3.
ふんふんというドラゴンの鼻の音に、シャルレーネははっとした。
ふいになぜか昔のことを思い出していた。
ドラゴンの目を見て、あの子を思い出すなんて。
目の色だって時々こんな風に赤く見えるだけで、同じでもなんでもないのに。
そう思いながら再びドラゴンの顔を見上げた。
「あなたはわたしを追い掛けて来たの?」
ドラゴンはふんと頷いた。
「どうして…わたしのところに?」
ドラゴンは、困ったようにシャルレーネを見つめた。
「分かったわ。誰にも言わない。…ドラゴンさんも色々大変なのね、きっと。この湖は深いから隠れるにはぴったりよ。それじゃあ…」
シャルレーネはドラゴンに背を向けると、背後で水音が聞こえドラゴンは巨大な身体を湖から引き揚げて、シャルレーネについて来ようとしていた。
『ヴヴ?』
いっちゃうの?とばかりにドラゴンに首を傾げられると、シャルレーネは困った。
「つ、ついてこられては困るわ。あなた大きいんだもの。もう少し小さければ…」
『きゅっ』
瞬きと共に、目の前の巨大なドラゴンは消えていた。
シャルレーネの視線の先にいるのは、小さな黒いドラゴンだった。
小さい羽をぱたぱたと動かして目の前を飛んでいたが、シャルレーネの目の前に着地し二本足で立ち上がった。大きな赤い瞳をきゅるりとさせこちらを見つめる姿に、シャルレーネは眩暈がした。
「す、姿を変えられるのね。すごい…さすがドラゴンだわ」
シャルレーネは、思わずドラゴンの前に膝を付いた。
『きゅ』
ドラゴンは、すぐにシャルレーネにとてとてと近づいて来た。中型の犬くらいの大きさになってしまったドラゴンは、シャルレーネの膝に前足をのせ、まるで撫でてと甘えるように手に頭をすり寄せて来る。
「どうしよう…可愛い」
シャルレーネは、ドラゴンが願うまま頭を撫でてあげた。皮膚は鱗がなくなり滑らかになり、鋭いかった角も丸みを帯びて触れても痛くなかった。
ドラゴンはきゅるりとした大きくて可愛らしい目で、じっと見つめてくるのでシャルレーネは思わず言っていた。
「家に…来る?」
『きゅっ!』
ドラゴンは小さな羽を羽ばたかせると目を細めた。
まるで笑顔のようなその顔に、シャルレーネも微笑んだ。
「じゃあ、おいで」
とてとてと歩きながら着いて来るドラゴンと一緒に、シャルレーネは家へと戻った。
ドラゴンは警戒する様子も見せず、家へと入って来た。
きゅるりと目を瞬かせながら、部屋を見渡す。
そして小さな羽で器用に飛ぶと、月明かりの下窓辺のテーブルに降り立ち、飾ってある小さな肖像画を見ていた。その横に勿忘草が一輪だけされた布も額縁にいれて飾っている。
「それはわたしのお母様よ。わたしに似ている?」
『きゅ』
ドラゴンは頷いた。
「もう亡くなって何年になるかしら」
シャルレーネは額に入った肖像画を手に取った。
シャルレーネが王城へ来て二か月が過ぎ、日々騎士訓練場の横で鍛錬を続けるエデュランはだんだんと身体がすっきりとなっていった。
「どうだ、レーネ」
エデュランは、長椅子で本を読んでいたシャルレーネの前に胸を張って立った。
「もうぷにぷにじゃなくなっただろう?」
シャルレーネが手招きをすると、エデュランは素直にシャルレーネの隣に座った。
シャルレーネは、黙ってエデュランの頬を優しくつまむとエデュランが目を見開いた。
「…まだ可愛いぷにぷにですわ」
「か、可愛くなどない!」
そう言ってエデュランは顔を赤くしながら頬を膨らませたので、シャルレーネは思わず微笑んだ。
エデュランは、変わっていった。
毎日騎士の訓練を続けているし、お菓子の量もだいぶ減ったとマーサに聞く。
そして、シャルレーネが木の下で刺繍をしていると、エデュランもやって来て本を読むようになっていた。こうして時折、部屋でお茶をするときに招待してくれるようになり、一緒に長い時を過ごすようになった。
マーサがシャルレーネとエデュランに紅茶を用意してくれた。
「ありがとう、マーサ」
「僕もありがとう」
こうして一緒にいると、エデュランは決して我儘なだけの王子ではなかった。読む本はいつも理論書などの難しいものばかりで、それも簡単に読み進めてしまえるほど賢かった。
王族であることを鼻に掛けるような傲慢さはなかったが、知らない相手の前では緊張して委縮してしまうようだ。その自信のなさそうな姿も王に相応しくないと言われる理由なのだろう。
「レーネは何を読んでいるんだ?」
「これは花の図鑑ですわ。たくさんの花の絵が描いてあるのです。これを見ながら、刺繍の図案を考えていて…」
その図鑑は古いもので、シャーロットが幼い頃から使っていたものだった。シャーロットが自分で考えた図案を直接かき込んでいたりするので、シャルレーネにとっては大切なものだった。
「…君はどんな花が好きなんだ?」
「わたくしは…そう、勿忘草が好きですわ」
シャルレーネはそう言って勿忘草の絵の頁を開いた。
「小さい花なんだな」
「ええ。野花でどこにでも咲く小さな可愛らしい花なのです」
「そう…なのか。僕も見てみていなあ。…それにしてもレーネは刺繍が大好きなんだな。父上もこの間綺麗なアマリリスの刺繍のハンカチを貰ったと喜んでいた」
「ええ。刺繍は母に教わったのです。母は身体が弱くてずっと家に居て、こういうものを作って過ごしていたので」
「そうか、見事なものだな。君の母上は…すごい人なんだな」
その言葉が嬉しくて、シャルレーネは思わず笑顔を浮かべた。
「ええ!そうなの。身体は弱いけれど、とても器用で。わたくしがねだったらなんでも作って…」
エデュランの少し寂しそうな笑顔に、シャルレーネははっとした。エデュランの母親がどこかへ姿を消してしまったことを思い出した。
「あ…あの」
「君は母上のことを話す時楽しそうだな。少し…羨ましい」
「エデュラン…」
「…僕も母上から貰ったものがあるんだ」
そう言ってエデュランは、しゃらりと小さな三日月のペンダントを首から取り出した。
「これは…母上のものだったんだ」
黒い不思議な金属で出来たペンダントで、三日月の中央にも黒い石が煌めいていた。
「…綺麗ですね」
「母上はこれだけ残していなくなったそうだ。…父上が僕にくれたんだ」
「そう…なのですね」
「君の母上にも会いたいな」
「ええ。今はなかなかベッドから起き上がれないのだけど、いつか会ってください」
「ああ、そうしよう」
「あの…あなたはハンカチとか貰っても嬉しいのかしら」
「え?」
「あなたにも何か刺繍を贈りたいのだけれど…ハンカチなんて…嬉しくないかしら」
「そ、そんなことない。…僕にはくれないのかなって…本当は思っていた」
そう少し恥じらうようにエデュランが言った。
「まあ!それじゃああなたにも刺繍して贈りますね」
「うん、楽しみにしている」
エデュランはそう言って、はにかんだ可愛らしい笑みを浮かべた。
今まで誰といても相手の顔色ばかりを伺っていた。
エデュランは、シャルレーネにとっていつの間にか気を遣うことなくしゃべることが出来る相手になっていた。
弟がいたらこんな風なのだろうか。
こんな時間がずっと続けばいいのにと思う様になった頃だった。
シャーロットの高熱が下がらないとアビーから連絡が来た。
シャルレーネは急いで公爵家へと帰ったが、シャーロットはすでに帰らぬ人となっていた。
ベッドの上で薄く笑みを浮かべるように永遠の眠りについてしまったシャーロットを見つめ、シャルレーネは茫然とした。
これは…何?
一体何が起こっているの?
「シャルレーネ様…」
泣きじゃくるアビーに抱き締められながら、シャルレーネは黙ってその肩を抱いていた。
「…いつまでもみっともなく泣くな」
ベッド脇に立っていたルーファスは、アビーとシャルレーネに向かって言った。
「時期女王になるのだ。己の感情を抑え、気高くいることだ」
それだけ言うと、ルーファスは部屋から出て行った。
わたし…泣いてはいけないの?
我慢しなくてはいけないのね。
そう思うと、シャルレーネは泣き方が分からなくなった。
葬式の席で、シャルレーネの姿を人々は気高く立派だと言った。
さすが公爵家の令嬢。
時期王妃様。
葬式には、エデュランとオディール、セドリックが来たらしいが何を話したのか思い出せなかった。
葬式が終わった後もシャルレーネは何をする気も起きなかった。
いつもアビーが気に掛けて食事などを運んでくれたが、喉を通らなかった。
眠れば、シャーロットの死に際に間に合わなかった日のことを繰り返し夢に見て、十分に眠ることさえできなくなった。
葬式から十日後、ルーファスが連れて来たのは新しい妻とその子ども達だった。
「喪が明けたら、彼女を母上と呼ぶように」
そうルーファスに言われても、シャルレーネは何を言われているのかよくわからなかった。
新しい母親イブリンは、モニーク伯爵家の未亡人だった。夫を若くして亡くし、最近恋人との間に産まれた子を堂々と社交界で連れ歩くようになったと噂されていたが、その相手がルーファスだったのだ。
「やめてよ、ルーファス。シャルレーネはわたくしの娘ではないもの」
そう冷たくイブリンは言い放った。
「あら、わたしにはお姉様よ。お母様」
そう言ってシャルレーネの手を握ったのは、十二歳になるジュリエッタだった。
「初めましてお姉様」
そう言って愛らしく微笑むジュリエッタはルーファスと同じ栗色の髪をしていた。そして、イブリンの背後に隠れる十歳になるルパートは、ルーファスと同じ色の瞳を興味深そうにシャルレーネへ向けていた。
「ジュリエッタ、こうしてお家に迎えられる日を待っていたのです。ずっと…ずーっと」
そう言って微笑むジュリエッタに、シャルレーネは上手く微笑みを返すことが出来なかった。
シャルレーネは、何も考えたくなくて逃げるように王城へと戻った。
シャルレーネが城へ戻ると、すぐに部屋にエデュランが飛び込んで来た。
「戻ったのか!レーネ!」
「…ええ」
「僕はお葬式にも行ったのだぞ。手紙も出したのに…」
「そう…でしたか。気がつかず申し訳ありません」
エデュランは、少し苛立った様子で眉をひそめた。
「ふ、ふん。このまま戻らなくても良かったのだぞ、レーネ。そんなにここに居たくないのであれば、どこへでも行ってしまえ!」
エデュランが乱暴に扉を閉じて部屋を出て行くのを、シャルレーネはぼんやりと見送った。
しかし、エデュランはすぐにまた戻って来た。
「な、なんで追いかけて来ないんだ!」
エデュランは、目に涙を溜めていた。
「僕は寂しかったんだからな!君は僕の方をみないし、手紙の返事もくれないし!」
シャルレーネは思わずぽかんとして、泣きそうなエデュランを見つめた。
「僕は…僕はもう君が帰ってこないのではと…」
そう俯くエデュランの前にシャルレーネは膝を付いた。
エデュランが自分を必要としてくれていることが、思いがけず嬉しかった。
「ごめんなさい、エデュラン。わたくし、自分のことばかりで…」
シャルレーネは優しくエデュランの頭を撫でた。
「お母様がもういないなんて…信じられなくて」
「レーネ、君は泣いたのか?」
その言葉に、シャルレーネは目を見開いた。
真剣にこちらを見つめるエデュランの美しい瞳を見つめ返す。
「君はきちんと泣いたのか?」
エデュランは続けた。
「僕は母上を知らない。でも、父上は母上がいなくなった時たくさん泣いたそうだ。それだけ、愛していたと。愛していた分、たくさんたくさん泣いて…辛い気持ちを吐き出した。それで、壊れそうな心は救われたそうだ」
エデュランは優しくシャルレーネの頬に触れた。
「君は…きちんと泣いたのか?母上を愛した分だけ」
その言葉に、シャルレーネの目からは堪える間もなく涙がぽろりと零れた。その涙に続くようにぽろぽろと大粒の涙が零れだす。
「なんで…なんでそんなことを…言うのよ」
思いがけず、丁寧にしゃべれなくなっていた。
「わたしは…わたしは!ずっとずっと我慢していたのに!我慢しなくてはいけないのに…」
エデュランが優しくシャルレーネの涙を拭って、微笑むとシャルレーネの額に自分の額を寄せて来た。
「いつも僕に言いたい放題のくせに。僕の前で我慢など必要ないだろう。そのままのレーネでいればいい」
「そんな…こと…」
ぽろぼろとあふれて来る涙とともに、シャルレーネは顔をぐしゃりと歪ませ声を漏らしていた。
「お母様は…どうして、どうしてわたしを置いていったのかしら?どうしてわたしをひとりに…」
突然エデュランがまるでしがみつくように、シャルレーネを抱きついて来た。
「うえええ、シャルレーネぇ」
泣き出したエデュランの小さな背中に手を回し、シャルレーネは泣きながらも思わず笑ってしまった。
「どうしてあなたが泣くのよ、エデュラン」
「だって、だって…君が泣くからー」
「泣いていいってあなたが言ったくせに」
「でもでも…うわああん」
声をあげて泣くエデュランの柔らかな身体を強く抱き締め、シャルレーネも声を上げて泣いた。
その日は、何かのはずみで簡単に涙が零れて来るので夕食は部屋に運ばせ二人で食べた。食事を美味しいと感じたのは久々だった。
エデュランが枕を抱えて、部屋を尋ねて来たのはその日の夜だった。
「き、君がひとりで泣くかもしれないから」
シャルレーネは、嬉しくて微笑んだ。
「ありがとう、エデュラン。あなたは本当に優しい子ね」
「ぼ、僕は子どもじゃないぞ」
「ふふ、そうね」
エデュランは不満そうに、むっとした顔でシャルレーネを睨んだが少しして目を伏せた。
「あのさ…レーネ」
エデュランは優しくシャルレーネの手を握った。
「君が泣きたいときは…僕が一緒にいる。こうして…手を握っていてあげるから。ひとりには…しないから」
「エデュラン」
シャルレーネは思わずエデュランを抱き締めた。
「大好きよ、エデュラン」
そう自然と言葉が出来て、エデュランの柔らかな頬へキスをした。
エデュランはぱっとキスされた頬に手を当て、耳まで真っ赤になってしまった。その様子が可愛らしくて、シャルレーネは再びエデュランを抱き締めた。
その日は、お互い腫れた目のままベッドで眠った。
エデュランの温もりを感じながら眠りにつくと、悪夢を見ることなく久しぶりにぐっすりと眠れた。
次の日、晴れた空を見つめながら久しぶりに木の場所へと向かった。
エデュランに約束した刺繍をしようと、刺繍道具を入れた籠を開き、ふと糸の入ったチョコレートの缶を手に取った。白猫とピンクの薔薇の可愛らしい缶は、シャルレーネがねだってシャーロットから貰った物だった。缶の模様を撫でふいに涙が浮かんで来た。
涙を拭った時、荒い息遣いが聞こえ顔を上げた。
エデュランが丘を駆け上がって来たのか、息を整えながら目の前に立っていた。
「どうしたのですか?エデュラン」
「ふんっ」
エデュランはそう言って鼻を鳴らすと、シャルレーネの隣へと座った。そして、おずおずとシャルレーネの手に手を重ね、黙って握った。
ひとりにはしない。
その約束を守ってくれているのだとシャルレーネは嬉しくなった。
「エデュラン、ありがとうございます。昨日あんなに泣いたのに…いつまでも泣いていてはいけませんね」
「敬語」
「え?」
「敬語じゃなくていい」
「そ…そう?」
「うん」
エデュランは黙って握る手に力を込めた。
「泣きたいときに泣けばいい。大丈夫、僕が傍にいるから」
そう大人びた横顔で言うエデュランを見つめ、シャルレーネの胸はきゅっと締め付けられるような感覚とともに、自然と瞳から涙があふれた。
シャルレーネは、ゆっくりとエデュランが重くない程度に優しく身体をもたれさせた。エデュランは一瞬びくりと肩を揺らしたが、黙って動かなかった。
「ありがとう、エデュラン」
エデュランの温もりを愛おしく思いながら、シャルレーネは目を閉じた。
シャルレーネは母の肖像画を再び机に置いた。
『きゅきゅ?』
ドラゴンは不思議そうにその隣の勿忘草の一輪の刺繍を見つめた。
「それはね…お母様がわたしに残してくれた刺繍なの。もうそれしか…残っていなくて…。他の物は…全部お父様が捨ててしまったから」
シャーロットが亡くなってからは、ランバルト家に戻ったのは一度きりだった。
それはアビーからの便りだった。
アビーが止めるのも聞かず、ルーファスはシャーロットの持ち物をすべて焼いてしまったのだという。
シャルレーネはルーファス達の留守を窺って、一度屋敷へと戻った。屋敷へ戻って愕然とした。シャーロットの肖像画も縫ってくれた刺繍のクッションカバーやレースなどもすべて処分され、恐らくイブリンの好みなのだろう、華美な様相へと様変わりしていた。
「申し訳ありません。これしか…」
そう言ってアビーが差し出したのは、縫い掛けの勿忘草の刺繍の布だけだった。
「ありがとう、アビー」
さらに驚いたことに、シャルレーネの部屋はジュリエッタの物になっていた。まるでシャルレーネの存在を塗り替えるかのように、シャルレーネの物はなくなっていた。
シャルレーネはルーファスを責め立てたい気持ちを抑えて王城へ戻り、このことは誰にも言わなかった。
シャルレーネは、ドラゴンが見つめるシャーロットの最後の刺繍を撫でた。
勿忘草は、シャルレーネが始めてハンカチにした刺繍だった。
ルーファスに贈ると、こんなみっともないものを持ち歩けないと突き返され、悲しくて堪らなかった。
シャルレーネが泣いていると、そのハンカチにシャーロットがもっとたくさんの勿忘草の刺繍を加えて、こっそりルーファスの引き出しに忍ばせてくれた。
あれをルーファスが使っているところを見たことはないが、悪戯が成功したようでシャルレーネは満足したのを覚えている。
きっとあれも…捨てられてしまっただろうけれど…。
「もう遅いから休みましょう」
シャルレーネは、ドラゴンを抱き上げた。
「あなた…思っていたよりも軽いのね」
頭を撫でるとドラゴンは甘えるようにシャルレーネの身体に頭をもたれた。
こんなにすぐ懐くなって…不思議。
ふんふんと鼻を鳴らし、シャルレーネの匂いを嗅いでくるのでそのくすぐったさにシャルレーネは微笑んだ。
「…あなたって何の匂いもしない」
『きゅう?』
「まるで夜の…静かな空気みたい。不思議ね」
二階へ上がりながらシャルレーネはドラゴンに尋ねた。
「あなたって男の子なの?女の子なの?」
『きゅきゅ』
その肯定か否定か分からないドラゴンの反応に、シャルレーネは首を傾げた。
「ああ、そうね。こう聞いたらいいのね。女の子?」
『きゅう』
ドラゴンは首を振った。
「じゃあ男の子なのね」
『きゅいきゅい』
頷くドラゴンにシャルレーネは微笑んだ。
「名前はあるの?」
『きゅ』
ドラゴンはどこか力なく頷いた。
「ああ、聞いてもわたしには分からないわね」
『きゅぅぅ』
悲しそうにドラゴンは身体を縮めた。
「わたしの名前はシャルレーネ」
『きゅーきゅ』
その響きにシャルレーネは思わず微笑んだ。
「そう、レーネでいいわ」
「きゅーきゅ!」
「ねえ、名前を付けてもいいかしら?」
『きゅう!』
ドラゴンは目を瞬かせて頷いた。
「じゃあ…ノエ。昔いたすごい魔法使いなの。ノエでいい?」
『きゅいきゅい』
その名前が気に入ったのかドラゴンは目を細めてみせた。
シャルレーネは普段服を入れている籠を一つ空にすると、そこに布を敷きノエを寝かせた。
「とりあえず、ここがあなたのベッドね」
ノエをそこに置くと、シャルレーネはベッドへ横になった。
『きゅーきゅ』
そう声を上げると、ノエは籠からとてとてと出て来るとベッドへと翼を広げて飛んで来た。
「まあ、ここで寝たいの?でも…わたしが潰してしまってはいけないから…」
そう言うとシャルレーネは再びノエを抱き上げて、籠へと入れた。
『きゅー』
ノエは不満そうに目を細めたが、諦めた様子で籠に丸くなった。
シャルレーネは、静かに呼吸しているノエの身体を撫でベッドへと戻った。
シャルレーネが城に暮らすようになり、一年と少しが過ぎようとしていた。
エデュランは十一歳の誕生日を迎えた。
十歳の誕生日は、シャルレーネがシャーロットの喪に服していたため一緒に祝えなかった。それでもシャルレーネはマーサに相談して、エデュランが読みたがっていた歴史書を取り寄せて贈ると、エデュランはすごく喜んでくれた。
今回は朝一番に、最近覚えたいと言っていたチェスの道具を贈ると、少し複雑そうな顔をしながらも受け取ってくれた。
その夜も誕生日の舞踏会が盛大に開かれることとなり、シャルレーネはエデュランの腕を取り舞踏会の大広間へと向かった。
最近ますますほっそりとして来たと同時に背が伸び出したエデュランは、セドリックの背に隠れることなく堂々と行動するようになっていた。
オディールが選んでくれたピンクの薔薇のドレスに身を包んだシャルレーネに、エデュランは何か言いたそうにじっと見つめた。
「なあに、エデュラン」
「な、なんでもない」
エデュランは目を伏せ、手を差し出した。
「とりあえず…踊ろう」
「ええ」
二人でダンスを踊ったのは初めてだった。こうして目の前にエデュランの顔があると、大きくなったことを実感する。エデュランの綺麗な瞳を見つめながらシャルレーネは微笑むと、エデュランは一瞬目を逸らし再び顔を上げてじっとシャルレーネを見つめた。
「あなたって…どうして一度目を逸らすの?」
「別に…意味なんてないよ」
エデュランはそう言いながら、今度は目を逸らさなかった。席へ戻りみんなが踊るのを眺めながら、ふいにエデュランは隣に座るシャルレーネの手に触れぽつりと呟いた。
「…退屈」
「こら、そんなこと言わないの…」
ふと目の前に現れた人物にシャルレーネは思わず口を噤んだ。
「お久しぶりです、エデュラン様」
恭しく頭を下げるルーファスを前に、シャルレーネは立ち上がり目を伏せた。
城へ戻って以来、ルーファスと顔を合わすのは今日が初めてだった。
シャルレーネは意図的にルーファスに会うことを避けて来たからだ。
「私の新しい妻と子ども達のご紹介に参りました。イブリンにジュリエッタ、ルパートです」
イブリンがジュリエッタとルパートを連れ、ルーファスに続き頭を下げた。
「これからどうぞお見知りおきを」
ジュリエッタが愛らしい笑みを浮かべて、エデュランへと歩み寄って来た。
「初めまして、エデュラン様。こんな素敵な王子様に会えるなんて、嬉しいですわ」
ジュリエッタは無邪気にエデュランの手を握って来た。
「ああ、そうか。それはどうも」
エデュランが戸惑った様子でシャルレーネを見たのが分かったが、シャルレーネはルーファスと目を合わせられず顔を上げられなかった。
「シャルレーネ…ちょっと来なさい」
ルーファスは有無を言わさない口調でシャルレーネを呼んだ。
「はい」
シャルレーネは、ジュリエッタに一生懸命話しかけられているエデュランを置いてその場を離れた。
ルーファスは広間から廊下に出ると、腕を組みシャルレーネを見下ろした。
「その態度はなんなのだ、シャルレーネ」
シャルレーネは口を開かなかった。
「王の妻となるのなら、誰に対してもにこやかに接するべきだろう。たとえ私に怒りを抱いているとしても」
「…怒ってなどいません」
シャルレーネは呟くように口を開いた。
「ただ、どうしても…受け入れることが出来ないだけです」
「私が裏切っていたと?」
シャルレーネは口を閉じていた。
「イブリンのことはあれも知って…受け入れていた」
あれ。
名を呼びさえしないルーファスに、シャルレーネは強い怒りを抱いた。
「その覚悟で私の元へと嫁いで来たのだ」
「…それでも」
「お前を王子の婚約者にならせてやったのだ。感謝はされても憎まれる筋合いはない。…女の幸せなどどれだけ地位ある男に嫁ぐかで決まるのだ」
その言葉に、シャルレーネは思わず顔を上げた。
「お母様が幸せだったとは思えません!」
ぱんっと頬を打たれ、シャルレーネは思わずよろけたが倒れずその場に留まった。
「お前に何が分かる」
顔を上げられないシャルレーネの腕をルーファスが乱暴に掴んだ。
「お前に…私のなにが分かる」
「やめろ!」
突然、エデュランがルーファスとシャルレーネの間に割って入って来た。自分を庇う様に立つエデュランに驚きながらも、シャルレーネはおもわずその腕を縋るように掴んでいた。
「ランバルト公爵殿、レ…シャルレーネが何をしたというのですか」
凛とした声でエデュランが言った。
ルーファスは冷たい目つきのまま再び頭をさげた。
「これはこれは…申し訳ありません。エデュラン様。ただの躾にすぎません。つい私も熱が入ってしまって」
「シャルレーネを傷つけることは、たとえ父親のあなたであっても許さない」
エデュランは鋭い声でそうルーファスに告げると、シャルレーネの手を握った。
歩き出したエデュランに引っ張られ、シャルレーネも歩き出した。
エデュランの手は震えていた。
シャルレーネは胸の奥がじんと熱くなった。
怖がりながらも…助けてくれたのね。
シャルレーネは黙ったままその手を強く握った。
口を開けば思わず泣いてしまいそうだった。
エデュランと共に日が落ちたテラスへと出ると、エデュランは手を離して振り向くとシャルレーネの頬へと手を伸ばして来た。その手はまだ震えていた。
「大丈夫?痛くない?」
「平気よ。ありがとう」
「…殴るなんて。ひどいよ」
エデュランの瞳は涙で潤んでいたので、シャルレーネは安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、本当に大丈夫だから」
叩かれるのは初めてではない。
それでも、今日は罰というよりは思わず手が出たような…。
「わたしがお父様を怒らせたの。ひどい言葉を浴びせたの…でも」
それでも…口にせずにはいられなかった。
シャルレーネはテラスから外を見下ろした。
夜の風が打たれて熱くなった頬に心地が良かった。
「お父様はお母様が亡くなっても泣きもしなかった。…きっともう愛していなかったのだわ。だから…わたしのことも…」
「レーネ…」
エデュランがきゅっと手を握って来たので、シャルレーネは慌てて微笑んだ。
「なんてね、あなたの誕生日に喧嘩なんてしてしまってごめんなさい」
シャルレーネはその手を握り返した。
「…守ってくれて本当にありがとう」
シャルレーネはずっとしまっていた布の包みを取り出した。
「あの…これ。誕生日プレゼントとして贈るにはちょっと地味かと思ったのだけれど…」
「僕に?」
エデュランは受け取ると包みを開いた。それはエデュランのために刺繍をした首に巻くリボンだった。紺のリボンに金木犀をモチーフにした刺繍をしている。
「綺麗だ。…君が刺繍を?」
「ええ」
セドリックやオディールのようにハンカチにしようかとも悩んだが、リボンの方がいつも身に着けて貰えるのではないかと思ったのだ。
シャーロットが亡くなってから、なかなか刺繍をする気持ちになれなかった。でも、エデュランの誕生日に間に合わせようと始めると久しぶり楽しいと思うことが出来た。
エデュランは、嬉しそうに微笑んだ。
「この花は知っている。金木犀だ。あのふわりとした良い香りがする…。こんな小さな花を君は縫ってしまえるんだ。ありがとう、シャルレーネ」
エデュランは首に付けていた黒いリボンを手早く解くと、シャルレーネのリボンを巻いた。
「どう?似合う?」
「とても素敵よ、エデュラン」
「へへっ。実は…今日君が刺繍を贈ってくれないかなって期待していたんだ。あ、チェスが嬉しくなかったわけじゃないんだけど。でも…」
エデュランは嬉しそうにリボンを撫でた。
「すごく嬉しいよ、シャルレーネ」
嬉しそうにしているエデュランを見ていると、シャルレーネも自然と笑顔になっていた。
「あのさ、レーネ」
ふいにエデュランはポケットを探り、小さな白い布袋を取り出した。
「これ…受け取ってくれる?」
「え?今日はあなたの誕生日なのに…」
「僕が…君にあげたくて」
「まあ、ありがとう」
シャルレーネは袋を受け取って開いた。そこには小さな銀色の三日月のペンダントが入っていた。細い銀の鎖に三日月の中央にはエメラルドが煌めいて見える。
「…なんてきれいなの」
「頼んで作って貰ったんだ。君の瞳に合わせてエメラルドを使って貰って…」
照れくさそうにもごもごと言うエデュランに、シャルレーネはそのペンダントを頭から通した。
「どう?」
「…いいね」
「とても素敵。あなたとお揃いね」
エデュランはぱっと笑顔になり、自分のペンダントを首から出した。
「…うん」
「ああ、こんなところにいたのですか」
そうアルシオの声が響いたので、シャルレーネとエデュランは振り向いた。
「なんだよ、アル」
「今日の主役がこんなところにいるなんて。皆さん探していましたよ」
「もう一通り挨拶は終えたはずだけど」
「では、最後にもうひとり紹介しましょう。ライオット」
アルシオの背後から、ひとりの青年が現れた。
「初めまして、ライオット・ドルガーです」
ライオットはゆっくりと頭を下げ、顔を上げ穏やかな笑顔を浮かべた。
ライオットは騎士団入団と共に天才騎士と呼ばれ、社交界で話題になっていた。
ふいにシャルレーネと目が合うと、少し目を見開きただじっとシャルレーネを見つめ、そしてエデュランに再び微笑み掛けた。
「ライオットの噂はご存じですよね、エデュラン様」
「あ、ああ」
「とてもとても優秀な騎士なのです。彼は、明日からあなたの護衛騎士に任命されました」
「え?」
エデュランは少し不安げにアルシオを見つめた。
今までは何かあるとアルシオがエデュランの護衛も兼任していた。
「私も忙しい身なので、社交界にでるようになったあなたを守るためには正式な護衛騎士が必要です。いつまでも甘えられては困りますよ。もう十一歳になるのですから」
そうアルシオに言われると、エデュランは俯いた。
「甘えているわけじゃないけど…」
その顔を覗き込み、アルシオは微笑んだ。
「何かあったら、私もすぐにあなたの元へ駆けつけますから」
「分かったよ」
アルシオは満足そうに頷いた。
「よろしく、ライオット」
「はい。エデュラン様…そしてシャルレーネ様」
「ええ、よろしくお願いします」
ライオットは再びじっとシャルレーネを見つめ微笑んだ。
「噂に違わずお美しい方で驚きました」
「あ、ありがとうございます」
「仲がよろしいのですね、まるで御姉弟のようで」
「…姉弟じゃないよ」
エデュランが不満げに言う。
「ああ、これは失礼いたしました」
そう言ってライオットは穏やかに微笑んだ。
アルシオとライオットが去っていくのを見送りながら、エデュランがぽつりと言った。
「ライオットか…僕とは真逆だな。天才の完璧な騎士か…」
シャルレーネは黙ってエデュランの手を握った。
「彼は彼。…あなたはあなただわ」
「うん…」
エデュランは少しして、シャルレーネを見つめた。
「ライオットみたいな人…好み?」
「好み?…好きかってこと」
「え…ああ、まあ…その」
「…優しそうな人だと思うわ」
「いや、そのライオットはすごく女性に人気で、美男で…レーネも…ああいう感じの人が好き?」
「えっと…よく分からないけれど、好きという気持ちはないわ」
「えっと…じゃあ…どんな顔の人が好き?アルシオみたいな凛々しい感じ?それとも父上みたいな…」
「…顔だけでは好き嫌いは判断できないわ」
「そ、そっか。真面目だなー、レーネは」
「でも…」
シャルレーネはふと俯くエデュランの顔を覗き込み頬に触れた。
「あなたの顔…好きだわ」
エデュランが大きく目を見開いた。
「頬はもう少しぷにぷにの方が…」
そう言いながら頬を摘まむとエデュランは、はっとしてシャルレーネの手を払った。
「も、もう!ばかにして!」
「まあ、ひどい」
そう言ってシャルレーネが微笑むと、エデュランはむくれた様子で目を伏せると、ふんと庭の方を見つめた。その横顔にシャルレーネは思わず言った。
「…新しい人、緊張するわね」
「…うん」
「困ったことがあったら何でも言ってね。話を聞くことしかできないけれど…」
「ありがとう…レーネ」
二人でしばらく夜の中庭を見つめていると、ふいにエデュランが言った。
「…ねえ、レーネ」
「なあに?」
「レーネはさ…運命の相手って信じる?」
「どうしたの?突然…」
「君の妹のジュリエッタがさ、僕のことが運命の相手だって言うんだ。会ったばかりなのに…子どもみたいなことを言うんだ」
子どもだもの、と口にしそうになりエデュランと同じ十一歳なことを思い出すと、シャルレーネは口を閉じた。
「わたしの運命の相手は…きっとあなたじゃないかしら」
シャルレーネはふいにそう口にしていた。
「だって偶然庭で出会った相手が王子様だなんて…」
そう何気なくエデュランの方を向いて、瞳が月の光で美しく煌めいているのにどきりとする。エデュランは、はっとした様子で目を反らしたが、再びシャルレーネの瞳を覗き込み微笑んだ。
「…君も案外子どもだね、レーネ」
ふいにエデュランはそう言うと再び顔を反らしてしまったが、ぎゅっと力を込めてシャルレーネの手を握った。
「え、ええ。十一歳も十七歳もまだ子どもだわ」
心臓の鼓動がとくとくと速くなっていた。
急にどうしたのかしら、わたし。
「レーネ」
名前を呼ばれ勝手に身体がぴくりと震えた。
「あのさ…もうひとつ…貰ってもいい?」
「い、いいわよ。なんでも…」
ふいにエデュランがシャルレーネの両肩に手を置き力がこもったのが分かった。エデュランの美しい瞳が突然目の前に迫り目を離せずにいると、ふわりと柔らかくエデュランの唇がシャルレーネの唇に触れた。
突然ぎこちなくされたキスにシャルレーネはただ呆気に取られた。
エデュランはゆっくりと離れると恥ずかしそうに目を伏せて離れたが、再びシャルレーネの手を握った。なんとも言えないむずがゆいような感覚にシャルレーネは、手がじっとりと汗で濡れて来るような気がした。
心臓が今では苦しいほどにどくどくと音を立てていた。
その音がエデュランに聞こえてしまうのではと心配になるほどに…。
一体…どうしてしまったのかしら…わたし。
手を握られているのが恥ずかしくて思わず解いてしまいたいのに、エデュランはさらにぎゅっと力強く手を握って離さなかった。
シャルレーネはベッドの上で目を開いた。
隣を向くと目の前にドラゴンの顔があった。
赤い瞳でじっとこちらを見つめている。
その美しい瞳をみていると、思いがけず涙が浮かんできた。
するとその涙を拭う様にドラゴンがぺろりと目元を舐めた。
そして甘えるようにシャルレーネの頬に顔を摺り寄せる。
シャルレーネは思わず微笑んだ。
「ありがとう、ノエ」
ドラゴンを腕に抱きながらシャルレーネは再び眠りについた。