表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蚊らくり彼女  作者: ようへい
五章 世界の嘘つき
41/43

File04・感情

 立っていられなかった。力なく膝をつくと、雨に塗れた泥土がぐにゃりと沈んだ。

 その泥濘(ぬかるみ)を見下ろし、ただ雨に打たれていた。本能と理性がごちゃまぜに混濁して、何も考えることが出来なかった。


 そんな俺の前に──椛と入れ替わるように、ある人物が現れた。


「どうやら私の予想通りだったらしい」


 それは今、最も顔を見たくない男だった。


「子孫を残すという本能こそが上位──恋愛はそのきっかけに過ぎない。それが生物の本源だ」


 膝をついたまま視線だけを持ち上げる。黒く大きなこうもり傘の下、その男──流鏑馬志信は眼光鋭く、俺を見下ろしていた。

 政治家然としたこれまでとは印象が違う。スーツとネクタイを外し、銀縁眼鏡もしていない。オールバックだった髪も下ろされ、それだけでどこか野性味を感じさせるのは、その精悍な顔つきのせいだろうか。

 何より奇異なところが一つ──その腕には小さな赤子が抱かれていた。


「……赤ん坊?」


 流鏑馬は「ああ」と応じ、俺の前にしゃがみ込んだ。


「外に出すのはどうかと思ったが、きみにはどうしてもひと目見せたくてね」


 そう言って赤子を俺の方へと向ける。


「『新しい種』の子だ」


 心臓がドクリと脈打つ。新しい種──それは「進化を遂げた人」であると、椛は言っていた。

 その姿は取り立てて特別なところのない、普通の赤ん坊だった。ただその顔立ちが妙に整っていて、およそ幼児には似つかわしくない「美しい」という形容詞が思い浮かぶ。実体ではなく、加工された写真かイラストのような──そうした現実離れした美麗さがあった。


 赤子は柔らかそうなおくるみに巻かれ、スヤスヤ寝息を立てている。

 流鏑馬は言った。


「見た目には普通の赤ん坊だろう。しかし特別な子でね。ミルクではなく現代人の血液で育つんだ」


 俺は眉をひそめた。


「……嘘つけ」


 そんな不気味な子供がいるわけもない。だが流鏑馬はそれを一笑に付し、


「はは、信じられないのも無理はない。これでもなかなか大変でね」


 赤子をそっと抱き寄せながら言う。


「進化の過程にあるせいか、この子らは著しく生存率が低くてね。栄養不足でいとも簡単に死んでしまうんだ」

「栄養不足……」

「ああ。人間の血液、それも少し特殊な血液以外は栄養にならなくってね。母体も大変だよ、お腹の子のために大量の血液を経口摂取する必要がある」


 その言葉から一つの仮定に思い至り、頭の中がぐらりと揺れた。

 ふらつく体を立ち上がらせ、訊ねてみる。


「……まさか椛にも、その子供がいるのか?」


 流鏑馬は満足げに言った。


「そういうことだ」


 俺は言葉を失った。その事実に呆然としながら──どこかで納得もしていた。彼女を取り巻く出来事に、その不可解だった事象に。


 流鏑馬が言葉を継ぐ。


「ただ、新しい種を受精するのもなかなか難しくてね。彼女の場合はもう一度だけ(たね)を授かる必要がある」


 言いながらゆっくりと立ち上がる。


「まあ、そもそも別の種であるわけだから、いろいろと複雑になるのも仕方がない。実のところ『新しい種』の育成には失敗してばかりでね。今は確か……四歳が最高齢だったかな。その寿命を少しでも延ばすため継続的に研究をしている」


 それに俺はふと首を傾げた。


「そんな重要そうなことを俺に話していいのか。機密情報だったんじゃないのか」

「きみの場合は隠したところで今更だ。それにきみは少し、特別でもあるからね」


 そう言って流鏑馬は嘆息する。


「椛があれほどまでにきみを好いていたとはな。たかだか思春期の恋愛ごっこだと思っていたのだが。……とはいえ、進化種の繁栄は現人類の最優先課題だ。『新しい種』の子を授かるという栄誉を担いながら、現人類との恋愛に興じるとは……馬鹿馬鹿しいにも程がある」


 ──胃の底から負の感情がせり上がってくる。


「だったら、その進化種とやらのためだけに生きろっていうのか」


 ──大体、その進化とかいうやつは何なんだ。そんなもののために椛は犠牲になるというのか。


 流鏑馬は頷いて言う。


「そうだ。彼女は新しい人類の礎となる」


 言いながら赤子をそっと抱き寄せる。


「それに椛だけ許すわけにもいかないだろう。この子を産んだ女性も立派に役割を遂げた。椛もそんな女性の一人に過ぎない──『Culicidae-Humanoid』と呼ばれているのは彼女たち(・・・・)のことさ」


 その名称の表す意味がようやく分かった。

『新しい種』とやらの子を宿し、その育成のために血液を飲む女性たち──椛の言う、進化の「楔」を課せられた人々が、それだ。

 蚊──。昆虫の学名が冠されたその呼び名は、決して趣味のよいものではないと思った。


 流鏑馬が言葉を継ぐ。


「もっとも、恋愛をさせてやれないのには明確な理由がある。かつて『新しい種』を宿した女性が現人類と交わったことがあってね。……その後どうなったか想像がつくか?」


 言いながら目を細める。


「──女性は亡くなったよ。お腹の子もろともね。それも遺伝子の関係か……詳細を語れないくらい惨たらしい死に様だった」


 流鏑馬は腹をさすり、その手を宙へと払う。進化種の子を宿した腹に、現人類の遺伝子を入れるな。そんなジェスチャーをするかのように。


 俺は眩暈を覚えた。


「じゃあ、椛を異性から引き離していたのも……」

「そういうことだ。まあ、最も引き離したいのはきみだったがね」


 流鏑馬は静かに言う。


「だがね、私とて悪魔ではないし、椛だって人形ではない。当然人権はあるわけで、その願いを無視することはしない。だからあの時──きみに仲間を見捨てるほどの覚悟があったなら。……また違う展開も、あったのかもしれない」


 ──だから俺の仲間を捕らえ、あんな選択を迫ったというのか。

 優吏と太陽の命を代償にしてまで椛との未来を選ぶ──そんなことが俺に出来るはずもないと、そう分かっていて。


「大体違う展開も何も、『新しい種』とやらを宿した女性が現人類と結ばれたら死ぬんだろ」

「…………まあ、そういうことだ。だからきみに椛は渡せない。違う展開、というのはあくまでも例えさ。今更期待させるつもりもない」


 その時ふと赤子が目を覚ました。その頬を流鏑馬が優しく撫でる。


「椛に恋愛は不要だ。『新しい種』──その子のために生きて、その子のために死ぬ。すべては人が進化するためだ。理解してくれ」


 流鏑馬はぬけぬけと言った。

 やはりこの男はもとより椛を解放する気なんてなかった。人権はある、願いは無視しない。そう宣言しながら、結末は決めている。ただ手の平の上で踊らせてみただけ。

 言いようのない悔しさが込み上げる。何も出来ない自分がひどく恨めしかった。


「そんなあんただって、恋をしたことの一回や二回はあるんじゃないのか」


 ふとそんな言葉が口を衝いて出た。

 流鏑馬の眉が僅かに動いた気がした。一瞬の静寂があった。だが流鏑馬はじろりと俺を見据えると、口の端を吊り上げた。


「……もちろんあるよ。あるに決まっているさ、私だって現人類だからな」


 強い口調だが、その声は暗く沈んでいた。

 それからふっ、と小さく鼻を鳴らし、


「こんな私でもね、不安になることがある。正直に言えば、きみたちを見ていて久しく忘れていたその感情──恋愛というやつを思い出すこともあった」


 流鏑馬はくっくっ、と自嘲気味に笑う。


「情けないことにね、ときどき自分のしていることが本当に正しいのか分からなくなるんだ。だからこそだろう、きみの存在が目障りなのは。……我ながら、きみを試すような行為は少々悪趣味だったと反省しているよ」


 そう言って目を伏せ、赤子へと視線を落とす。


「……なんだか少し疲れてしまったな。今日きみが椛に会ったことは甚だ遺憾ではあるが、今更追及しようとも思わない。だから安心してくれて構わないよ」


 赤子は見えているのか分からない寝ぼけまなこを僅かに動かしている。


「だがね、今後も椛が誰かと結ばれることはない。そしてこれからも人の血を飲み続けていく。この子のように元気な赤子を産むために」


 ──血を飲まないと子供の命が絶たれる、だから飲むしかない。その女性たちは一体どんな思いで血液を口に含むのだろう。


 流鏑馬は小さく吐息した。


「……まあ、そんな椛だが少し強情なところもあってね、知人の血となると簡単には飲んでくれないんだ。さっきも言ったが、栄養のためにはやや特殊な血液が必要でね。きみのお仲間がそうだと分かった時には驚いた」


 優吏のことを言っているらしかった。


「ところがね、きみの血であれば飲んでみたいと、椛はそんなことも言っていた」

「──俺の血を?」

「ああ、確かにそう言っていた。どういう気持ちで言ったかまでは分からないが」


 それを聞いて不思議と悪い気はしなかった。

 もし、彼女が望むなら――


 ──その時、突如として雄叫びが上がった。

 こちらに駆け寄る人影がある。その姿に驚いた。山本鹿人──? その手にはナイフが握られている。

 刹那、赤い飛沫が迸った。

 見れば流鏑馬の肩口にナイフが突き立てられている。赤子を庇おうと自らの身体を盾にしたようだった。


「──先生!」


 今度は悲鳴のような声が上がり、声の主と思しき人物が駆けつけてきた。


「お怪我は!?」


 山吹幸子だった。

 護衛のため庭園に潜んでいたのだろうか──ひどく狼狽えるように髪を振り乱し、山本の前方に割って入ると流鏑馬の肩に取り縋った。

 こうも取り乱す山吹を見るのは初めてだ。青ざめたその顔が少女のように(いとけな)い。それはどこか恋する女性を彷彿とさせるものだった。


 流鏑馬は取りついた山吹の頭に手をやり、


「大丈夫だ。悪いがこの子を頼めるか」


 そう言って赤子を山吹へと預けた。

 それに伴い、山本がナイフを赤子の方へと差し向ける。今にもその先端を突き刺さんばかりの形相だ。

 俺はそんな山本の前へと進み出る。


「何をしている。山本さん、やめろ」


 すると山本は低い声で言った。


「あなた……やっぱりこいつらの味方なんですか」


 そうではない、と思いながらも口にはしない。どんな状況であれ赤子がナイフで刺されるのを黙って見過ごすことなどできない。


「おお悪いね、助かるよ」


 流鏑馬は呑気に言いながら、肩に受けた傷を確認している。

 山本はさらに声を低くした。


「小湊さん、あなたは何も分かっていない。その赤ん坊はバケモノです」


 すると流鏑馬がつかつか歩み寄り、ナイフを構える山本に躊躇なく手を伸ばした。怯まぬその態度に不意を突かれたのか、山本は微かに身じろぐだけで攻撃を仕掛けられない。その指が握られ、思い切りよく捩じられた。

 うぎゃあ、と悲鳴が上がりナイフが地面に落ちる。


「バケモノとは酷い言い草だな、山本くん」


 怒気を孕んだ声だった。

 流鏑馬はナイフを拾い上げ、その刃を山本の首筋へとあてがう。


「いつここに忍び込んだ?」


 腹の底まで響くような威厳ある低音の声音。

 山本が後ずさり、つるりと足を滑らせる。尻もちをつくと地面を這い、両手で俺の足に取り縋ってきた。


「聞いてください。あれは守られるような赤子じゃない」


 訴えかけるように言い、山吹の抱く赤子を指差す。


「あれは母体の命を奪うバケモノなんだ。若い女性の失踪事件をまとめたブログ──あったでしょう? あれはすべて、その赤子を生んだ女性たちのことです」


 そういえばと思い起こす。事務所に届いた問い合わせの一つにそんなブログのURLが記載されていた。あれは山本自身、または関連する誰かが送ってきたものかもしれない。

 山本は興奮するように言った。


「これで分かったでしょう、おかしいのは僕じゃない。あんな赤子のために多くの女性を犠牲にしているこの人たちだ。──あなたは僕の味方をするべきです!」


 抱きかかえられた足を引かれ、俺はその場に転んでしまった。

 山本はなおも止まらない。


「いいですか、その赤ん坊はバケモノです。胎児のうちは他人の血を栄養に育ち、外界に生まれる準備ができると今度は母体の血液まで吸収してしまう。そうしないと栄養が足りずに外界で生き長らえることができないそうです。そして、その事実をこの人たちは隠匿している」


 その顔が間近に近付く。


「小湊さん、母親はみんな死んでしまう。すべての血を抜かれ、誰に看取られることもなく──僕は彼女を、仲谷椛を、そんな運命から救ってあげなければ」


 俺は問うような視線を流鏑馬に投げかけた。イギリスに渡れば彼女の死は確定する──あれは、そういうことなのか。

 その問いを流鏑馬は否定しなかった。


「よくもまあ、そこまで調べあげたものだ。……まったく、やはりきみたちのような輩を放ってはおけないな」


 そう言って小さくため息を吐く。


「人には何故寿命があるか。それは進化するためであると、科学者たちも言っている。いいか、進化の過程において死というのは付き物だ。確かに残酷ではあるが、それは彼女たちも納得してのことだ」


 山本は立ち上がり「なにが犠牲だ」と息巻いた。

 そうして俺に向き直り、


「いいですか、小湊さん。その赤子には感情がない。赤ん坊だから物心がついていないとか、そういう話じゃない。こいつらの言う『新しい種』には感情という機能そのものが存在しない。だから母親が死んでも何も感じない。……そんなモノを『人』と呼べますか?」


 感情のない人間──?

 ふと、あのホテルでの流鏑馬のスピーチが脳裏に蘇った。


 ──人は過ちを繰り返す。それは動物にも劣る、汚点ともいうべき欠陥があるからに他ならない

 ──それは"感情"である


 そういうことか、と思った。

 流鏑馬の──彼らの考える「進化した人」とは、無駄な感情を排した存在のことなんだろう。そう考えれば流鏑馬のこれまでの言動にも合点がいく。

 一方、そんな人間が本当に存在しうるとも思えなかった。まったくリアリティを伴っていない。なのにこうも胸が痛むのは……自分自身が恋愛というその感情を、その過去を、否定してきたからだ──


 心臓の辺りがずきずき疼いて、俺はその場にうずくまった。

 その視界の傍ら、黒光りする革靴が泥土を踏みしめる。


「……例えば昆虫には余計な感情がない」


 流鏑馬はおもむろに言った。


「だが感情がなくとも命の価値は決して軽くはならない。むしろそれは生物の本来あるべき姿だ。人以外の動物にも喜怒哀楽はあるが、それも最低限でしかない。人も等しくそうあるべきだ。多くの感情は進化の過程で消えて然るべきだ」


 山本の言葉を念入りに拒絶するような、そうした物言いだった。

 俺は視線を持ち上げる。流鏑馬の肩越し──山吹が抱いた赤子の姿が目に映った。その姿はいたいけな乳児でしかない。ただ、赤子にしては不気味なほど静かだ。泣きもしなければ笑いもしない。


「生物において進化というのは重要な課題だ。蚊は一生に一度しか産卵できない。そのため身に危険が及ぼうとも血の採取に立ち向かう。そうして種を繁栄させるべく、ハイスペックな吸血機能を生み出した」


 流鏑馬はナイフの切っ先を山本に向け、「我々人類もそうあるべきだ」と言葉を継ぐ。


「今の情報構造に固執することはない。お前のような輩は多様化を認められていないだけだ。生物というのは元来進化する力を持つ。種の分岐のため、自らの遺伝情報を変化させられるものだ」


 そこまでを語り、俺の方へと視線を移した。


「……きみは椛の行く末を憂いているようだが、出産で命を失うからといって嘆くことはない。彼女たちは現人類でありながら進化種に近付くことのできる、唯一の存在なのだから」


 俺は彼女を思う。椛を絡め取ったあの青い糸──あれは彼女を操るからくりの糸なのかもしれない。

 顔を上げ、口にする。


「……それを人は、本当に望んでいるのか」


 流鏑馬は毅然と言う。


「人はもっと効率的であるべきだ。そのためには進化が必要だ」


 進化? 誰が何のためにそれを望んでいるのか。

 訳の分からない怒りが、じんじん音を立てている。


「感情まで失ったら、それはもう人とはいえない」


 流鏑馬が冷たい視線を俺に向ける。


「……おかしいな。これはきみの理念でもあったはずだが」


 淡々と静かに言葉が紡がれていく。


「不要な感情に踊らされ、不幸に飛び込むのは愚かだ。子孫繁栄のためのシステムに非効率な感情は要らない。脳の錯覚に人生を狂わされるなんて馬鹿馬鹿しい。……これはすべてきみ自身が語ったことだ。そんなきみがどうして私の主張を批判できる?」

「──そうじゃない!」


 俺は怒りを口にした。だがそれ以上言葉を繋げられない。強い憤りを覚えながら、自分が何に怒っているのかが判然としなかった。

 ふいに山本が声を発した。


「……小湊さん、あなたは中途半端だ」


 目をやると憐れむような視線が俺を見つめていた。


「仲谷椛を諦めろと僕に言いながら、あなたの方が固執している。赤ん坊を助けたかと思えば、その性質を批判している。言っていることとやっていることが支離滅裂ではありませんか」


 胸に苦いものが込み上げる。


 ──確かに俺は、中途半端だ。両親の過去を引きずり恋愛を否定しながら、彼女に恋をしていると気付いた。それなのに彼女に近付くことはせず、かといって忘れることもできないまま、今日という日を迎えた。

 そして彼女は、行ってしまった。

 俺はそれを、引き留めなかった。


 山本は言った。


「僕はあなたとは違う。仲谷椛が『新しい種』とかいうバケモノを宿し、それに影響され感情を失うくらいなら──自らの手で彼女を殺すことも厭わない。その方が結末としては遥かにいい」


 次の瞬間──俺は山本の胸倉に掴みかかっていた。同時にどこかで声が弾けた。それは自分自身の声に他ならなかった。

 許せなかった。彼女をどうにかしようとするすべてのモノが、許せなかった。

 それだけじゃない。青い炎が全身に広がり焼き尽くしていく。かつて経験したことのない激情が俺を乗っ取り、支配していく──


 ──許せない、許せない、許せない。

 俺の前からいなくなった両親も、好き勝手に言うクラスメイトたちも、恋に溺れ自らを傷つける依頼人たちも、進化とかわけ分からないことを言う国のお偉いさんも。みんな、みんな、みんな好き勝手ばかりだ。


 俺だってまだ子供なんだ。自慢の両親とまた一緒に暮らしたい。本当はみんなと同じように恋をしたい。親友と幼馴染の恋だって応援してあげたい。大体、進化とかそんなの知ったこっちゃない。

 俺はただ好きな子と一緒にいたい。一緒にいたかった。

 ただそれだけなのに──


 ──俺は姿勢を崩し、地面に倒れ込んだ。

 そのまま動くことが出来なかった。泥土に身体を埋めたまま、雨が降りしきる黒い空を見つめていた。はぁはぁと荒ぐ息だけが耳に響いていた。


 流鏑馬はそんな俺を憐れむような視線で見下ろしていた。

 やがて、


「……そろそろ行くとしよう」


 呟くように言い、山本に向けて顎をしゃくった。すると山吹が赤子を流鏑馬へと渡し、腰のベルトをスルリと外し、山本へと迫った。

 抵抗もあえなく頭部を打たれ、山本は軽々気を失った。山吹は何事もなかったかのようにその男の腕にベルトを括り付けていく。


 その時、着信音が鳴った。山吹がスマホを取り出し、耳に当てる。しばらくして流鏑馬に何やら耳打ちをした。それを受け、流鏑馬が何かを呟いた。

 ──椛が、と聞こえたような気がした。けれど雨音に搔き消され、何を言ったかまでは分からなかった。

 流鏑馬はちらりと俺を一瞥し、その口を開きかけた。だが何も言わずにくるりと背を向けると、そのまま皆を引き連れ、雨の靄の中へと消えていった。


 俺はたった一人、ぬかるみに身体を沈めていた。草花と雨の入り交じった匂いが辺りに立ち込め、むせかえるようだった。


 胸中に渦巻くうねりが、その匂いを一層強めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ