏に浮かぶ。

 シャルレーネは、頭を振った。


 違う。

 あれは偽者なのに。

 たぶん…。


 『いつか?』


 シャルレーネは深く息を吐くと、エデュランの頭を撫でた。


 「…エデュラン。あなたはバケモノじゃない。たまたまドラゴンと人との間に産まれただけだわ」


 『そう?魔物だよ?』


 「だとしても…あなたを愛してくれる人はたくさんいる。…今までそうだったように」


 エデュランは黙って目を閉じていた。


 「あなたはあなたの好きに生きるべきだわ。わたしのためじゃなくて、自分のために」


 『僕のために?』


 「そう。偽者を追い払って王様になるのだって、あなたが望んだのでなければ」


 『…分かった』


 ふいに膝の上の手がドラゴンの前足から、人間の手へと変わる。ドラゴンの頭を撫でていたシャルレーネの手は、エデュランの頭にのせられていた。


 「なっ…!」


 シャルレーネは慌てて身体を引いた。しかし、長椅子の端にシャルレーネを追い詰めるような近さでエデュランが隣に座り、手が腰に回される。


 「エ、エデュラン。お願いだから、突然姿を変えるのは…」


 エデュランの腕の中に閉じ込められた状態にシャルレーネはただただ身体を縮こませた。


 「王様になんてなりたくない。僕の願いは、君に僕のことを好きになってもらって…一緒にいること。それがやりたいことだ」


 「わ、わかったから離れて…」


 「好きだよ、レーネ」


 低い声に耳元で囁かれると、ぞくぞくとした感覚が身体を走る。


 「君を愛してる」


 シャルレーネは、思わずエデュランの方を向いていた。


 「そんなこと軽々しく言わ…ないで…」


 思いがけない近さにエデュランの顔があった。

 互いにその近さに戸惑い、数刻見つめ合う。


 「レーネ…」


 シャルレーネははっとして顔を背けた。


 「軽々しくなんかないよ。…だって、ずっと伝えられなかった。もしかしたら永遠に…」


 そう口にしてエデュランは、シャルレーネの頭に額を寄せたのが分かった。


 「ど、どういうっ…」


 エデュランがシャルレーネの頭に唇を押し当てたのが分かり、シャルレーネは再び身体を縮めた。

 

 「…ドラゴンのまま空を彷徨って、君を思い出せなかったかもってこと」


 エデュランはそう言って微笑んだ。


 「とにかく、僕の偽者のこと調べてみよう。六年前に…僕ってどうなってたの?あ、偽者の僕のことね」


 「…あなたはニアの村で魔物に襲われたの。顔に傷を負って…記憶を失ったわ」


 「そう。日常生活の方法とかすべて?」


 「え?いいえ。自分のことや周りの人たちのことを。でも今少しずつ思い出して来てはいるみたいだけど」


 「そっか。…そんな風に都合よく忘れるなんて…魔法でいじられたのかな」


 「魔法で?」


 「闇魔法の忘却術とかなって。で、誰も僕だって疑わなかったの?」


 「顔の傷が大きくて…。でも、服装も何もかもあなたそのものだった。ペンダントはしていたかどうか覚えていないけれど…。あの黒い石は取れてしまったの?」


 エデュランはペンダントを手に取った。


 「ああ、あれは魔石だったんだ。もう効果がなくなって消えた。ああ、でもこのままじゃ寂しいから新しい魔石をいれとこう」


 そう言ってエデュランがペンダントに手を翳すと、煌めく真っ赤な石がペンダントの中央へと現れた。


 「これでよしと…」


 「これは…火の魔石?魔石を作り出すことができるなんて…」


 「ああ、これは…ちょっとね」


 「あの時、あなたがあなただって疑う人はいなかったと思うわ。あなたはジュリエッタ以外のすべてに怯えていたから…」


 「僕じゃないよ、偽者」


 「あ…」


 「記憶を消されて何か刷り込まれたのかな。顔を潰されて…今も?顔のない男とジュリエッタは結婚したの?」


 「い、いいえ。ジュリエッタは教会で治癒魔法を取得したわ。聖女の力に目覚めて顔を完全治癒させた」


 「へえ…」


 「今は…セドリック様によく似ているわ」


 「そう。…変身魔法か。でも、それなら魔道具が探知するか。それに、そんなに長く姿を保っているなんてエラにも聞いたことがないな」


 何かぶつぶつと言いながらエデュランは目を伏せていた。ふと、セドリックが仕切りに撫でていた卵の石像のことをシャルレーネは思い出した。


 ノエの大きさを考えるともしかして、エデュランはあの卵から産まれたのだろうか。


 「あなた…セドリック様のお屋敷で目覚めたって言っていたわね」


 「うん」


 「それなら、マーサさんが詳しい状況が分かるのではないかしら。セドリック様と二人で…なにか知っていそうな雰囲気だったわ」


 「マーサか…なるほどね」


 「オディール様にも手紙で…」


 「あー…それはやめておこうかな」


 「…会いたくないの?」


 「会いたいけど…今の状況を説明するのは難しいから。姉上を混乱させるかも」


 「それは…そうだけれど」


 妊娠中のオディールのことを考えると、エデュランが正しい様な気がした。


 「とりあえず…僕はここに居てもいいよね?」


 「こ、ここは…あなたのお母様の家だわ。出て行くのならわたしが…」


 「それはだめ。絶対だめ。…僕から逃げられないよ。どこまでも追い掛けていくからね」


 エデュランのまるで獲物を狙うような視線に、シャルレーネは思わず身構えた。


 「…変な冗談いわないで」


 「本気だもーん」


 そう言ってエデュランは微笑んだ。


 「じゃあ、僕はここに居させてもらうね。当面の生活費を払うよ」


 エデュランはゆっくりと立ち上がると、再び浴室の扉に手を翳した。


 「どのくらいあったら…普通の生活って出来るの?」


 そう言いながら開いた扉の先に、シャルレーネは目が眩んだ。

 金貨や宝石が積みあがった部屋は、また異空間というものなのだろう。

 しかし、あまりにも広い空間に収められたそれは計算などできないほど膨大な量だった。


 「エラが遺産として僕にくれるって。たまたま寝ていた山奥で見つけたりして綺麗だから集めてみたって」


 「集めてみたって…」


 「で、いくらあったらいい?」


 シャルレーネは茫然としたまま首を振った。


 「必要なら…こっちから言うわ。マーサさんからも月々結構なこの家の管理料を貰っているの。セドリック様の遺産だって言われて…」


 「でも、それに僕の生活費は含まれないでしょう?ノエの時、僕が持ってきた宝石も受け取らなかったじゃない」


 「だ、だってあんな高価なものどうすればいいのか…」


 「洞窟から見つけただけで、盗んだりしてないんだよ」


 「…そうだとしても」


 「じゃあ受け取って。…今のお金ってこれだよね」


 そう言ってエデュランは一つ箱から袋を四、五個取り出すと中を確認した。


 「とりあえずこのくらい?」


 エデュランがなんでもないことのようにシャルレーネに渡した袋の中には、金貨が詰められていた。枚数的には一袋三百枚はあるだろうか。シャルレーネが一か月ほど掛けて仕上げる刺繍の給金は金貨十五枚だ。ドレスが売れた月はもっと貰えることもあるが、正直マーサからの管理料に頼っていないとはいいきれない。


 「…悔しい」


 思わずシャルレーネは呟いた。


 「え」


 「でも、使わせてもらう。とりあえず一つでいいわ」


 「そう?」


 シャルレーネはそのずっしりとした袋を一つ受け取った。


 「ドラゴンってすごいのね」


 「そう?」


 「だってこんなにお金があれば何でもできそう。もっと大きな屋敷に暮らして召使いになんでもやらせて…」


 「そうする?」


 「い、いいえ」


 シャルレーネは慌てて首を振った。

 すると言ったら、明日にでもここが豪邸になっていそうでぞっとする。


 「わたしは今の暮らしが気に入っているの」


 「エラも自分で出来ることは何でも自分でしたいんだってさ。あ、お金はいつでも取り出せるように調整するから。どうしよう…空間を魔力なくても切り替える仕掛けか」


 そう言いながら、エデュランは顔を上げた。


 「僕も仕事を探さないと。あと人間としての市民登録も必要か…」


 「こ、これだけお金があるのならあなたは働く必要もないと思うけれど…」


 「え、そういうものなの?…でも君は働いているのでしょう?僕もなにかやってみるよ」


 そう言ってエデュランは楽しそうに笑った。


 「とりあえず、マーサさんと連絡を取りましょう」


 シャルレーネはマーサから貰った手紙を戸棚から取り出した。王室のメイドを退職したマーサは今隣国のルドラにいるという。月に一度手紙を送ってくれていた。


 「どのくらいで連絡取れるかしら。今紙を…」


 「大丈夫。僕の魔法で飛ばせるから。…この布もらってもいい?」


 エデュランはそう言うと、シャルレーネの裁縫箱から布の切れ端を摘まんだ。


 「いいけれど…」


 エデュランは、その布に向かっていった。


 「エデュランです。目を覚ましました。連絡くださーい」


 エデュランが布に手を翳すと長机の上で、それはくしゃりと形を変えて小さなドラゴンになった。


 「まあ…かわいい」


 「でしょ。さ、マーサのところに頼むよ」


 布のドラゴンは蝙蝠の翼を広げると宙に消えた。


 「こんな魔法…初めてみたわ。手紙じゃなくて声を届けるのね」


 「そう。…マーサ、僕のこと分かるかな」


  少し心配そうに俯くエデュランにシャルレーネは微笑み掛けた。


 「きっと大丈夫よ」


 「うん…」


 「明日リリシュさんのお店にも行って、居場所を聞いてみましょう。近くにいればこちらから会いに行ってもいいし」


 「そう…だね」


 「そろそろ夕飯の準備をするわ」


 「僕がやるよ」


 「え…」


 「今は手がちゃんと使えるから、影にさせてたこと何でもできるしね。あ、でも今日は君のご飯が食べたいから手伝いをするよ」


 そう言ってエデュランは嬉しそうに微笑むのをシャルレーネは戸惑いながら見つめた。


 「わ、わかったわ」


 シャルレーネは、地下の貯蔵室を眺めた。


 「豚肉を焼いて食べようかしら。後はジャガイモのスープと…」


 「了解、じゃあジャガイモの皮剥くね」


 エデュランがナイフを持っていると、シャルレーネはなんだかひやひやした。しかし、エデュランはどこか慣れた様子でジャガイモの皮をむいてくれた。


 「あー、夢だと上手くいってたんだけどな」


 ジャガイモの皮を分厚く剥いてしまったエデュランが悲しそうに言った。


 「影の方が上手なんて悔しいな。練習しよう」


 ジャガイモはエデュランに任せて、シャルレーネは豚肉の準備を始めた。


 「おっと…」


 その呟きに振り向くと、ナイフで切ったのかエデュランの指からは赤い血が滲み始めていた。


 「エデュラン!」


 「大丈夫、大丈夫。人間の身体って脆くて不便だよね」


 そう言いながら、エデュランの指の傷はみるみる消えていった。


 「まあ…あなたって治癒術を使えるの?そういえば、わたしの身体の傷も…」


 「あー僕の魔法は、再生術かな」


 「再生?」


 「そう。…ちょっと特殊」


 エデュランは何かを誤魔化すように言葉を濁した。


 「攻撃であれば、防御魔法が勝手に発動するんだけど、料理の傷は攻撃にはならないからね」


 「そう…なの?」


 「でも、怪我したときはいつでも言ってね。すぐに治してあげるから」


 そう言ってエデュランは微笑んだ。

 その日、夕食に豚肉の香草焼きと焼き野菜、そしてジャガイモとベーコンのスープとパンが並んだ。


 「いただきまーす」


 そう言って豚肉を切り分け一口食べるとエデュランは微笑んだ。


 「うーん、君の料理ってやっぱり美味しいや」


 「そう?よかった。あなたが手伝ってくれたから…」


 「こんな美味しい料理、誰から教えてもらったの?」

 

 「レイダさんっていう人に習ったの」


 「へえ。どこで?」


 「お母様の実家のアガモット家よ」


 レイダを思い出し、シャルレーネは思わず微笑んだ。


 「素っ気ない人だったけれど優しい人だったわ。仕事が丁寧だって言って貰えて…嬉しかった」


 「そう。そこで…召使いをしてたんだ」


 「ええ。レイダさんが教えてくれたの。ここじゃなくても、もっと違う生き方があるって…」


 そう言いながら、思わずアガモット家の名を出してしまったことにはっとした。黙って微笑んでいるエデュランを見つめる。


 「エデュラン…変なこと考えていないわよね」


 「…考えてるよ」


 「…アガモット家になにかしようとしている?」


 「さあ」


 エデュランの嘘くさい笑顔を見つめながら、シャルレーネは溜息を吐いた。

 エデュランはノエの時のように並べられたものはぺろりと食べてしまうが、量は昔ほどたくさん食べないようだった。


 「足りたかしら。もう少しお肉を焼く?」


 「もうお腹いっぱい!ごちそうさま」


 食事を終えると、エデュランは皿をまとめて台所へと持って行った。


 「え?何をしているの?」


 「え?片付け」


 「ええ?いいわよ、わたしが…」


 「大丈夫。片付けも今までやってきたでしょう?」


 そう言って、慣れた手つきで皿を洗い始めるエデュランをシャルレーネは戸惑いながら見つめた。エデュランはシャルレーネの分まで皿をきっちりと洗ってくれたので、シャルレーネはいつものように皿を受け取り布巾で拭いていると、エデュランはノエの時と同じように水場の水滴の掃除までしていた。


 「…料理や皿洗いはどこで習ったの?」


 「夢の中」


 「え?」


 「エラが教えてくれたんだ、一般常識の家事。王族って大変だけど、自分達の生活の仕方を知らないのはおかしいって」


 エデュランの笑顔をシャルレーネは戸惑いながら見つめた。


 「ねえ、お風呂に入ろうよ」


 そうなんでもないことのようにエデュランは言った。


 「…何言っているの?ひとりで入って」


 「いつも洗ってくれたじゃない。ノエになるからさー」


 「駄目に決まっているじゃない!」


 「えー、じゃあ夜は一緒に寝ようね」


 「…は?」


 シャルレーネが瞬きをした瞬間、目の前に小さなドラゴンが目を細めてぱたぱたと飛んでいた。


 『いいでしょ?』


 「駄目よ。何を言っているの!」


 『ええー』


 「私の寝室の向かいが空いているからそこを使って」


 『いいじゃん。今までずっと一緒に寝てたんだから』


 エデュランがきゅるりと目を潤ませて見つめてくるので、その可愛い上目遣いにシャルレーネは思わずうっと呻く。


 『君の胸じゃないと僕眠れなーい』


 シャルレーネは拳を握り締め、声を張り上げた。


 「変態!エデュランの変態!」


 「ごめんごめん、冗談だって」


 あっという間に人間の姿に戻って、楽しそうに笑うエデュランをシャルレーネは再び忌々し気に睨みつけた。



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