14.
次の日の朝、いつも通り六時に目覚めたシャルレーネが身支度をしていると、扉を叩く音が響いた。
「おはよう、レーネ。朝早くにごめんね。ちょっといい?」
「ええ」
シャルレーネが扉を開くと、エデュランが笑顔で立っていた。
「出来上がったよ、魔力制御石付きのペンダント」
「も、もう?」
そう言ってエデュランはシャルレーネの首にペンダントを掛けた。月のペンダント下に、薄荷色の雫型の石が煌めいていた。
「なんて綺麗なの。…ありがとう。エデュラン」
そう言ってシャルレーネが微笑むと、エデュランは頭を掻いた。
「いやいや、早く出来上がって良かった」
「とても…とても気に入ったわ」
「言っておくけれど、これも万能じゃないよ。魔力や体力を回復するのは食べてしっかり休むのが大事なんだからね。薬に頼ってもいいことないよ」
「わ、分かっているわ」
「毎食しっかり食べて、夜は七、八時間しっかり眠ること」
「え、ええ。もちろん…」
「…じゃあ僕ルドラに行ってくるね」
「え?…もう?」
「うん。さっさと行って終わらせてくるよ。貯蔵庫にご飯いくらか作り置きしておいたから、しっかり食べてね」
「作り置き…?あなたがそんなことまで?」
「だって、君仕事に熱中し過ぎると食べること忘れるでしょう?とりあえず肉と魚で何品か作ったけど、野菜も一緒にバランスよく…」
そう言うエデュランは、痩せすぎていたシャルレーネにしっかり食べるように言うマーサのようだった。
「…すごい。まるでマーサさんみたいね」
「え、マーサ?」
「なんでもない。心配かけてごめんなさい。ありがとう。…気をつけてね」
シャルレーネが手を振るとエデュランはじっとシャルレーネを見つめた。
「…一週間分ぎゅーってしていい?」
そう言ってエデュランが手を広げたが、シャルレーネは顔を顰めた。
「ぎゅーなんていつもしてないわ」
「ちぇ、分かった。握手でいいや」
エデュランが差し出した手をシャルレーネが握ると、ぐいっと引き寄せられる。
気がついたらエデュランの腕の中にいた。
「ちょっ!」
「やだやだやだ、行きたくなーい!一週間なんて長いよ。寂し過ぎるーーー!」
「も、もう!エデュラン!」
両腕ごと抱き締められ、身動きが取れないシャルレーネはなんとか手を伸ばしてぱしぱしとエデュランの腰を叩いた。エデュランは、纏わりつくようにシャルレーネの腰に手を回し首筋に顔を埋めて思い切り息を吸った。
「…いい匂い」
「もうエデュランふざけるのは…」
エデュランはふいにシャルレーネの首筋にキスをした。
「うぅ…」
柔らかな感触が一度軽く皮膚に触れ、その後ぺとりとした濡れた唇の感触がいつもより長く首筋の肌を吸った。その感覚にシャルレーネの身体には、まるで痺れるような感覚が走る。
エデュランはさらに、唇を開くとシャルレーネの首筋を柔らかく噛んだ。
「…んっ」
思わず吐息が漏れ、シャルレーネははっとして頬が熱くなる。
何…いまの。
エデュランはゆっくりと首筋から顔を上げると、シャルレーネの顔を覗き込んで満足そうに微笑んだ。
「あーあ、このまま食べたくなっちゃった。…やっぱり行くのやめようかな」
シャルレーネは我に返り緩んだエデュランの腕からすり抜け、思い切り睨んだ。
「…もう!」
「…冗談」
「信じられない!愚か者!変態!」
「ごめん、ごめん。じゃあ…行ってきまーす。何かあったら僕の名前を呼んで。影使って帰って来るからさ」
そう言ってエデュランは片目を瞑ると、颯爽と階段を下りて行った。
「もう!」
シャルレーネはそう言いながら、エデュランの背中を見送った。
「…いってらっしゃい」
そう呟きながら、シャルレーネはエデュランの唇の感触が残る首筋に触れていた。
一週間…それはあっという間の時間だと思うのに、今から少し寂しい様な気持ちになっている自分に戸惑っていた。
ルドラ国王城の正門で、マーサはひとりエデュランの到着を待った。
正門を守る騎士達に許可を受けて数人の魔法使いらしき人物達が通っていく。
マーサは、卵を見つけた日のことを思い出していた。
あれは、エデュランが記憶を取り戻すきっかけがないだろうかとニア村を訪れた時だった。
エデュランは、出会った時からずっとシャルレーネに恋をしていた。
それを知っていたマーサにとって彼女を忘れてしまっているエデュランが、あまりにも哀れだった。
もしも彼がドラゴンの力に目覚めた時、傍にいるのがジュリエッタなら恐怖で逃げ出してしまうだろう。傷ついたエデュランの顔を直視できず触れることも出来ない彼女なら…。
エデュランが倒れていたという谷を訪れた時、谷底に微かに懐かしい魔力を感じた。
覗き込めば、深い谷底には流れの速い川が流れるばかりで何も見えない。
マーサは、川の水を操り水の流れを止めると現れた川底を覗き込んだ。そして、日傘を開き谷の底へと一歩踏み出し、風を操ると現れた川底へとふわりと舞い降りた。
「…これは…」
川底に転がっている小さな黒い卵に引き寄せられるように近づき抱え上げる。
腕の中にあるそれからは、エラから感じた魔力を感じた。
「まさか…エデュラン様…なのですか」
もちろん、卵から返事があるはずはなかった。
マーサは卵を城へと持ち帰り、迷いながらもセドリックの元へと向かった。
「…これがエデュランだって?」
王室の机に置かれた黒い卵に、セドリックは戸惑いながら触れ目を閉じた。
「確かに…エラの魔力を感じる。では、今のエデュランはあいつの言う通り…」
「あいつ?」
マーサがそう言うとセドリックは首を振った。
「いや、そんなまさか。昔と同じ…あの子から魔力を感じない。封じられているに違いないのに…」
セドリックは深い溜息を吐き、椅子に座った。
「まさか…我が子の判別が出来ないなどと…」
「わたくしにも確証はありません。ドラゴンを育てたことはありませんので…。とりあえず、この卵はわたくしが預かり、羽化するまで…」
「いや…私の手元に置いておく」
セドリックはきっぱりと言った。
「もしここにあの子がいるのなら…目覚めた時傍にいてやりたい。…もうそれほど期限は残されていないかもしれないがね」
そう言ってセドリックは、寂しそうに微笑んだ。
穏やかな顔で永遠の眠りについたセドリックは、恐らく最後にエデュランに会えたのだろう。
エデュランを頼ることは、正直迷っていた。
ドラゴンだと見破られることが怖いのではない。
彼が自分の能力に溺れ世界をいいように操りだすのではということが心配だった。
彼の力では王子に戻ることも、そして国王になることも容易い。
闇の力で人々を洗脳することや、世界を包むほどの闇の魔力を駆使して人々恐怖に陥れ支配することだって。
エラに、闇のドラゴンの力のことは詳しく教わっている。
エラがドラゴンで人間世界の支配に興味がなかったからこそ、その膨大な力を振るわず国を揺さぶる魔王と化すことはなかった。
しかし、エデュランは違う。
人間として産まれ自分の能力のなさを王族らしくないと責められ、自虐的に過ごして来た。その幼少期を思うと、世界を支配する王となり自分を責めて来た人間達に復讐したいという気持ちが芽生えてもおかしくは…。
「マーサ」
唐突に声を掛けられ、マーサははっとした。
目の前に立つエデュランの姿に、思い切り目を細める。
「なんですか、その姿…」
「え?変装」
「変身魔法は魔道具に…」
「髪の色とか変えるくらいは引っかからないでしょう?それに、僕の魔法は人間のとは違うから大丈夫。おかしい?」
「…昔のセドリック様を思い出します」
「え?似てる?」
エデュランはそう言って笑顔になった。
「ちゃらちゃらしたところが特に…」
「なにそれ、全然嬉しくないんだけど。…で、城に行けばいいの?」
「はい。…今日はわざわざいらしてくださってありがとうございます」
「いいよ、礼なんて」
「では、こちらから参りましょう」
そう言ってマーサは王城までの長い距離をエデュランと共に歩き出した。
「…馬車とかないの?」
「わたくし、しがないしかも他国のメイドです。そしてあなたは無名の魔法使いですので」
「どうやってルドラの王室に招かれたの?」
「…それこそ、ザンダー様の奥方になられたショーナ様とは以前から付き合いがありまして。ぜひわたくしの奉仕をルドラ国のメイド達にも広めたいと…。まあ…ザンダー様と結婚するにあたり、王室で色々と助言してくれる味方を求めていたのでしょう」
「なるほどね。…でも一週間も滞在なんて困るな。ちょっと洗脳魔法使っていい?」
「エデュラン様」
マーサは振り返り、咎めるようにエデュランを見た。
「それでは意味がないと何度も申し上げたはずです。きちんとした職に就き安定した収入を得るためには、こうして王室に魔法使いとして召し上げてもらうことが一番だと。…本当ならノガルドの王室に認められることが一番ですが、まずはこうして困っているルドラ。そこを足掛かりに…」
「確かに僕が仕事に就くとしたら魔法使いが一番かなと思うけど、別に王室にこだわる必要なんて…」
「王室に潜り込めれば、偽のあなたの正体も分かるかと…」
「それなら、ほら…これだよ」
エデュランがコートから一冊の本を取り出した。そして、頁を捲りマーサに差し出す。
「これは?」
「ルドラ国王室図書館にある禁書」
「はい?」
マーサはぎょっとして辺りを見渡す。
「大丈夫。僕らの存在は消してあるから。マーサに色々頼まれる前から夜中こそっと王城に入って調べていたんだ。今日ついでに返そうと思って」
「あなたは…もう…」
マーサは呆れながらも本に目を通しながら、次第にぞっと鳥肌が立つのが分かった。
「これが…魔法を探知されずに…すむ方法」
「そう。魔法のないこのルドラだからこそ生まれた方法。そして、ノガルドの魔法使いと協力して完成したのが偽の僕」
「彼は…一体誰なのですか?五大属性の力を持つ彼は…」
「記憶を探ったけど、詳しい出自まではよく分からなかった。でも、シャルレーネのお陰でぴんと来たよ。初代国王イアンの血を引きながらも、国を追われた者の存在に。彼は強い闇属性を持ち幻術を駆使して五大属性を持っている…ふりをしている」
「ですが、闇の魔法を使っていたのであれば魔道具が感知するはず」
「そこは特別な道具を使ったんだよ」
「特別な道具…」
「そう。国宝級の超不正な道具」
「それはもしかして…」
「…というわけで、帰ろうかな」
「はい?」
「僕、安定した職なんて要らないよ。シャルレーネが僕を分かってくれていればそれで十分」
「…彼女に養ってもらうおつもりで?」
「僕お金持ちだよ」
「それはエラの財産です」
「今は僕のものでしょう?じゃ」
踵を返して歩き出したエデュランの背に、マーサは少し考えてから口を開いた。
「あなたは…もうシャルレーネと男女の契りを交わしたのですか」
「ぶっ…」
エデュランは吹き出し、勢いよく振り向いた。
「ちょっと…子どもなんてこというんだよ!」
「十八歳はもう十分大人かと」
「…そうだけど」
「一方的な番の関係であれば、彼女があなたを拒絶すれば解除できるはずです」
エデュランは口を閉じた。
「今彼女とはどのような関係なのですか」
エデュランは深く息を吐いた。
「彼女とは…まだ関係を修復中なんだ。…あんまり僕に甘いからたまに齧りたくなっちゃうけど」
「修復?」
「彼女は僕を大切に思ってくれている。でも、僕の想いを信じられない。だって彼女を六年前に傷つけたのは偽者じゃない。僕だからね」
「婚約破棄のこと…ですか」
「ああ。僕は彼女に…最低なことをした」
「あの時はまだ子どもで…」
「子どもだからって…傷つけたことには変わりないし、許されるわけじゃない。それを六年も経って謝っても簡単に許してくれるはずなんてない。だからこそ時間が必要なんだ。いつか…また好きになってもらえるように」
「…それならば尚更安定した職業に就くべきです」
「そうなの?」
「安定した職業、収入は安定した関係を導くかと」
「大切なのは愛だよ」
「…シャルレーネも夫が立派な魔法使いであれば鼻が高いでしょうね」
「そんなことないって…」
「親の財産を頼りする人よりも、尊敬できる存在になることが大切ではないでしょうか」
エデュランはちらりとマーサを見た。
「…リリシュさんのお父さんってどんな人だったのさ」
「そんな大昔のことはもう覚えておりませんわ。わたくしも年ですから」
「マーサ…」
「ただ、尊敬に値する相手ではなかったことだけは覚えていますわ。あなたがそうならないことをわたくしは願っております」
エデュランは深い溜息を吐いた。
「でも…レーネを一人にするの嫌なんだ。彼女無理していても顔には出さないし、ご飯だってすぐ食べ忘れるし…」
「それは…仕方がないでしょう」
「なんで?」
「昔は空腹を感じる間もなく食事は用意されていた公爵家で育ち、その後は自分が作った食事を食べることも許されず、空腹を感じる暇さえないほど働かされるという劣悪な環境にいたのです。彼女に食べるという習慣がうまれなくても仕方がないかと思います」
その言葉にエデュランの目つきが変わった。
「久しぶりにあったシャルレーネは、食事をうまく受け入れられないほど身体が弱っていましたわ」
「…アガモット家め。屋敷ごと吹き飛ばしてくればよかった。…そんな話だって彼女は僕にはしてくれない。愚痴だっていくらでも聞くのに…」
「それならなおさら…」
「はいはい。尊敬される存在になることでしょう?分かったよ」
マーサは歩き出したエデュランに続いて、歩き出した。
「そういえば、シャルレーネに送ってる管理料のことだけど…」
マーサはどきりとした。
「結構な額だよね。レーネはしっかり貯金しているみたいだけど。あれ、もう止めていいよ。僕が十分お金持ってるから」
「…あれはセドリック様の命令なので…」
「って送り主さんに言っといて」
マーサは思わずエデュランを睨んで、溜息を吐いた。
「ご自分でお願いします」
「えー」
「それで…あなたに何があったのですか?わたくしがあなたを見つけたのは、ニア村の谷の川底でした」
「ああ、そのことか」
「このことをシャルレーネには言わない様にと言われましたが…あなたに何があったか聞いていません」
「…よく覚えてないよ」
「あなたが力を暴走させ、世界を闇で覆うような出来事ではなかったのでしたら幸いです」
「んーそうでもないけど…」
「では何が?」
「…僕はシャルレーネに謝りたかった。ただそれだけを願った。…それだけだよ」
「意味が分かりませんが…」
「シャルレーネがいれば、僕は世界を支配して僕を蔑んでた奴らに復讐しようなんて思わないってこと」
そう言うとエデュランは振り向いてにやりと笑った。
「…心を読みました?」
「読んでないよ。エラがマーサは心配性だっていってたから。僕が力に溺れて世界を支配するようになるんじゃないかって、心配するんじゃないかって。それでも…僕の味方になってくれるだろうとも言ってたけど」
「それは勘弁していただきたいですわ」
「はははっ」
笑うエデュランは、嘗ての幼い頃のエデュランの面影がありながらもすっかり大人になってしまったような気がした。
子ども扱いしていたのは、わたくしだけだったのですね。
マーサはそう思いながら微笑んだ。
エデュランが成長していく姿を目に出来なかったことを残念に思いながら。
シャルレーネは『リリー』へ通い、スカートの裾部分の刺繍の手伝いを始めた。
シャルレーネにとって、今までにないほど体調の良い時間が続き刺繍作業に没頭した。
「シャルレーネ、シャルレーネ!」
リリシュに声を掛けられ、はっと顔を上げると周りには誰もいなかった。
「皆お昼ご飯を食べにいったわ。あなたがあまりにも集中し過ぎて、声を掛けきれないって言うから…」
「す、すみません。昼食は持ってきたので大丈夫です」
シャルレーネは慌てて立ち上がった。
「…具合悪くない?」
「はい。全然」
「本当に前とは違うのね。前は作業がすごく早いのにお昼には真っ青になるから心配していたのよ」
「わたし…魔力を使い過ぎてしまうらしくて…。今は魔力制御の石をエデュランに貰ったので…」
「まあ、エデュラン君ってそんなことも出来てしまうのね。すごいわ!」
そう言ってリリシュが微笑むと、なんだが自分が褒められようでシャルレーネも微笑んでいた。
「母さんからエデュラン君をルドラに呼んだと聞いたわ。一人でも平気?」
「え、ええ。ずっと一人だったので問題はありません」
「そう?寂しくない?」
「い、いいえ」
「それならいいわ。…それにしても、今回の薔薇のドレス出来上がりがとても楽しみね」
そう言ってリリシュは微笑んだ。
「ドレスが出来上がるまでってとてもわくわくするの。待ちきれなくて全部自分でしてしまいたい気分になるくらい!でも、あなた達の力があるからこそこうして素敵なドレスが仕上がるの。すごく…すごく楽しみだわ!」
リリシュの笑顔を見つめながら、シャルレーネもその気持ちがよく分かり思わず微笑んでいた。
いつも完成されたドレスを眺めるばかりだったが、こうして作られていく過程を見ていると、わくわくする気持ちが止まらなかった。
夕方になり、シャルレーネは家に戻ると『シャーロット』のハンカチへの刺繍を始めた。
思わず夜中まで作業してしまったが、はっとして遅い夕食を食べて風呂に入り眠りについた。
一晩眠りについてしまえば朝はすっかりと元の調子に戻っていた。
エデュランのお陰だわ。
そう思いながら、月のペンダントを眺め一人で朝食を食べた。
これなら…もしもいつかエデュランがいなくなってしまっても…わたしは大丈夫。
次の日になり、シャルレーネは前日と同じ時間に『リリー』へと向かうと刺繍を始めた。
「ねぇ、シャルレーネちゃん」
そうイネスに話しかけられたのは、夕方になった頃だった。
「これ、手伝ってくれない?袖部分になる刺繍なんだけれど…」
そう言って、イネスは一枚の布を持ってきた。
「二日後がリリシュから言われている期限なんだけど全然進まなくて。ほら、わたし旦那と子どもの世話で忙しくて、あなたみたいに持ち帰って作業とか無理でしょう?だから手伝ってくれない?」
下書きされた布をみれば、一部分しか出来上がっていなかった。
「まあ…大変なのですね」
シャルレーネは少し迷いながらも布を受け取っていた。
今の自分になら、出来そうな気がした。
「わかりました。やってみます」
「まあ、ありがとう。助かるわ」
そういってイネスは笑った。
家に帰り、その日はハンカチの刺繍はせずに袖部分の刺繍をした。
焦ってはだめ。
リリシュさんのためにも、着た人が幸せになれるドレスに…。
出来上がった袖布の刺繍を眺めて微笑んだ瞬間、はっと我に返った。
夜が明けていた。
「しまった…わたし…」
気がつけば、あっという間に朝になってしまっていた。
シャルレーネは服だけ着替えて、『リリ―』へ向かった。
イネスに布を渡すと呆気に取られた様子で出来上がった刺繍を見つめた。
「え…一晩で…?」
「雑になっていませんか?わたし夢中で…」
「いいえ、すごく綺麗よ」
そう言ってイネスは笑った。
「本当にずっと店で作業してもらいたいわ。ずっと…ね」
「そ、そうですか」
「あ、そうだ。リリシュに聞いたの。あなたが、体調が悪くなるのって魔力を使って刺繍をしているからなんでしょう?」
「え…ええ」
リリシュが話してしまったことにシャルレーネは戸惑った。
確かに他言しないでとはいっていないけれど…。
「いいわよね、お嬢様は。美しいうえに魔法まで使って、自分の商品を魅力的に見せることができるのなんて」
「そ、そんな…」
そんな風にリリシュも思っているのだろうか。
「でも、魔力切れで動けなくなってしまうなんて…可哀そう」
そう言いながらイネスは自分のカバンを探って小瓶を取り出した。
「これ、近所の薬屋で配っていた魔力回復薬の試作品なの。あなたにあげる。今回のお礼よ」
「…ありがとうございます」
イネスの差し出した小瓶をシャルレーネは居心地の悪さを感じながら思わず受け取った。そこには薄緑色の液体がたぷりと揺れていた。
「今飲んでおけば丁度いいんじゃない?」
確かに、身体に疲労感を感じていた。よく休まずに魔力を消費したせいだろうか。
でも、副作用が…。
「みんな魔力回復薬ではないけれど、そういう回復薬を使ってまで働いているのよ。家でのんびり仕事しているあなたと違ってね」
イネスの言葉にシャルレーネは思いがけずむっとしたが、エデュランが飲むなと言っていたものを飲むわけには行かなった。
「そうですね。…わたしも必要だと思った時に頂きますね」
そう言葉を返して、シャルレーネはスカートのポケットに薬を押し込むと、その日の作業を開始した。
その日家に帰り、少しぼんやりとしながらシャルレーネは浴室へと向かった。
「熱いお湯に入れば、きっとすっきりするわ」
お風呂で身体を洗い終えると、寝間着に袖を通して髪を乾かそうとした時だった。
何かがかしゃりと音を立てて落ちた。
その瞬間ひどい眩暈にシャルレーネは立っていられなくなり、床に倒れ込んでいた。
え…どうして急に…。
ひどい寒気が襲ってくると身体が震えた。
浴室の床を倒れながら見つめると鎖が切れてしまったのだろうか、落ちたのはペンダントだった。
そういえば今日は外すのを忘れてお風呂に…。
ペンダントの力が無ければ…わたしはこんなにも限界だったというの?
シャルレーネはペンダントへと手を伸ばして掴んだ。
それでも、身体に力が戻ることはなかった。
そんな…どうして…。
ふと、籠の中に先ほどまで着ていたスカートが目に入った。
そうだ。
あのスカートのポケットに…。
シャルレーネは這って籠までたどりつくと魔力回復薬を見つめた。
これを…これを飲めば大丈夫…。
たぷりと液体がゆれる瓶の蓋を開けようとした時だった。
「だめだよ、レーネ」
後ろから聞こえたエデュランの声に、思わず鳥肌が立つ。
「え?」
振り向こうとした瞬間、エデュランに抱え上げられていた。その瞬間、濡れていた髪が乾き、身体に一気に力が漲るような気がしたが、すぐに疲労感に身体が襲われた。
「使用限界状態での魔力使用。…身体が疲れ切って限界だ。高熱がその証拠」
エデュランからそう言われ、シャルレーネは茫然としながらエデュランの顔を見つめた。
まだ三日しか過ぎていないのに。
「ど、どうして…」
「ごめんね、僕が魔力消費率低下の魔法以外に、疲労回復とかの作用を盛り込んだせいだ。冒険者とか体力バカになら相応しい力だったかもしれないけど…。君に身体が疲れきっていると分からないほど働かせてしまった」
困った顔で微笑むエデュランを見て、シャルレーネの目からは我慢しきれずに涙があふれて来た。
思わず両手で顔を覆って隠す。
「ごめんなさい。…ごめんなさい」
なんて情けないのだろう。
自分でなんでも出来ていると思い込んでペンダントの力に頼りきりで…。
エデュランがシャルレーネの体調を気にして早く帰って来たことがすぐに分かった。
おそらくルドラに魔法使いとして認められる機会を手放して来たのだ。
どうしよう…。
わたし…このままじゃ、また。
「泣かないで、レーネ。ごめんね、呼ばれてないけど勝手に影を使って帰って来ちゃった」
そう言ってエデュランは笑った。
「仕事は…終わらせたから大丈夫だよ」
「嘘よ、嘘」
「本当だよ。マーサに頼んでちょっとずるして来たんだって」
シャルレーネは何度も首を振った。
堪えきれず泣きじゃくりながら言葉を漏らす。
「ごめんなさい…こんなに…こんなに弱いなんて。わたし…強くなったと思っていたのに。あな…あなたに、こんな風に迷惑を掛けてしまうなんて」
「迷惑なんかじゃないよ。番の体調が悪いのは分かるんだ。ここ数日ずっと無理をしているのが分かっていた。でも…きっと僕が中途半端に仕事を放り出して帰っても、君はきっと喜ばないって思って…」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
エデュランはシャルレーネを抱えたまま長椅子に座ると、シャルレーネの頭を撫でた。
「君が強いのは知っているよ、レーネ。…でも…ほら、僕弱いからさ。一日でも君と離れていたくなくてさ…」
「…強いくせに」
シャルレーネは、泣きじゃくりながら声を漏らした。
「最強のドラゴンで…どこにでも飛んでいけるくせに!」
「そう…だね」
エデュランの言葉に、シャルレーネの胸はずきりと痛んだ。
「でも…でも僕は…」
シャルレーネは思わず顔を覆いながら、エデュランの胸に顔を埋めていた。
「…行かないで」
思わずそう口から言葉漏れていた。
「もう…どこにも行かないで」
「…シャルレーネ」
「もう二度と…あなたの…迷惑にはならない。わたし…わたし…頑張るから。ひとりでなんでも出来るように頑張るから。だから…だから…もうひとりにしないで」
ずっと堪えきてた本心が、口から零れ出ていた。
ひとりで平気になりたいわけじゃない。
エデュランにがっかりされたくない。
だって…また置いて行かれたくないから。
ずっと好きだった。
ドラゴンになった今も…ずっと。
シャルレーネの目からはさらに涙があふれていた。
「やだ。こんな…こんなこと…いうつもりじゃ…」
「レーネ…」
エデュランの両手が背中に回されるのが分かると、強く抱きしめられる。
「約束を破ってごめんね。…君を泣かせてひとりにした。ずっと…ずっと謝りたかったんだ。ごめん、本当にごめんね」
エデュランの声は、震えていた。
まるで今にも泣き出しそうに。
シャルレーネは思わず顔を覆っていた手をほどき、エデュランの首に腕を回した。エデュランのひんやりとした首筋に顔を埋める。
「好き」
シャルレーネは思わずそう口にしていた。
「大好きよ。…エデュラン」
そう口にしながら、シャルレーネは意識を手放した。
エデュランは眠りについてしまったシャルレーネの顔を見つめた。
「僕も好きだ。ずっとずっと…好きだ」
そう言って、その額にそっと唇を寄せる。
「あの深い…暗闇の中でも…ずっと」




