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2.

 シャルレーネが、初めてエデュランと出会ったのは十六歳の時だった。

 王城で開かれるお茶会に招待され、父ルーファスと共に城を訪れた時、城の二階から中庭の茂みに蹲る幼い少年を見つけた。

 思わずルーファスの傍を離れ、その少年の元まで来ていた。

 短く切りそろえた黒髪は、艶やかだが少し癖毛で、濃い茶色のつぶらな瞳をしていた。

 少年は、なんというか…とても言いにくい言葉なのだが。


 ぽっちゃりしていた。

 とても。


 桃色の頬は、まるで赤ん坊のように可愛らしかった。


 「…どうしたの?あなた」


 蹲り涙をぽろぽろと零す少年にシャルレーネは声を掛けた。

 少年は、眠る白い子猫を抱えていた。

 まだ歩くことさえやっとといったような生まれたての子猫だった。


 「どこに行った、あのブタ」


 「無能なブタが。訓練の邪魔なんだよ」


 その声にシャルレーネも、茂みの陰に隠れた。

 十二、三歳くらいの少年騎士達三人笑いながらこちらへと歩いて来ていた。


 「こ、こんなことして…本当に大丈夫なのか?」


 「言いつける根性もないらしいぞ、あいつ」


 「本当に情けない奴、子猫一匹殺せないなんて」


 少年達はそうけらけらと笑いながら去って行った。

 シャルレーネは、その言葉を聞きながら愕然とした。

 少年騎士達は、恐らくこの少年に子猫を殺すように命じたのだろう。

 それが出来ず、少年は子猫を連れて逃げて来たのだと分かった。

 子猫を抱えて縮こまる少年の頭を、シャルレーネは思わず撫でていた。


 「強い子ね、あなたは」


 少年は驚いた様子で顔を上げて、シャルレーネを見つめた。


 「強くて優しい子」


 少年はじっとシャルレーネを見つめ、怯んだ様子で目を反らした。

 しかし、こちらを伺う様に再びじっとシャルレーネを見つめた。

 茶色だと思っていた瞳は、陽に当たると深い赤色に輝いて見えた。


 「その猫の赤ちゃんはどこから来たのかしら。お母様が探していないといいのだけれど」


 その時、にゃあと声がした。

 少年ははっとした様子で茂みから出て来ると、向こうで白い親猫がこちらを見ていた。

 少年がその猫の目の前に子猫を置くと、猫は子猫を咥えてどこかへ行ってしまった。


 「よかった、お母様が見つけてくれて」


 シャルレーネは、少年に微笑み掛けた。


 「ねえ、あなたお名前は?」


 少年はじっとシャルレーネを見上げていたが、はっとした様子で何も言わずに走り去ってしまった。

 その後シャルレーネは城を訪れた際は時折中庭を覗いてはみたが、少年を見つけることはなかった。

 あの少年がまた一人で泣いていないだろうかと気になっていた。

 それから数週間が過ぎたある日、シャルレーネはルーファスからもうすぐ十歳になる王子の婚約者として選ばれたこと告げられた。


 「私の娘だから当然だな」


 まるで自分のお陰かのようにルーファスは、機嫌よく笑顔を浮かべた。

 栗色の髪に黄色を帯びる灰色の瞳を持つルーファスは、四十歳を迎えた今も社交界では女性達の目に留まるほどの端正な顔立ちをしていた。

 しかし、領地での仕事や社交場を巡ることに忙しく、家に戻るのはいつも夜中で翌朝早くには出掛けていっていた。

 父親として甘えた記憶はなく、幼い頃は厳しく叱られたこともあり、シャルレーネにとっては逆らってはいけない相手だった。

 王子の婚約者として選ばれたことにシャルレーネは戸惑った。

 シャルレーネは、公爵令嬢として昔から厳しい教育を受けていた。

 それはいつか自分が婿を迎えこの家を継ぐためだと思っていた。


 「お父様ですが…」


 「この家はいずれ養子を迎え、その子に継がせる。…王子だぞ、王子。お前は王妃に選ばれたのだ」


 そう言って、ルーファスは唇を歪めて冷たい笑みを零した。

 ランバルト家はノガルドに存在する二つの公爵家で、ルーファスは広大な領地からの収入だけでなく様々な事業に携わり、王室へ膨大な資金を提供していた。

 そして、自らの娘を王妃に選ばせ王室に加わろうと考えているのだろう。

 王子エデュランは、公の場ではいつもセドリックの後ろに隠れ、なかなか姿を現すことがなかった。

 顔もよく分からず、六つ年下の王子との婚約にシャルレーネは戸惑ったが、美しく微笑んで答えた。


 「とても嬉しいですわ、お父様」


 「ランバルト家に相応しいふるまいをするのだぞ、シャルレーネ」


 「はい」


 「その容姿だけは、あいつに感謝しなくては」


 その言葉にも、シャルレーネは黙って微笑んでみせた。

 シャーロットは貧しいアガモット男爵家の産まれながら、ルーファスに見染められ十七歳の時に公爵であるランバルト家へ嫁いで来た。

 しかし、シャーロットは産まれつき魔法耐性が異常に高く、その身体は治癒術さえも効果を示さなかった。そして、十八歳でシャルレーネを産んでからはさらに身体が弱くなり、子どもを産めない身体になってしまった。

 今では季節の変わり目には必ず熱が出るようになり、ベッドに横になっている時間が長くなっていた。


 ルーファスは、気に入らないことがあればシャーロットを責めるような物言いをしていた。

 それが、シャルレーネはいつも許せなかった。

 母を庇うことができない自分のことも…。

 シャルレーネは、婚約の報告にシャーロットの寝室へと向かった。


「まあ、シャルレーネ様」


 そう声を掛けて来たのはメイドのアビーだった。

 アビーは、今年六十歳を迎えた年長のメイドで、シャルレーネが幼い頃からシャーロット付きのメイドとして、いつも傍に付き添っている。


「シャーロット様今日はとても具合が良さそうですよ」


 シャーロットは最近食欲が落ち、ベッドから起きることが少なくなってしまった。


「お母様、失礼します」


 シャルレーネが部屋に入ると、シャーロットは刺繍の道具を手にベッドに座っていたがシャルレーネをみるとぱっと笑顔を浮かべて両手を広げた。


「あら、シャルレーネ。ルーファスに聞いたわ。おめでとう!王子様と結婚なんてまるでおとぎ話のようだわ!」


 シャルレーネは少しはにかみながらもその腕の中へと飛び込み、細くなってしまった背中を撫でた。


「あなたが誇らしいわ、シャルレーネ。あなたの結婚式を見るためにももっと体力をつけなければね」


 そう言ってシャーロットは優しくシャルレーネの髪を撫でた。


「せっかくだからあなたの婚約祝いに久しぶりに刺繍をしようかと思って。何の刺繍がいい?」


 その後は二人で刺繍の図案を話し合い、シャーロットはシャルレーネが好きな勿忘草の刺繍のハンカチを贈ることを約束してくれた。



 次の日、シャルレーネはルーファスと共に王城へ向かい王室へ案内された。

 長椅子に腰かける国王セドリックと隣に座る少年を見てシャルレーネは驚いた。

 ぽっちゃりとした王子エデュランが、あの時の少年であるとすぐに分かった。

 国王セドリックは、シャルレーネよりも濃い色合いの金髪にサファイアのような深い大きな青の瞳、そして女性も羨むほどの白い肌の美貌の持ち主だった。

 セドリックに、エデュランは少しも似ていなかった。

 本来なら、王子が十六歳になり社交場に出て妻となる女性を選ぶ。

 しかし、今回セドリックの強い願いでシャルレーネが婚約者として選ばれたという。

 互いに挨拶を交わした後も、エデュランは口を開かなかった。


 「すまないな、エデュランは人見知りで」


 そう言って、セドリックはエデュランの頭を優しく撫でた。


 「時間はたくさんあるのです。エデュラン様が大人になるまでに、シャルレーネにも慣れるでしょう」


 ルーファスは、そう飄々と答えた。

 二人きりで中庭に出されると、エデュランはやっと口を開いた。


 「ぼ、僕の妻に選ばれたことを光栄に思え。シャル、シャルレ、レーネ」


 そうもごもごとエデュランは言った。


 「…レーネで構いません。王子様」


 「で、では…レーネ。はっきり言っておくが、僕は君との結婚など望んでいない」


 エデュランの言葉に、シャルレーネは驚いた。


 「これは父上の命令だから仕方なく…なのだ。美しくもなんともない君との結婚なんて」


 今まで自分の容姿を褒められるたび、シャーロットが褒められているようで嬉しかった。

 自分の容姿に酔っていたわけではないが、なんともないと言われるとは。


 「君のような年上の女性を押し付けられて迷惑しているのにこっちだからな」


  迷惑だなんて。


  わたしは…あなたのことを心配していたのに。


  そう思うと、思いがけずむっと苛立つ気持ちが芽生えた。


  こっちだって、ぷにぷに王子のことなんて…。


  ふとそんな考えが浮かびエデュランのぷるりとした頬を見つめる。


  でも…本当に可愛いらしいほっぺた。


 シャルレーネは思わず手が伸びていた。

 ぷにと頬を指で押すと、思った以上の柔らかさに目を見開く。


 「すごい」


 エデュランは目を見開き、顔を上げた。


 「赤ちゃんみたい」


 シャルレーネは思わずそう呟いていた。

 エデュランは、シャルレーネの手を払いぷっと頬と膨らませた。


 「僕は赤ちゃんなんかじゃない!」


 シャルレーネははっとした。

 エデュランは瞳に涙を溜め、きっと顔を上げてシャルレーネを睨んだ。


 「き、君とはいずれ婚約破棄してやる!見ていろ!」


 そう叫ぶと、エデュランはシャルレーネの前から走り去ってしまった。

 わたしったらなんてことを!

 シャルレーネは謝罪するために、すぐにエデュランの部屋を訪ねたがメイドのマーサにやんわりと断られてしまった。

 数日後、シャルレーネは再び王城を訪れた。その日から、王妃教育を受けるため王城に暮らすことになっていた。

 エデュランの部屋の向かいの部屋を用意され、シャルレーネはすぐにお詫びの品として、買って来たチョコレートの缶を手にエデュランの部屋を訪れた。

 有名なチョコレート店のルル・エロルで選んだチョコレートで、白猫をあしらった缶をエデュランが気に入るのではないかと思ったからだ。

 シャルレーネ自身も違う種類の缶を糸入れとして大事に使っている。

 マーサに案内されて通された部屋に思わず目を見開いた。

 おもちゃのあふれたその部屋の中心に、エデュランがいた。

 寝転びながら本を開き、山積みのお菓子の箱からチョコチップクッキーを食べている。

 エデュランは、シャルレーネを見るとはっとした様子で立ち上がった。


 「な、なんのようだ!マーサ!黙っていれるなんて…」


 「お客様を通して良いかと確認しましたわ」


 マーサは澄まして答えた。


 「き、聞いていないぞ!」


 「本に熱中しておりましたからね」


 エデュランはマーサを睨み、再びシャルレーネの方を向いた。


 「この間のお詫びを。本当に申し訳ありませんでした」


 シャルレーネが、チョコレートの缶を差し出すとエデュランはふんっと鼻を鳴らした。


 「いらない!今さら謝っても無駄だ」


 ぴしゃりとエデュランは言った。


 「君のような女、せいぜい僕を恐れて暮らせばいい。王子である僕の気分を悪くさせないようにこ、こび…へつらってな」


 そうふんぞり返ってエデュランは言った。


 「君が泣いて嫌だと言っても、絶対に婚約破棄してやる!性悪女め!」


 しょう…わる?


 正面から吐かれた初めての悪態に、シャルレーネの頭の中でぷつりと何かが切れたような気がした。

 しかし、シャルレーネはにっこりと笑顔を微笑んだ。


 「よく…わかりました」


  落ち着いて、落ち着いてわたし。

  人の機嫌を取るなんて慣れているじゃない。


 「分かったのなら、出ていけ!」


 そうエデュランは声を荒げた。


 こんな子どもの言うことを間に受けては駄目よ。

 でも、でも…なんて腹立たしい!


 「では、楽しみしておりますわ。あなたからわたくしが解放される日を」


 シャルレーネがそう返すと、エデュランが顔を顰めた。


 「わたくしを泣かせたいのであれば、せいぜい立派な王子様になってくださいませね。ぷにぷに王子様」


 そうにっこりと微笑んでシャルレーネが言うと、エデュランが目を見開いた。


 「失礼いたしますわ」


 ほほほと笑いながら、シャルレーネはマーサにチョコレートの缶を渡すと部屋を出た。

 廊下を歩きながら、心臓が破裂しそうなほど音を立てていた。

 相手を目の前にして、傷つけるような言葉を吐いたのは初めてだった。

 それでも、どこかすっきりとした気分でいることにシャルレーネは戸惑い、それと同時に深い後悔が押し寄せて来た。

 もしもすぐにでも婚約破棄となってしまえば…ルーファスが怒る姿が目に浮かぶ。


 そうなったら…きっとお母様は悲しむわ。

 でも年上が嫌というのなら、わたしにはどうすることも出来ないし…。

 早めに婚約を破棄していた方がいいのかもしれない。


 そう思いながらも、憂鬱な気分のままシャルレーネはその日を過ごした。

 しかし、数日経ってもシャルレーネは婚約破棄を言い渡されることはなかった。

 

 エデュランの城での評判は、お世辞にも良いものではなかった。


 魔力もなければ、知性も品もない。

 王族にふさわしくない醜い妾の子と。


 エデュランが五歳の時に頃受けた魔力測定の時、魔力の水晶は何色にも光らなかった。

 それは、五大属性と膨大な魔力を持つノガルドの血筋を引き継がなかっただけでなく、属性魔法が使えないほど魔力が弱いことを示していた。

 そして王としての勉学も嫌い、毎日部屋に籠りおもちゃで遊びお菓子を食べてばかりいた。

 常々思っていたがエデュランは十歳と呼ぶには、ひどく幼さが残っていた。

 不貞腐れた顔などまだ五、六歳くらいに思える。

 それは国王セドリック、そして義理の姉である十八歳になる王女オディールが、エデュランを甘やかしているからだった。

 セドリックによく似たオディールは、豊富な魔力を持ちその美貌と知性、そして優しく明るい人柄のため、民からも人気だった。

 オディールは病のためこの世を去った王妃オリヴィアのたった一人の娘で、セドリックは側室を持たなかった。

 父親に付き添い公務を補佐する姿に次期国王には彼女こそが相応しいのではという声もあったが、ノガルド国には女王が立った前例がなく、例え能力が乏しくても次期国王はエデュランがなるだろうとされていた。

 エデュランの母親は、貴族でもなんでもない普通の女性だと言われていたが詳しいことは誰も知らなかった。

 ある日、一歳になるエデュランをセドリックが連れ帰ったのだという。

 魔力を持たないのは貴族ではない母親のせいだという声が多かった。

 母親の違うエデュランのことを、オディールは本当の弟のように可愛がり、愛していた。

 しかし、セドリックもオディールもエデュランが陰でどんな扱いを受けているのか知らないようだった。

 あの少年騎士達に、子猫を殺めるよう強いられたことだって…。

 あんなことがあっては、騎士訓練が嫌になるのも仕方がないとシャルレーネは思った。


 初めての晩餐の日、エデュランのために用意された大量の食事にシャルレーネは驚いた。

 そして、エデュランはナイフで肉を豪快に切るとフォークを差して噛ぶり付き、前掛けを汚しながら食べていた。


 確かにまだ子どもだけれど…。


 その姿にシャルレーネは思わず呆気に取られてしまった。

 しかし、セドリックもオディールもそれを咎めることなく笑いながら食事をしていた。


 「まあ、エデュラン。口元を汚しているわ。食事の作法の先生からまた逃げたのでしょう?困ったものね」


 そう言って、隣に座るオディールがナプキンでエデュランの口元を拭う様は、まるで幼い子どもに対して接しているようだった。


 「オディール。あまりエデュランを甘やかさないように」


 セドリックがそう言うと、オディールは驚いた様子で目を見開いた。


 「まあ、お父様に言われたくありませんわ」


 エデュランはシャルレーネの視線にはっとした様子で、オディールの手を振り払うと、自分の前掛けで口元を拭った。


 「あらあら、シャルレーネの前でごめんなさいね。シャルレーネのようなしっかりした女性がエデュランの奥様になってくれれば、わたくしも安心だわ」


 そう言ってオディールはシャルレーネに笑顔を向けた。


 「でも、こんなにたくさん食べるのには驚いたでしょう?」


 オディールがそう言うと、エデュランはぴくりと肩を揺らした。


 「いえ、そんなことは…たくさん食べられて羨ましいですわ」


 「あら、良かったわねえ。エデュラン」


 オディールがそう言って微笑んだが、エデュランはただ目を伏せていた。


 「そうだな。子どもはたくさん食べるのが一番だ」


 セドリックがそう言ってエデュランに向かって目配せすると、エデュランは嬉しそうに微笑んだ。


 なんだ、お父様とお姉様の前では笑うのね。


 そのはにかんだ可愛いらしい笑顔をシャルレーネが見つめていると、ふいに目があったがエデュランはすぐに顔を顰めて目を伏せ再び大きな口で肉を頬張ると、美味しそうに目を細めた。


 美味しそうに食べるのね。


 あんな風に楽しそうに食事をしていたのはいつのことかしら。


 今では作法を気にしてばかりで…食事をあまり楽しいとは思えなくなっていた。

 シャルレーネは静かに食事を続けた。

 ふと、顔を上げた瞬間エデュランがじっと自分を見ているのに気がついた。

 エデュランはじっとシャルレーネの手元を見つめ、そして自分の汚れた手元と前掛けを見つめるとみるみる顔が赤くなっていった。


 「も、もういらない」


 エデュランはそれだけ告げると、前掛けを置いて夕食の席から立ち上がった。


 「あらあら、エデュラン。どうしたの?お腹が痛いの?」


 オディールの言葉に反応することなく、エデュランは晩餐室から出て行った。


 「どうしちゃったのかしら…」


 オディールは心配そうに首を傾げていた。


 「さあね」


 セドリックはそう口にすると、シャルレーネの方を見て微笑んだ。


 「あの子は優しい子だろう?」


 「え…」


 シャルレーネは思わず目を泳がせた。


 「優しくて…すごく忍耐強い子だ。きっと産まれのことで色々と言われているだろうに、私に告げ口するようなことはない」


 シャルレーネはおもわずどきりとした。


 じゃあぷにぷにと言ったことも知らないのね。

 それなら、少年騎士達にひどいことをされたことも…。


 「私はあの子に、辛い思いをさせたくない。だから、つい作法にも口うるさく言えなくてね。…でも、シャルレーネのお陰であの子は変われるかもしれない。私としては、いつまでも甘えん坊でいて欲しいのだけどね」


 そう言って、セドリックはシャルレーネに微笑んだ。

 

 その次の日だった。

 シャルレーネがふと廊下の窓から外を見ると、エデュランが騎士訓練場で騎士達が訓練している周りを走っている姿が見えた。シャルレーネは首を傾げた。


 「…訓練には参加していないのでは?」


 思わずそう呟いた。

 ふふっと笑う声が聞こえシャルレーネは振り向いた。

 そこには、エデュラン付きのメイドのマーサが立っていた。


 「失礼いたしました、シャルレーネ様。改めてご挨拶いたします。エデュラン様専属メイドのマーサ・アーデンと申します」


 マーサは綺麗な白髪に灰青の瞳の美しい老女だった。

 マーサは、元々はセドリック国王の部屋付きメイドだったが、今はエデュランの部屋付きメイドを任されている。


 「エデュラン様は、今日から騎士の訓練に参加されるそうです」


 この国の騎士は魔力を持たなければなることは出来なかった。剣の訓練はもちろん、自分の能力にあった攻撃魔法を取得し、遠近両方の戦いに秀でたものこそが魔法騎士として優秀と言われていた。


「なぜですか?逃げていると聞きましたが…」


「もう二度とぷにぷになどと言わせないぞっと意気込んでいらっしゃいました」


 そう言って微笑むマーサにシャルレーネは思わず頬が熱くなった。


「あ、あれはその…つい」


「ふふ」


 マーサは穏やかに微笑んだ。


「あの方、食欲が抑えられなくて…わたくしも甘やかしてしまうのも悪いのです」


「聞いても…いいのかしら」


 シャルレーネは、マーサに聞いた。


「あの方は、なぜあれほど自由を許されているの?」


 マーサはにっこりと笑った。


「言葉選びが丁寧なのですね、シャルレーネ様。甘やかされ我儘…といいたいのでしょう?」


「そ、それは…」


「苦痛を与えるすべてからあの子を守って欲しい。それが…セドリック様の願いなのです」


「そうだとしても、そんなことは不可能だわ。だって、あの子は少年騎士達に…」


「え?」


 マーサの驚いた表情に、シャルレーネは口を閉じた。あの時のことを、エデュランはマーサにも話していないのだろうか。


「いいえ、なんでもないの」


 自分が告げ口することはないと、シャルレーネは口を閉じた。


「不可能だとしても…セドリック様にはそれしか方法が分からないのです」


 そう言いながらマーサは再び微笑んだ。


「でも、シャルレーネ様が来られて、エデュラン様は変わろうとしています。訓練にも参加され、食事の作法も学ぶとおっしゃってくださって」


 その言葉に、シャルレーネは驚いた。


「わ、わたくしは何もしていないわ」


「いいえ、あの方は強くなろうとしています。苦痛を与えられるものから逃げるのではなく、立ち向かう強さを身に着けようとしている。それはきっとあなたに…おっとこんなことを言っては怒られますわ」


 そう言ってマーサは口元を抑え微笑んだ。


「ぷにぷに王子じゃなくなって、あなたと婚約破棄してぎゃっふんと言わせてやるのだと言っています」


「ぎゃっふん?」


「ええ。だから、わたしも魔法の言葉を覚えたのですよ」


 マーサの言葉に、シャルレーネは首を傾げた。


「魔法の言葉?」


「そんなことでは、シャルレーネ様に笑われますよって。立派な王子になって見返すにはほど遠いですねって」


 そう言ってマーサは嬉しそうに微笑んだ。


 セドリックとその公務に付き添うオディールは、その日晩餐室に現れなかった。

 外交に出掛け、数日戻らないという。 

 シャルレーネはエデュランと二人、無言で晩餐の席に着いた。

 エデュランは肌が日に焼けてしまったのか、赤く染まりひりひりとして痛そうだった。


 わたしがいなかったら、いつも一人で食べているのかしら。


 広すぎる晩餐室でぽつりと食事を食べるエデュランの姿を想像して、シャルレーネは家での自分を思い出した。

 ルーファスがおらずシャーロットがベッドからほとんど起き上がれなくなると、シャルレーネは一人で夕食を食べていた。

 エデュランは、なぜか食べるシャルレーネをじっと見つめていた。

 まるで真似するように、シャルレーネがナイフを使えばナイフを、フォークを使えばフォークを手にした。


「…自由に食べていいのですよ」


 シャルレーネは思わずそう口にしていた。


「そ、そんなことを言って…本当は僕のことを笑っているのだろう!どうせぷにぷにだからな!」


「あら、性悪女の言葉など気にする必要ないのではないですか?」


「あ、あれは君が変なことを言うから!」


 そう言いながら、生のトマトを口にしてエデュランは涙目を浮かべた。


「…トマトが嫌いなのですか」


「うるさい!僕に嫌いなものなどない!」


 そう言うと、エデュランは口を噤んでしまった。

 その日食事を終え、シャルレーネはマーサに頼んで日焼け止めの塗り薬をエデュランに届けさせた。


 シャルレーネの日常は、ランバルト家で過ごすよりもずっと自由だった。王妃としての教育である歴史や言語、そして作法に舞踏、刺繍や絵画に音楽など、その教育のほとんどをシャルレーネはすでにランバルト家で叩きこまれていた。教育係達には驚かれたが、これが出来なければルーファスの機嫌が悪くなってしまうため必死に学んだものだった。


「シャルレーネ、そんなに色々と頑張ろうとしなくていいのよ。もっと自由に過ごしてちょうだい」


 そうオディールに言われシャルレーネは驚いた。

 自由にと言われたのは、幼い時以来だった。

 シャルレーネは王城を歩いて回り、王城の広大な庭を散歩しながら小高い丘に一本立つ木の下が気に入った。王城を一望できるそこで、雨の日以外は木の下に敷布を敷いて本を読んだり、刺繍をしたりして過ごすようになった。最近はオディールに贈ろうと、ハンカチへ赤い薔薇の刺繍をしていた。


 二週間が過ぎ、相変わらずエデュランには目が合うと顔を背かれてしまっていた。

 その日、シャルレーネは騎士訓練場を一階の渡り廊下から眺めていた。他の騎士達が剣で撃ち合いや的目掛けて様々な魔法を繰り出している中、エデュランがただひたすらに走ったり身体を鍛えたりしている姿が目に入った。


「シャルレーネ様」


 そう声を掛けて来たのは、アルシオ・ツヴァイクだった。魔法騎士の紺の制服に身を纏い、深紅のショートマントを身に着け居ている。


「ごきげんよう、ツヴァイク様」


 アルシオは二十一歳という若さながら、魔法騎士団長の団長補佐をするほど優秀で、今も各地へ赴き多くの魔物討伐に尽力していた。彼が放つ深紅の炎の火力は、レッドドラゴンにも引けを取らないと言われている。アルシオ本人も自分の能力をひけらかすようなことはなく、いつも笑顔を絶やさない明るい性格をしている。

 こうしてシャルレーネがひとりでいると、気軽に声を掛けてくれていた。


「エデュラン様が訓練に参加するようになったのはあなたの声掛けで?」


「い、いえ。そういうわけでは…」


「あの方に教えられるのは剣技だけなのですが、とても熱心に体力造りに励んでいらっしゃいます」


「そう…ですか」


 シャルレーネはふと少年騎士達のことが気になった。


「あの子は嫌な目にあっていませんか」


「え?」


「その…少年騎士達の中には意地の悪い子もいるのではと」


「ああ!大丈夫ですよ。エデュラン様はこうして大人達の訓練場の横で訓練をしているので。私が直々に鍛えています。少年騎士達との訓練を一日で逃げ出したのは、きっと何かあったからなのでしょう」


 アルシオの言葉にシャルレーネは思わずほっとしていた。


「エデュラン様と仲が良いのですね」


「ええ。…とても大切な方です。それに…あの方は変われるかもしれない。あなたのお陰ですね」


 アルシオにまでそう言われ、シャルレーネはどこか気まずい気持ちだった。


「変わろうとしているのはあの子です。あの子の…自分の力ですわ」


 わたしはぷにぷにだって…悪口を言っただけなのだけれど。


「でも、きっかけはきっとあなたです」


「アル!」


 そう声がして、アルシオの腰にエデュランがしがみついて来た。


「何をしているんだ!訓練中だぞ」


 エデュランはそう言って咎めるようにシャルレーネを睨んだ。


「はいはい、すみませんねぇ。エデュラン様」


「…な、何を話していた」


「ただの世間話ですよ。そんな妬かなくても…」


「う、うるさい!そんなこと絶対ないからな!」


 エデュランはシャルレーネに向かってべーっと舌を出すと、アルシオの背中を押しながら訓練場へ戻って行った。


 エデュランは本当に変わろうとしていた。

 騎士訓練には欠かさず参加し、常に身体を動かすようになっていた。それに、あんなに逃げ回っていた国王としての教育もしっかり受けるようになったとマーサから聞いた。


 城へ来てひと月が過ぎた頃、薔薇の刺繍のハンカチが完成したので、オディールに渡すため部屋を訪れた。


「どうぞ、こちらへ」


 そう言って案内してくれたのは、メイドのランシュ・ガナットだった。薄茶の髪に、黒曜石のような黒い瞳をした彼女は、幼い頃からオディールのメイドを勤めているという。


「今オディール様は衣裳選びをしておりまして…」


 通されたオディールの部屋には何点もドレスを広げていた。


「あら、いらっしゃい。シャルレーネ。今丁度ドレスを選んでいるところなの。ねえ、ランシュ。こっちの青いドレスはどうかしら」


「オディール様にはどんな色もお似合いですよ」


「あなたったら、わたくしに甘いのだから…」


「あの、わたくしオディール様にこれを渡したくて…」


 シャルレーネはそう言って薔薇の刺繍のハンカチを渡した。

 オディールは目を見開いた。


「これ…あなたが?なんて見事な薔薇の刺繍なの。こんなに繊細に…」


「母に習ったのです。母は刺繍が好きで…」


「まあ、なんて素晴らしいの!ありがとう、シャルレーネ」


「いいえ、喜んで頂けて嬉しいです」


 シャルレーネは照れながらも嬉しくて微笑んだ。


「丁度良かったわ。あなたにもドレスを選んであげる」


 オディールは楽しそうに、ドレスが並ぶ長椅子へとシャルレーネの手を引いた。


「これなんてどう?シャルレーネ」


 オディールはピンクの薔薇の刺繍が施されたドレスをシャルレーネに合わせた。


「こんな可愛らしいドレスわたくしには…」


「そんなことないわ。いつもきっちりとした恰好をしているけど…こんな淡い色が良く似合う」


「そ、そう…でしょうか」


「あーあ、エデュランも女の子だったら良かったのに。そしたらこんな風にたくさんドレスを着せて遊んであげられたのに。ふふふっ、初めて見たあの子、とってもかわいくて!今もぽちゃぽちゃの頬なんていつまででもすりすりしていたいけれど…」


 シャルレーネも思わず笑顔を返した。


「赤ちゃんみたいな頬ですものね」


「わかる?そうよね!」


「すりすり…はさせてもらえそうもないのですけれど」


「わたくし、お母様を早くに亡くして…ずっと寂しかったの。お父様は優しいけれど忙しい方でしょう?だから、エデュランが来てくれてとても嬉しかったのよ」


 オディールは寂しそうに目を伏せた。


「明日からわたくしとお父様はルドラ国に向かうから、エデュランのことをお願いね」


 ルドラは西大陸の南にある国で、魔力を持つ者が産まれない代わりに剣術や魔道具の開発へと力を入れている、ノガルドに継ぐ大国だった。ノガルドとの国交も盛んで、オディールはその国の第一王子であるザンダーと婚約が決まり、セドリックの訪問にオディールも付き添うことになっていた。


「あの子寂しいとか簡単に口にすることもしないから」


 その言葉にシャルレーネは驚いた。


「そう…なんですね。もっとオディール様には甘えるのかと」


「そんなことないわ。…どちらかというと困らせないようにしているような気がするの」


「そんな風には…」


「だって…あの子が何もかもから逃げているのはわたくしのせいだから」


「え?」


「あの子…魔力測定の日に魔力が少ないことが分かって…すごく落ち込んだの。わたくし…あの子がいつまでも落ち込んでいる姿を見ていたくなくて…つい言ってしまったの。いつまでも落ち込んでいたら…わたくしが代わりに王様になっちゃうわよって」


 オディールは深く息を吐いた。


「それから…あの子は、何もかもから逃げるようになったの。自分が王様にならなければ、わたくしがなると…わたくしが相応しいと思い込んでいるみたい。わたくしは…どうせお嫁に行くのに…ね」


「オディール様…」


 目を伏せたオディールになんと声を掛けてよいのか分からずいると、傍にいたランシュがそっとその肩に触れた。


「ありがとう、ランシュ」


 そう言ってオディールは微笑んだ。


「わたくしあの子がどうやって自分に自信をもって貰えるのか分からなくて…甘やかすことしかできなかった。そのままでいいのよって。わたくし達にはそのままの自分でいてって。それで、いつか自分から変わりたいって思える時が来ればと思っていた。…今思えば、あの子にこれ以上嫌われるのが嫌なだけだったのよね。本当…ずっとずっと守ってあげられればいいのに。…でも、それはあなたにお願いするわ」


 オディールはシャルレーネの刺繍したハンカチを撫でた。


「これ…素敵ね。すごく…すごく優しい気持ちになれる。きっとあなたがいればあの子は大丈夫。…そんな気がするわ」


 そう言ってオディールは寂しそうに笑った。



 エデュランは、かき込むのではなく丁寧に食事をするようになった。

 晩餐の時間、相変わらずトマトを食べると一瞬吐きそうな顔になり、涙目になる姿に思わずシャルレーネは微笑んだ。顔を上げたエデュランは、シャルレーネの笑顔に目を見開き困ったように目を伏せた。


「嫌いなら食べなければいいのではありませんか」


「うるさい。…嫌いなどではない。へらへら笑うな」


 シャルレーネは肩を縮めた。


「わたくしの自由です」


 エデュランは、顔を顰めた。


「相変わらず嫌な女だ」


「お褒め頂き光栄です」


 シャルレーネが澄まして言うと、エデュランはシャルレーネを睨みつけ顔を背けた。



 シャルレーネはもっとエデュランのことを知りたいと思った。

 たとえいずれ婚約破棄になってしまうのだとしても、エデュランの味方になりたい。

 そう思う様になっていた。



 次の日、シャルレーネは昼食の時間にマーサへと頼み、バスケットに大きなサンドイッチをたくさん作って貰った。それと、水筒に冷たい紅茶を淹れてもらうとエデュランの部屋へと向かった。シャルレーネが部屋を尋ねると、部屋にあふれていたおもちゃはなぜかその姿を消していた。そして、本を読んでいたエデュランは長椅子から飛び上りながら立ち上がった。


「な、なんだ!」


「いえ…おもちゃが無くなりましたね」


「うるさい。あれは、孤児院に寄付させた。遊び相手もいないのに、父上と姉上が買ってくるのだ。僕はもう子どもじゃないのに。それで…何の用だ」


「媚びへつらいに参りました」


 シャルレーネが澄ましてそう言うと、エデュランは顔を歪めた。


「君は本当に嫌な女だ」


「レーネで良いと言ったはずです、エデュラン様」


 エデュランは目を見開いた。


「は、初めて…僕の名を呼んだな」


「え?そうですか?」


「僕のことも…ただエデュランでいい」


 少し恥じらう様に目を伏せ、エデュランは言った。


「それ…で?」


「ピクニックへ誘いに来ました」


「ピクニック?」


「ええ。たまには外で食事をしましょう」


 エデュランは興味深そうに、シャルレーネを見つめた。


「外で食べたことなど一度もない」


「わたくしも子どもの頃母として以来なのです」


 以前シャーロットの療養で田舎の別荘に居た時、自分が幼い頃はこんな風にピクニックをしていたのだと連れ出してくれていたのだ。


「とても楽しいですよ」


 そう言って、シャルレーネはエデュランに近づくと手を差し伸べた。


「さあ」


 エデュランはその手をじっと見つめ、戸惑った様子で手を伸ばした。なぜかシャルレーネに触れるのを戸惑っている様子だったので、シャルレーネは思わずその手を自分から握った。


「行きましょう。お気に入りの場所があるのです」


 そう言って、シャルレーネは歩き出した。エデュランは意外にも、きゅっとシャルレーネの手を握ってきた。シャルレーネは嬉しくなり微笑むと、中庭に出ていつもの丘の上へ向かった。


「あの木の所か?」


 エデュランはふいに言ったので、シャルレーネは驚いた。


「ええ。知っているのですか」


「君がよく行っている」


「まあ!よくご存じで」


「た、たまたまだ!たまたま見かけただけだ!」


「ふふふ、そうですか」


 エデュランはむくれてしまったが、手を離そうとはしなかった。

 木の下に到着すると、シャルレーネはいつも通り草原へ大きな敷布を敷くとそこに腰かけた。

エデュランは少し戸惑いながらもシャルレーネの隣へと腰かけた。


「サンドイッチを作ってもらったのです。さあ、一緒に食べましょう」


 シャルレーネはバスケットを開き、一緒に入っていた水筒からコップへ紅茶を注いだ。


「サンドイッチ?それにしては大きくないか?」


 シャルレーネは、紙に包まれたサンドイッチを取り出し開いた。


「たまに出るサンドイッチは一口で食べられる大きさですものね。でもこれは、こうやって…」


 シャルレーネがそのまま齧り付くと、エデュランが目を開いた。


「うーん、美味しい!」


 つい零れた声に、シャルレーネ自身も驚いた。

 こうして周りを気にせず食事をしたのは、本当に久しぶりのことだった。

 エデュランはシャルレーネを見つめて、戸惑いながらも紙に包まれたひとつのサンドイッチを手にした。それを開き表情を曇らせる。そこには焼いた鶏肉とチーズとレタスにトマトが挟まれていた。


「あら、ちょっと失礼しますね」


 そう言って、シャルレーナはトマトを摘まむとぱくりと食べた。

 エデュランは目を見開いてそれを見ていた。


「生のトマトが嫌いと伝え忘れていましたわ」


 笑って見せると、エデュランは戸惑ったように目を伏せた。


「手掴みなど品がない…らしいぞ、レーネ」


「ごめんさない。でも、トマトが嫌いなのでしょ?」


「あの感触が嫌いだ。まるで虫を潰したようなぶちゅりとした感触が…」


 シャルレーネは思わず苦笑した。


「虫だなんて。食べたことがないからわかりませんわ」


「僕だってない!…想像だ」


「では、厨房長にそう伝えましょう」


「それは駄目だ。父上にも姉上にも嫌いなものはないのだから」


「…では、これからはあなたの分はわたくしが食べてあげますから」


「そ、そんな情けないこと…」


「わたくしが食べられないものはあなたが食べてくださいね、エデュラン」


 エデュランは驚いた様子でシャルレーネを見つめ、その瞳を細め笑った。


「仕方がないな、レーネ。僕を頼るといい」


 エデュランは笑顔のままサンドイッチにかぶりついた。


「美味しい…」


「そうでしょう?」


「ああ!」


 エデュランはたくさん作って貰ったサンドイッチをぺろりと食べてしまった。


「本当にたくさん食べるのですね」


 シャルレーネは目を見開いた。


「あ、ああ」


 エデュランは恥じらう様に目を伏せた。


「空腹が…なかなか治まらなくて。綺麗に食べるのも難しいし。君は食べる姿も美しいのに…」


「え?」


「き、綺麗に食べられて羨ましいと言う話だ」


 エデュランが慌ててそう言った。


「わたくしもたくさん練習しましたから」


 シャルレーネは、再び別荘で過ごした日々のことを思い出した。あの時は、作法など考えずに自由に食事をしていた。あの頃は食事も楽しかったことを思い出した。


「では、ときどきはこうして自由に外で食べましょう。誰にも何も言われませんわ」


「…だが」


「わたくしもかぶりついているのだから、同じですわ」


「…ふふっ。そうだな。それに…外で食べると気持ちがいいしな」


「そうでしょう?また来ましょう、エデュラン」


「ああ」 


そう言って、エデュランは微笑んだ。

食事を終え、紅茶を飲みながらふとエデュランが言った。


「その…レーネ。チョコレートと…肌に塗る薬をありがとう」


「いいえ。大変ですわね、毎日走ってばかりで。剣の訓練はしているのですか?」


「いや。でも…剣は嫌いだからいいんだ」


「どうして…嫌いなのですか?」


 エデュランは、暗い表情で言った。


「痛いのは嫌いだ。…だから、痛い思いをさせるのも嫌だ。こんなの、逃げている言い訳にしかならないが」


 シャルレーネは、思わずエデュランの頭を撫でた。

 エデュランは大きく目を見開いた。


「エデュラン…あなたは自分が痛くても、守りたいものを守れる強い人です」


 エデュランはちらりとシャルレーネを見て、ふんっと鼻を鳴らしシャルレーネの手を軽く振り払った。


「何も知らないくせに…」


「…エデュラン、お父様にあの少年騎士達のことは話さなかったのですか?」


 エデュランは大きく目を見開いてシャルレーネを見つめた。


「お、覚えているのか?あの時のことを」


「ええ。少年達にひどいことを強いられたとお父様に話せば…」


 エデュランはふんっと鼻を鳴らすと顔を背けた。


「強いられてなどいない。騎士として訓練を受けるのならそれくらい出来るようになれと言われた。…ブタなんて、いつも陰で言われて慣れている」


「そんな…」


「父上は、いつも王として何を言われても動じない。そんな人に、たかが子どもの悪口程度で手を煩わせたくない。ただでさえ…何にもできないのに」


 そう口にするエデュランは、いつもより大人びた表情をしていた。


「あなたは…お父様の王としての姿から学んでいるのですね」


「…それしかできない。ただの子どもだからな」


 エデュランはそう言って目を伏せた。


「僕がどれだけみっともないことをしているのか…君に会って思い知った」


「え?」


「僕は父上に…何も期待されてない。きっと…興味がないんだ」


「そんなことは…」


「父上は何をしても怒らない。王族としての教育を受けなくても、騎士訓練を逃げ出しても、食事を…めちゃくちゃに食べても。…どれだけみっともなく太っていても」


「みっともないだなんて…とてもかわい…」


「可愛いとか言ったら怒るぞ。父上も姉上もそう言って笑うばかりで…」


「…国王様はあなたを大切に想っているのです」


 エデュランはふんっと鼻で笑った。


「姉上がいれば…僕なんて要らないんだ。だから…僕なんてどうでもいいんだ。僕が努力なんてしなくても…姉上が女王になればそれが一番いい」


 エデュランは深く溜息を吐いた。


「やっぱり魔力も、血筋も何もかも兼ね備えた完璧な姉上が王様になるのが一番なんだ。僕なんて…何もない。努力したって変わらない。みっともないだけだ」


「エデュラン…」


「でも…君が丁寧に食事をしている姿を見て…思い知った。何もせずに逃げている方が…ずっとみっともなくて恥ずかしいって。もっと君…じゃなくて王族に相応しい人間になりたいって。例えみっともない王様になったとしても…」


 シャルレーネは再びエデュランの頭に手を伸ばし、その頭を撫でた。


「エデュラン…傷つけられても子猫を守ったあなたは、命の尊さを知る優しい王様にきっとなれます」


 エデュランは、再びシャルレーネの方を向いた。


「誰かを傷つけたくない気持ち…それは、上に立つ者には大切な気持ちです。自分勝手ではなく、みんなを思いやることができる。それはあなたがお父様とお姉様を見て、自然と学んだことだわ。教えずにそれを理解していることは…とても素晴らしい才能です。あなたは、きっととても…とても優しい王様になれる。わたくしはそう…信じています」


 シャルレーネが微笑むとエデュランは、一瞬怯み目を伏せたが再びただじっとシャルレーネを見つめた。


「実は、あの子猫の時からあなたをずっと探していたのです。エデュラン」


「え?」


「あなたがまたどこかで一人で泣いていないか心配で…」


 エデュランは、ふいにシャルレーネの手を両手で握った。


「ぼ、僕も…僕は―」


 エデュランは、はっとした様子でシャルレーネの手を離した。


「な、なんでもない」


「なんですか、途中で。気になるじゃないですか」


「なんでもないったら」


 そう言ってエデュランはそれ以上話さなかった。

 でも、帰る時もシャルレーネが手を差し出すとその手を素直に取り、二人で手を繋いで城へと帰った。


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