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13.

 薔薇の花びらをひとつ縫い終え、シャルレーネは顔を上げた。


 時計は午後の十二時になろうとしている。


 「…よし、お昼の時間ね」


 シャルレーネが湖の方を向くと、エデュランが釣り糸を垂らしているのが見えた。

 エデュランは、朝早くダンカンの手伝いに出掛け、今は湖で釣りをしていた。


 今日こそ昼食はわたしが用意を…。


 そう意気込んで台所へ向かうと、すでに昨日の残りの焼いた鶏肉とレタスとトマト、そしてチーズと半熟の卵を挟んだサンドイッチが二つずつ完成している。ご丁寧に一つはトマト抜きだ。

 シャルレーネは恨めしく湖の方を向いた。

 確かに昼食はサンドイッチにしようと言っていたが、一体いつの間にか用意をしたのだろうか。


 助かるのだけれど…なんだか悔しいような…。


 「トマトを詰めてみようかしら…」


 そう呟きながらシャルレーネは紅茶を淹れると水筒へ移し、サンドイッチと共にバスケットへ詰めた。ふと思い立って瓶に残った最後のチョコチップクッキーを一つ布に包んでバスケットに入れると湖へと向かった。


 エデュランとの暮らしは、ノエと過ごした時間と驚くほど変わらなかった。

 家事は一緒に手分けして終わらせ、食事の時間はしっかり食事を摂り、夜は無理せず早く休むようになった。食事に関しては、今では気づいたらエデュランの方が作ってくれている。

 シャルレーネが刺繍に没頭していると、いつの間にかエデュランに頬や首にキスをされている。

 その度はっとして、エデュランは睨むとエデュランは嬉しそうに笑って言った。


 「君の嫌がる顔ってくせになりそう」


 「…変態」


 「そうそう、変態ですよー」


 そんなことが続いていたので、薔薇の花びらを一つ終えたら一呼吸置くようにしている。

 日曜日だけは、エデュランはどこか出かけようと誘うようになり、以前いった岩山や珍しい花の咲く場所へ連れて行ってくれるようになった。

 エデュランは、偽者について色々と調べているのか時々はシャルレーネに告げて夜飛んで出かけていくことがあった。

それでも、十分な情報を持つ人が見つからないと零していた。


 「エデュラン」


 シャルレーネが呼ぶと湖の傍に腰かけていたエデュランは笑顔で振り向いた。


 「あ、お昼持ってきてくれたんだ。ありがとう」


 「こちらこそ…作ってくれてありがとう」


 「どういたしまして」


 エデュランが釣り道具を片付けている間にシャルレーネは敷き布を広げ、サンドイッチと紅茶を取り出した。


 「お昼の相談とか出来るのっていいよね。ノエの時は出来なかったから」


 「そうね。…でもあなたばかり負担になっていない?」


 「…どうして?僕の食べる分も作ってるんだから、負担になんかならないよ」


 エデュランは、そう言いながらトマト抜きのサンドイッチを選んで食べ始めた。


 わたしは…エデュランに何をしてあげられているだろうか。


 シャルレーネはそんなことを考えながら、サンドイッチを齧った。


 「夕飯に後もう三匹くらいは釣りたいんだけどなあ」


 昼食を終え、紅茶を飲みながらエデュランは言った。バケツの中には、三匹の鱒が泳いでいる。シャルレーネは首を傾げた。


 「…魔法で釣ったりできないの?」


 「分かってないね、レーネ。釣りってのは魔法でやったら面白くもなんともないんだよ」


 「しっぽで弾いていたドラゴンに偉そうに言われたくないわ」


 「あれだって加減があるんだからね?思いっきりやったら身が弾けちゃうから難しいんだよ。それに…僕の魔法じゃ胸くそ…じゃなくて胸が悪くなるような気持ちになるから」


 「どうして?」


 「…知りたい?」


 エデュランはそう言って目を伏せた。


 「え…ええ」


 「…見せてあげる」


 そう言ってエデュランは湖の方を向くと、何かを呟いた。

 聞いたことのない言葉だった。

 それなのに意味は分かった。


 『我にその身を捧げよ』


 そう聞こえた。


 その瞬間、周りが静まり返ると風の音だけが周囲に響いた。


 シャルレーネは湖をみてぞっとした。


 湖に何百という数の魚が姿を現し、腹を見せて浮いていた。


 空を飛んでいた鳥でさえ、地面に伏していた。


 ぱんっとエデュランが手を叩き、シャルレーネはびくりと肩を震わせた。


 静けさは消え去り、魚達は湖へ消え鳥は羽ばたいていった。


 「ね、気持ち悪いでしょう。これが洗脳の力。相手を意のままに操る闇の力だ」


 「す…すごいのね」


 シャルレーネは鳥肌が止まらずに答えた。


 なんて力だろう。


 こんな生命さえも思いのままに操る魔法見たのは初めてだった。


 「そう、僕は人々洗脳して王様になるのだって簡単なんだから」


 エデュランはそう言って笑いながら胸を張ったので、シャルレーネは思わず呟いた。


 「…偉そうね」


 「偉いの」


 「じゃあ…どうしてわたしは洗脳しないの」


 「は?」


 「愛してって言ってなんて脅すくらいなら…」


 「するわけないじゃない!そんないかがわしい真似!」


 「いかがわしいの?」


 「いかがわしいの!」


 エデュランはそう言うと、深く息を吐いた。


 「…というか、僕は君に悪影響を及ぼすような魔法は使えない。それが番の関係だから」


 「そうなの?」


 「まあ、使うつもりなんてないけど。あ、君の承諾なしに使えるのが一個ある。催淫魔法」


 「さいいんって……は?」


 シャルレーネは顔を顰めた。


 「あれは悪影響ってわけじゃないからね。実は一回試してみようかと思ったけど、そういう肉体関係だけあっても虚しいと…」


 「エデュラン!」


 シャルレーネがエデュランを睨むと、エデュランが身を縮めた。


 「いかがわしいわ!」


 「でしょ?だからやめたんだって」


 「もう!」


 シャルレーネは昼食の後を片付けバスケットに詰めると立ち上がった。


 「レーネ!我慢したんだから怒らないでよ」


 「知らない!」


 シャルレーネは足を踏みながらしながら歩き出した。


 いっつもふざけてそんな話ばかりを…。


 ふいに、シャルレーネは子猫を抱いている幼いエデュランの姿を思い出した。


 知りたい?


 そう聞きながら、暗い表情のエデュランの顔も。


 命が尊いものだと分かっているエデュランにとって、今の魔法は胸が悪くなるものだ。


 今…わたしのために…使いたくない魔法を使ってくれた。

 あんな話をしてふざけていたけれど…。


 シャルレーネ足を止め、エデュランの元へと戻った。


 「レーネ?」


 シャルレーネは、黙ってバスケットの中からチョコクッキーの包まれた布を取り出すとエデュランへと差し出した。


 「これ…最後のクッキー。また買ってくるわ」


 「え…ありがとう!って、もう子どもじゃないんだから…」


 「ごめんなさい」


 「え?」


 「さっきの魔法…好きじゃないのでしょう?わたしが見たいと言ったから…嫌な思いをさせて…ごめんなさい」


 ふいに、エデュランの手がクッキーを手にしていたシャルレーネの腕を取ると、思い切り引き寄せられた。


 「わっ!」


 シャルレーネは倒れ込むように、エデュランに抱きついていた。


 「ちょっ…」


 シャルレーネは立ち上がろうとしたが、エデュランは無理やりシャルレーネを抱き締めて離さなかった。


 「エデュラン…」


 「君といるとほっとする」


 「え?」


 「こんな怖い力を持っていても…当たり前のように傍にいてくれて…クッキーをくれるからね」


 「もう…」


 シャルレーネはそう言いながらエデュランの背中に触れた。


 「そんな人…たくさんいるわよ」


 「いらないよ。君がいれば…」


 シャルレーネは戸惑いながらもエデュランの腕を振り解くことは出来なかった。



 それから数日して、ドレス生地への薔薇の刺繍は完成した。

 その日、エデュランはダンカンの手伝いに出掛けるというので、シャルレーネはひとりでドレスの布をリリシュの店へと届けた。


 「まあ…もう完成したの?」


 リリシュはそう言って布の入った袋をお店の奥へと持っていくと、作業台の上に広げた。


 「あらぁぁ…!なんて素敵なの!」


 そうリリシュが感嘆の声を漏らすと、アリサが駆け寄って来た。


 「…すごい!…なんて精巧なの。まるで写し絵のよう」


 アリサがそう言いながら薔薇の花弁部分に触れる。


 「あたしも!あたしにも見せて!」


 ゾーイが赤色の髪を揺らして、アリサの後ろから顔を出した。


 「わー!綺麗!」


 アリサは二十歳、ゾーイは十八歳。二人とも『リリー』のドレスに憧れ、シャルレーネが働き始めて少しした頃からここで働いている。


 「ええー…こんなに早く仕上げるなんて。袖と裾部分の刺繍はまだまだなのに…」


 そういいながら、イネスがシャルレーネをじっと見つめてくる。褐色の髪を無造作に結い上げたイネスは、リリシュと同じ歳で『リリー』を始めた頃からの付き合いらしいが、シャルレーネにとっては苦手な人物だった。


 「シャルレーネちゃん…スカートの裾部分の刺繍も通って手伝ってくれない?」


 「え?」


 「こら、イネス。シャルレーネは自分の担当分はこんなに早く終わらせたのよ」


 「だってリリシュ、胸元の刺繍が素敵過ぎてこのままじゃスカートの刺繍が浮いてしまうわ。スカートの刺繍だって少し手を加えてもらわないと」


 「でもシャルレーネは…」


 「…わたし…やります」


 シャルレーネは思わずそう答えると、リリシュが心配そうに顔を覗き込んできた。


 「シャルレーネ、いいの?…あなた『シャーロット』のハンカチの仕事もしているでしょう?ロバートがさらに注文を受けたって聞いたけど…」


 「大丈夫です」


 シャルレーネはそう言って微笑んだ。



 マーサが訪れた次の日、エデュランが本当にハンカチをロバートの元へ持っていくというので、シャルレーネも『リリー』へと同行した。


 「すごい。…こんなに貯めてたんだ。六十枚くらいあるな」


 店の奥に案内され、ハンカチを目にしてロバートが呆れたような口調で言うと、シャルレーネは恥ずかしくて目を伏せた。


 「気分転換といいますか…機会があれば誰かにあげようと…」


 作って貯め込んでいたハンカチは、この三年半あまり本当に六十二枚と貯めに貯め込んでいた。


 「でも、すごいな。このハンカチの布周辺を綺麗に纏めて、縫い目を見せているところなんか、ひとつひとつ誰かに贈るために丁寧に作り上げている。これはいい商品になる」


 「本当ですか?」


 ロバートの言葉にシャルレーネは思わず微笑んでエデュランの手を両手で握っていた。


 「ありがとう、エデュラン。あなたのお陰よ」


 エデュランが目を見開いた。


 「こうして棚に眠っていたこの子達が誰かを喜ばせることが出来るなんて。本当にありがとう」


 エデュランは照れた様子で微笑んだ。


 「へへ、僕も嬉しいよ」


 エデュランが手を握り返して来たので、シャルレーネははっとしてその手を離した。


 「二人は…結婚する予定で?」


 ロバートがふいに言った。


 「い、いいえ!」


 シャルレーネは思わず上ずった声を上げていた。


 「…そうなのか?」


 「僕は…そのつもりです」


 「もう、エデュラン!」


 ふいにロバートが微笑んだ。


 「エデュラン様が来てから、楽しそうだな。シャルレーネさん」


 「え?」


 「そいつが来てから明るくなった」


 「そいつって…」


 エデュランが呆れたようにロバートを睨んだ。


 「俺は指を咥えているしかしなかったんで」


 そう言って微笑むロバートにシャルレーネは首を傾げた。


 「どういう意味ですか?」


 ロバートは誤魔化すように笑って言った。


 「さあ、このハンカチ売り出すための謳い文句を考えよう」


 「謳い文句…ですか?」


 シャルレーネは首を傾げ、エデュランの方を思わず向いた。


 「広告ってことでしょう?野菜で言うなら新鮮で安いとか…そういうやつ」


 「分かりやすい例えだ、エデュラン様」


 「幸せを招くハンカチとか?」


 エデュランが言った。


 「本当に幸運度を上げる魔法が込められてるからぴったりじゃないかな」


 「ちょっとぼんやりしてるな。もっと分かりやすり方がいい」


 「分かりやすい…ねぇ」


 「分かりやすい…ですか」


 エデュランと共にシャルレーネは首を傾げた。


 「恋を叶えるは…どうかな」


 ふいにロバートが言うと、エデュランが思わず眉を潜めた。


 「ロバートさん…乙女だね」


 「うるさいなぁ、エデュラン様」


 「そいつとかうるさいとか言えるんだから、もう様じゃなくていいって」


 「幸運度を上げるってことは、意中の相手と何かが起こる機会が増えるってことでもいいのか?」


 ロバートの言葉に、エデュランは少し考えて言った。


 「まあ…そうなるかも」


 「これを売り出す対象は女性になる。女性はいくつになっても恋の話が好きだろう」


 「…さすが商売人だね、ロバートさん」


 「もうロバートでいい。エデュラン」


 「ありがとう、ロバート」


 そう言ってエデュランはロバートと肩を組んだが、思い切り顔を顰められていた。


 「あとは商標だけだな」


 「ありがとうございます、ロバートさん。実は商標はもう決めていて」


 そう言ってシャルレーネは微笑んだ。


 「シャーロット。…わたしの母の名です」


 シャルレーネは目を伏せた。


 「誰かを笑顔にしたいという気持ちを込めて刺繍をする。それは…母から習ったことです。刺繍の図案もすべては母から学んだこと。だからこそ…母の名を口にして欲しいのです」


 「いいと思う、『シャーロット』。響きも馴染みやすい。あなたの考えも…とても素敵だ」


 「ありがとうございます」


 シャルレーネはそう言って微笑んだ。


 「この際だから、あなたをシャルレーネと呼んでも」


 ロバートの突然の言葉にシャルレーネは驚いた。


 「え、ええ」


 「俺のこともロバートでいいんだけど…」


 「そ、そういうわけには…」


 「ねえ、ロバート」


 そう言うと、エデュランがロバートと組んだ腕を首に回し、力を込めたのが分かった。


 「なんか口説こうとしてない?」


 「口説いてない」


 そう言ってロバートは唇を歪めて笑った。


 「案外子どもだな、エデュラン」


 「まあ…十八だけど」


 「…本当に子どもだ。ぐっ…」


 エデュランがロバートに回した腕にさらに力を込めた。


 「さすが…力は強いな」


 「まあ、ドラゴンですから」


 「ちょ、ちょっとエデュラン!」


 こうしてハンカチは、『シャーロット』という商標で、この店と王都の店に置いて貰えることに決まった。



 「好評なのよ、『シャーロット』の恋を叶えるハンカチ」


 そうリリシュが言った。


 「そ、そうなのですか?」


 シャルレーネは思わず笑顔になっていた。


 「実はあれ、王都でちょっと噂になっているの」


 「え?本当ですか?」


 「色々な図柄あるし販売数も決まっていたから、限定品みたいになっていてね。それに、刺繍入りの高価なドレスが買えない女性達も買える値段だしね。あのハンカチを手にして恋が成就したなんて言う人もいるのよ」


 「そうなのですね。そう言ってもらえると嬉しいです」


 「貴族のお嬢さん達も手に入れたいって人がいるらしいわ」


 そう言ってリリシュは笑った。


 「これってやっぱりあなたも恋をしているからなのよね」


 そうイネスが言ったので、シャルレーネは驚いた。


 「この間お店に来た彼、ノエ君っていうのよね」


 「え、ええ」


 「二人で買い物をしているのを見かけたわ。すごく綺麗な男の子よね。あんな恋人がいるなんて羨ましいわ」


 「か、彼は恋人じゃありません」


 シャルレーネは慌てて言った。


 「あら、そうなの?一緒に暮らしているのでしょう?」


 「あの…居候させて貰っているというか、あの家の持ち主の親戚の子で…」


 「そうなの。そうよねぇ。お嬢様がいくらかっこよくても平民の…しかもあんな若い男の子を相手にするわけないわよね」


 シャルレーネは思わず口を閉じた。

 自分が公爵家の人間であることを話したことはなかったが、なんとなく振る舞いで分かってしまうようで、イネスは度々シャルレーネをお嬢様と呼ぶことがあった。シャルレーネが特別扱いされていることを気に入っていないのは明らかだった。


 「イネス、ちょっと…」


 リリシュの言葉を遮るように、イネスは続けた。


 「ノエ君はあれかしら、普段ダンカンさんのお手伝いをしているのでしょう?農家でのお仕事なんて大した給料も貰えないわよねぇ。でも、あんなに好いてもらっているのに、勿体ない」


 イネスはそう言ってゾーイの方を向いた。


 「ゾーイ、ノエ君はシャルレーネちゃんの恋人じゃないんですって。狙っても怒られないわよ」


 「ちょっ!イネスさん!」


 ゾーイは慌てた様子で言った。


 「じょ、冗談ですからね、シャルレーネさん!」


 ゾーイに背中を押されながらイネスは、笑いながら奥の部屋に行ってしまった。


 「…本当に手伝って貰っていいの?シャルレーネ」


 リリシュはそうシャルレーネに囁いた。


 「…はい」


 「イネスは、あなたが羨ましいのよ。彼女も色々苦労しているから…あなたが苦労知らずのお嬢様だと思っているのよ。その上、刺繍の腕だって素晴らしいのだから。…無理しなくてもいいのよ」


 「でも、みんなで作業するのにも慣れたいので…」


 自宅で作業することを許されてはいるが、確かに特別扱いを受けているとシャルレーネも自覚していた。

 シャルレーネもずっとみんなと同じように作業できるようになりたかった。


 「じゃあ…本当に時間がある時でいいからね」


 シャルレーネはお店を出て歩きながら、ふとお店で魔力がきれてしまった時のことを考えた。最近魔力を抑えようと努力して、キスされる回数は減ったような気がする。

 それに、今回は以前に増して早く刺繍を完成させることができた。


 魔力さえうまく扱えれば…。


 シャルレーネは薬屋へと目を留めた。

 店先には、治療薬はもちろん魔力の回復薬まで色鮮やかな薬瓶が並んでいる。


 もしあれで魔力が補充出来たら…。


 ふいに目の前に白い小さなドラゴンが飛んで来たので、シャルレーネは手の平を広げて受け止めた。ふわりとドラゴンがその形を失うとハンカチへ戻り、エデュランの声が響いた。


 『お昼一緒に食べよう。アルマさんがサンドイッチ作ってくれたんだ』


 シャルレーネは思わず微笑み、そのハンカチに呟いた。


 『それなら、お礼に林檎のパイを買っていくわ』


 そしてハンカチに力を込めると、ハンカチは鳩の形になって飛んで行った。

 こうして魔力を込めて伝言する方法もエデュランから習った。初めは感覚的な言葉しか言わなかったエデュランだったが、エラの膨大な書庫から様々な方法を調べて、根気強くシャルレーネに教えてくれた。


 ケーキ屋で人気の林檎のパイを買い、籠に入れるとシャルレーネはダンカン・ルードの家に向かった。

 シャルレーネは畑で雑草取りをしているアルマに声を掛けた。


 「アルマさん、こんにちは」


 「あらあら、シャルレーネちゃん」


 ダンカンの妻であるアルマが手を振って来た。 

 エデュランは時々ダンカンの手伝いをして、野菜とさらに給料を貰っている。最近では庭を耕してナスやキュウリの苗を植えたりして収穫を楽しみにしている。


 「ノエ君なら麦の収穫に行っているわよ」


 「ありがとうございます。これ、おやつにどうぞ」


 そう言ってシャルレーネは玄関にパイの入った籠を置いた。


 「あら!ありがとう!」


 シャルレーネはアルマに手を振ると、麦畑の方へと向かった。大きな麦畑には、ダンカンとエデュラン以外にも収穫をしている人が数人いた。そして女性達が何か話をしている目線の先に、麦を刈るエデュランの姿があった。朝、長い髪を高い場所で結い上げた。絶対リボンは付けると言い張るので一度硬い紐できつく結ってからリボンを結んであげた。


 「ノエ!シャルレーネさんが来たぞ!」


 そう声を上げた白い髭の老人がダンカンだった。

 エデュランは麦畑から顔をあげると屈託のない笑顔を浮かべて手を振った。


 「ダンカンさん!休憩に入ってもいいですか」


 「いいぞ」


 エデュランが汗を上着の裾で拭きながら歩いて来ると、見事な筋肉の腹が覗く。それだけで、その場に居る女性達が思わず黄色い声を上げたが、本人は気にした様子はなかった。 

 麦畑から出て来ると、待っていましたとばかりに色々な年代の女性達がエデュランの所へ集まって来た。


 「ノエちゃん、これ食べて」


 「こっちも」


 群がっていく女性達を目の前に、シャルレーネは戸惑った。


 こんなに人気だなんて…。


 「ありがとうございます」


 エデュランは丁寧にお礼を言うと女性達をかきわけてシャルレーネのところへやって来た。


 「レーネ、色々貰っちゃった」


 様々なお菓子などを手にしたエデュランが笑いながらシャルレーネに近づいて来た。


 「サンドイッチと一緒に食べよう」


 エデュランがそう満面の笑顔を浮かべて言った。


 「ええ、ありがとう。あなたって…運動しているように見えないけれど、どうしてそんなに筋肉がつくの?」


 「え?これのこと?」


 エデュランが上着を捲ろうとしたので、シャルレーネは慌てて手で制した。


 「見せなくていいから」


 「レーネのえっち。そんなところ見てるなんて…」


 「見せているのはそっちでしょう」


 「これは魔法とかじゃないよ、本物だよ。触ってみる?」


 「触りません」


 エデュランはおどけた様子で肩を縮めた。


 「飛ぶのってかなり全身の力を使うんだ。あっちの木陰に行こうよ」


 木の下に敷き布を敷いてサンドイッチを食べながら、シャルレーネはふと今日のことを口にした。


 「明日からはお店でスカート部分の生地の刺繍を手伝うことになったわ」


 「え?担当の刺繍が終わったから、ハンカチの刺繍するんじゃないの?今月中にできるだけたくさん欲しいってロバートに頼まれてたじゃない」


 「それは夜に帰ってからするわ」


 「働き過ぎだよ、レーネ。少しはのんびりしなよ」


 「だって嬉しいのだもの。わたしの刺繍が認められると、お母様も喜んでくださっているような気がして」


 「うーん、でも…」


 「ねえ、わたしの魔力も魔力回復薬を飲めば回復する?」


 エデュランが大きく目を見開いた。


 「そ、そんな…僕の力じゃ満足できないってこと?」


 「…満足ってよく分からないけれど…いつまでもあなたの手を煩わせるわけには…」


 「煩わせるなんて…。もしかして……キスされるの、そんなに嫌?」


 「え?」


 「だ、だったら、キスなしでするから。キスなしでも出来る…」


 「エデュラン…」


 シャルレーネが睨むと、エデュランがはっとした様子で口を尖らせた。


 「…君にキス…したいんだ。だめ?」


 そう可愛らしくねだられるとシャルレーネは頬が熱くなった。


 「そ、そんなこと言われても…。と、とにかく!わたしの魔力がなくなることを気にしていたら、あなたが好きに出かけられないじゃない」


 「僕が?」

 

 「魔力を制御する方法を覚えるのが一番だけれど、なかなか難しいから。わたしひとりでなんとか出来るようにならないかと思ったの」


 「ひとりでなんて…僕がいるのに」


 エデュランはぼつりと呟いたが、小さく息を吐くと顔を上げた。


 「分かった。魔力を制御する方法を考えてみるよ。店で売ってる薬は見た感じ、色々な魔物の身体を材料として使っている。副作用が出る可能性があるし、僕が君の魔力にあった方法を考えてみる」


 「考えるって…どうやって?」


 「方法は色々あるから、とにかく僕に任せて」


 「…分かったわ」


 「あーあ、でも…君の仕事に余裕が出来たら一緒にルドラに来て欲しかったんだけど」


 「え?ルドラへ?」


 「マーサに頼まれたんだ。あの…ザンダー様の奥様を診て欲しいって」


 「どうしてあなたが?」


 「もしかして闇の力が関係しているかもしれないってさ。とりあえず魔法使いとして紹介してもらう予定なんだけど、奥さんに会えるまで一週間くらいかかるかもって。城に滞在していろいろ調べられるらしくて…」


 「流石ルドラ国ね。魔法使いに厳重な体制を取っているわ」


 魔法使いの産まれないルドラ国では、魔法に対する犯罪を防止するために、様々な魔道具を使って防御を鉄壁にしている。


 「だからさあ、君に一緒に同行してもらって一週間ルドラで過ごそうかと…」


 「…わたしが一緒に行ってどうするの?」


 「休暇だよ、休暇。一週間僕とゆっくりいちゃいちゃしとこうよ」


 「…しないわ。ひとりで行って来たらいいじゃない」


 「えー一週間も離れ離れなんて嫌だよ」


 「マーサさん困っているのでしょう?力になってあげなくては」


 「えーーー」


 エデュランは肩を落とした。


 「…ねえ、僕が魔法使いとして有名になったら君も嬉しい?」


 「…どうしたの?急に」


 「マーサは、僕にきちんとした仕事に就くべきだって言うんだ。ドラゴンだからってふらふらしていないで…そういう人がやっぱりいい旦那さんになるんだっていうんだよ」


 ふとイネスの言葉が蘇る。


 そんなこと…気にする必要なんてないのに。


 「あなたはこうして仕事をしているじゃない。ダンカンさんの手伝いは立派な仕事だわ」


 「そうだよね。貯金もいっぱいあるのにさー」


 「わたしが嬉しい…じゃなくてあなたがしたいことをするべきだと思うわ」


 「…君ならそう言うと思った」


 エデュランはそう言って微笑んだ。


 「君は?」


 「え?」


 「お店で働くのって平気?色々言われて困ったことってないの?」


 まるで見透かされたような気がして、シャルレーネは戸惑いながらも微笑んだ。


 「…平気じゃないわ。でも、みんなと同じようになんでも出来るようになりたいの」


 「君はきちんとやってる。同じである必要ってあるの?」


 「お嬢様って特別扱いを受けているようで嫌なの。リリシュさんにも迷惑が掛かっているし…周りと同じように出来るようになりたいわ」


 「そうか。…昔の僕と同じだね」


  エデュランはそう言って目を伏せた。


 「父上や姉上と同じになりたいって思っていた。そうすればみんなに認めて貰えるって」


 「そんな…」


 エデュランは顔を上げるとにっと笑った。


 「でも、今は自分が…そして君が僕のこと分かっていてくれたらそれで十分だって思うんだ」


 「それは…みんなにドラゴンだっていうわけにはいかないでしょう」


 「そうだけど。まあ、とりあえず…マーサのためにも頑張って行ってくるか」


 エデュランはそう言って、ひどく嫌そうに溜息を吐いた。


 自分が自分のことを…分かっているけれど。


 シャルレーネはそう思いながら目を伏せた。



 昼食を終え、シャルレーネはエデュランと別れると家へと帰った。

 明日からは忙しくなりそうなので、今日中にハンカチを何枚か仕上げてしまおうと新しい図案を考えることにした。シャーロットの図鑑からいくつか考えた図案と、さらに書庫から図鑑を借りようとエデュランの部屋へと向かう。納戸の入り口に掛かる札を書庫に合わせて開くと、広い書庫へと足を踏み入れた。


 「さて…図鑑は…」


 ふいに机の上に、エデュランが以前呼んでいた小さな物語の本が置いてあるのに気がついた。


 「呪われた王子と聖なる乙女…か」


 シャルレーネは思わず手に取り、ぱらぱらと読んだ。

 誰しも受け入れない醜い容姿へと姿を変えたエデュラン王子を見捨て、新しい恋人と駆け落ちしてしまう元婚約者のイザベラ。そして彼を救うために献身的に治療するジュリエッタ。最後はジュリエッタが聖なる力に目覚めてエデュランを救い、二人は幸せになる。姉のイザベラは、貧しい暮らしの中で哀れな生涯を終える。


 「これは…わたしも同じように思われているのでしょうね」


 「…何の話?」


 そう突然声がして、シャルレーネは思わず本を落とした。


 「エ、エデュラン!帰って来たのならそう言ってちょうだい!」


 「言ったよ、ただいまって。でも、君が本に集中していたから…」


 エデュランが本を拾い上げる。


 「で、何が一緒なの?」


 エデュランはそう言いながら、本をパラパラと捲った。


 「…名前は違ってもわたしもイザベラと同じってこと。きっと王都じゃ王子を捨てて、恋人と貧しい暮らしのまま生涯を終えると思われているでしょうね」


 「貧しくないよ。お金なら十分あるし、なんなら本当に王子に戻ることだって…」


 「違うの。そういう話ではなくて…」


 「貧しかろうが、王子じゃなかろうが…イザベラは好きな人といて幸せだったんじゃない?」


 そう言うと、エデュランはシャルレーネに笑ってみせた。


 「ちなみに君はお金持ちだし、僕は本当の王子だけどね。ついでにドラゴンだけど」


 「…ついで、でいいの?」


 「いいの、いいの。まあ、恋人じゃないけどね。…まだ」


 そう言いながら、エデュランは腰に下げていた袋から、大きな薄荷色の宝石を出した。


 「じゃん!これ見て!」


 「それ…何?」


 「これは風の魔結晶石」


 「風の?そんな結晶石聞いたこともないわ」


 「空の高い場所で産まれるから超珍しいんだ。ちょっと飛んで取って来た!」


 「取って来たって…」


 「薬は色々副作用が怖いから、宝飾品がいいと思って。魔力を制御するなら強い魔力を含む魔結晶石が一番いいと思うんだ」


 「どういうこと?」

 

 「これを加工して魔力の消費率を下げる宝石を作るんだ。純度の高い結晶石を見つけたから、上手く加工出来れば魔力消費率をかなり制御できるかも」


 「それって…ええと…」 


 「えっとね、魔物を倒すときに魔法を使うでしょう?それを八割の魔力使わないといけないところを一割ですむ宝飾品を作るってこと」


 「で、でも…貴重な石なのでしょう?」


 「貴重だけど…使わないと勿体ないよね」


 そう言って笑った。

 シャルレーネはとんでもないことを頼んでしまったのではないかと少し後悔した。


 「君のペンダント、預かっていい?あれにこの魔石を組み込むから」


 「分かったわ」


 シャルレーネはペンダントを外してエデュランに渡すと、エデュランはなぜか嬉しそうに微笑んだ。


 「いつもしてくれてるんだ…」


 そう呟いたのが聞こえると、シャルレーネは恥ずかしくて聞こえないふりをした。


 「これから、どう組み合わせるか考えてみるね。エラに方法は聞いたけど、実際に試すのは現実じゃ初めてだしね」


 「…ごめんなさい、面倒なことを頼んでしまって」


 「そんなことない。すごく嬉しい。…君に頼られるなんて、僕も大人になったってことだしね」


 そう言ってエデュランは微笑んだ。


 「昔は…僕ばかりがトマトを食べて貰ってた。君って嫌いなものないんでしょう?」


 「…好き嫌いをするとお父様に怒られるの。食材を無駄にするなって」


 「さすがランバルト卿」


 「…エラ様に習ったのって家事だけじゃないのね」


 「そうだよ」


 「でも、どうして家事を教えてくれたのかしら」


 「…それは僕がひとりでも生きていけるように…かな」


 「ひとりで?どうして?」


 「…正直僕がいつ目覚めて、いつ自分の名前がエデュランだって思い出して理解するかは分からなかった。たった四年で済んだけど何十年、何百年後だったかもしれない。そこで僕は…たった一人で生きていかなければならないかもしれなかった」


 その言葉にシャルレーネは驚いた。


 「人間とドラゴン。どちらの生き方を選んでも生きていけるように…ってエラは考えてくれていたんだろうね」


 「いつ目覚めるか分からなかったってどういうこと?」


 エデュランははっとした様子で顔を上げた。


 「…あなたがどうしてドラゴンになったのか思い出したの?」


 「ああ…だから…きっとニア村の状況がショックで卵になっちゃって…行方不明なところを誰かに利用されちゃったんだよ」


 エデュランはそうもごもごと言った。


 「ま、まあ僕くらい強ければ、全然一年くらいでも起きても良かったんだけどね。最強のドラゴンだからね。エラに学ぶのが楽し過ぎて、四年も過ぎちゃったんだ。えへへ」


 そう言って笑うエデュランを、シャルレーネは思わずじっと見つめた。


 「…言えないの?」


 「…そんなことないよ?」


 そう言ってエデュランは目を泳がせたので、シャルレーネは大きく息を吐いた。


 「…いいわ」


 「そ、そう?」


 エデュランが目を伏せたのが分かった。


 またこの間のように言い合いはしたくなかった。

 エデュランに無理やり話させるようなことも。


 シャルレーネは本を本棚に戻そうとして、ふとエラの書いていたと言う自伝に目が留まる。


 「これって…ドラゴンの言葉で書かれているの?」


 「そ、そうだよ」


 エデュランはシャルレーネの機嫌を取るように慌てて隣にやって来た。


 「今なら君にも読めるはずだ」


 「そう…」


 シャルレーネは思わず一冊を手に取る。


 「ドナ様は…イアン様と番になって幸せだったのかしら」


 「どうして?」


 「人間とドラゴンって…色々大変だったんじゃないかしら」


 「そりゃ、人間同士でも大変そうだからね」


 「…それもそうね」


 エデュランは、別の一冊に手を伸ばした。


 「この辺、中々の泥沼で面白いよ。側室を迎えようとするイアンとドナが大喧嘩して、二人でエラを頼って来たって」


 「この間も話していたわね。どうしてそのことで喧嘩を?」


 「そりゃ、ドラゴンは番うなら一体と一度しか番わない。正妃、側室なんて考えはないかならね」


 「そうなの?」


 「強いから、大勢と交尾して子孫を残す必要はない」


 「な、なるほどね…」


 そう言われると、なんだか人間が下等な生物と言われているような気がして、シャルレーネは眉を顰めた。


 「でも、イアンはドナとは違う女性…メリンダを側室に迎えいれた。いや、そうしなければならなかった」


 「…なぜ?」

  

 「メリンダは、この大地の先住民達の娘だったんだ。魔物と共存するために魔物と契り、生きて来た」


 「魔物と契る?」


 「うん。そうすれば魔物のもつ膨大な魔力を持った子どもが生まれる」


 「子どもって…ドラゴンじゃなくても、人の姿になれるの?」


 「なれる、なれる。何ならこの国の貴族の祖先はほぼ魔物じゃないかな?」


 「…はあ?」


 「だって、ドラゴンが王妃の国だよ。魔物が人間のふりして人間達を掌握しようとしたっておかしくないでしょう?」


 「…衝撃的な話。わたしの祖先が魔物かもしれないなんて…」


 「今だって、誰が人間のふりをしているか分からないよ。…僕みたいにね」


 そう言ってエデュランは微笑んだ。


 「メリンダ達の一族は、闇の魔法の使い手だった。でも、人間を魔王みたいに退治ってわけにはいかないでしょう?イアンはメリンダを側室にして平和的解決を図ろうとした」


 「なるほど…」


 「でも、ドナは許さなかった。密かにメリンダ達一族を葬った」


 「ほ、葬る?」

 

 「まあ…そこはドラゴンだからね。でも、エラはメリンダを助けて国外へ逃がした。闇の魔力がばれないように、自分の鱗をあげてね」


 「ウロコ?」


 「そう。僕等闇のドラゴンの鱗には、どんな魔法も無効化する力がある。そのせいで治癒魔法も効かないんだけど、再生術を持っているし鉄壁な攻撃・魔法に対する防御があるからね。人間に恋したり、葬ったり、あまりにもドナが我儘過ぎて呆れたってエラはいってたよ」

 

 「でも、もしメリンダさんに子供がいたら…本当なら王族になれるはずだったのね」


 「…そっか。そうだね」


 エデュランは、何かを考えるように手記を見つめていた。

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