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蚊らくり彼女  作者: ようへい
五章 世界の嘘つき
38/43

File01・追想

「岩崎椛といいます。今日からよろしくお願いします」


 その見知らぬ少女を爺ちゃんが連れてきたのは、俺が中学二年に進級した春のことだった。

 赤みがかった瞳が印象的で、最初は何だか怖いなと思った。少女は何やら憂愁を漂わせていて瞳は昏く、その赤色から「血」を連想してしまったのだ。


 弁護士を生業とする爺ちゃんの依頼人──つまりはお客さんの娘さんとのことで、とある事情から、しばらくうちで預かることにしたという。


 それは、母の不貞を父が知ったばかりのことだった。

 だから家庭の雰囲気は至極最悪で、少女の来訪はちょっとした新しい風だった。沈鬱な様子のその彼女はとても綺麗で、両親の不仲を憂いてばかりいた俺にとっても新風──要するに、その当時の俺は少なからずときめいていた。

 そんなふうに異性に過敏になるのも無理はない。なにせ、これから本格的な思春期を迎えるという年頃だったのだ。


 ところがその少女はとことん不愛想だった。

 我がままなお姫様みたいにツンケンしていて、仲良くなりたくとも会話すらまともにできない。思春期をスタートさせたばかりの俺は、「なんだよ、お高くとまりやがって」なんて心中毒づいていた。


 じゃあ、愛想もそっけもない彼女が(うち)でどんなふうに過ごしていたかというと、とにかく本を読んでばかりいた。

 彼女がどんな本を読んでいるのか気になった俺は、ある日こっそりと本を覗き見てみた。するとそれは、幼い子供に読み聞かせるような童話みたいなものだった。

 俺はにんまりした。お高くとまっているくせに読んでいる本は幼稚じゃないか、とそう思った。そしてそれを、彼女に伝えた。

 後から思えば幼稚なのは間違いなく俺の方である。彼女から相手にされずにいた俺は、悪態をついてでも彼女の興味をひきたかったのだ。


 ──結果、思いっ切り引っぱたかれた。さすがに叩かれるとは思いもよらず、俺は唖然とした。

 どうやら彼女は、自分ではなく本を馬鹿にされたことを怒っているようだった。それで俺は幼稚だと馬鹿にしていたその本に段々と興味が湧いた。


 ある夜、俺はその本をこっそり拝借した。一度読みだすと続きが気になって、そうして二巻、三巻と読み続けるうち、徐々にはまっていった。

 子供向けの絵本的なものかと思いきや、ストーリーがよく練られていて存外面白かったのだ。やがて毎晩のように本を拝借しては読みふけるようになった。


 それから二週間ほどが過ぎたある日──いつものように本を拝借しようと部屋に忍び込むと、いないはずの彼女が待ち構えていた。本がなくなっていることに気付いた彼女が、その犯人を取っ捕まえようとドアの裏に身を潜めていたのだ。

 また引っぱたかれる、と俺は慄いた。けれど彼女の反応は予想と違った。クスクス笑いだしたのだ。幼稚だなんだと馬鹿にしながら、その童話をこっそり読み漁っている俺が可笑しかったらしい。

 それは初めて見る彼女の笑顔だった──


 それから少しずつ打ち解けるようになって、いつしか一緒に本を読むようになっていった。

 お高くとまっていた彼女の態度も徐々に柔らかくなり、二人揃って大量の本に埋もれながら夢中になって本を読むこともあった。


 そうして彼女は少しずつ、自分の境遇についても話してくれるようになった。

 彼女の母親──爺ちゃんのお客さんだった人──が事件に巻き込まれ、亡くなってしまったこと。その事件には彼女のある「役割」が関係していて、彼女自身も誰かに監視されているらしいこと。うちに来たのはその監視を逃れるためであったこと──


 詳しい事情までは分からなかったけど、彼女がひどく苦しんでいることは分かった。

 俺は俺で両親のことに悩んでいたから、その苦しみを彼女に伝えるようにした。そうして互いの悩みを共有しあううち、いつしか慰め、励ましあうような関係になっていった。


 そうして日々は過ぎ──やがて、彼女がうちを出ていく日取りが決まった。

 一時的に預かっていただけなのだから、いつか出ていくことは分かっていた。けれど、いざその日が訪れるとなると、喪失感が俺を襲った。ジメジメした梅雨の季節で、雨がより陰鬱に感じられたのをよく覚えている。

 俺にとっていつしか彼女は──なくてはならない人になっていたのだった。


 一方、その頃は両親の不仲が表面上落ち着いてきて、また温かな家庭に戻れるんじゃないかと仄かな希望を抱いていた時期でもあった。俺は彼女という喪失を、その希望でどうにか補おうとしていた。

 とにもかくにも別れの日は刻々と近付き──その前日の夜のことだった。

 彼女は突然、おかしなことを口にした。


「私ね、人じゃなくなっちゃうかもしれないの」


 意味が分からずキョトンとする俺に対し、彼女は「最後に海に行きたい」と告げた。

 うちの近くには海があった。ただ水難事故の多い危険区域のため、関係者以外は立ち入り禁止にされていた。彼女が行きたい場所というのは、その立ち入り禁止区域のようだった。

 俺は彼女の要望に応えることにした。


 日付が変わる頃、こっそり家を出た俺たちは、海へと向かった。

 目的地の区域周辺には有刺鉄線を備えたフェンスが張ってある。けれど棘の付いたその針金はところどころ途切れていて、俺たちは首尾よくフェンスを乗り越えることができた。

 深夜帯のため人影はない。立ち入り禁止区域を悠々と歩き、海を間近にする。

 夜の海は不気味だけれど、その夜は少し違って見えた。夜空の月明かりが煌びやかに波頭を照らし、さざめく潮騒の音が夜風に乗って耳へと届く。

 それがなんとも心地よく、彼女も喜びの声を上げた。

 けれどそれも束の間──彼女はしおれる花のように、段々と表情を沈ませていった。


 彼女は自身の行く末に希望を抱けずにいるようだった。

 まだ子供と言っていい年頃なのに、よく分からない「役割」を背負わされ、それを支えてくれる家族もいない。たった一人、その役割とやらを果たしに行く──実際に何をするのか、されるのか、俺には想像もつかなかった。けれどその運命が、ひどく残酷なことのように感じられた。


 いつしか厚い雲が月を覆い、夜は一層暗くなっていた。やがてポツポツ雨が降り始める。

 帰ろうと思って腰を上げるも、彼女は雨に打たれたまま、目の前の海を見つめている。雨足がにわかに強まるも立ち上がろうとしない。その姿に俺も覚悟を決め、濡れてしまった地面へと座りなおした。

 彼女は何も喋ろうとしなかった。雨に濡れていくその横顔に、俺はふと『雪の女王』という童話を思い起こした。長編のアンデルセン童話で、純真な愛情が描かれた物語だ。

 ──俺は彼女に出会い、物語を好きになった。

 本を読んでいると幸せな気持ちになれる。後味の悪い結末もあるけれど、その多くはハッピーエンドで、そうでなくとも何かしらの救いはあって、ただの絶望で終わることはほとんどない。


 だったら──彼女の物語もハッピーエンドにすればいい。


 俺はふと、そんなことを思った。子供じみた発想かもしれないと思いながらも、俺はその考えを素直に彼女へと伝えてみた。

 すると彼女は、そうだね、と笑ってくれた。

 ずぶ濡れのその笑顔に、俺は何やら闘志が湧いてくるようだった。俺の力で、この手で、彼女をハッピーエンドにしてやろう、とそんなふうに思った。調子に乗った俺は、そのことも彼女に伝えた。すると彼女は言った。


「分かった。約束だよ」


 やがて通り雨は過ぎて、夜が終わりを迎える。結局俺たちは、ずっとその場にいた。

 水平線に朝陽が浮かびあがると、彼女は小さく、囁くように言った。──もう、お迎えが来ちゃう。

 もう家に戻るつもりはないらしく、荷物も持たずその身一つで向かうと彼女は言う。


 いよいよお別れだ。

 俺はポケットに手を突っ込んだ。そうして取り出したのは、薄いピンク色の宝石を飾ったイヤリングだ。最後に何か贈り物ができないかと思い用意したものだ。数年前、「好きな子が出来たらプレゼントしなさい」と母から貰ったものだった。

 彼女は受け取ったイヤリングを握りしめると、泣き笑いの表情で言った。


「私ね、あなたとの約束、絶対に忘れない」


 ──俺は彼女を見送った。そして一人、家へと戻っていった。

 あまりの寂しさに胸が張り裂けそうだった。同時に不思議な高揚感を覚えてもいた。またすぐ彼女に再会できる──何故かそう確信していたからだ。

 ところが家にたどり着いた俺は、彼女との何もかもを忘れてしまうことになる──その場で目にした光景のせいで。その場で起きた出来事のせいで。


 父が母を殺したのは、その日のことだった。

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