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2/21

1.

 嘗て中央大陸は、魔王が支配し魔物で溢れる呪われた地であった。

 その地を解放すべく勇者イアンが立ち上がり、聖女ドナ・エルダナ、大魔法使いノエ・ヴァラクと協力し、魔王である闇のドラゴンを倒し魔物達を夜の闇へと追い払った。

 そしてイアンを初代国王として誕生したこのノガルド王国は、千年もの歴史を紡ぐ魔法大国になった。

 ノガルド王国にある王都セティアは、その日祭りのような賑わいを見せていた。

 三月を迎えた春の温かさの中、街道をノガルドの国旗を掲げた幌のない馬車が通ると、人々の歓声が響いた。


 「来たぞ、エデュラン王子とジュリエッタ様だ!」


 家々の窓からは様々な色の薔薇の花びらが撒かれ、二人を歓迎した。

 エデュランと呼ばれたのは、黒髪と赤を帯びる薄茶の瞳の青年で、髪と瞳の色こそ違うが亡き前王セドリックによく似た美しい容姿をしていた。

 隣に立つ女性は、栗色の髪に蜂蜜色の可愛らしい大きな瞳を瞬かせ、真っ白なドレスにヴェールを被り美しい笑みを浮かべていた。

 ジュリエッタはランバルト公爵家の次女として産まれた。

 本妻亡き後ランバルト家に迎え入れられ、母の違う義理の姉からはいつも冷たく虐げられていた。

 元は姉がエデュランの婚約者であったが、姉は自分よりも六歳も幼くさらに生まれつき魔力の少ない王子を蔑んでいた。

 そんな冷たい姉からエデュランの心は離れ、いつも明るく笑顔を絶やさないジュリエッタに惹かれ、互いに心を通わせるようになっていった。

 しかし、十二歳だったエデュランは公務の最中に魔物に襲われ、顔に大怪我を負った上記憶を失ってしまった。

 そんなエデュランをジュリエッタの姉はあっさりと見放し、恋人と駆け落ちしてしまった。

 苦しむエデュランをジュリエッタは励まし続け、自らエルダナ教会に入ると治癒術を取得するための訓練を始めた。

 献身的なジュリエッタにエデュランは再び心惹かれるようになっていった。

 そして、不思議なことにジュリエッタとの思い出を次第に思い出すようになっていった。

 エデュランが十六歳の時、ジュリエッタは身に着けた治癒術でエデュランの顔の傷の治療を行った。

 すると、エデュランの顔に残る醜い傷跡は跡形もなく消え、さらに今までなかったはずの魔力が身体に満ち溢れた。

 こうして、奇跡の力により美しい顔と魔力を取り戻したエデュランとジュリエッタは、めでたく結ばれたのだった。


 人々へ手を振るジュリエッタの視線は、ふいに人混みの後ろに佇む薄茶の帽子を被った女性に留まる。

 思わず意地悪く唇が歪み、勝ち誇った笑みを浮かべていた。


 「ジュリエッタ、どうした?」


 エデュランの声に、ジュリエッタは愛らしい笑みを浮かべて振り向く。


 「いいえ、なんでもありませんわ」


 物語はこうして終わった。

 美しい二人の恋の物語は。

 幸せを迎えて。



 「シャルレーネ、ねえシャルレーネ」


 名を呼ばれ、シャルレーネは振り向いた。

 薄茶色の帽子に包まれた淡い金色の髪、エメラルドを思わせる煌めく緑の瞳。

 首元まで締まった帽子と同じ薄茶色のドレスは、一見地味な印象を与える。

 しかし、その白い肌の容姿は思わず見入ってしまう儚げな美しさがあった。


 「なんですか、リリシュさん」


 リリシュ・タロックは、シャルレーネが働く洋裁店の店主だった。

 赤茶の髪に、淡い青の瞳。黄色の格子模様の明るいドレスを身に纏う背の低い姿は、可愛らしい印象がある。二十歳を超えた子供がいるとは、言わなければ誰にも分からないだろう。

 リリシュは心配そうに、シャルレーネの顔を覗き込んで来た。


 「そんなに熱心に見つめる必要などないわ。…あなたを裏切った王子と妹なんて」


 その言葉に、シャルレーネは困りながらも微笑んだ。


 「裏切ったなんて…ただどうしようもなかったのです」


 シャルレーネは、今年で二十四歳を迎える。

 嘗てはランバルト公爵家の長女、そして王子エデュランの婚約者だった。

 ルーファス・ランバルト公爵とシャーロット・アガモット男爵令嬢の間に産まれ、十六歳の時十歳になる王子エデュランの婚約者として選ばれた。

 シャルレーネは、王妃として有望と言われていた。

 しかし、十二歳になったエデュランは公務の途中で魔物に襲われ大怪我を負った。

 そして…記憶を失ってしまったのだ。

 シャルレーネに怯えるエデュランを熱心に看病したのは、シャルレーネの義理の妹であるジュリエッタだった。

 二人は恋に落ち…シャルレーネとの婚約は白紙に戻されてしまった。


 「ねえ、これって何なの?」


 リリシュが号外を見つめて言った。


 「嘗ての婚約者は王子エデュランと妹ジュリエッタを虐げた上に、傷を負った王子を裏切り、恋人と駆け落ち…ですってぇ?」


 リリシュは思い切り眉を潜めて顔を上げた。

 シャルレーネは深く息を吐いた。


 「…ジュリエッタと不仲だったのは事実です。手をあげた記憶はありませんが…」


 「こんなもの…ふんっ!」


 そう言ってリリシュは塵箱に号外を突っ込んだ。


 「あなたは、こんなにも優しいお嬢さんなのに!追い出したのは王室じゃないの!」


 「お、怒ってくださってありがとうございます、リリシュさん」

 

  シャルレーネはそう言ってリリシュを宥めると目を伏せた。


 「でも…追い出されたのではなく出たのです。…女王様もそしてセドリック様も親切な方でした」




 婚約破棄から六年もの時が過ぎていた。

 シャルレーネは、数年前から王都のすぐ隣の領地、ローデル伯爵領にある湖のほとりにある小さな家に住まわせてもらっていた。

 カーヤという街に近いその家は、今は亡き前国王であるセドリックの所有物で、セドリック亡き後シャルレーネが譲り受けていた。

 そして、以前エデュランのメイドを務めていたマーサ・アーデンの紹介で、マーサの娘リリシュの店で働かせてもらえるようになり、名もシャルレーネ・アーデンを名乗らせて貰っている。

 シャルレーネは、母シャーロットから教わって刺繍が得意だった。

 リリシュは『リリー』という名を商標として女性服を扱っていた。

 今では火の魔石を原動力として動く魔道具が発達し、布を作ったり縫ったりは昔と比べて驚くほど速く完成する。

 そんな中、リリシュは平民向けの安価な服から、貴族向けの高価なドレスまで扱っており『リリー』は王都に店舗を持つほどの人気だった。

 リリシュは王都には住まず、夫を病で亡くし息子と二人でカーヤに店を持ち暮らしていた。

 リリシュはマーサからシャルレーネのことを聞くと、驚きながらもシャルレーネを雇ってくれることになった。

 シャルレーネはリリシュの親戚として紹介され、洋裁店に雇われた女性達に交じり、店の裏にある工房で魔道具では作れないような繊細な刺繍をドレスにする仕事をしていた。

 従業員であるアリサとゾーイは親切だったが、工房の責任者であるイネスはそうではなかった。

 刺繍に集中しているとどうにも体調が悪くなってしまうシャルレーネに、次第に嫌味を口にするようになっていった。

 それを見かねたリリシュが、シャルレーネに自宅で作業することを許してくれた。

 自宅で作業しながら出来上がった刺繍を持っていくと、リリシュは素晴らしい刺繍だといつも喜んでくれた。

 そして、最近リリシュに自分のドレスとシャルレーネが考えた鈴蘭の刺繍の図案を合わせてみないかと提案された。

 それは、ローデル伯爵夫人からの注文だった。

 シャルレーネは自信がないながらも挑戦することを決め、シャルレーネが大本となる刺繍を考えることになった。

 そして完成した鈴蘭のドレスをローデル伯爵夫人はたいそう気に入り、それ以来リリシュはシャルレーネに刺繍の図案とドレスの主となる刺繍を頻繁に頼むようになっていた。


 働く中で…エデュランの結婚を知った。


 最後に会った時のことをシャルレーネは今でもよく覚えていた。

 魔物に襲われたエデュランは、ジュリエッタ以外にひどく怯え、触れることさえ許されなかった。

 シャルレーネはエデュランにもう一度会いたいと思った。

 それをリリシュに告げると、リリシュはシャルレーネを心配して自分も王子の結婚式をみたいと言って、着いて来てくれたのだった。


 シャルレーネは、エデュランの姿にもっと自分は動揺するのだと思っていた。

 十八歳になり美しく成長したエデュランに十二歳だった頃の面影はなかった。

 セドリックによく似ているのに、まるで全く知らない誰かのようだった。

 シャルレーネの心は乱されることはなく、本当に傷が消えてしまった顔に安堵した。

 エルダナ教会に入り聖女ダナに祈りを捧げ、その献身が届けば光属性を得て治癒術を習得出来る。

 しかし、治癒術だけでは傷を治すことは出来ても、傷痕まで消してしまうことは不可能だった。

 そして、傷痕さえ消してしまえる完全治癒の力を持っていたのは嘗ての聖女ダナしかいなかった。

 その力にジュリエッタは目覚めたのだ。

 シャルレーネは馬車で走り去る二人の姿が見えなくなるまで見つめていた。


 これで…これで良かったのよ。

 ジュリエッタにしか出来なかったのだから。


 シャルレーネは目を伏せ呟いた。


 「…幸せになってね」


 ふいに人々の歓声が大きく響き、シャルレーネは顔を上げた。

 幌のない四頭の馬に引かれる馬車に乗っているのは、麦の穂の様な黄金の髪にサファイアのように濃い青の瞳を持つ女王オディールだった。

 オディールは今年二十六歳。

 エデュランとは母親違いの姉だった。

 女王となったことで凛とした威厳が備わり、二人目の新しい命の宿るお腹を抱え美しく輝いて見える。

 オディールは、今でもシャルレーネのことを気にして時々手紙を送ってくれていた。

 そして、オディールの隣に立つのが夫である魔法騎士団長のアルシオ陛下だった。

 短い茶色の髪に灰色の瞳、精悍な顔立ちに穏やかな笑顔を浮かべ、オディールの隣に立っていた。

 アルシオはツヴァイク公爵家の長男として産まれ、十五歳の時に魔法騎士へとなった。

 優秀な騎士へと成長し、女王となることが決まったオディールに夫として選ばれ王配となり、魔法騎士団団長を兼任している。

 アルシオの腕には今年三歳になるデュノア王子が抱かれ、金色の髪を揺らし可愛らしい笑顔を浮かべていた。


 「きゃー!!ライオット様よ!」


 「こちらを向いて!」


 女性達の声が一際大きくなると、金褐色の髪に淡い青色の瞳をした端正な顔立ちの青年が馬に乗り、前を横切っていった。

 ライオット・ドルガーは伯爵家の次男で、二十四歳という若さで魔法騎士団一の騎士と言われている。 

 ライオットが、魔法騎士団へ入団すると初めての魔物討伐で、羊を狙うダークウルフの群れを単独で討伐した。

 土属性を持ち、自在に岩を召喚し操り飛ばす姿は圧巻だと言われる。

 その整った容姿に加え、常に冷静でありながらも優しく穏やかな性格で、さらに他を圧倒する剣術に、優れた知性も加わりすべてを持つ完璧な騎士と言われている。


 このノガルド王国では魔力こそがすべてとされていた。

 五歳の時に受ける魔法水晶の色と輝きで、魔力量と火・水・風・土のいずれかの属性を知ることが出来た。

 王族ノガルドは、光を含む五大属性すべての力を使うことができる上、人並み外れた魔力を持っていた。王族以外にも魔力の豊富な者は、魔法騎士として王国騎士団へ入団する者が多く、王国に属さない者は魔法使いと呼ばれていた。

 四大属性以外にも、エルダナ教会に入信し聖女ダナへの信仰が認められれば、光属性を手に入れ治癒術師となることが出来た。


 そして、夜になると森から魔物が現れ人々の生活を脅かしていた。


 都市や集落には魔法結界が常に張られ、魔物討伐のためのギルドが設立されている。魔法騎士だけでなく、腕に自信のある賞金稼ぎや魔法使いが集まり、魔物討伐へ駆り出されていた。

 魔王と同じ闇属性を持つ人間は滅多に産まれることはない。

 稀に闇属性を持って産まれた者は国の監視化へと入ることになっていた。

 人の心を操る魔法を使える闇魔法は人々に忌み嫌われているが、正式な資格を取れば、罪人の嘘を見破る審問官などになることが出来た。

 さらに人々の生活にも、魔法は大きく影響していた。

 属性魔法が使えないほど魔力が弱い人々も、火の魔石を動力源とすることで火を起こしたり、灯りを点けたりすることができた。

 最近では魔道具も有効に利用されており、文章を書いたら鳥になって飛んでいく手紙の魔道具なども盛んに使われていた。

 特に、魔力を持ったものが産まれない隣国ルドラではその開発が盛んで、変身魔法を見破る魔道具の鏡は、ほとんどがルドラ産で貴族の家の入口には必ず設置されていた。

 シャルレーネは、風属性の魔力を持っているが魔物と戦うことなどないため、髪や洗濯物を乾かす程度に有効活用していた。


 「まあ、なんて素敵な騎士様…と制服」


 リリシュはうっとりとライオットを見つめた。


 「女王様のドレスも素敵だったわ。あの紺地に金のアマリリスの刺繍。…身近で見てみたいものだわ」


 「アマリリスはノガルドの国花ですから。公の場ではあの衣装なのです」


 シャルレーネがそう口にすると、リリシュはうんうんと頷いた。


 「さすがね、シャルレーネお嬢様」


 「もう違いますよ」


 そう言ってシャルレーネは苦笑した。


 オディール達が通り過ぎた後、誰かがふいに声をあげた。


 「…なんだ、あれは」


 一瞬空を巨大な影が横切った。

 シャルレーネとリリシュも空を見上げたが、それが何かは見えなかった。

 歓声は消え、どこか恐怖でどよめく声が辺りに響き出すと、集まった人混みがどんどん後ろへとさがって来た。


 「わわっ」


 「危ない!リリシュさん」


 シャルレーネは後ろに転びそうになるリリシュの背を慌てて支え、人混みを避けるように建物の横に積んであった木箱の陰に引っ張った。


 「あ、ありがとう。シャル…なにあれ?」


 リリシュが広場の空を見上げたのが分かり、シャルレーネは木箱の陰から顔を出した。

 空に何かが浮いているようにみえた。

 今は小さく見える黒いそれは、鳥とは違う形をしていた。


 「魔物だ!」


 「魔物が出たぞ!」


 人々の叫び声とともに、人々が一気にシャルレーネとリリシュのいる通りへとなだれ込んで来た。

 リリシュとともにシャルレーネは木箱の陰で、大勢の人々が叫びながら逃げ惑う姿を壁に張り付くように見送った。

 王都全体に魔物除けの強力な結界が張られている。

 シャルレーネがいた頃から魔物が入り込んだことなんて一度もなかったはずなのに。


 「黒いドラゴン…魔王だ!」


 誰かがそう叫んだ。


 「魔王の復活だ!ノガルドは終わりだ!」


 叫び声はさらに大きくなり、走り出す人々の波はさらに勢いを増した。


 「ドドド、ドラゴンって魔王って…わたし達も早く…」


 リリシュは縋るようにシャルレーネの腕を握った。


 「え、ええ…」


 その時、ばさりと何かが降り立つ音が聞こえ、強い風が吹き込んだ。

 シャルレーネは恐る恐る木箱の陰から顔を出した。

 誰もいなくなった広場に、それは優雅に舞い降りていた。

 トカゲを思わせる姿をしていたが、その大きさは町中の四階建ての建物と同じくらい大きく、煌めく黒い鱗で身体から長い尾まで覆われていた。

 二本足で立つ巨大な両足に、地面に食い込みそうなほど鋭い爪。

 まるで急所などないかのように腹も黒い鱗で覆われ、その腹には足よりか小さいが人間を掴めるほどの大きさはある前足が生えている。

 頭から背に掛け黒い鬣が風になびき、背中にも背びれを思わせる棘が生え、綺麗に折りたたまれた巨大な黒い翼がある。

 牛三頭分はありそうな巨大な頭に、耳元まで裂けた巨大な口には鋭い牙が見える。

 頭には捻じ曲がった奇妙な形の尖った角が生え、ルビーのような真っ赤な瞳が瞬きを繰り返していた。

 そして、ふいにシャルレーネの方を向いた。


 「―っ!!」 


 思わず叫び出しそうになり、シャルレーネは口を押え木箱の陰に隠れた。


 「ど、どうしたの?」


 シャルレーネはリリシュにしゃがむよう合図すると口元に指を当て、リリシュにも口を開かないように合図した。


 「…ドラゴンがこっちを見ているの」


 そう小声でシャルレーネは言った。

 多く存在する魔物の中でも、ドラゴンは最強の魔物だった。

 レッドドラゴンの住処のある火山には立ち入るだけで命がけだと聞く。

 しかし、こんなに黒いドラゴンは見たことはない。


 さっき誰かが叫んだように、魔王の伝承以外では…。


 足音は聞こえない。

 こちらには来ていないはず。

 しかし、口を押えていたリリシュの目が恐怖で大きく見開かれて行くのが分かった。

 黒い影がゆっくりとシャルレーネの背中の方から伸びて来る。

 生温かい吐息がまるでそよ風のように背中に当たる。

 シャルレーネはゆっくりと後ろを振り向いた。

 目の前に巨大なドラゴンの顔と真っ赤な瞳があった。

 シャルレーネは叫んで走り出したいのを堪え、大きく息を吸った。

 巨大な魔物は大きな物音に反応して襲ってくると聞いたことがある。

 シャルレーネは、震えながらもリリシュを庇うようにゆっくりと立ち上がると囁いた。


 「リリシュさん、逃げて」


 リリシュは口を押えたまま首を振った。


 「這ってでもいいからここから…」


 『ヴヴ』


 そうドラゴンが唸り声のような音を発し、顔を近づけて来る。

 シャルレーネはもうだめと顔を背けて目を閉じた。

 ふいに頬に濡れた冷たい感触に身体が勝手にびくりと震えた。

 それがドラゴンの鼻先と分かった。

 シャルレーネは怖くて目を開けられなかった。


 『ヴーヴ』


 ドラゴンはそう低い唸り声を出しただけで、襲ってくる様子はなかった。

 シャルレーネは、震えながらゆっくりと目を開きドラゴンを見つめた。

 ドラゴンは、目が合うと一瞬なぜか目を伏せたがすぐに目を開き、怯えるシャルレーネをじっと見つめ目を細めた。


 「魔物は一体どこから入った!結界はどうなっている!」


 そう声が響いた。


 「アルシオ様、お待ちください!」


 「民を王城へ誘導しろ!魔物はわたしが相手をする!」


 ドラゴンはその声にちらりと目を向け、深い息を吐くとゆっくりとシャルレーネの前から顔を上げた。


 『ヴヴ…ヴヴウ』


 ドラゴンが去っていくと、シャルレーネは思わずその場にへたり込んだ。

 一番に広場に飛び込んで来たのは、剣を手にしたアルシオだった。

 その後ろから数名の紺の制服を着た魔法騎士達が現れる。


 「炎よ!」


 アルシオの剣から巨大な深紅の炎が噴き出しドラゴンへと向かって行った。

 しかし、ドラゴンは避けようとしなかった。

 ドラゴンの身体に炎が当たる瞬間、黒い影のようなものが現れ、炎を簡単に飲み込むと消えてしまった。


 「な、なんだ…今の魔法は」


 アルシオが茫然としながらも、声を上げた。


 「怯むな!攻撃を続けろ!」


 様々な攻撃魔法が飛び交う中、ドラゴンの身体を守るように影が攻撃を飲み込み続けた。


 「なん…なんだ。この魔物は…」


 魔法騎士達が茫然とするなか、無傷のドラゴンは蝙蝠のような巨大な翼を広げた。


 「おさがりください」


 そう声が響くと、ライオットがアルシオの前に立った。

 その瞬間ドラゴンの足元から無数の尖った石が飛び出し、ドラゴンを射抜こうとした。

 しかし、ドラゴンがぴくりと動くことなくそれも再び影が飲み込んでいった。

 ライオットが何かを呟き再び何か魔法を発動させると、アルシオが慌てた。


 「ま、待て。ライオット、お前の最大魔法では街が…」


 「落下の瞬間に、結界を張ります」


 「し、しかし!」


 「陛下。どうぞ、お下がりください」


 そうライオットが穏やかに微笑んだ瞬間、太陽の光が閉ざされ、シャルレーネは空を見上げた。


 「あれは…」


 空から何かが落ちて来ていた。


 土属性の最大魔法は、巨大な隕石を落とすものと聞いたことがあるが…。


 騎士達が慌てて後退し始める。


 隕石なんて落ちてきたら…この辺り事吹き飛んでしまうかもしれないわ!


 「リリシュさん!」


 シャルレーネは慌ててリリシュの手を引いて立たせようとした。


 「はわわ…だ、だめ、腰が!」


 「ど、どうすれば…」


 シャルレーネが広場の方を向くとまさに隕石が落ちて来る瞬間、ドラゴンの頭上に黒い巨大な影が広がった。


 「え…」


 シャルレーネが瞬きをした瞬間、その影は隕石さえも飲み込んで消してしまった。


 「ば、ばかな…」


 そうライオットが口にして、茫然とドラゴンを見上げた。

 ドラゴンは、嘲笑うようにふんっと鼻を鳴らした。

 ふとシャルレーネの方を向いたので、シャルレーネはひっと身体を縮めた。

 しかし、ドラゴンは片目をぱちりと閉じると突風の様な風を起こして、あっという間に空へと消えて行った。


 ドラゴンが目配せ?…まさか、見間違いよね。


 「シャ、シャ、シャ…シャル、シャルレ…レーネ」


 震えながらリリシュがシャルレーネに抱きついて来た。


 「あり…ありがとう。わた、わた、わたし…」


 「い、いいえ。でも、よかった。ドラゴンが逃げてくれて」


 お互い二人で抱き合い無事を喜んでいる間に、広場へと騎士達が集まっていた。


 「付近の街へ警戒するよう伝達を!ライオット、ぼんやりとするな!」


 「は、はい」


 そうアルシオとライオットが、ドラゴンの消えた方へ走り出して行った。

 シャルレーネは足が震えるのを堪えながらなんとか立ち上がった。


 「リリシュさん、立てますか」


 「ええ、やっと落ち着いたわ」


 「ここを離れましょう。いつドラゴンが戻って来るのか分からないし」


 「そうね、すぐに王都を出ましょう」


 シャルレーネはリリシュの手を握ると立ち上がらせた。

 そして、ドラゴンが飛び立った空を見上げた。


 「どうして…襲われなかったのかしら」


 思わずそう呟いていた。


 シャルレーネは、リリシュが手綱を握る荷馬車のその隣へと乗り込んだ。

 荷台には買い付けた布地や糸が詰まった木箱が載せられている。

 リリシュは手綱を振ると、馬は静かに歩き始めた。

 

 「…ドラゴン、怖かったわね」


 「そう…ですね」


 「本当に魔王だったら…。あんな…魔法も全然通じないなんて…」


 「ええ…」


 先ほどみたドラゴンなど夢の出来事だったのだと思わせるほど、穏やかな街道を走りながら、まだ放心状態でリリシュは手綱を振った。


 「あのドラゴン、てっきりあなたをぱくりと食べてしまうのかと思ったわ」


 「わたしも…もうだめかと。痩せて美味しくなさそうって思ったのかも…なんて」


 「あら、その細さがどれだけ羨ましいか。そんな首元まで締めた地味なドレスじゃなくて、もっと可愛いのを着たらいいのに」


 「この方が動きやすいので…」


 「でも、わたしを助けようとしてくれるなんて…。あなたって勇敢なのね」


 「いいえ。あの時はただ必死で…」


 「本当にありがとう、シャルレーネ」


 リリシュの言葉にシャルレーネは微笑んだ。


 「あ、ねえシャルレーネ。今のドレスの刺繍、あとどれくらいで仕上げられる?」


 「そうですね、あと二週間…いえ十日あれば」

 

 今シャルレーネが引き受けているのは、ビーズを使った紫のアイリスの刺繍だった。


 「まあ!あなたは仕事が速くて助かるわ。いつも言っているけれど絶対無理はしないでね。あなたって集中すると周りが見えなくなるから…食事もきちんと食べるのよ」


 「は、はい」


 シャルレーネはそう言って微笑んだ。

 その後カーヤの町までの道を刺繍やドレスについて話しながら帰った。

 リリシュの店まで到着した時にはすでに夕方になっていた。

 シャルレーネは馬車を降り、荷台から木箱を下ろそうとしていると、店からリリシュの息子のロバートが出て来た。


 「お帰り、母さん。シャルレーネさん」


 ロバートは赤茶の髪に褐色の瞳、そして黒縁の眼鏡を掛けている。

 歳はシャルレーネよりも二つ上の二十六歳で、リリシュと共に店を経営している。

 ロバートにもシャルレーネの事情は話してあった。


 「ただいま戻りました、ロバートさん」


 ロバートは馬車の荷台に上ると、シャルレーネが手に掛けていた荷物へ手を伸ばした。


 「荷を下ろすのは俺が」


 「ありがとうございます」


 「シャルレーネ、後はわたしとロバートがやるから、帰っていいわよ」


 「わかりました。では…」


 シャルレーネは荷台を降りた。


 「シャルレーネさん、よかったら夕飯を食べて行かないか?」


 ロバートがそう言いながら木箱を抱えながら荷台から降りて来た。


 「いえ、昨日の残りがあるので」


 「あら、残念ね。ロバート」


 「じゃあ…また今度」


 そう言って肩を竦めるロバートとリリシュにシャルレーネは軽く会釈した。


 「では、今日はありがとうございました。失礼します」


 「ええ。気を付けて」


 リリシュは、シャルレーネの背中をじっと見つめるロバートに言った。


 「ロバート…もっとがんがんいきなさいよ」


 そう言って背中をばしりと叩くと、ロバートは忌々し気にリリシュを睨んだ。


 「彼女と別れたんでしょう?シャルレーネが原因じゃないの?」


 「…違うよ」


 「何よ、いつも物欲しそうな顔で見ているくせに」


 「違うってば!」


 ロバートはそう言って深く息を吐いた。


 「不思議なんだけど、なんだか近づくなと言われているような気がするんだ。こっちを威嚇するような魔力を感じる」


 「そんなことないわよ」


 「母さんは魔力を感じないだろう」


 「そうだけど…。穏やかで優しい娘さんじゃない」


 「分かっている。でも…」


 「なーんだ。意気地がないだけじゃない」


 「母さん!」


 ロバートが目を吊り上がらせると、リリシュはぺろりと舌を出して見せた。


 シャルレーネは森の細い道を抜け、家についたころにはすでに太陽は沈み月が眩しいほどの月明かりを放っていた。

 湖の家は古い造りで、一階は台所と居間が一緒になっており浴室がその隅にある。地下には貯蔵室、二階には二部屋の寝室があり、その一室をシャルレーネは使っている。家の中央にある動力炉に、小石くらいの大きさに砕かれた炎の魔石をくべると部屋に明かりが灯った。

 シャルレーネは、昨日の夕食の残りのスープとパンの簡単な夕食を食べ、浴室で身体を洗うと寝間着に着替えてそのまま二階へと上がった。

 もう少し仕事をしようかと、道具を置いた机に目を向けふと、その手が一番上の引き出しを見つめる。

 そっと引き出しを開け、奥に入れた小さな白い布袋を見つめる。

 目に入らないように、まるで隠すように奥へ奥へとしまい込んだ布袋を手に取る。


 「これでよかったのよ」


 そう自分に言い聞かせるように呟き、塵箱を見つめる。


 「もういい加減に…」


 その時外を突風が吹き抜け、窓ががたがたと揺れた。


 「な、なに?」


 シャルレーネは、二階の窓から外を覗いた。

 明るい月明かりの下、外には何もいなかった。シャルレーネは袋を引き出しへ戻し、一階へ向かうとおそるおそる玄関から外へ出た。家の外に変わった様子はなかったが、すぐ近くの湖が波打っているのに気がついた。

 先ほどの突風に、シャルレーネは覚えがあった。


 「ま、まさか…」


 シャルレーネは玄関から外へ出ると、湖の傍へ引き寄せられるように歩いていた。

 月を映し輝く湖面を見つめていると、ふとそこにぷかりと小さな島が浮かんできたのが分かった。

 その黒い島には、鋭い棘が生えていた。

 いや、二つ並んだそれは恐らく角だろう。

 その角には、見覚えがあった。

 今日みたドラゴンの角もあんな風に鋭く捻じ曲がって…。

 シャルレーネは、目を擦ってさらに目を凝らしたがそれはなくならなかった。

 この湖は歩いて一周するのに一時間は掛かるだろうか。

 深さは大人でも足が着かないと聞く。

 そんな湖にすっぽり入るほどの大きさの生き物で、頭だけでも小島のような…。

 もう昼間のドラゴンしか思い浮かばない。

 その時、それはゆっくりと浮き上がって来た。

 巨大な頭にルビーの様な真っ赤な瞳が開かれる。


 シャルレーネは息を呑んだ。


 やっぱり…あの黒いドラゴン。

 どうしてここに?


 シャルレーネは、恐怖を感じながら後ろへと後ずさりした。

 しかし、ドラゴンはただシャルレーネを探るように見つめ、それ以上は近づいてこなかった。

 互いにしばらく見つめ合い、シャルレーネは首を傾げたくなった。


 どうして出てこないのかしら。

 わたしの様子を伺っている?


 シャルレーネは思わず誘われるように湖へ一歩近づいた。


 「あなた…昼間のドラゴンさん?」


 自分でも何とも言えない愚かな問いかけをして、シャルレーネは苦笑する。


 はいと返事が来るはずなんて…。


 ちゃぷりと水の中でドラゴンは頷いた。


 通じた!


 シャルレーネは目を見開いた。


 「そこで…何をしているの?」


 ドラゴンは水の中を移動し、頭の先を覗かせたままゆっくりとシャルレーネの方へと近づいて来た。

 シャルレーネが思わず後ずさりすると、ドラゴンはぴたりと止まり悲しそうに瞳を細めてシャルレーネを見つめた。

 怖がらないで、と言われているような気がした。

 シャルレーネが戸惑いながらもその場に立っていると、ドラゴンはゆっくりとその頭全体を湖から出した。

 その大きさにシャルレーネは再び怯んだ。

 それでもその赤い瞳が、まるで乞うようにシャルレーネを見つめるので目が離せなかった。

 ドラゴンはただじっとシャルレーネを見つめ、触れられるほどの近さまで顔を近づけて来ると、ひんやりとした夜の香りがぐんと濃くなったような気がした。

 黒い鱗が月の光を浴びて煌めいて見える。


 「きれい…」


 その大きさに圧倒されながらも、シャルレーネは思わず手を伸ばしていた。

 噛まれるかもしれないと触れるのを躊躇していると、なぜかドラゴンからその鼻先を寄せて来た。

 水に濡れたひんやりとした感触と、じんわりと生き物の温かさを感じる。

 シャルレーネはその滑らかな鼻先を撫でた。


 夢…じゃない。


 ドラゴンはなぜか目を閉じ、シャルレーネの手を拒まなかった。 


 「あなたは…どうしてここにいるの?」


 ドラゴンはゆっくりと目を開き、シャルレーネと目が合うとふいに目を伏せたが、再びシャルレーネの瞳をじっと見つめた。

 ルビーのようだと思っていた瞳は、月の下ではガーネットの様なもっと深い赤に見える。

 ふいに記憶が蘇る。


 レーネ。


 そう自分を呼ぶ声さえ耳に響く。


 いやだわ。


 シャルレーネは思わず目を伏せた。


 お願い、思い出させないで。

 あの子の…エデュランのことを。


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