File03・約束の少女
すべてが失われたあの日──俺の中で、椛とのことは無いことになった。
愛情を描いた物語のハッピーエンドを語らい合ったあの日。そして皮肉にも、愛憎をきっかけに父が母を殺したあの日──
彼女と交わした約束の記憶は衝動的に抑圧され、彼女という存在はあぶくが弾けるように霧散して消えた。当時の記憶は今もなお曖昧で、途切れ途切れで、その記憶と感情を真っ直ぐに結びつけることはできない。
俺は他人に深く関わらないように生きてきた。人が触れ合いを求めていること、愛情を以って生きていること──そうした現実を忌避して生きてきた。
その現実を直視しようとすればするほど、波打つような息苦しさが俺を襲った。愛情に費やし、愛情に奪われた人生──そんな両親の無念が、自分の中に宿ってしまったのかもしれなかった。
忌々しかった。多くの人間が賛美するその感情が、呪わしかった。
けれど彼女は──それを希望にしていたという。
俺はきっと低劣な人間なんだ。普通は備わっているネジが外れてしまった人間。その出来損ないが、俺だ。
他人の情動に合わせ、適切な相槌を打つことだけは得意だった。そうすれば奇異な目で見られることもなく、自分が不完全であることを認識せずに済む。そうやって自分を守ることばかり考えていた。だから失われた過去を取り戻せずにいた。
──それでも彼女は、俺のことを待っていた。
その事実に、自分がやはり低劣な人間だと思い知らされる。
瀬崎に殴られるのも無理はない。自分、自分、自分。自分のことばかり──多くの人たちに支えられて生きてきたのに、そういう人々から目を背けることしかせず、自らを取り繕うことばかりに腐心して、恋愛というものを批判してきた。
そうして俺は忘れたままでいた。何もかもを置いてきぼりにして。
でも俺は、ようやく思い出すことができた。仲間たちのおかげで。山吹や瀬崎──敵対する人たちの手まで借りて、ようやく。
そして今、ある疑念が胸中に渦巻いている。
俺は今も──彼女を好いているのだろうか。こうして過去を取り戻した俺にとって、彼女は今、どんな存在なのだろう──
「待たせてごめん」
椛は図書室で待っていた。
本棚の前にいた彼女がこちらを振り向き、ゆっくり歩み寄ってくる。他に誰もいない。しんとした静寂の中、彼女の足音だけが響く。
我知らず、俺も彼女に歩み寄っていた。
「久しぶり」
椛はそう言うと顔を寄せ、俺の肩にピタリと額を乗せた。
その身体を、俺は静かに抱き寄せた。肌の温もりと柔らかさが妙にリアルだった。花の蜜のような甘い香りがした。初めて感じる、彼女の感触だった。
……そのままどれだけの時間が過ぎただろう。
じっくり何かを確かめ合うように、ただ互いに触れ合ったまま、時が止まったのではないかと錯覚してしまうような静寂だけがあった。
このまま世界は消えて無くなるんじゃないか──そんなふうに思った矢先のこと。
「いでっ!」
パァン、と風船が弾けるような音と共に頬に衝撃があった。平手で打たれたのだと気付くまで、数秒の時間を要した。
「……な、なんで?」
ヒリヒリした頬を押さえて抗議する。
すると椛はひと言。
「思い出すのが、遅い」
何も言い返せなかった。学校の廊下で再会してから今日この日まで──ああ、彼女は一体どんな気持ちでいたのだろう。
「……ごめん」
謝る以外なかった。
けれどそんな俺に対し、彼女は悪戯っぽく笑い、それから本棚を見上げ、一冊の童話を指差した。
「いいよ。ここでこの本を見つけて以来、今のあなたとも再会できるって、そう確信していたから」
その視線の先にはアンデルセン童話『雪の女王』がある。
「それに、モルガナイトも持っていてくれた」
いつかのパーティの日、階段の踊り場で拾ったもの。薄いピンク色の宝石──モルガナイトを飾ったイヤリング。
今思えば、彼女はそれをわざと落としていったのかもしれない。何故ならこれは別れのあの日に手渡した、「約束の石」なのだから。
「行こう」
そう言って彼女は俺の手を取った。そのまま図書室の出口へと向かう。
「どこへ?」
「イングリッシュガーデンへ」
俺たちは手を繋いで歩いた。
エントランスまで来ると、外はいつの間にか雨が降り始めていた。傘はないかと館内を探そうとすると、椛に手を引かれた。
「いいよ。行こう」
誘われるまま、雨の中へ──そうして庭園へと向かう道すがら、椛は今日までの日々を訥々と語り、それに俺は相槌を打った。
あれから仲谷家の養子になってね。
養子?
そう、すごく厳しくしつけされたんだよ。
ああ、今やお嬢様みたいだもんなぁ。
うん。……って、なんだか軽くない?
いや、すごいなって、褒めてるんだよ。
本当?
ほんと。たくさん我慢したんだな、偉いよ。
うん。……私、頑張ったでしょ?
こんな具合に、特別な想いを語るでもなく、他愛もないお喋りのように──淡々と会話は続いた。最後に彼女は微笑んで、「ずっと聞いてほしかったんだからね」と言い添えた。
そうして庭園にたどり着くと──彼女はくるりと向き直り、突然、改まるように言った。
「……心さま。いくつかお伝えしたいことがあります」
口調がもとに戻っていた。急になんだよ、とおちゃらけようとしたが、それは出来なかった。
彼女がひどく真剣な──それこそ残酷なほど真摯な眼差しで、俺を見つめていたからだ。
「ここは『新しい種』のために設立された学校です」
彼女は言った。その瞳が情動に揺れている。
「……新しい種?」
再会した彼女の、その突然の変貌に、俺は戸惑った。
ただ彼女は、何か大切なことを話そうとしている。その何かに応えるべく疑問を投げかけた。新しい種──それは流鏑馬も口にしていたフレーズだ。
彼女は頷いて言う。
「進化を遂げた人のことです。進化した人間──その新しい種へと繋げるためには、誰かが楔になる必要がある。それが──私の『役割』なのです」
雨に濡れた彼女の輪郭から雨雫がぽたぽた垂れている。
「母はその役割から私を救うため、あなたのお爺様を頼った。そうしてあなたと出会い、私は生まれて初めて──恋をした」
イングリッシュラベンダーが強い香りを漂わせている。
「あなたはずっと、私にとっての希望だった」
それから彼女は一歩後ろへと退がった。
「でも」
その表情に柔らかな笑みが浮かぶ。
「そんな私の物語もこれで終わり。素敵なハッピーエンドをありがとう」
終わり──?
その口から語られた言葉に、俺は身じろぎ一つ出来ない。サーッという雨音が静寂を満たしていた。
「……え……」
声にならない声を漏らした時、彼女の瞳がぽつり、と一粒の涙を落とした。
再び口を開く彼女──
「私は」
その瞳からたちまち涙が溢れ出す。
それはとめどなく、頬をはらはらと伝い、雨粒に紛れて地面に滴る。
「私は、心さまが好き──」
やがて彼女は声を上げて泣きじゃくりはじめた。
「……ううっ、うう……好きです、心さま。本当に、心の底から、あなたを……」
その場に屈み込み、しゃくりあげながら、か細い声を上げる。
俺はどうしたらいいか分からずに身を屈め、彼女の肩に手をやった。その小さな肩から何かを訴えかけるような震えが、とめどなく伝わってきた。
やがて彼女は全身をぴくりと震わせ、瞳をぼんやりと持ち上げた。
──その表情に、俺は目を瞠った。
彼女の口元に儚げな微笑が湛えられている。それはあの日、彼女が俺の血を見つけたあの時と、同じ表情だ。
彼女はくらり、と揺れるように立ち上がった。まるで糸に操られて可動する、からくり人形のように。
「……私は、変わらなければ」
そう呟き、一歩後ろへと下がる。
「お別れです、心さま。再会できて、本当によかった」
突然のことに俺は弱々しく首を振った。「待ってくれ」と、呟くように言う。
別れ、というフレーズが頭の中でじんじん響いていた。どうにか口を開き、言葉を発する。
「これでお別れなら、それが椛の結末だっていうなら……なんで、なんのために」
──なんのために、俺たちは再会した?
それは声にならなかった。しかし彼女は涙の痕が残る顔で、
「今日というハッピーエンドを迎えるために」
そう言って俺に手を差し伸べた。そこに表情はない。まるで彼女が彼女でないようだった。
その手を取り、立ち上がる。そうして俺たちは向き合った。
お互い足を一歩踏み出せば触れ合える、そんな距離なのに、途方もなく遠く感じられた。
「……物語には救いがあるものだろ?」
零れるように本心を口にする。俺は彼女を救うつもりでここに来た。それが二人の約束だったから。
すると無表情だった彼女が、にわかに表情を取り戻した。ふっ、と少女のような笑みを浮かべたのだ。
「だから言ったではありませんか。素敵なハッピーエンドをありがとう、って」
その言葉に反駁するように、俺はゆっくりと首を横に振る。
流鏑馬は言った。イギリスに渡れば彼女の死は確定的になる、と。だったら彼女の救いとは何だ。救いなど何一つとしてないじゃないか。
そんな思いを見透かしたかのように、彼女は言う。
「だって、あなたはもう私のことを忘れないでしょう」
呟くように言い、その目を伏せた。
「それは私が、この世界に生きたという証になる」
──それが救い。そう言いたいかのように、彼女は一層笑顔を深くする。
ぽつり、ぽつり。ぽた、ぽた。
庭園の植物が雨粒を弾き、地面に滴らせる。雨のとばりに囲まれ、俺と彼女だけが世界に取り残されている。
「心さま。──恋愛はお互いの存在を認め合うこと。そんなふうには思われませんか」
彼女は面映ゆそうに言った。その顔は俺の知る、いつもの椛だった。
ぽつり、ぽつり。ぽた、ぽた。
雨粒が跳ね、雨音が響き、彼女の言葉を彩っているかのようだった。俺は立ちすくんだ。彼女と向き合ったまま、一歩も動くことができなかった。
ふいに彼女の肩がぴくり、と揺れた。それに俺もどきり、と肩を揺らした。彼女が再び表情を失くしていたのだ。
彼女のこころは二つの何かを行き来しているかのようだった。
その一方を、彼女は無理矢理引き寄せようとしている。そしてもう一方を、無理矢理引き剥がそうとしている──
「私たち人は──進化しなければ」
ぞっとしたものが背中を伝った。彼女の瞳は冷たく、これまで見たこともない冷酷な色を宿している。まるで彼女の魂が、別の何かに入れ替わったかのようだ。
そんな彼女が言葉を継ぐ。
「私はあなたを、愛していた」
刹那、俺は奇妙な錯覚にとらわれた。
何が起きているのだろう──
彼女を縁取る輪郭線から青白い筋が浮かび上がる。
それは徐々に増え、やがて糸からくりのように彼女の全身を纏い、絡め取った。その光の筋が雨の夜に浮かび上がるように青く煌めき、そして広がり、彼女の背に幻想的な羽根を模った──その姿はアヤカシのような、人智を超えた美しさがあった。
けれどその表情にはもう、かつての椛の面影はなかった。
青い糸に操られるかのように、彼女の唇が、言葉を紡ぐ。
「でも――」
──その言葉を、俺は生涯忘れることができないだろう。
「この感情には、価値がありませんから」
パリン、と砕けるような音がした。こころの奥底で、何かが砕け散った。
茫漠とした視界の最中、彼女がくるりと背を向ける。
そして何も言わないまま、優雅に立ち去っていく──
夜の雨に薄れゆくその背中を、俺はただ見つめることしか出来なかった。




