15.
僕はあの日…死んだ。
流れの速い川の流れる谷底へと身体は投げ捨てられ、身体はぐちゃぐちゃに壊され魚の餌になる。
そして、この世界で生きた形さえ残さずに消え去る。
はずだった。
僕が人間だったのなら。
目を開いているはずなのに、目の前が真っ暗になった。
深い深い闇が…世界を覆う。
身体は闇の中にあった。
どこまでもどこまでも広がる闇の世界に、エデュランは存在していた。
それは深い深い闇だった。
どこにでもある、どこまでもある。
深い闇の中でエデュランは理解した。
ああ、これが僕だ。
このどこまでも…世界中、どの宇宙にさえ広がる闇こそが僕自身。
僕の魔力の源。
世界中に溢れる闇の力。
目を開き思わず口を歪めて笑う。
そのすべてが僕の…力!
この闇があれば、僕はなんでも…なんでも出来る。
完璧な自分に生まれ変わることだって!
エデュランは目を開いた。
そこでは、自分は五歳のエデュランになっていた。
魔力測定のあの日だった。
エデュランが水晶に手を翳すと、水晶が七色の光を放ち始めた。
「おお!素晴らしい輝きだ!」
「これこそ五大属性の光!ノガルドの血筋です!」
セドリックが誇らしげに自分の頭を撫でる。
「さすが私の息子だ。エデュラン」
「あなたはきっと立派な王様になれるわ」
そう言ってオディールが微笑み頬にキスをしてくれた。
エデュランは静かに頬を緩ませた。
勉学も魔法も剣技も…今の自分にはすべてが容易い。
落ちこぼれと陰で罵っていた人々が、幼い自分の知識に敵わず頭を下げる姿は爽快だ。
醜いブタと嘲る者は誰にもいない。
魔法騎士の少年達も自分の剣にも魔法にも敵わず、地面に倒れて悔しそうに自分も見上げる。
なんて素晴らしい力なんだ。
この力があれば、僕は…完璧な僕になれる。
誰からも愛され、受け入れられる完璧な自分。
蔑む相手など関係ない。
邪魔な相手など簡単に壊してしまえる素晴らしい力を持っているのだから。
これで…。
これで!
………これで?
何だって言うんだろう。
何が…したいんだろう。
何がしたかったんだっけ。
まあいい。
僕にはすべてが手に入るのだ。
そうすべてが…。
エデュランははっとした。
王子の椅子に座り、隣にはセドリック、オディールが微笑んで座っている。
そう、今日は十六歳になった自分の誕生日。
そして、妻を選ぶ王城の舞踏会だ。
おかしい。
何かがおかしい。
どうして?
完璧な自分のはずなのに…どうしてこんなにも悲しいんだ?
「エデュラン様」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにはルーファス・ランバルトがいた。
「私の娘達をご紹介させてください」
エデュランは目を見開いた。
そうだ。
そうだ、あの人だ!
僕はあの人がいればそれで!
「イザベラにジュリエッタです」
自分の前で頭を下げる二人の娘にエデュランは目を見開いた。
「…違う」
エデュランは、立ち上がると舞踏会会場を飛び出していた。
違う、違う、違う!
どこで間違えた?
何が違う?
もういち度…もういち度だ!
どこならいい。
どこで、どの時なら…。
世界が白い光に包まれた。
エデュランは茂みに隠れていた。
手には柔らかな子猫を抱いている。
ああ。
ここだ!
ここでなら、もういち度彼女に―!
「どうしたの?」
その声に笑顔で顔を上げた。
「ここで何をしているの?」
目の前の栗色の髪の少女に目を見開いた。
それは幼いジュリエッタだと分かった。
思いがけず息が出来なくなり、茂みから駈け出していた。
どうして?
どうして現れない!
あの人はどこにいる?
もういち度だ!
もういち度!
そうだ。
あの日…あの夜に戻れば…。
顔に強い衝撃を受ける。
夜の暗闇の中、エデュランは地面を転がった。
「ぐぁあああ!」
あまりの痛みに喉を裂くほどの悲鳴をあげる。
振り向き、右の目だけで見えるそこにはダークウルフがいる。
「エデュラン様!」
アルシオが駆け寄って来るのが分かる。
痛い!
痛いよ!
あまりの痛みに息も出来なくなる。
なんだ、これ…。
こんなの僕の記憶とは違う!
「エデュラン様…目を覚ましたのですね」
目を覚ますと包帯に巻かれた右目に誰かが触れた。
「なんて痛そうなの…。でもあなたが無事で本当によかった」
そう言って自分に触れるジュリエッタの顔を、エデュランは絶望的な気持ちで見上げた。
どうして…。
どうして、あの人はいないんだ。
どこならいい…。
どこにいけば僕はあの人のところへ…。
もういち度…。
もういち度だ!
もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度!もういち度もういち度もういち度もういち度もういち度もういち度もういち度もういち度もういち度!!!
気が狂うほど時間を何度も駆け回る。
も…ういち度。
…もう…い…ち…ど。
まだだ。
まだ…。
どうにかしてあの人に…。
ここじゃないならどこに行けばいい。
どの世界なら…どこなら彼女に会える!
どこなんだ、どこなんだ、どこなんだ!
どこにもあの人はいない。
あの人の名前さえ…分からない。
それなのに…こんなにも恋しい。
どこいけば…どこに…。
叫び声が聞こえた。
誰かの…いや、それは自分の叫び声だった。
耐えられない喪失感に喉が潰れ、声が枯れるまで叫び続けると再び闇の世界へと落ちた。
ただただ涙が零れ出て来る。
なぜ泣いているのかも理解できずに。
もう…いらない。
こんな世界必要ない。
闇が溢れだす。
こんな自分も…必要ない。
すべてを飲み込め!
そうすべてを!
こんな世界いらない!
いらないんだ!
ふわりと…花の香りがした。
ああ、これは何の香りだろうか。
切ないほど仄かに。
そうだ、これは金木犀の…。
「…レーネ」
名を口にするだけで心に温もりが戻る。
「シャルレーネ…」
首に触れてもリボンはない。
どうしようもない喪失感が蘇り、頬に涙が伝う。
「うええええ、レーネぇ…」
泣き出した時、エデュランは十二歳だった時の姿に変わっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
泣きながら歩き出す。
「リボンを投げてごめんなさい。ひどいことを言ってごめんなさい、だから…戻って来てよ。どこにもいかないでよぉぉ」
蹲り声を上げて泣き続ける。
「うわああああん…レーネぇ!」
「まったく…うるさい奴だ」
その声に顔を上げると、そこは真っ白な空間に変わっていた。
空も床も真っ白で何もない。
「どうやら…心を鎮めたようだな」
気がつくと目の前に一人の女がいた。
黒い髪に真っ赤な瞳のその女は黒いドレスをはためかせ、座り込んだエデュランを見下ろしていた。
「よく己を取り戻せたものだ」
その声には、聞き覚えがあった。
どこか懐かしい声だった。
「生まれて百年も経たずにこの力を制御したことは褒めてやる」
エデュランはただ女を見つめた。
「何の…話?」
「お前は闇の力を抑え込んだのだ」
「闇の力…?」
「完璧な力を与えられながらも、どうしようもない絶望を味わい、願ったはずだ。何も要らない…世界も自分さえも。暗闇に飲まれてしまえと」
「…うん、でも」
「そう、何もない闇こそが我らの安寧、我らそのもの」
「…なに、それ」
「すべてを飲み込む闇の力をお前は抑え込んだのだ」
「…ねえ、それよりも」
「世界中に溢れる闇の力の主となったのだ。誇ってもいいのだぞ」
「レーネはどこにいるの?」
エデュランは涙を拭って立ち上がった。
「シャルレーネはどこ?」
「…シャルレーネ…お前の婚約者の女のことか」
「うん」
「なぜあの女を探す」
「なぜって…」
「婚約を破棄したのはお前だろう」
「え…」
「ジュリエッタという女を妻にすると言った」
「あれは…本当じゃない」
「ではなぜそう口にした」
「それは…」
「女の名さえ思い出せなかったくせに…今さらだな。女のことよりも、まずは完璧な自分になることを望んだ」
「…っ」
エデュランは思わず唇を噤んだ。
「だって…だって…」
「エデュラン、今のお前はなんでもできるのだぞ」
「…なんでも?」
「そうだ、なんでもだ。完璧な世界の完璧なエデュランに産まれ変わることもな」
「…は?」
「さっき夢に見ただろう。お前は完璧な王子、エデュランになれるのだ。一度は呪い受けて苦しむが、幸せを約束された世界だ」
「い、いやだよ!あそこにレーネはいないのに…」
「なぜだ。願っていたはずだ。家族と同じ素晴らしい力、同じ美しい容姿。誰もかれもから愛され慈しみを受け、大切にされる…そんな世界で生きられるのだぞ」
「要らない…そんなもの要らないよ!」
「ジュリエッタという女を本当に妻に出来る。あの世界のジュリエッタは余計な記憶を持たない素直で可愛い女だ」
「ジュリエッタなんか好きじゃない!どうして?なんでもできるのなら、どうしてレーネに会えないんだよ!」
エデュランは唇を噛み、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸った。
「お願いだ。…いやお願いです。彼女に謝りたいんだ、婚約破棄だって本気じゃない!」
エデュランはそう言って、女の前に跪き頭を下げた。
「お願いです。お願いします。彼女に会わせて!」
「…不可能だ」
「どうして!」
「どうしても…だ」
「理由を教えてよ!」
女は深く息を吐いた。
「お前は死んだのだ、エデュラン」
「え…」
エデュランは顔を上げた。
「あの女のいる世界に…お前は存在していない」
「…そう…なの?」
「あの世界のお前に戻ることだけは…不可能だ」
「そう…なんだ」
思わず笑いが漏れる。
「はは、なんだ、そうなんだ。消えたの…レーネじゃなくて…僕…なんだ。なんだ、そっか」
そう言ってエデュランは座り込んだ。
「よかった」
「…なんだと?」
「消えたのレーネじゃなくてよかった。でも…でも…」
エデュランの目に再び涙が浮き出て来る。
「もう…もう会えないんだ。ごめんねって言えないんだね。ごめん、ごめんね、レーネ。ごめ…ごめんなさ…」
「あーーーー鬱陶しい!」
女はうんざりとしながら言った。
「そんなにその女に会いたいのか」
「会いたいよ。会いたいに決まってる!」
「…ならば生まれ変わるか?ドラゴンに」
「…ドラゴン?」
エデュランは顔を上げた次の瞬間、強い風が吹き思わず目を閉じた。
目を開いた時には、女は巨大な黒いドラゴンへと姿を変えていた。
「ド、ドラゴン!」
「たわけが、お前もドラゴンだろうが」
エデュランは、はっとして自分の身体を見た。
小さな黒い手にトカゲの様な身体にぎょっとする。
「え?え?」
思わず尻尾を振り回し、自分の思いのままに動くことに戸惑う。
「我が名は、ヴァラクノエラ。貴様の産みの親だ」
「ヴァ、ヴァ、ヴァラク?」
「エラで言い」
「一体なんの話?僕…魔物になったの?」
「母体の私が魔物なのだ。当然だろう」
「母体…ってあなたが…母上ってこと?」
「そうだ。父親はあの間抜けだ」
「まぬけ?」
「間抜けのセドリック。己の姿形、その能力に酔って国を揺さぶるくそ野郎だ」
「く、くそ…?ち、父上がそんなことを?」
「そうだ。己の死を恐れて、そのために私がお前を創り出した」
まるで人工物のような響きにエデュランは戸惑った。
「僕は一体…」
「まあ、方法は人間の方法に準じてやった」
「……普通に産んだって言ってよ」
「そうともいう。だが…人間のお前は死んだ」
記憶が蘇る。
胸を突き破って出て来るあの剣のことを…。
誰が…それも想像がつく。
「しかし、ドラゴンとしてならお前はあの世界に生まれ変われる」
「どういうこと?」
「散々意地の悪いことを言ったが、お前はまだあの世界で消えてはいない」
「…そうなの?」
「お前は闇の魔力が暴走するのを封じ眠りについた」
「暴走って…」
「女の名も何もかもを忘れていたのはそのせいだ。闇がお前の一番大切なものを奪い、お前を絶望させ、あの世界ごと闇に飲まれて消させるつもりだった」
「そんな…」
「だが、お前はそれを抑え込んだ。卵の中で身体が十分な成長を遂げれば、ドラゴンとして目覚めることが出来る。あいつ…セドリックが随分甘っちょろい育て方をしたようだが、魔力に飲み込まれなかったのには感心する。人間を憎まないように育てろといったら、あいつは甘やかすことしかしなかったようだから呆れる。…お前から何かしらの加護の力を感じた」
「加護?」
「…お前の幸福を願う魔力だ。今はもう消えてしまったが…」
エデュランは思わず首元に触れた。
ドラゴンの首にあるはずもないリボンを探し、自分がシャルレーネに投げつけたことを思い出して泣きたくなる。
「…僕ドラゴンになる」
エデュランは顔を上げた。
「ドラゴンになって、シャルレーネに会いに行く」
「そう簡単なものではない。闇のドラゴンになるのだぞ。あの世界では魔王として忌み嫌われている。最強でありながら、最低最悪なバケモノだ。そんなバケモノを愛する人間はいない」
「それでもいい」
「生まれ変わるということは…すべての記憶を失うのだぞ」
エデュランは思わず口を噤んだ。
「今までの記憶もすべて…何もかもだ」
「…なら思い出すよ。絶対に」
「必ず思い出せるとは限らない」
「いいや、思い出してみせるよ。絶対、絶対に」
「一度は人間として産まれたのだ。自分の名を思い出し名と理解しなければ、人間に変化することもできないぞ」
「それでもいい」
「目覚めたところで何年時が過ぎているかも分からない。女がお前を待っているとも限らない。違う男と結婚しているかもしれない」
「それでも…」
「最悪百年の時が過ぎて、女が死んでいるかもしれない。…さっき感じた苦しみを、お前は永遠に味わうのだ」
「…っ」
「別の世界で人間として生まれ変わった方がよほど幸せだ。幸福を約束された世界で…」
「いいや!僕は…彼女のところへ絶対帰るんだ!」
エラは深い溜息を吐いた。
「まったく…セドリックに似て愛の重たい奴だ」
「愛は重くない。深いんだ」
「はあー、あいつと全く同じことを」
エラは呆れた様子で顔を上げた。
「まあ、丁度いい機会だ。お前には教育が必要だ」
「教育って…」
「これからドラゴンとして生きる方法だ。しかし、こんな形でペンダントに施した魔石の力が役立つとは」
「ペンダントの魔石ってあの黒い石のこと?」
「そうだ。あれは闇の魔石。私の魂の一部を移した」
エラは大きく息を吸うと言った。
「ではまず教えるべきなのは…礼儀作法」
「え?」
「そして一般常識に、社会性」
「は?」
「世界の成り立ちに歴史」
「…魔法とかじゃないの?」
「人に紛れて生きるためのものだ。…どうせ自分以外の存在を屑のように扱うセドリックのことだ。常識も教えずちやほやとお前を育てたことだろう」
「父上っていったいどんな…」
「マーサもまた胸くそ男にひっかかりおって…」
「なんでマーサ?…むなくそって何?」
「お前は自分の存在に自惚れているに違いない」
「そ、そんなこと…ないよ。僕は…頭も悪いし、太って…ブタ王子とか言われてたし」
「モテだして調子に乗ったのだろう?呆れるほど奴に似ている」
「モ、モテてなんかない!あれは…レーネにやきもち妬いて欲しくて。それに…きっと王子じゃなければ僕なんか誰も相手に…」
「王子という存在に安定を求めるな。お前はこれからもっととんでもないものへと変わる。あの闇を感じたのならわかるはずだ。己の感情のままに振舞えばすべてを失う。今から学ぶのは己を制御する術だ。…心して乞うがいい」
エデュランは背筋を伸ばした。
「お願いします、エラ。僕に出来ることはなんでもします」
「いい心構えだ」
ふいに風が吹くとエラはその姿を消し、再び目の前に艶やかな黒髪の女性が現れた。
「ねえ…なんでそんな無駄に胸とお尻が大きいの」
思わずエデュランはそう零した。
「知らん。人間の女の姿になりたいと思ったらこうなった」
「絶対嘘だ」
「では、まずは掃除から始めるぞ」
「え?」
ふいに白い世界から、ひとつの小さな家へと世界が変わる。
湖に面したその家にエデュランは戸惑いながら、辺りを見渡した。
「ここは一体…」
「ここは、嘗て私が暮らしていた家だ」
「それで…掃除?」
「ああ。それから皿洗いに洗濯、料理。…学ぶことは山ほどあるぞ」
「な、なんでそんなこと…」
「黙って…さっさとしろ!」
「ま、まずは人間になる方法をちゃんと教えてよー!」
エラに背中を摘まみ上げられ、腕をじたばたさせながらエデュランは思わずそう叫んでいた。
再び十二歳の頃の姿に戻ると、白い空間は空が広がると太陽が昇り始めた。
エラは家へと入っていった。
「まずは普通の人間の普通の暮らしを体験しろ。起きるのは朝六時だ」
「そ、そんなに早いの?」
「朝食を作ることから始める」
そう言ってエラは台所へと向かった。
「しょ、食事を?僕が作るの?」
「当たり前だ」
「な、何で?誰かにさせればいいじゃない」
「こんの…くそお坊ちゃまが」
エラが低い声で言った。
「は?」
「その誰かがいなかったら、お前はどうするんだ」
「それは…」
「お前が記憶を取り戻し、人間として生きたいと願ったとする。誰がお前の面倒をみる」
「だから…その…誰かを頼って…」
「その誰かが誰もいなかったらどうすると言っている」
「それは…そんな…」
「己の面倒をみることが出来るのは、己だけだ」
「そ、それは…」
「最初は私が作る。次はお前がやるんだ」
そう言ってエラは慣れた様子で何かの材料を混ぜ合わせると、あっと言う間に美味しいそうなものを焼き上げた。
「なに、このふかふかの食べ物…」
「…パンケーキも知らんのか、お前は。ガキの大好物だろうが」
「え、そ、そうなの?」
「いいから食え。食ったら掃除だ」
パンケーキを食べ終えると、エラはエデュランに箒を投げてよこした。
「部屋の隅々まで箒で丁寧に掃き、埃とりを使え。終わったらモップ掛けだ。ひとつの汚れも残すな」
「こ、これどうやって使うの?」
「はあ?箒も使えんのか、くそお坊ちゃんが」
「く、くそなんて言うな」
「いいか、こうするんだ。一度見たら覚えろ」
エラはそう言いながら、箒とモップの使い方を教えてくれた。
「それが終わったら洗濯物だ。まずは大物のシーツ。レース類は綻びないように丁寧に洗え。しっかり皺を伸ばして干せ」
「ねえ…これで元の世界に…戻れるの?」
「無駄なことを考えるな、ここではその一瞬で一年が過ぎるぞ」
「ひいいい」
エデュランは慌てて洗濯物を運び、物干しへと干した。
「さあ、昼食の時間だ」
太陽が空に昇りきるとエラは言った。
「食事はいちいち食材を買わずに、残っている材料を見てその日の献立を考えろ。貯蔵庫があるとしても物を無駄にするな」
そう言いながら、エラはお昼のスパゲティが完成させた。
サラダのトマトをエデュランはじっと見つめた。
「トマト…嫌いなんだけど」
「いいから食え」
エラにトマトを口に押し込まれて、エデュランは涙目になる。
この世界で食べる食事は不思議だった。
すべてがただ美味しいと感じるのだ。
ただしトマトの最悪な感触だけは変わらなかった。
「こんなことしてて…本当にレーネに会えるの?」
「知るか、そんなこと。お前がぐずぐずしている分だけ女が遠ざかるぞ」
「なんでそんなに僕を不安にすることばかり言うんだ」
エラは一瞬宙を見つめて、首を傾げた。
「…なぜだろうな。なぜかそんなことばかりが口を突く」
「もっと…励ましてくれたっていいのに」
「私の励ましなど必要ないだろう。…お前には確かな目的がある」
エラはきっぱりと言った。
「ドラゴンに姿を変えてでもあの女に会うという確かな目的が」
「う、うん」
「私は自身に降りかかった困難を乗り越える方法を教えることしか出来ない。…親というものはそういうことなのだろう」
「家事がそうだっていうの?」
「知っていて無駄なことは何もない。すべてはお前の守りとなるだろう。家事、そして料理が出来る男は…女に人気がある…らしいぞ」
「え?…違うよ。人気があるのは顔が良くてお金持ちで、強い男の人だよ」
「王子でないお前は、そのどれかになれるのか」
「そ、それは…」
「それなら家事くらい出来るようになれ。努力しろ」
「わ、分かった」
その世界では一日はあっという間に思えた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
何度掃除や洗濯、食事作りを繰り返しただろう。
こんなことで元の世界に戻れるのだろうか。
シャルレーネに早く…早く謝りたいのに。
しかし、そうだだを捏ねても世界は何も変わらない。
もし…もしもこのまま時が過ぎて一生シャルレーネに会えなかったら…。
エデュランは思わずぎゅっと箒を握り締めた。
「…魔法を習いたいか」
そうエラが本を読みながらぼそりと言った。
「家事の経験値というのは、己でしか実感できない。褒められることも達成感もない。だから余計なことに意識が向く。…お前が魔法の知識を手に入れたいと望むのなら、教えてやってもいい。余計なことを考えずに済むようにな」
「僕が…魔法を?」
「…すべての闇がお前の魔力の源だ。方法さえ知れば可能だ」
「だったら…知りたい。教えてください!」
「いいだろう。…が、まずは掃除をもっと丁寧に出来るようになったらな」
「えー」
エラは本を閉じた。
それから、エラはエデュランの家事に文句を言いながらも、たくさんの魔法を教えてくれた。
不思議なことに飛び方はすでに知っていた。
それがドラゴンとして生きると言うことなのだろう。
そしてまた、新しい一日が始まるとエラは大きな籠を手にして言った。
「さて、今日は買い物にいく」
「…買い物?」
「買い物の方法もお前は知らないだろう?」
「う…うん。でも、ここでどうやって」
そう言ってエラが玄関を開くと、そこには街が広がっていた。
「無駄遣いはするなよ。なるべく安くて新鮮な野菜を選べ。魚は目を見ればその新鮮さが分かる。肉は色をよく見れば…」
普通に人々が行きかう街の市場で、籠に色々と詰めていくエラの背中を見つめてエデュランは首を傾げる。
「…これって夢なんだよね」
「ああ。嘗て私が住んでいた場所で一番近い街の風景だ。私の記憶を利用している」
「エラはなんで人間の女として生きることを選んだの?」
「マーサに会ったからだ」
マーサの育ての親であることは、すでに聞いていた。
エラ自身がノエ・ヴァラクだったことも。
「マーサが怖がらない様に女に?」
「母親とは女がなるものらしいからな」
「案外優しいんだね」
「優しいかどうかは知らん。ただ、魔法の才能のあるあの子をこのまま死なすのは勿体ないと思った。ただそれだけだ」
「そっか…。魔法使いになって欲しかったんだ」
「いや。すべてはあの子の自由だろう。私はただ生きる方法を教えただけだ」
「…生きる方法…てそれが家事なの?」
「無論だ」
エラの姿も自分の姿も変化はしなかった。
永遠のような時間の中で、エデュランはエラから色々なことを教わった。
「どうして命を掛けてまで、父上を救おうと思ったの?」
エデュランがそう口にしたのは、エラから怒られる頻度が大分減ったころだった。
「父上を愛していたの?」
「いいや」
即答にエデュランは、セドリックが哀れになった。
「傷ついたか?」
エラの問いにエデュランは首を傾げた。
「うーん、父上があなたを愛していたと思う。だから…よく分からないや」
「セドリックとまぐわうのは嫌いではなかった」
「…まぐわう?」
「交尾…いや性行為のことだ」
「ぶっ!…こ、子どもになんてこと言うんだ!」
「そうか。その辺の教育も必要か。…興味はあるだろう?」
「う…はい」
「…産みなおしをしたのは、興味本位…か。くたびれた身体に飽きていたのか、私にもよく分からない。勢いだ」
「ふーん」
「終わりを自分で決めたかった…それもある。ああ、これ以上周りの誰かが消えて行く前に自分も消えたいと思った。それもあるか」
そう言いながら、エラは目を伏せた。
「だが、少し後悔している」
「僕を…産んだこと?」
「当然だ」
「そんなはっきり言わなくても…」
「赤ん坊のお前は、誰かが世話をしなくてすぐに死んでしまうほど儚く弱い存在だった。それを残して去らなければならない…。あの時は後悔した」
「エラ…」
「だが、今は後悔していない。こうして成長したお前と会うことも出来たのだからな」
「そう…そっか」
それからどのくらい経っただろうか。
たくさんの…たくさんの魔法を習った。
この世界の人間と魔物の真の歴史についても。
どんどんと知りたいことが産まれた。
エラから学びたいことがたくさん…。
でも…でも…。
レーネは今どうしているだろうか。
ごめん、ごめんね、シャルレーネ。
会いたい。
会いたいよ、レーネ。
突然、白い世界の空に亀裂が走った。
そこから深い闇が覗く。
「そろそろ時間か」
「…どういうこと?」
「お待ちかねの目覚めの時間だ」
「そ、そうなんだ」
突然の終わりにエデュランは戸惑った。
ずっとこの時を待っていたはずなのに…。
「はは、なんだか…ちょっと怖いな」
これから…自分はどうなるのか。
目覚めて…本当にシャルレーネに会えるのだろうか。
もし…シャルレーネがいなければ…。
強い不安に襲われながら、空を見つめた。
「…きっと大丈夫だ」
ふいにエラが言った。
「本当なら、あのペンダントの石はお前が暴走したときに備えた。闇で世界を覆うなら、私と共に連れて行こうと思っていた。だが…なかなか立派に育ったな」
エデュランはエラを見つめた。
「お前を誇らしく思う、エデュラン。わたしはもうお前のこれからを願うことしか出来ない。…だが、頑張れ」
エラはそう言って珍しく微笑んだ。
エデュランは思いがけず、胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちだった。
「…ありがとう、エラ。あなたのことも…きっと思い出す。思い出して見せるから」
エラは微笑みながら、エデュランの頭を優しく撫で額にキスをくれた。
そして世界は再び闇へと包まれ、エデュランは目を閉じた。
愛しいレーネ。
ああ…僕のシャルレーネ。
君にもう一度会えるなら。
触れられるのなら。
なんでもできる。
ドラゴンに産まれ変わることだって。
シャルレーネは目を覚ました。心臓が脈打つたびに頭や身体にずくずくとした痛みが走る。
それでも、だるい身体をなんとか起こした。
「今何時…」
「まあ、駄目じゃない!シャルレーネ、寝ていなくちゃ!」
そうベッド脇から声を掛けて来たのはリリシュだった。
「リ、リリシュさん…」
「もう、熱が出るまで頑張っていたなんて!エデュラン君が帰って来なかったらどうなっていたか!」
リリシュはシャルレーネを寝かせると目を潤ませた。
「ごめんなさい、こんなになるまで無理をさせていたなんて…」
「ち、違います。わたしもドレスの完成が楽しみで…」
「だからってイネスの分まで…」
「あ、あれは…」
「刺繍をみればわかるわよ。…最近彼女の仕事は明らかに雑で困っていたの。でも、家のことで大変だって言うから…。でも、わたしが間違っていたわ。魔法のこともあなたを気遣ってくれると思って教えたのに。こんな風にあなたを利用するなんて…」
「いえ、あれはわたしも調子に乗ってしまって…。エデュランが作ってくれた魔力制御の石がないと、こんなに弱っていたなんて…」
シャルレーネは辺りを見渡した。
「あの…エデュランは?」
「ああ、暗くなったからアーチェおばあさんを送って行ってくれたわ」
「アーチェさん?」
「鑑定魔法が使える質屋さんよ。あなたの状態を調べてくれたの」
「そう…なんですか」
「あなたの熱は、エデュラン君の魔法でもどうしようもないんですって。でも、このままほっといても心配だからって…。治療院か教会に連れて行くって最初は言っていたけれど、高いばかりで最悪診て貰えないことがあるって説得したの。鑑定魔法は自分も使えるけど、まだまだ精度が足りないとかなんとか言っていたわ。だから、専門家のアーチェおばあさんを呼んだの。やっぱり魔力と体力の消費が激しくて、身体が限界だそうよ」
「うぅ…すみません」
「とにかく栄養のある食事をしっかりとって休むのが一番ですって。刺繍は禁止よ。分かった?」
「はい…」
シャルレーネは目を閉じた。
目を開くと夜の闇の中で、心配そうにのぞき込んでくるエデュランがいた。
「レーネ、大丈夫?寒くない?」
「ええ。…あなたは?ちゃんと休んでいるの?」
「僕のことは大丈夫。こう見えてドラゴンだから」
そう言って、エデュランは熱を確認するようにシャルレーネの額に触れた。
「まだ熱は下がらないか。再生術も役に立たないし、この熱は疲労から来るから薬も効かないって。…ごめんね。最強とか言って何もできなくて…」
「そんなことないわ。ありがとう、傍にいてくれて」
そう言ってシャルレーネはエデュランの手を握り目を閉じた。
次の日も熱は下がらなかったが、だいぶ動けるようになっていた。
エデュランが汗をかいた寝間着を着替えさせようとしてくれたが、それはなんとか丁重に断り、自分で身体を拭いて着替えた。
食欲はなかったが、エデュランが何度も果実水を飲ませてくれたり、甘く煮た林檎を用意してくれたりしたので、なんとかそれを食べた。
熱が出てから三日目の朝。
シャルレーネは太陽の光に目を覚ました。
熱も下がったのか身体はすっきりとしていた。部屋にエデュランはおらず、美味しそうな匂いが漂っていた。
シャルレーネは身体をベッドから起こした。
べたつく身体と汗の臭いに顔を顰め、とにかくお風呂に入ろうと準備をした。
着替えを持って一階まで下りると、台所にいたエデュランがはっと顔をあげて駆け寄って来た。
「レーネ、起きたの?大丈夫?」
そう言いながらシャルレーネの額に触れようとしてくるので、シャルレーネは思わずその手から逃げた。
「え?なんで!」
傷ついた様子でエデュランが唇を尖らせた。
「汗臭いから…」
「臭くなんてないよ」
「臭いの…べたべたしてるし」
エデュランは身構えるシャルレーネの額に無理やり触れた。
「君の匂いが好きだから大丈夫」
「もう…そんなことばかり…」
「まだちょっと熱いよ。拭いた方が…」
「大丈夫よ。とても気分がいいの。あなたこそ、大丈夫?ここ二日くらいずっと起きていてくれたでしょう?」
「平気、平気。ドラゴンだから。…僕が洗ってあげようか?」
シャルレーネが睨むと、エデュランは笑った。
「やっぱだめか。お腹空いた?一応昨日の夜作っておいたスープを温め直してたんだけど…」
「空いたわ。…いい匂い」
「じゃあ、準備しておくからお風呂入って来て。髪を乾かすのは僕がしてあげるから」
「そういえば、あなた風の魔法を…」
エデュランは、親指に付けた指輪をシャルレーネに見せた。そこには薄荷色の石が嵌っていた。
「これで風の魔法が使えるようになったんだ」
「…あなたって本当にすごいのね」
「でしょ?これも直しておいたよ」
エデュランは机に置いていたペンダントを手に取った。
壊れてしまった鎖は新しいものへと変わっていた。
「魔法消費量が少なくなる力はそのままにしてる。疲労回復とか消したけど」
「…ありがとう」
ペンダントを受け取り、ふとシャルレーネは長椅子に丁寧に畳まれた自分の下着に気がついて目を丸くした。確か、昨日部屋の籠に入れておいたはず。
「エデュラン…あなた…」
「ああ、洗っておいたよ」
ついに下着まで洗わせてしまった…。
シャルレーネは恥ずかしくて顔を覆った。
「大丈夫。匂い嗅いでないよ。…ちょっとしか」
「もう!」
シャルレーネは思わずエデュランに拳を振り上げた。
「冗談だって」
意地悪く微笑むエデュランを睨んで、シャルレーネは浴室に飛び込んだ。
いつもと…変わらない。
正直、もっと好きだと口にしたことを…色々言ってくると思っていた。
シャルレーネはほっとしたような拍子が抜けたような気分だった。
入浴を終えて浴室からシャルレーネが出て来ると、エデュランは指をぱちりと鳴らしただけでシャルレーネの髪を乾かしてしまった。
「…ありがとう」
「どういたしまして。座って待ってて」
シャルレーネが待っていると、食卓に鶏肉のスープと麦粥が並べられた。
「…美味しそう」
「リリシュさんにレシピを聞いたんだ。身体が弱っても食べられそうなものを色々と聞いて来た」
「ありがとう、いただきます」
スープを飲むと優しい味が身体にじんわりと染み込み、温かくなるのを感じた。
「美味しい」
「良かった」
エデュランはそう言って微笑みながら、シャルレーネが食べるのを見ていた。
「そういえば…ザンダー様の奥様は問題なかったの?」
「まったく君は…自分の心配をしてよ」
エデュランは呆れた様子で言った。
「だって…」
「…僕の鱗をあげてきたんだ」
「鱗って…前言っていた魔法を無効化する?」
「そう。ほんの小さな欠片を袋に入れてね。魔法の効果を全部打ち消してしまうけれど、悪い魔法の効果も受けない。だから、治癒魔法を受けるときは手放せば必要な治療は受けられる。持ってたら魔法を使っても誰にもばれない、チートアイテム」
「よく分からないけれど…良かった」
シャルレーネはほっとして食事を続けた。
シャルレーネは食事を終えると、エデュランは手早く食器を片付けてくれた。
「ありがとう、何からなにまで…」
「もう、病人は変な気を遣わなくていいの。寝に行く?」
「いいえ、もう少し起きていたいわ」
シャルレーネは長椅子へ腰かけた。
食器の片づけを終えたエデュランは、二階へ上がって行きひざ掛けを手にして戻ってくると、シャルレーネに掛けてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。…昼は何食べたい?あんまり重たくないご飯がいいよね」
そう言いながら、エデュランはシャルレーネの隣に座り料理の本を開いた。
その姿を思いがけず、シャルレーネはじっと見つめた。
ふいに自然と身体が動いた。
すぐ隣に座ると、エデュランの身体がぴくりと縮まりこちらを向いたのが分かった。
「エデュラン…ありがとう」
「う、うん」
シャルレーネはエデュランの肩に頭をもたれた。
昔とは違う大きな身体なのにこうしていると、昔と同じで満たされるような不思議な感覚だった。
エデュランがおずおずとシャルレーネの手に手を重ね握って来たので、その手を握り返した。
大丈夫、僕が傍にいるから。
ふと、昔のエデュランの言葉を思い出した。
ずっとずっと謝りたかったんだ。
そう言って声を震わせる…一昨日のエデュランのことも。
「ごめんね」
シャルレーネは、思わずそう口にしていた。
「…もう謝らないでよ、シャルレーネ」
「違うの。…つらかったよね」
そう言って顔を上げると、エデュランが戸惑った表情でシャルレーネを見つめていた。
「わたしも…昔あなたに言われた言葉で傷ついたわ。でも、傷つけたってそうずっと思っていたのに謝れないなんて…許してもらえないなんて…つらかったよね」
「…そんな」
「仲直りしてあげなくて…許してあげるって言えなくて…ごめんね」
エデュランの目が次第に潤みだすのが分かった。
しかし、エデュランは泣くのを堪えるように首を振った。
「僕…僕は…君にそんなこと言ってもらう資格なんてない」
震える声で、エデュランは続けた。
「僕は…僕は、力に酔ったんだ。完璧な自分になれるって。何もかも支配する魔王の力に…自分自身の力に酔って…君のことを忘れた。名前も…何もかも」
「…」
「そんな愚かな自分を隠して…君の気を惹こうとしてた。闇の力を使って…無理やりにでも君を手にいれようとした…最低だ」
「エデュラン…」
「それでも…君を手放せない…手放したくない。…我儘な子どものままなんだ。君にそんなこと言ってもらえるような奴じゃ…」
「でも…あなたは今ここにいる」
エデュランの真っ赤な瞳がシャルレーネをただじっと見つめた。
「あなたは…完璧な自分も魔王の力も捨てて…わたしに会いに来てくれた。…そうでしょう?」
「僕は…僕は…」
エデュランの瞳から一筋の涙が零れた。
「だって…だって…」
エデュランは乱暴にその涙を拭った。
「完璧な僕なら…僕になれたら…。君に…君に…大好きだって言えるって思ってた。そんなこと…いつだって…言えたのに。なにもかも失わなくちゃ分からないなんて…」
シャルレーネは、思わず身を乗り出すとエデュランの頬にキスをした。
エデュランが目を見開き頬に手を当てたので、思わずくすりと微笑んだ。
「ノエと同じ反応」
「…そりゃ…僕だし…」
「そうね。初めてあなたの頬にキスした時も、そんな顔していたわ」
「だ、だって…姉上以外にキスされたことなんてないし…」
「ありがとう、わたしを見つけてくれて。帰って来てくれて…ありがとう」
エデュランの瞳から、ぽろぽろと涙が零れだした。
シャルレーネはエデュランの頭をぎゅっと抱き締めた。
「待っていたの。本当は…ずっとあなたを」
「レーネ…」
「素直になれなくて…ごめんね」
エデュランの手が背中に回されると、シャルレーネを強く抱き締めながら、エデュランは静かに泣いた。泣いているエデュランを抱き締めていると、まるで胸の奥が温かくなっていくような気がした。
愛おしい。
そんな想いがあふれ出してくるように。
少しして、エデュランがゆっくりとシャルレーネの腕から顔を上げた。
目の白い部分まで赤くなってしまったエデュランの顔を見て、シャルレーネが思わず微笑み、じっと唇を見つめる。
キスを…したい。
そしたら…この愛おしい気持ちが伝わるだろうか。
「…レーネ?」
そう囁くエデュランに顔を寄せようとした瞬間、呼び鈴が鳴った。
「あ…」
エデュランがはっとした様子で、鼻を啜りながら立ち上がった。
シャルレーネは我に返り、思わず両手を頬に当てた。
わたし…今何を…。
「リリシュさん」
玄関を開くと立っていたのは果物の入った籠を手にしてリリシュだった。
シャルレーネも立ち上がると、玄関へ向かった。
「まあ、シャルレーネ!起きられるようになったのね。…て、あら?エデュラン君泣いた?」
「え!い、いや。なんでもない。お茶、お茶を淹れます」
「あら、いいのよ。すぐに戻らないといけないから」
リリシュがそう言ったが、エデュランは台所へ隠れてしまった。
「喧嘩したの?」
「いえ…仲直りです」
「それなら…いいけれど。食欲は戻った?ロバートも心配していたわ。はい、これ」
そう言うリリシュから、シャルレーネは籠を受け取った。
「ありがとうございます。今回はご迷惑を…」
「やだわ、シャルレーネったら!迷惑なんて思っていないから。熱が下がったみたいで本当に良かったわ」
「あの、リリシュさん…」
シャルレーネは、少し考えて口を開いた。
「あの…お仕事…やっぱり家でしてもいいですか。スカートの刺繍も持ちかえるので…」
「もちろんよ!でも、スカートの部分はいいの。本当にイネス達の担当なのだから。あなたが全部してしまったら、彼女達の給金を減らさなくてはいけなくなるわ」
「でも…」
「あなたがお店で作業していると、皆が負けてられないって雰囲気になるから良かったのだけれどね。黙々作業してどんどん仕上げていく様子に、ゾーイなんか圧倒されていたわ」
「…すみません。甘えたことを…」
「そんなことないわよ。今までと同じでいいのよ」
「わたし…イネスさんにお嬢様って特別扱いされているって思われるのが嫌で…少し意地になっていました。彼女が出来ないことを…やってみせるって。あなたのドレスに失礼なことを…」
「シャルレーネ…そんなことないわ。そういう負けん気も大事よ」
「それに、みんなと同じように当たり前に出来るようになりたくて。だから…」
「無理をして当たり前をするのであれば、それはあなたにとって当たり前じゃないのよ」
「…え?」
「こんなに優しくて素晴らしい雇い主から特別扱いされているのだから、これからも一緒に素敵なドレスを作ってちょうだいね。シャルレーネお嬢様」
「…リリシュさん」
シャルレーネは思わず微笑んだ。
「あなたが誰よりも頑張り屋さんなのは分かっているわ。どうか頑張っている自分を認めて、時には休んでちょうだい」
「…はい。ありがとうございます」
シャルレーネはそう告げると、手を振って帰っていくリリシュに頭をさげた。
「…本当に優しい人だね、リリシュさん」
目に濡れた布を当てながら、エデュランが後ろから顔を出した。
「ええ。あなたの言う…自分が自分のことを分かっていればって…わたしには難しいわ。それだけじゃ、足りないって思ってしまうもの。でも、それで無理をしてしまうなんて…本当に愚かだったわ」
「時には無理も大事じゃない?向上心って奴だよ。…まあ、今回みたいに夜通しなんてことをしたら怒るからね」
「そうね、ごめんなさい」
「…ねえ、そんなに目…赤い?」
シャルレーネが顔を覗き込むと、エデュランは恥ずかしそうに目を逸らした。
「赤いわね。…それって再生術で戻るの?」
「…そういう発想はなかったな。でも、ほっとけば治るならいいや」
そう言ってエデュランは再び布で目を覆った。
「…さっき…さ」
ふいにエデュランが言ったので、シャルレーネはどきりとしたが澄まして言った。
「…なに?」
「いや…なんでもない。お茶飲む?」
「ええ」
エデュランは、頭を掻きながら台所へ再び向かった。
その背中を見つめながら、シャルレーネは自分の唇に触れていた。
好き。
もう言葉では…伝えきれないほどに。
 




