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7.

 それからも、ノエは影を操り、料理や掃除を一緒にしてくれるようになった。特に洗濯は、シーツなど大きな洗い物を、影を使って絞り干して貰えるととても助かった。


 ノエと過ごす生活が、シャルレーネにとって日常になっていた。


 お気に入りのチョコチップクッキーを食べながら、昼間はまるで話し相手のように傍にいてくれて、夜は同じベッドで眠った。

 そして、時間を忘れて作業にのめり込んでしまうシャルレーネに、ノエがご飯の時間だと教えてくれるようになったのでしっかり食べるようになった。

 シャルレーネはノエに新しいリボンをあげた。汚れてもいいように黒地に勿忘草の模様を刺繍してあげると、ノエは嬉しそうに目を細めて喜んでくれた。


 ある日、ノエは思い立った様子で外へ出ると、家の外の物置へと向かった。そこから慣れた様子で取り出したのは釣り竿だった。

 窓からその様子を見ていたシャルレーネは驚いた。


 「え…釣りを?」


 ノエは釣り竿とバケツを手に、シャルレーネに拳を振り上げて合図をすると、湖の周辺をとてとてと歩き回り餌となるミミズを探しているようだった。


 「ノエ…まさかここに暮らしていたのかしら?」


 シャルレーネは刺繍をする場所を中庭に面した窓辺へ移し、そこの窓を開けるとノエの様子を眺めていた。ノエは影を操り釣り針にミミズをつけると、釣りを始めていた。

 しかし、あまり釣れないのか恨めしそうに湖を眺めている姿が目に入った。


 「久しぶりに、湖でお昼でも食べようかしら…」


 お昼が近づくとシャルレーネは思い立って、昼食にサンドイッチを用意した。

 ベーコンを焼き、レタスと半熟の卵そしてノエのためにトマトを抜いた分も用意する。

 籠を手に外へ出ると、ノエのところへ向かった。


 「ノ…」


 そう声を掛けようとした瞬間、ノエが突然大きなドラゴンへと姿を変えた。


 「えっ?」


 ふいにノエはしっぽを湖へと突っ込むと、湖の水を思い切り弾いた。


 「きゃっ!」


 シャルレーネは飛んで来る水しぶきから籠を守るように身体で庇うと、水とともに何匹も魚が飛んで来るのが分かった。


 『きゅーきゅ!きゅきゅ!』


 ノエは小さなドラゴンになると慌てて、シャルレーネの方へと駆け寄って来た。


 『きゅきゅう!』


 「ふふふふっ」


 シャルレーネは、地面でびちびちと跳ねる魚を見つめながら思わず笑いだしていた。


 「あははははっ、あなたってせっかちなのね。あんな魚の取り方なんて、きっとあなたにしか出来ないわ。あははははっ」


 ノエは目をきゅるりとしてシャルレーネを見つめた。


 『きゅう…きゅ』


 「ふふふ、わたしなら大丈夫よ」


 シャルレーネは風の魔法を使うと、身体を乾かした。


 「ねえ、お昼を作って来たの。一緒に食べましょう」


 『きゅう!』


 ノエと散らばった魚を集めて回ると、十匹くらいは集まった。

 サンドイッチを食べながら、シャルレーネはバケツの中の魚を見つめた。


 「これ…鱒ね。お魚屋さんでみたことがあるわ」


 『きゅきゅ』


 「わたし食べたことないのだけれど…どうするの?」


 『きゅ!』


 そう言って、ノエは目を細めて胸を叩いてみせた。


 「じゃあ、夕食はあなたに任せようかしら」


 『きゅきゅ!』


 はぐはぐとサンドイッチを食べるノエの頭を撫でて、シャルレーネは微笑んだ。

 その日は、釣りを続けるノエを眺めながらデッキにある机に道具を置き刺繍をした。

 夕食の時間が近づくと、ノエは魚を一匹ずつ木の枝に刺し塩を振り始めた。そして、枯れた木と木の葉を集めて来ると、影からまるで火の粉のようなものをぽんと取り出し、湖の傍で焚火を起こし始めた。


 炎の魔法まで使えるなんて…。


 シャルレーネが驚きながら見ているとノエは、焚火の傍の地面に木の枝に刺した魚を刺して焼き始めた。香ばしい匂いにシャルレーネも道具を片付けて湖まで向かうと、ノエの隣に座った。


 「ノエって本当になんでもできるのね」


 『きゅ!』


 「…もしかして、ここで暮らしていたの?」


 ノエは少し首を傾げた。


 『きゅきゅう』


 そう言ってノエが差し出したよく焼けた魚を、シャルレーネは少し冷ましながら口にした。


 「まあ、美味しい!このお魚、口の中でほろほろほどけていくみたい」


 『きゅきゅ』


 ノエはどやと言わんばかりに、頷いてみせた。

 その顔を見て、シャルレーネも思わず微笑んでいた。


 「なんだか…あなたが来て、わたし笑うことが多くなったみたい。ありがとう、ノエ」

 

 そう言ってノエの頭を撫でるとノエは嬉しそうに目を細めた。


 その日の夜は新月だった。


 夜になると、ノエはいつもシャルレーネの部屋にやって来る。

 シャルレーネが眠る時に一緒にベッドに入るはずだった。

 しかし、その日ノエはシャルレーネの部屋に来なかった。


 「ノエ…まだ外にいるのかしら」


 シャルレーネは、ランプを手に玄関を出た。

 月のない夜空には、無数に散らばる星々が煌めいていた。

 湖の方を向いて、シャルレーネは思わずどきりとした。湖の横に横たわるのは、大きなドラゴンへと姿を変えたノエだった。

 深い深い暗闇のような鱗の身体に、空と同じように星々が煌めいている。

 まるで空の闇を吸い込んだようなその姿は、神秘的な美しさを放ち、こうしてみると…夜の世界に生きる魔物なのだと痛感する。

 ノエがゆっくりと目を開いた。


 「あ、ご、ごめんなさい。邪魔するつもりはなくて…。ただ…どうかしたのかなって思って。じゃあ…」


 シャルレーネは見てはいけないものを見たような気がして、慌てて踵を返すと戻ろうとした。

 しかし、何かに寝間着の裾を握られはっとする。

 影がシャルレーネの寝間着を握り、ノエがじっとシャルレーネを見つめていた。


 『ヴヴ…』


 怖がらないで。

 

 そう言われたような気がした。


 「怖くないわ。ここにいても…いいの?」


 ノエが頷くので、シャルレーネはおそるおそるノエの傍に近づくとその頭の隣に座った。

 ランプの灯りを消し、ノエと共に空を見上げる。

 ふわふわの鬣から香る石鹸の匂いに、シャルレーネは思いがけずほっとしていた。


 「ふふ、わたしと同じ匂いがする」


 そう言ってシャルレーネはノエの鬣を撫でた。


 「鬣も髪専用の石鹸で洗ったほうがいいのかしら。でも、こんなにふわふわなんて…羨ましいわ」


 ノエがシャルレーネの手に顔をすり寄せて来た。


 「…ノエはわたしと居てもいいの?」


 思わずそう呟くようにノエに声を掛けていた。


 「行かないと…帰らないといけないところはないの?」


 『ヴヴ…』


 「…ごめんなさい。わからないけれど…あなたがずっとここに居てくれたらわたしは嬉しいわ」


 シャルレーネはそのままノエの頭に顔を埋めた。 



 ノエと暮らして十日が過ぎようとした頃、ドレス生地への刺繍を終えた。丁度その日の夕方、リリシュが訪ねて来た。


 「そろそろあなたが倒れる頃かと思っていたけれど、案外元気そうね」


 リリシュはパンと鍋に鹿の赤ワイン煮込みを作って持ってきてくれた。


 「前のドレスの時は、わたしが来た時には部屋で倒れていたわよね。お腹をぐーぐー鳴らして…」


 「す、すみません」


 恥ずかしさに目を伏せながら、シャルレーネは視線でノエを探した。ノエはどこかに出掛けて戻ってきていないようだった。


 「まあ、本当にもう出来上がったの?…なんて素晴らしいの!」


 刺繍を眺め、リリシュは感嘆の声を漏らした。


 「こうやって見事に刺繍が施されると違うわね。この中心をビーズできらきらさせているのなんて本当に見事。後は店に持ち帰って完成させるわ」


 リリシュはうっとりとドレス生地を見つめ、笑顔で顔を上げた。


 「しかも今回は随分顔色がいいのね」


 「え?」


 「いつも完成させたとき青白い顔してるから…」


 「あ…それは」


 ノエがいるからと口にしそうになって、シャルレーネは口を閉じた。


 「なになに?恋人でも出来たの?」


 「ち、違います!」


 シャルレーネは慌てて言った。

 リリシュに紅茶を淹れ二人で飲んでいると、ふいにリリシュが言った。


 「シャルレーネ、一仕事終えたところだけれどまた刺繍の依頼をしたいのだけど…大丈夫?」


 「もちろんです」


 「よかった!薔薇の刺繍はしたことある?」


 「はい、何度か」


 「じゃあ、次はこんなドレスに大きく薔薇の刺繍をして欲しいの」


 そう言ってリリシュは、何枚ものドレスの図案を取り出して来た。


 「こんな風に胸元を綺麗に覆った感じの…。実は、またローデル伯爵夫人から依頼を受けたの。あなたとわたしの夜会用のドレスが見たいって!」


 そう興奮した様子でリリシュは言った。


 「まあ、そんなに気に入ってもらえるなんて…」


 喜ぶリリシュの姿にシャルレーネも嬉しくなった。

 王都で眺めていた舞踏会のことを思い出し、あの美しいドレスの中に自分が刺繍をしたドレスが並ぶと思うと思いがけず頬が緩んだ。


 「ええっと」


 シャルレーネは気を引き締め、図案を見つめた。

 いつもドレスの絵に、刺繍して欲しい場所を指定してある。そこにシャルレーネが直接刺繍の絵を書き込み、リリシュの許可が出れば刺繍を始める。


 「こう…胸だけを覆った感じだと少し下着のような雰囲気になりませんか」


 「あら、それロバートにも言われたわ。胸を強調し過ぎていると」


 「伯爵夫人にはあまり好まれないかもしれません」


 「じゃあ、こっちはどう?」


 リリシュはそう言って胸元の中央に薔薇の刺繍が入る形の図案を差し出された。


 「…これなら薔薇の色々な向きや形の図があった方がいいですね」


 「とりあえず、両方に刺繍の図案を書き込んで見てくれない?薔薇の形は…図鑑とかじゃ無理かしら」


 「わたし…図鑑はなくしてしまって」


 大切にしていた図鑑も、アガモット家で取られてしまっていた。


 「…どこかに薔薇が咲いているところを知りませんか?」


 「そうねえ…花屋の薔薇を買い占めるわけにも行かないし…」


 リリシュは数刻考えこんだ。


 「薔薇…そうね。あ!東の森の付近に見事な赤い薔薇が咲く場所があるってロバートから聞いたわ。鹿を追って見つけたんですって。山道に入って少しした野原って聞いたけど」


 「わかりました。行ってみます」


 「ロバートと一緒に行ったら?」


 「いえいえ、あの辺りは歩いて行けない距離ではないので。…時々は運動もしなくては」


 「ロバートのこと…嫌い?」


 「え?」


 リリシュの何気ない言葉に、シャルレーネは驚いた。


 「そんなことは…」

 

 「じゃあお勧めするわ。最近彼女とも別れたみたいだし。なかなか出来た息子でしょ?」


 リリシュは目を伏せて言った。


 「こんなことを言っては…なんだけれど。王子様はもういないのよ」


 その言葉にシャルレーネは苦笑した。


 「分かっています。…心配を掛けてしまって」


 シャルレーネは顔を上げた。


 「王子様はもう要らないのです」


 リリシュが目を見開いた。


 「まあ!」


 「みなさんのお陰で、わたしはこうして一人でも生活できるのですから」


 「逞しいわね、シャルレーネ。でも…どう?一回くらいロバートと食事にでも…」


 その時、ふいに膝に重みを感じた。

 鋭い目つきでノエがシャルレーネの膝の上に居た。


 「ノ…!」


 「あら!ワンちゃんを飼い始めたの?」


 「え…ええ」


 膝にいるのは、確かにドラゴンのノエだった。


 『きゅう!』


 まるで威嚇するようにリリシュに向かってノエが鳴いた。


 「あらあら…」


 リリシュは困ったように身体を引いた。


 「嫌われちゃったわね。シャルレーネを取られると思っているのかしら」


 ノエはなぜか頭をシャルレーネのお腹にぐりぐりと押し付けた。


 「な、なに?どうしたの?」


 『きゅーう!』


 リリシュは笑顔でシャルレーネを見つめた。


 「なるほど、この子がいるから要らないわね。ふふ、これ以上余計なことを言ってあなたを困らせてはいけないわね」


 リリシュはそう言って立ち上がった。


 「野薔薇を見つけに行くのなら、明るいうちにね。夜はあの森も魔物が出るから」


 シャルレーネはノエを抱き上げると立ち上がった。 


 「ええ、ありがとうございます」


 「じゃあ、ワンちゃん。シャルレーネをよろしくね」


 リリシュはそう言うと帰っていった。

 ノエはまだ不機嫌なのか、シャルレーネの頬をはむっと噛んだ。


 「きゃっ!」


 ノエはむっとした顔つきのままシャルレーネを睨んだ。


 「痛く…はないけれど、どうしたの?ノエ」


 『きゅい』


 知らないと言わんばかりにノエは顔を背けた。


 「ねえ、ノエ。機嫌を直して…ね」


 シャルレーネはノエの頬にちゅっとキスをすると、ノエは鋭かった目をきゅるりとした丸い目に戻し、短い前足で自分の頬を撫で、シャルレーネをじっと見つめた。


 『きゅーきゅい』


 「許してくれるってこと?よかったわ」


 シャルレーネは微笑んだ。

 

 「ねえ、明日赤い薔薇を探しにいかない?あなたが空から見つけてくれたらきっとすぐに見つかるんじゃないかしら」


 ノエはふんふんと頷き、ごめんなさいと言う様にさっき噛みついたシャルレーネの頬を舐めた。


 「ふふ、ありがとう」


 そう言ってシャルレーネはノエの頭を撫でた。


 次の日、シャルレーネは籠にスケッチの道具と昼食にサンドイッチを詰めると、帽子を被り、肩掛けを羽織ると東のアンガルの森へと向かった。

 森へ向かうために山をひとつ超えなければならなかったが、その日は不思議ときついとは感じなかった。ノエはシャルレーネが抱えようとしたら首を振った。飛んだり歩いたりを繰り返しながら、着いて来た。すれ違う人にはやっぱり犬に見えているようだった。

 途中で持ってきたサンドイッチをノエと食べ、ノエに場所を探してもらいながら太陽が高いうちになんとか目的地へと到着した。街道から少し離れた草原の大きな木に赤い薔薇が絡みつくようにいくつも咲いている。


 「…綺麗」


 シャルレーネは籠からスケッチの道具を取り出した。


 「さあ、暗くならないうちに終わらせないと」


 シャルレーネがスケッチする様子を、ノエは興味深そうに眺めていた。

 いろいろな方向から薔薇を眺め、シャルレーネはスケッチを続けた。

 頭の中を色々な刺繍の図案が浮かんでくるとその楽しさに自然と微笑んでいた。


 「こんな感じかしら」


 数刻して、シャルレーネはスケッチを終えた。


 「この薔薇みたいに真っ赤な糸で刺繍をしたらきっととても…」


 その時、森の中からがさりと音がしてシャルレーネは振り向いた。そこにいたのは、黒い毛並みの狼の魔物だった。


 ダークウルフ…。


 昼間に出ると聞いたことがないのに。


 声も出ないシャルレーネの目の前に一匹、また一匹とダークウルフが出て来る。


 『グルルルル』


 そう声を出しながら牙を剥くダークウルフ達の中央から、一際大きなダークウルフが姿を現した。

 金色に光る目をぎらつかせにじり寄って来る。


 「ノ、ノエ。逃げま…」


 ノエの方へ手を伸ばしたが、そこには何もおらずシャルレーネは空を掴んだ。

 ふいに辺りが暗くなり、濃い影がシャルレーネの上に落ちて来る。


 雲が…。


 そう思って顔を上げたシャルレーネの上に、巨大なドラゴンが顔を覗かせた。


 「ノエ…」


 そう呟いた時には、ノエはシャルレーネを飛び越えダークウルフの前に立っていた。ダークウルフ達がノエの姿に怯え、後ずさりする。


 『ヴァアアアアア!』


 耳を突く大きなノエの咆哮が辺りに響き渡ると、シャルレーネはその迫力に思わず地面にへたり込んだ。魔物達は一斉に森へと飛び込んでいったが一際大きなダークウルフだけが一匹その場に残り、ノエを見あげていたが諦めた様子で森へと戻っていった。

 ノエの足の下で、シャルレーネは呆気に取られたままノエを見上げていた。

 ノエはゆっくりと振り向くと、腰を抜かしたシャルレーネの姿に目を見開いた。

 そして、悲しそうに目を細める。


 「あ、ありがとう。ノエ」


 シャルレーネは座り込んだまま言った。


 「怖いんじゃないの。いえ、怖かったけれど。でも、驚いただけよ。あなたの声がとても大きいから」


 『ヴヴヴ』


 ノエはゆっくりと身体の向きを変え、シャルレーネの前に顔を差し出す。シャルレーネは、座ったままその顔に手を伸ばしその鼻を撫でた。


 「大丈夫、怖くないわ。大好きよ、ノエ」


 そう言ってシャルレーネはノエの鼻先にキスをして顔を上げると微笑んだ。

 ノエはシャルレーネの瞳から一度目を逸らしたが、再びゆっくりとその美しいガーネット瞳でシャルレ―ネを見つめた。


 『ヴーヴ』


 初めて会った時と同じ響きの声をノエが漏らした。


 レーネ。


 そう…呼ばれたのが分かった。


 「…エデュラン」


 シャルレーネの口から、思わずその名が突いて出ていた。

 そんなはずがないと思いながらも…。


 「あなた…エデュランなの?」


 次の瞬間、ノエの身体が消えシャルレーネの上に人が覆いかぶさるように現れた。


 黒く長い髪がふわりと下りて来ると顔を上げたのは息をのむほど美しい青年だった。

 凛としたガーネットを思わせる深い赤の瞳には、金色の虹彩が光っている。

 すっと鼻筋が通った鼻に、形のよい薄い唇。まるで石像のような見事な筋肉の裸の上半身の首には、小さな三日月のペンダントがしゃらりと揺れていた。


 「レーネ」


 耳を擽る心地よい低い声に名を呼ばれると思いがけずぞくりとした。

 青年は嬉しそうに歯を覗かせ、屈託のない笑顔を浮かべる。それと同時に、その美しい双眸から涙が浮きあがり、シャルレーネの頬にぽたりぽたりと落ちて来た。


 「ああ、シャルレーネ」


 茫然としたままのシャルレーネの背に腕が回されると、青年はシャルレーネを引き寄せぽかんと開いた口を塞ぐように唇を重ねた。


 え?

 なに…これ。


 唇を柔らかく食まれると、青年はシャルレーネの唇の上で何かを囁いた。そして、今度は先ほどよりも深く唇を重ねられた。

 ふいに青年の手首とシャルレーネの手首に黒い文字が浮かびあがり消えた。


 なに…今の。


 青年の手がシャルレーネの背中に絡みつくように回される。


 「そうだよ、僕だ。僕の名はエデュランだ」


 青年は、まるで縋りつくようにシャルレーネの身体を抱き締めた。


 「やっと思い出せたよ。自分のことを」


 ええ?


 「ごめん、ごめんね。レーネ」


 えええ?


 「ばかみたいだ。あんなに喚いて…君を傷つけて」


 ええええ?


 「婚約破棄なんて嘘だよ。君のことが好きなんだ、レーネ。ずっと言いたかった。…大好きだって」


 えええええ!


 シャルレーネは声も出ないほど困惑していた。


 これは…一体何が起きてるの?

 ドラゴンが人間に?

 いえ、エデュランに?

 そんなはずない!

 わたしは…夢を……というか今キスされなかった?


 シャルレーネは自分の目の前で起こったことを受け入れることが出来ず、困惑したまま固っていた。


 「レーネ…」


 青年の顔が再び目の前に迫って来た時、シャルレーネはやっと我に返った。


 「ひぅ!」


 シャルレーネは思わず妙な声を発して青年の肩を押した。


 「待って、待って!誰!あなた誰なの!」


 シャルレーネは拳を振り上げた。


 「い、い、いきなりキスするなんて!どういうこと!愚か者!へ、変態!」


 「え?へんた…」


 「なんなの!ノエは?ドラゴンはどこに行ったの?」


 青年をぽかぽかと拳で叩くと青年は目を見開いて身体を起こした。


 「ええ?だから、エデュランだよ。僕だよ、レーネ!ドラゴンのノエは僕!」


 「意味が分からない!そんな…そんなことって…!」


 シャルレーネは顔を上げ青年を見つめた。


 「キスはその…ごめん。嬉しくて…興奮しちゃって」


 恥ずかしそうに頬を赤く染める青年に、先ほどの柔らかな唇の感触を思い出し、シャルレーネまで頬が熱くなった。


 「そ、そんなことよりも!」


 青年の上半身何も身に着けていない身体に、シャルレーネははっとして目を背けた。


 「エ、エデュランはこんなに大きくないわ!」


 「え?僕は十二…」


 はっとした様子で、青年は自分の身体を見た。


 「あれ?…ああ、そうか。君と同じように年を取りたいと願ったからか」


 そう言って青年は立ち上がると、自分の手や腕を眺めた。


 「…僕は大きくなったのか。君を小さく感じると思った」


 青年は小さすぎるズボンを履いていた。裸の上半身を直視できず、シャルレーネは目線を下げた。そこには破れた上着と肌着が重なったまま落ちていた。その濃紺の金色の刺繍が施された上着を、シャルレーネは思わず拾い上げ目を見開いた。

 ぞわりと鳥肌が立った。

 それは、エデュランの上着だった。

 今でもよく覚えている。

 この金色のアマリリスの刺繍。

 裂けてしまっているが、生地は真新しい。

 これは…六年前にエデュランが着ていた上着だ。


 「見てよ。ズボンのお尻が破けててさ、お尻がすーすーして…」


 青年が背中を向けようとしたので、シャルレ―ネは顔を背けた。


 「見せないで!見せないでいいから!」


 シャルレ―ネは羽織っていた肩掛けを差し出した。


 「へへ、ありがと」


 青年はしゃらりとネックレスを揺らし、肩掛けを受け取ると腰に巻いた。

 シャルレーネは思わず立ち上がり、青年に近づくと思わずそのペンダントを手に取った。

 その少し黒ずんだ金属の月のペンダントも記憶から何も変わっていない。

 しかし、なぜか中央にあった黒い石が消えていた。

 記憶を失ったエデュランがこれを持っていたかどうか、覚えていない。

 シャルレーネは、再び青年を見つめた。

 その瞳の色は昔に比べたら赤い色が濃くなっているが、その瞳の形は十二歳の頃のエデュランの面影がある。

 青年はシャルレーネに見つめられると一瞬目を伏せたが、目線を上げはにかんだ笑顔を浮かべてシャルレーネを見つめる。

 思いがけず、胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。

 シャルレーネは青年の頬に手を伸ばしていた。

 王都で見たエデュランは、全く知らない誰かのようだった。

 それなのに、この青年からは思わず泣き出してしまいたくなるような懐かしさを感じる。


 「…あなた本当にエデュランなのね」


 エデュランは、シャルレーネの手に手を重ねると頬を擦り寄せた。


 「そうだよ…本当に僕だ」


 「そんな…一体何があったというの?あなたはドラゴンで…そしたら今王都にいるあなたは…」


 「ふふ、柔らかい手。人間の身体だともっと心地がいいや」


 ふいにエデュランはシャルレーネの手に顔を近づけると唇を付けた。


 「細くて…折れちゃいそうだね」


 シャルレーネの手の平に唇を押し当てながら、エデュランは美しい赤の瞳でシャルレーネを見つめた。その熱を帯びた視線にシャルレーネははっとして、手を引こうとしたがエデュランは手を離さなかった。


 「エ.エデュラン!お、お願いだから、きちんと説明して!」


 「やだ」


 「やだって」


 「…この温かさをずっと忘れられなかった。レーネ、僕のレーネ」


 エデュランの手が腰に纏わりつくように回されるとそのまま抱き寄せられた。


 「ちょっ…」


 目の前に迫る裸の身体に、シャルレーネは慌てて両手でその身体を押しやった。


 「お、お願い!お願い、離れて!あなた服を着ていないの!」


 しかし、裸の胸の素肌の感触にどこを触れればいいか分からず、拳で身体をなんとか押しやろうとしたが、エデュランはシャルレーネの腰に回した手を緩めるどころかさらに力を込めた。


 「どこもかしこも柔らかくて気持ちがいいや」


 子どもの時とは、全然は違う。

 骨ばった力強い身体に抱き締められると、抗えない怖さを感じるのに、それと同時にどこか身体の奥底がざわめくような感覚が広がる。


 「エ.エデュ…うぅっ」


 首筋に顔を埋められ、シャルレーネは身を縮めた。


 「ほっとする…懐かしいいい匂い」


 「匂い…だなんて…」


 シャルレーネは、びくともしないエデュランの肩を力強く押しのけ拳を振り上げた。


 「まま、また、叩くわよ!エデュラン!」


 「いいよ、叩いても」


 「うぅっ」


 シャルレーネがためらっていると、エデュランはふふっと笑いを漏らした。


 「君は相変わらず優しいね」


 エデュランは、やっとシャルレーネから離れた。


 「お、お願いだから何が起こっているのか説明して」


 「実は…僕もよくわからなくて。…記憶が混乱しているみたいだ。ニア村に行ってからの記憶が曖昧で…」


 エデュランは自分の両手を見つめながら、まるで他人事のようにそう言った。


 「とりあえず、ここを離れた方がいい。さっきのダークウルフは僕が縄張りに入って来たから現れたんだ」


 「縄張り?」


 「そう、帰ろう。高いところは平気?」


 ふいに強い風が吹き、シャルレーネは目を閉じた。

 目を開くと、そこにいたのは巨大なドラゴンだった。


 本当に…ノエになった。


 分かっていながらも今の状況にシャルレーネは思わずぽかんとドラゴンの姿を見上げた。


 『背中にどうぞ。しっぽから上がれると思う』


 そうエデュランの声が頭に響き、ぽかんとしながらもシャルレーネは思わず耳に触れた。


 「あな、あなたの言葉が分かるわ」


 『ああ、さっき分かるようにしたの。さあ、乗って』


 シャルレーネは、屈んでも小高い丘ほどもあるドラゴンの背中を見上げた。


 「…む、無理よ。どうやって…」


 『そう?じゃあ…』


 ドラゴンの影がふいに動いたのが分かった。


 「きゃっ」


 その影は、シャルレーネを持ち上げるとそのままドラゴンの背中を登った。ふわふわの鬣の上におろされると、影はさらに紐のようになってシャルレーネの腰へと回される。


 『じゃあ行くよ』


 「え?」


 『しっかり捕まっててね』


 エデュランは、真っ黒な翼を広げた。


 「ちょっ」


 次の瞬間、ふわりと身体が舞い上がり勢いよく空へ飛び立っていた。


 「いやああああああ!」


 思いがけず悲鳴が口から洩れ、シャルレーネは目をつぶり、エデュランの背中にしがみ付いた。


 『そうそう、しっかり捕まってて!』


 そう楽しそうなエデュランの声が聞こえた。


 『本当は、すぐにでも帰りたかった。僕は、あまりにも子どもで…子どもでいることが嫌だったくせに』


 シャルレーネは目を開いた。

 そこはもう高い過ぎる空の上で、建物さえも小さなおもちゃのようだった。その光景に思わず再び目を閉じて鬣に顔を埋めた。


 「エデュラン!今話しをされても全然頭に入って来ない!」


 『あはは、ごめん!じゃあ家に帰ってからね』


 そう笑う声が響く中、シャルレーネは再び目を閉じた。




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