File05・合宿所
その夜、俺は彼女と出会った日のことを思い起こした。
高校進学を控えた春休みのことだ。爺ちゃんが「入学祝いだ」なんて言って、俺を大規模なパーティに連れ出した。
爺ちゃんは偉い人たちとも繋がりのある弁護士だから、それはいわゆる社交界というやつだったのだろう。立食形式のパーティで、俺は挨拶をする爺ちゃんの傍らで不愛想なまま、ただ美味い飯をむさぼり食っていた。
両親と離れ離れになって半年あまりの頃で、俺はいかにも多情多感なガキだった。
ジュースの飲みすぎで何度もトイレに立ったのを覚えている。パーティは大きなホテルの宴会場で行われていて、手洗い場は二階にあった。
そうして一階と二階を何度か行き来しているうち、階段の踊り場で彼女に遭遇した。
やけに綺麗な女の子が座り込んで震えている。
俺は「具合でも悪いのかな?」と思い、その子をトイレまで案内することにした。
女の子は何だか凄く戸惑っていて、けれど素直に俺についてきて、最後には丁寧にお礼をしてくれた。
それから俺はその女の子のことが気になって、「あの子は誰?」と爺ちゃんに訊ねた。
すると爺ちゃんは俺をわざわざその子のもとに連れていって、自己紹介を促した。意外な展開に俺は狼狽えて、それでもどうにか名乗ってみせると、女の子は微かに笑った。
仲谷椛です。
そう名乗り返した彼女の顔を、その名を、どういうわけか俺はずっと忘れられずにいる。
*
翌日、俺は依頼人の山本鹿人と改めて話をすることにした。
本人の希望どおり、山本は今「合宿所」に寝泊りをしている。つまり俺たちの事務所の上にあるマンションの一室に過ごしている。
合宿所は「自殺」や「殺人」を考えるまでに思いつめた依頼人が入寮する場所だ。一時的な避難場所という意味では母子生活支援施設やギャンブル依存症者のクラブハウスにも似ているかもしれない。
事情は人それぞれだが、うちに来る依頼人のほとんどは「恋の依存から脱却したい」と真摯に願っている。恋の盲目状態にある人間もどこかではそんな自分を客観的に捉えているものなのだ。
そういった依頼人の背中を押して無益な恋愛感情から解放する。
それが俺たち「片想い成仏委員会・探偵事務局」の仕事である。
ただし依頼人のほとんどはその希望とは裏腹に、「ひょっとしたら相手はまだ自分を好いているかもしれない」なんていう淡い期待を併せ持っていた。
そしてそういう妄想は、とかく現実とかけ離れている。俺たちに相談するまでに拗れた片想いなら尚更だ。
物思いに耽りつつ合宿所の共用廊下を歩いていると、入寮者の一人が現れた。
「しんしん、来とったと?」
蛇川しずく。年上のセフレに恋をしてさんざん苦しみ抜いた女子大生の依頼人だ。
ギャル系ファッションを好むのでぱっと見は遊んでいそうだが、小柄で童顔、おまけにアニメ声なので印象はギャルというより幼女に近い。本人いわく、肩に入れられたトカゲのタトゥーがアイデンティティなのだとか。
「ああ、うちに会いに来たんやな。しんしん、うちンこと好いとーもんね」
しずくは上京して三年以上経つらしいが方言丸出しで喋る。地元に誇りを持っているので環境に合わせて話し言葉を矯正するのはプライドが許さない、とのことだ。
ちなみに「しんしん」というのは彼女が付けた俺のあだ名である。
俺は腕組みをしてフン、と鼻を鳴らしてみせた。
「はずれ。ついでに様子をみようと思ってはいたけどな」
「なんや違うん。ばってん心配してくれとったんごたーし、好きは好きやろ」
そう言ってにんまりと笑うしずくの顔を、しかし俺は注意深く観察する。
「……最近はどうだ?」
「……ん。落ち着いとーばい。……たまに夢に出てくるけん、それはきつかけど」
しずくはレベル5の依頼人であり、合宿所への入寮は俺から勧めた。
不遇の恋に悩んでガスと練炭で二回自殺未遂をしている。セフレだという想い人が絵に描いたようなクズ男で、恋心に付け込まれて金銭もかなり要求されていた。
俺からすればそんな奴に片想いを続けるなんてまったく理解できないのだが、恋愛心理の一つとしてお金と労力をつぎ込むほどその恋を諦めきれなくなる、というものがある。
頭では別れたほうがいいと分かっていても、「これまでの時間と労力が無駄になる」と考えてしまい、ずるずる関係を継続してしまうのだ。コンコルド効果といって、ホストクラブにハマる女性がその典型例だろう。
そんなわけでしずくは合宿所で優吏にカウンセリングを受けたり、太陽の指導で筋トレや運動なんかをしながら生活している。太陽いわく筋肉は肉体だけではなく精神も安定させるのだとか。
「一応クズ男の調査は継続してるけど、まだ報告が必要か?」
そう尋ねるとしずくはやや気まずそうにコクリと頷いた。
「うん、引き続きお願いします」
思わずため息が漏れてしまう。
「……ほんっと恋愛ってろくなもんじゃねぇ」
恋の執着というやつは本当に無益だ。
ところがしずくはへッと笑い、からかうように俺の顔を覗き込んだ。
「しんしん、女遊びくらいはしといたほうがよかよ。人生損してしまう」
どこか真剣な口ぶりに俺は思わずたじろいだ。
「女遊びなんて絶対にしない。する意味がない」
「アハッ、子供みたいで可愛い。そんなんでようこげん仕事が勤まるね」
「俺は性欲なんかに振り回されたくないんだよ」
「そげな煩悩も含めて人間やん。たまには従うてみたらよかとに」
「しずくだって誰でもいいってわけじゃないだろ?」
「どうやろうね~、うちって貞操観念とか、そげなん皆無やけん」
しずくは何が可笑しいのか、ずっとクスクス笑っている。
……子供扱いしやがって。
ムスッとして立ち去る俺に、しずくはさらにもうひと言。
「しんしん、はよう恋しなね。熱っついやつ。楽しかよ」
まったく、恋の毒抜き真っ最中のくせしてよく言うよ。