9.
「さようなら、エデュラン」
そう言って涙を浮かべるシャルレーネの温かい手が右手に触れ、思わずその手を握った。
しかし、次の瞬間手の中に落ちてきた冷たいペンダントの感触に、エデュランははっとして手を引き抜いた。
ペンダントはかしゃりと音を立てて床へと落ちた。
「いらない…」
エデュランは、両手を隠すように背中に回すと首を振った。
「いらないよ!それは君にあげたんだ!」
あんなに喜んでくれたのに…!
思いがけず涙が込み上げてくるのをエデュランは堪えた。
「ばか!レーネのばーか!」
そう叫ぶとエデュランは走り出した。
城の前に用意してある馬車に飛び乗ると乱暴に扉を閉め、頭を掻きむしった。
「なにが…何が大好きだ!嘘つき、嘘つき!」
そう喚きながら、馬車の席に拳をぶつける。
「君なんて…君なんて僕がいなければ、僕が婚約破棄してしまえば王妃になんてなれないんだ!そしたら、そしたら…そしたら…どうなるのと思っているんだ!城には居られないんだぞ!そうなったら…!」
エデュランは、ふいにはっとした。
僕の前から…いなくなる?
心臓をぐっ掴まれたような鋭い痛みに息が出来なくなる。
「エデュラン様、もう準備が出来たのですね」
そう言って馬車の外からアルシオの声がした。
「…ああ」
「では出発する。ライ、外は頼んだ」
「はい」
アルシオが馬車に乗り込んでくると、ぎょっとした顔でエデュランを見た。
「おわっエデュラン様、髪ぼさぼさですよ。どうしたのですか」
アルシオはエデュランの隣に座ると、髪を整えてくれた。
「…なんでもない」
エデュランは、ぼそりと答えた。
馬車がゆっくりと走り出した。
いいんだ。
いなくなってせいせいする。
いつも…口うるさくて。
違う。
そんなこと一度もない。
ただ…静かに僕の隣で微笑んでいた。
僕のすることを咎めることもなく…時々静かに叱ってくれた。
大人…だった。
僕が勝手にキスをしても怒らなかった。
キスをした次の日、何事もなかったようにしている彼女に…腹が立って…僕も何もなかったふりをした。
本当は…近づく度にあの唇の柔らかな感触を思い出して…どきどきしていたのに。
そう。
ずっと彼女に恋をしていた。
子猫を抱えてどうしようもなく、泣くことしか出来なかった僕を強いと褒めてくれたあの時から。
シャルレーネは優しかった。
容姿や能力なんか関係なく、王様になれると励ましてくれた。
いつでも味方でいてくれる彼女が大好きだった。
姉上とは違う…傍にいると苦しいほどどきどきが止まらなくなる。
彼女の泣く姿を見て、僕が守ってみせると誓った。
でも…怖かった。
いつか彼女が大人の誰かに恋をしていなくなってしまうのではないかと。
『何もかもわたしのせいにして…はっきりジュリエッタが好きだと言えばいいじゃない』
シャルレーネの声が蘇る。
好きなんかじゃないよ。
運命だのと、訳の分からないことを。
君が…君がそうなら。
『大好きよ、エデュラン』
そう言って抱き締めて頬にキスしてくれた君が…。
『わたしの運命の相手は…きっとあなたじゃないかしら』
そう微笑む顔を思い出すと泣きたくなる。
『わたしだって、話を聞こうともしない自分勝手なあなたにはうんざりよ!』
本当にそうだ。
喚き散らして、追いかけて来る優越感に浸っていた。
僕以外を好きになるなんて絶対に許さない!
彼女をめちゃくちゃに傷つけて罰してやりたかった。
だから僕は…君のくれたリボンを投げつけて…。
『さようなら、エデュラン』
冷たいペンダントの感触を思い出す。
贈ったものを返されることがこんなに悲しいなんて…。
僕も同じ…いや同じじゃない。
もっと最低なことした。
泣いているシャルレーネの姿を思い出して、エデュランはぞっとした。
僕が彼女を泣かせた。
僕は…僕はなんてことを!
どうしよう。
このまま…レーネがいなくなったら。
どうしよう!
「アル…帰ろう」
茫然としながら、エデュランは言った。
「はい?」
「今すぐ帰ろう!」
「だめですよ、エデュラン様。セドリック様の代わりを立派に務めるのでしょう?」
「でも…でも…」
エデュランは浮かんでくる涙を堪えた。
「どうしよう、僕…レーネを泣かした。どうしよう…」
「まったく、エデュラン様は」
アルシオは息を吐いた。
「お茶会で婚約破棄を叫んだそうですね。…シャルレーネ様、お可哀そうに。オディール様の話も聞こうとしなかったと…」
「だって…だってだって!そもそもアルが悪いんだ!姉上といちゃいちゃするならどっか遠くでやってよ!」
「はっ?」
「裏庭の温室なんて…誰が来るか分からないだろう!そんなところで逢瀬なんて…」
「ちょ、ちょっと!エデュラン様!まずいですって!大きな声で…やめてぇ」
「アルが兄上になってくれてもいいから、レーネを取らないでよ!」
「取りませんって!何を言っているのですか、もう!」
アルシオに口を押えられ、エデュランはもがもがと口を閉じた。
「まさか…噂になっているなんて。あの時はちょっと思わず我を忘れて…」
「結婚してよ、姉上と。で、姉上が女王様。アルが王様。それでいいじゃない」
「エデュラン様。そんな単純な話ではないのは分かっているでしょう」
アルシオはそう言って深く息を吐いた。
「とにかく、明後日には戻れるのです。その時、シャルレーネ様と仲直りを。今は王の代役なのです。それをしっかり果たしてください」
エデュランは、一度口を尖らせたが諦めて息を吐いた。
「…はーい」
帰りたい。
早く会って君に謝りたい…レーネ。
今度こそ…ちゃんと好きって…伝えるから。
背中に強い衝撃を受ける。
胸をえぐり、突き出た鋭い剣の切っ先を思わず見つめる。
溢れ出る血を止めることは出来ない。
背中を乱暴に掴まれ、谷底へと落とされる。
暗い暗い闇の中へと…落ちていく。
僕は…。
僕は―。
エデュランは目を開いた。
そこは寝室のベッドの上だった。
ゆっくりと起き上がり、自分の手を見つめる。
「これ…夢だっけ」
外を見ると窓の外には湖が月の光を映して光っていた。
ベッド脇に置いたリボンにはっとして、それを手に取る。
その小さな金木犀の刺繍を撫で頬が綻ぶ。
「いや…これは現実か」
およそ四年の間眠っていた計算になる。
そして二年間、世界を彷徨っていた。
永遠のように長いようで、今思い出せば一瞬かのような時だった。
「…さてと」
そう呟くとエデュランはベッドから起き上がり、服を着がえてベッドを整えると寝室を出た。
シャルレーネの部屋の前で、思わず立ち止まる。
昨日まで一緒に眠っていた場所だ。
「六年…か」
思わず呟く。
「たった六年。でも…六年も過ぎたんだ」
思わず扉の取っ手に手を掛けると鍵は掛かっていなかった。
部屋の中を覗いて、はっとする。
魔石の灯るランプに照らされ、机に伏して眠っている寝間着姿のシャルレーネがいた。
机の上にはドレスの図に薔薇の刺繍を書き込んだ紙が何枚も散らばっている。
「レーネってば…仕事熱心過ぎるよ。刺繍の仕事、大好きなんだね」
エデュランは、シャルレーネに近づいた。
「レーネ、風邪をひくよ」
肩に手を掛けて優しく揺すると、シャルレーネは僅かに呻いたが目は覚まさなかった。
エデュランは、シャルレーネを起こさないようにゆっくりと抱き上げた。
くったりと自分にもたれ掛かる柔らかすぎる身体を、思わずじっと見つめる。
金色の長い睫毛の瞳に、そして少し開いた桃色の唇を見つめながら、湧き上がってくる唾を飲み込む。シャルレーネをベッドに横たわらせると、枕元に手をつき呼吸の度に上下する豊かな膨らみを眺めながら、寝間着の胸元のリボンに指を絡ませる。
人間になった瞬間、彼女を番に選んだ。
これで、永遠に彼女の傍にいられる。
それでも…それだけでは足りない。
エデュランは、ゆっくりとシャルレーネの身体に目線を滑らせる。
今なら魔法の力で、彼女を楽しませることが可能だ。
僕は最強のドラゴンになった。
最低最悪な魔物。
こんな僕を…きっと君は愛さない。
でも、愛さないとしても…快楽に溺れてしまえば。
求めずにはいられなくなれば。
シャルレーネの柔らかなお腹をゆっくりと撫でると、シャルレーネがわずかに呻くような声を漏らす。
この一番奥深くで…めちゃくちゃに混じり溶け合って、僕とのことしか考えられなくなってしまえば…。
エデュランはシャルレーネの唇に親指を這わせ、顔を近づけた。
「ノエ…くすぐったい」
そう言ってシャルレーネはエデュランの手を払った。
「…おいでー」
寝ぼけながら笑顔で両手を広げるシャルレーネに、エデュランは思わず目を見開いた。
「あ…」
「ノエ。…おいで」
「僕…ノエだし…いいか」
戸惑いながらも、シャルレーネの胸に体重を掛けないようにそろりと頭を置く。
するとシャルレーネが思いきりぎゅっとエデュランの頭を抱き締めた。
「う…」
柔らかすぎる感触に顔が埋まると、エデュランは思わず身体を縮めた。
思わず漏れてしまいそうになる情けない声を堪えてじっとしていると、シャルレーネの手が優しくエデュランの頭を撫で始めた。
「ノエ…いい子ね。大好きよ」
胸がぎゅっと締め付けられる感覚に、エデュランは思わず泣き出したくなる。
ああ…もう。
「僕も好き。大好き」
そう囁くとシャルレーネの背中に手を回し、その身体を優しく抱きしめ目を閉じた。
シャルレーネは変わっていない。
いや、昔よりももっと美しく、そして凛々しくなった。
でも、恥ずかしがって顔を真っ赤にされるともう可愛らしくてたまらない。
好きだと言う気持ちがどうしようもなくあふれてくる。
シャルレーネはノエを…ドラゴンになってしまった自分を受け入れてくれた。
いつもこうやって、宝物みたいに優しく…優しく触れてくれた。
そんな彼女に僕は…。
また自分のことばかりだ。
人間の頃から、自分勝手な最低最悪な奴だった。
僕は…変わらなくちゃ。
二度と君を泣かせないために。
シャルレーネは何度かエデュランの頭を撫で、次第にその手を止めて静かな寝息を立て始めた。
エデュランはゆっくりと身体を起こすと、シャルレーネの身体に掛け布を掛けた。
「己の感情のままに振舞えばすべてを失う…か」
思わず呟く。
「それはドラゴンも…人間もきっと変わらない」
僕は生れ変わった。
無くした記憶も取り戻した。
そして、君は僕に気がついてくれた。
それだけでいい。
そう…今は。
「愛してるよ、シャルレーネ。これからも…ずっと」
エデュランはシャルレーネの額に優しくキスをすると部屋を出た。
階下に降り、玄関から外へ出ると鍵を閉めた。
目覚めた時は、何も分からずもどかしい毎日だった。
でも、今はもう違う。
大きく身体を伸ばす。
「僕こそが本物のエデュランだ。…待っていろ、偽者」
そのまま走り出すと湖に向かって飛び出す。
その瞬間に身体の形を変え、真夜中の空へと飛び立った。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光で、シャルレーネは目を覚ました。
「…ノエ?」
思わずベッドを探ってはっとする。
そうだ。
ノエはエデュランになったのだ。
「…本当意味が分からない」
思わず呟く。
昨日はあまりにもいろいろなことがあってなかなか眠れなかったはずなのに。
「わたし…いつ寝たのかしら」
シャルレーネは、いつも大体朝の六時には目が覚める。アガモット家での召使いの生活で、それが習慣づけられていた。
机の上には昨日の晩書いた刺繍の図案の紙が綺麗に整えておいてあった。
いつもばらばらに床に散らばして眠ってしまうことが多いのに。
「昨日のわたしはおりこうだったのね」
シャルレーネは思い切り伸びをして、ベッドから降りた。身支度を終え寝室から出ると、ふと目の前の寝室を見つめエデュランを起こすか迷った。
「まだ、早いわよね」
そう呟き階下へ降りると簡単に掃除を済ませ、洗濯を纏めて家の裏の井戸まで運ぶと手早く洗って干した。そして、七時を回った頃に朝食作りに取り掛かった。焼いたパンに目玉焼きとベーコン、それにレタスとトマトを並べ、少し考えてエデュランの皿からトマトを自分の皿へと移した。
「これでよし」
シャルレーネはエプロンを外しながら二階へと登った。
「エデュラン、もう起きる?朝ごはんが出来たわ」
そう名を呼んでシャルレーネは扉を叩いたが、返事はなかった。
「エデュラン?」
寝室には鍵は掛かっておらずシャルレーネは扉を開き、目を見開いた。
そこには誰もいなかった。
掛け布が整えられたベッドは、誰かが眠っていた形成はない。
思わず手からエプロンが落ちる。
「エデュラン…」
名を呼んでも返事はない。
「嘘…嘘でしょう?」
シャルレーネは、思わずその場に座り込んでいた。
出て行ってしまったの?
こんなに急に?
それともすべてわたしの都合のいい夢…。
思いがけず目に涙が浮かんでくる。
その時、ふとエデュランの声が響いた。
『呼んだ?』
振り向いたが誰もいない。
「エデュラン?」
シャルレーネが辺りを見回していると、ふいにシャルレーネの影が大きく伸び始める。
茫然と影を見つめていると、ぼさぼさの頭のエデュランがそこからひょいっと飛び出して来た。
「ただいま…ってレーネ!どうしたの?こんなところに座って…泣いているの?」
エデュランは驚いた様子で茫然としたままのシャルレーネの前に腰を下ろした。
「どうしたの?なんか怖いことでもあった?」
頬にエデュランの指が触れるとシャルレーネははっとして、顔を背ける。
「…泣いていないわ」
シャルレーネは立ち上がった。
「そう?」
「何…今の…」
「え…影の空間を繋げて出て来たんだ」
「…なにそれ。いつでも出入りできるってこと?」
「まあね」
シャルレーネが思わずじろりと睨むと、エデュランが慌てた。
「よ、呼ばれた時しか使わないから。変態は勘弁して!」
「…どこに行っていたの?」
思わず咎めるような口調でシャルレーネは言った。
「ああ。調べて来たんだ、偽者について」
「偽者って…あなたの?」
「そう。どうしても…気になって」
「…真夜中に行く必要あるの?」
「あー」
エデュランは頭を掻いた。
「寝ててくれた方が、記憶を読みやすいから」
「記憶を読む?」
「そう、魔法でね」
「そんな魔法もあるの?」
「うん。その人の記憶を読めば、その人のすべてが分かる。…まあ、分かるんだけど」
エデュランは目を伏せた。
「そ、それでも…どこか行くなら、そう言って」
「あ…ごめん。つい…思い立って。でも、ノエの時だって散歩によく出かけてたでしょう?」
「わたしは…あなたが出て行ったのかと…」
「そんなわけないじゃないか!やっと君の傍に居られる…のに」
シャルレーネが睨むと、エデュランはしゅんとして言った。
「…ご、ごめんなさい」
シャルレーネは黙って部屋から出た。
「待って、レーネ」
シャルレーネが振り向くと、その首にしゃらりとエデュランは何かを掛けた。
それは、エデュランの月のペンダントだった。
「これ…持っていて」
「こ、これって」
「僕の大事なもの。…君が一番大事だよっていっても…信じられないでしょう?だから、これを君が持っていて」
「でも…これは」
「僕があげたの、きっと…どこかにやってしまったでしょ?」
エデュランは目を伏せた。
「あーあ、もう本当にさ。…どうしてあんなひどいことできたんだろう。最低だ…僕は最低だね」
「エデュラン…」
「そのうえ、心変わりか。記憶を失っていたとしても…君からしたら僕なんだ。それが偽者だとしても」
そう口にしたエデュランの目は、ひどく悲しそうだった。
「許せないよ、僕は…僕が。自分で何もかも壊したんだ」
シャルレーネは戸惑いながらも、エデュランのペンダントを握った。
壊れてない。
壊れてなんて…いない。
シャルレーネは黙って自分の寝室へ向かった。
「レーネ?」
引き出しを開くと、小さな布の袋からエデュランから貰った銀のペンダントを取り出した。
「それ…」
「わたしには…これがあるから。だから、あなたのペンダントはあなたが…」
エデュランは黙って銀のペンダントをシャルレーネの手の平から取った。
「交換」
「え?」
「君のと…交換。僕の、古臭くていや?」
「そんなことないわ!…本当にいいの?」
「うん」
エデュランは、シャルレーネのペンダントを首から下げた。
「へへへ、なんか交換って方が恋人っぽいしね」
そう口にしてエデュランは頬を赤く染めた。
「恋人だなんて…はははっ!」
そのはにかんだ笑みにシャルレーネは思わず微笑みを返した。
可愛いだなんて…口にしたらまた怒るだろうか。
「そっか、結婚より先に恋人にならないとね。ふふっ」
笑顔の止まらないエデュランは言った。
「大好きだよ、レーネ。大好きだ」
突然の言葉に、シャルレーネは戸惑った。
「そ、それは…どうも」
「ありがとう、僕との思い出を大事にしてくれて」
エデュランは、満面の笑みをシャルレーネへと向けた。
そう。
大事だった。
忘れていたなんて嘘。
だって…わたしは―。
シャルレーネは目を伏せた。
「…今君とこうしていられる。それだけで…いいのに」
ふいにエデュランがそう呟いた。
「え?なんて?」
「ううん。なんでも。あ、お土産があるんだ」
「お土産?」
エデュランは一階へ降りるとそのまま玄関から出ていった。
少しして大きな布の袋を抱えて戻って来た。
「君に呼ばれて道に置いてきちゃった」
「それ…どうしたの?」
「帰る途中にさ、この近くでおじいさんが倒れてて」
「ええっ!」
「腰を痛めて立ち上がれないって。それなのに、今日売りに出す野菜を市場まで運ばないとっていうから手伝ってきた」
エデュランがそう言いながら布袋を開くと、そこにはジャガイモやアスパラガスやキャベツなどがいくつも詰まっていた。
「これお礼だって。なんとお給料もくれたんだ」
そう言ってエデュランは銀貨五枚をポケットから取り出した。
「君に渡しておくよ」
「も、もう昨日貰った分で十分よ」
「そうなの?」
「あなたも自分で欲しいものがあるのなら、自分で買ったらいいわ」
「欲しいものか。…分かった」
そう言ってエデュランはお金をポケットへとしまった。
「おじいさんの腰は大丈夫なの?」
「うん。ついでに帰り際こそっと腰も治してあげたから」
「ま、まあ…良かった」
「朝ごはんの準備ありがとう。食べよう」
「ええ」
二人で食卓に座り、シャルレーネが目玉焼きをパンにのせて食べようとしていると、エデュランはじっとそれを見つめていた。
「な、なに?」
「ううん。それ、美味しそうだから僕もやってみようと思ってたんだ」
エデュランはそう言うと、シャルレーネと同じように目玉焼きをパンにのせた。
「半熟だから、垂れないように気を付けてね」
「分かった」
エデュランがパンに齧り付くのを見つめながら、シャルレーネはふとさっきの話を思い出した。
「ねえ。あなたに何があったか…思い出したの?」
「まあ…ぼちぼち」
エデュランは何でもないことのように言って、再びパンに齧り付いた。
「わわ…」
その瞬間、卵の黄身が潰れて出て来る。
「あーしまった」
シャルレーネがナプキンを渡すと、エデュランは少し恥ずかしそうに受け取った。
「昔みたいだね。綺麗に食べられないや…」
「綺麗じゃなくてもいいのよ。黄身を丸ごと口にいれてもいいし…」
そう言いながら、シャルレーネは卵を一口食べてわざと黄身を潰した。そして、皿に流れてしまった黄身に千切ったパンをつけて口に運ぶ。
「こうやってつけて食べても美味しいわ」
「なるほど…」
食べ続けるシャルレーネをエデュランが思いがけずじっと見つめて来るので、シャルレーネは食べる手を止めた。
「…み、見られていたら食べにくいのだけど…」
「ああ、いや。…なんかいいなあと思って」
シャルレーネは戸惑って目を伏せた。
「卵をかたく焼いた方がいいなら今度からは…」
「いや、とろとろの方が僕は好き」
そう言ってエデュランもパンに黄身をつけて食べ始めた。
食後の紅茶を飲みながら、エデュランがふいに言った。
「…偽者の正体が分からないんだ」
「え?」
「顔に変身魔法を使っている気配はない。それなのに、父上に似すぎている」
ノガルド王国の王城正門にも、変身魔法を見破るための魔道具の鏡が設置されている。そこを通過するだけで変身魔法は見破られてしまうのだ。
「記憶を探って、孤児だってことは分かった。顔は何かしらの治療を何度も受けているみたいだけど、本人は眠っていて内容は分からなくてさ」
「治療を行った相手は、城の治癒術師ではないの?」
「そうなんだ。みんな顔を隠してて記憶を探るだけじゃ分からなくて」
エデュランは深い溜息を吐いた。
「一番は、何のために僕のふりをしているのだよね。まあ今は贅沢三昧しているみたいだけど…」
「…やっぱり、誰だって王様になって裕福に暮らしたいと思うのかしら?それ以上に大変なことも多いのに…」
「姉上の王位を狙ってはいるみたいだ。本来は男の自分が継ぐべきだって主張しているし…」
「そんな…。でも、孤児であるのならかなり大きな後ろ盾があるってことね」
「うん。…それにしても、どうしてあんなに父上に似ているんだろうか。不思議だ」
「魔道具に細工してあるのかしら」
「魔道具に?」
「ルドラの技術を利用している…とか?」
「…なるほど、ルドラか」
「…ごめんなさい、適当なことしか言えないけれど」
「そんなことないよ。色々と整理出来たよ。さすがお嬢様」
そう大袈裟に頭を下げるエデュランに思わずむっとしながらシャルレーネは言った。
「あなたは王子様じゃない」
「ははは、元ね」
そう言ってエデュランは笑った。
「ねえ、魔法で記憶を読むって…簡単に出来ることなの?」
「いや…簡単ではないよ。眠っていてくれないと色々な記憶が邪魔して、必要な記憶を探れないんだ。偽者に関してはもっともっと昔のことまで探らないと…」
「どんな風にするの?」
「うーん、どうって…」
「わたしに試しにすることって出来るの?」
エデュランは目を見開いてシャルレーネを見つめた。
「…いいの?」
「いいわよ」
「知られたくないことってないの?」
「…特に今思いつかないけれど」
「じゃあ…こうしよう。アルとの記憶…調べていい?」
「…いいけれど、どうして?」
「ちょっと…ね」
エデュランは、手を伸ばすとシャルレーネの手に触れた。
一瞬目を閉じたと思うと金の瞳孔が煌めく瞳でシャルレーネを見つめた。
「…うぇ」
特に何か異変を感じることはなかったが、エデュランはシャルレーネの手を離した。
「…気持ち悪い」
「え?」
シャルレーネは戸惑って、エデュランを見つめた。
「ごめん、ごめん。君の事じゃないんだ。姉上とアルがいちゃついてる姿なんて…おえーだ」
シャルレーネは目を見開いた。
「エデュラン…何の話をしているの?」
「アルのことを探ったら、温室で二人がキスしてるのを見た記憶が出て来た。ああ、でも…ごめんね。人間になって君にいきなり…キスなんかして」
「…は」
エデュランは静かに目を伏せた。
「今の記憶…君すごく動揺してた。いきなりよく分からない僕からキスされて、きっと嫌だったよね」
「ちょっと待って、エデュラン。待って」
シャルレーネは一度深く息を吐いた。
「あの時のことはいいの。びっくりし過ぎてよく覚えていないから」
「それはそれでちょっと悲しいけど…初めてだったのに」
エデュランはそう言って唇を尖らせた。
「初めてじゃないでしょう」
思わずシャルレーネは口にしていた。
「あなたとキスしたのは二回目…」
唇を尖らせながら嬉しそうに微笑むエデュランを睨んで、シャルレーネは話を続けた。
「あの時の記憶をみたのね、六年前の」
「まあね」
「でも、すごいのね。記憶って本当に簡単に分かってしまうのね」
「…簡単ではないんだよ、本当に。…エラが色々と教えてくれたんだ。すんごく厳しくて色々な魔法を覚えるのにほんとーに!…苦労したんだ」
エデュランはそう強調した。
「そういえば、今のあなたは魔力を持っているのね」
「まあドラゴンだからね、そこそこあるよ。…でも良かった。君が本当にアルのこと好きじゃなくて」
「え?」
シャルレーネは戸惑った。
「どういうこと?そんな…気持ちとかも分かるの」
「分かるよ。さっきも言ったでしょう?動揺してたって。その時感じた気持ちとかも…」
「禁止」
「…へ?」
「記憶覗くことはこれから禁止します」
「どうしたの、急に…」
「だって…」
エデュランとの記憶を覗かれたら…。
「というか、やっぱりわたしのこと信じていないのね。好きじゃないって言ったわ」
「…仕方がないじゃない。子どもの僕は、大人のアルに嫉妬してたんだから。不安だったんだ、君が誰かに恋してしまうことが」
「そんなの…」
わたしだって…。
そう口にしそうになり、シャルレーネは堪えた。
「とにかく、朝ごはんを食べたらリリシュさんのお店に行きましょう。完成した刺繍の図案も見せたいし」
「そうだね。マーサなら…色々知っているはずだ」
そう言って、エデュランは目を伏せていた。




