表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蚊らくり彼女  作者: ようへい
四章 片想う
37/43

File12・選択肢

 扉の先は思ったより広い部屋になっていた。

 室内は煌々とした照明に照らされて明るく、暗い通路を歩いてきた俺は眩しさに目を細め──そして、声を張り上げた。


「優吏!」


 ずっと捜していた幼馴染の姿がそこにあった。

 室内は中央をガラス張りの仕切り壁が隔てていて、その向こう側、優吏は大きなベッドの上に座らされていた。その周囲に小さなキャリーベッドのようなものが幾つも並べられている。病院の新生児室のような部屋だった。

 

「……心」


 自分の名を呼ぶその声が、随分久しぶりに感じられた。


「優吏、大丈夫なのか? 怪我はしてないか?」


 間仕切りのガラス部分にへばりつき、その様子を窺う。

 見る限り怪我はなさそうだが顔色が明らかによくない。表情も弱々しく、やや衰弱しているように見えた。


「あんた、優吏に何をした?」


 振り返りざま言う。

 それに流鏑馬はため息を返した。


「何もしていないよ、人を暴漢みたいに言わないでほしいな。丁重に扱っていたのだが、あまりに勝手をするのでね。拘束だけさせてもらっている。……そうしたら食事を拒むようになってしまってね、ほとほと困り果てているんだ」


 俺は前に向き直り、優吏に声をかけた。


「本当に何もされてないのか?」


 優吏は一瞬戸惑うような表情を浮かべ、それからこくりと頷いてみせた。

 それを見て取ってか、流鏑馬が付け足すように言う。


「いや、何もしていないというのは少し語弊があったな」


 すると優吏が弾けるように顔を上げ、


「ちょっと、それは言わない約束でしょ!」


 と声を荒げた。

 流鏑馬はそれを無視して言葉を続ける。


「私たちのもとにいる間、少しばかり献血に協力してもらったよ」


 俺は訝しげに首を曲げた。


「……献血?」

「ああ。もちろん無理のない範囲でね。まあ宿賃代わりのようなものさ」


 ……捕らわれている間、優吏は血を採られていた?

 改めて室内を見渡せば、採血機らしきものがところどころに目につく。俺はふと、山本のことを思い出した。全身に血糊をべったりと付けたその姿──山本はどこからか逃げ出した様子で、「この血は自分のものだが怪我はしていない」という趣旨のことを話していた。

 もしかすると山本もここで血を採られていて、脱出してあのフロアに身を潜めていた──? あの血糊はその最中に零れた血液だったのではないか。そうだとして、ここで採血をしているのは一体何のためだ?


 疑問を投げかけるように優吏に視線を向ける。優吏は何故か、きまり悪そうに顔を背けた。

 流鏑馬が口を開く。


「さて探偵くん。きみをここに連れてきたのは他でもない、ちょっとした選択をしてもらいたくてね」


 その発言が合図であったかのように、優吏の背後にあるドアが開いた。その奥側に隣室があったらしく、白衣を纏った男性が姿を現した。

 続けてやけに図体の大きい傭兵らしき黒人が一人。さらにはその黒人に引き連れられ、もう一人の男性──太陽が部屋に入ってきた。


「……太陽!?」


 その手には手錠が掛けられている。


「アハハ……ごめんよ心、ヘマしちゃった」


 そう言ってへらへら笑う太陽。泣いて現れるより幾分マシだが、笑っている場合ではないと思う。

 俺は流鏑馬に向き直り、事の真意を問いかけた。


「それで俺に何をさせたいんだ? 選択とか言ってたけど……まさかどちらを助けるか選べ、なんて言うんじゃないよな」


 半ば冗談のつもりだったが、流鏑馬の返答は何ら否定を含まないものだった。


「いいや、二人とも助けてやれる。ただしある条件とトレードだがね」


 俺はギョッとする。

 条件次第では二人は助からない、と流鏑馬は暗に言っているのだ。


「……ある条件って?」


 蝙蝠のようなその男はおもむろに顎髭を弄りながら、


「この二人の命か、仲谷椛の命か。どちらかを選択してもらいたい」


 平坦な口調で言った。

 ……何を言っているのか、まるで理解が追い付かない。


「意味が分からない。命を選ぶって……そもそも仲谷はあんたらの仲間だろ? その仲谷の命と交換って、どういうことだ? いや、ていうかどちらかを選べって──まさか選ばれなかった方は殺すって、そう言ってるのか?」

「──ああ。心配しなくともちゃんと苦しまない方法を用意してある」


 その言葉に呼応するように、優吏の傍らに立つ白衣の男が懐から注射器を取り出してみせた。


「具体的にはパンクロニウムという筋弛緩剤を使う。麻酔薬と併用すれば一切の苦しみがない安楽死が可能だ」

「………………は? 冗談だろ?」


 あまりの展開に気が狂いそうだった。

 しかし流鏑馬は顔色一つ変えずに淡々と説明を加える。


「私はいたって真面目だよ。さて、椛の方だが、彼女はすぐ死ぬわけではない。だが明日、私と一緒にイギリスに渡ればその死が確定的となる、とだけ言っておこう」

「…………どういう意味だ?」

「悪いが話すわけにはいかない。彼女が『役割』を果たすには命が必要ということさ。……ただ仮に、それを引き留める権利が誰かにあるとすれば、それはきみだけだと、私は考えている」


 仲谷椛の死が確定する……?

 それが彼女の『役割』……?

 それを引き留める権利……?


 何もかも理解できない。俺は悄然と首を横に振るしかない。

 流鏑馬が言葉を継ぐ。


「きみが今後、椛に関わらないと誓うなら──この二人はお返ししよう。逆にまだ彼女に会うつもりでいるのなら、お仲間にはここで今、死んでもらう。私と椛の出発は今晩だ。時間がないからこの場ですぐに選択しなさい」

「……いやいや……意味不明だって。優吏たちがなんで殺されなくちゃいけないんだよ」


 俺は絞り出すように言った。あまりに滅茶苦茶だ。

 すると流鏑馬は視線を優吏へと移し、深々とため息を吐いてみせた。


「この子は想像以上にタフな子でね。正直いって参ったよ。我々の監視下にいながら端末を盗んで機密情報に不正アクセス。しかも私のパソコンにキーロガーまで仕込んでいてね、パスワードなどの各種情報まで盗んでしまったんだ」


 それに優吏がふんと鼻を鳴らす。


「情報だらけの場所で私を飼いならそうとする方が悪いのよ」


 流鏑馬が苦笑する。


「それなりのセキュリティだったはずなんだが。……まさか、たった一人の女子高生にしてやられるとはね」

「直接触ることが出来れば何とでもなる」


 得意げに言う優吏に、流鏑馬はやれやれと肩を竦めてみせる。


「まったく……きみたちを少し舐めていたことは認めなければならないな。ともあれ、国家機密といえるほどの情報だ。そんな機密情報を盗みだしたのだから、始末されても仕方がないと思わないか?」


 俺は優吏に視線を向ける。


「優吏お前、まさか……わざと捕まったのか?」


 すると優吏は、この期に及んでニヤリと笑った。

 肯定と取れるその態度に、俺は辟易とする。


 ……今になって思えば。

 俺たちをしずくの慰労会に行かせたのは、このためだったのかもしれない。仲谷家に潜り込むという強引な調査──わざと捕まり、内側から情報を掴むという強行策に出るために。そんなことをすれば俺が止めることを分かっていて──。

 おそらくは慰労会で通話をしたあの時、既に行動を起こしていたのだろう。


 ふいに月麦が不安そうな声を上げた。


「ね、ねえ志信ちゃん、死んでもらうってなに……?」


 笑顔を作ろうとして作れない、そんな表情だった。


「嘘だよね? 優吏ちゃんを殺したりなんかしないよね?」


 それに流鏑馬は腕組みしたまま、


「そうだな、簡単に人の命を搾取したりはしない。……だがね、私にも守るべき信念というものがある」


 そう言って視線を俺へと移す。


「さあ、どちらか選べ。きみが椛に会いたいというなら止めはしない。その代わり仲間は殺す。仲間を助けたいなら、椛にはもう関わらないと誓え」


 混乱しながらも、俺は最後の疑問をぶつけることにした。


「……俺にそんなことをさせるメリットは?」


 俺を椛に関わらせたくないだけならこんな回りくどいことをする必要はない。

 すると流鏑馬はその質問を予測していたのか、間を置くことなく返答した。


「椛のためさ」


 ひどく冷淡な声だった。


「あの子はどうにもきみへの未練を断ち切れないみたいでね。だから……きみの方から結論を出してもらおうと思ったんだ」


 そう言って嘲笑的な笑みを浮かべる。


「それに……私自身も試してみたいのさ。己の判断が正しかったかどうか。……例えこんな茶番劇であってもね」


 意味が分からない。何も言えず、俺はただ首を横に振るしかない。

 なんだこの状況は。俺は何をやらされているんだ。見世物になるためにここに来たのか。分からない。一体何をどうすればいいんだ──


「──さっさと行きなさいよ、うすらとんかち!」


 その時ふいに優吏が声を上げた。


「こんな奴らの言いなりになったら私があんたを殺す」


 俺はゆらゆらと不安定な視界を優吏の方へと移動させる。……言いなりもなにも、こいつらは優吏を殺すと言っている。

 言葉にならないそんな声が、優吏には伝わったようだった。


「私が今回の調査に躍起になった理由、あんたに分かる? 仲谷椛が──あの時の、あの娘だって気が付いたからよ。……最初は分からなかった。何度か目にしただけで話したことなんてなかったし、名前だって知らなかったから。でもね、すぐに気付いた。この依頼を受けてから、あんたの様子が明らかにおかしかったから」


 その物言いに力がこもる。


「ねえ心、抑圧された記憶って知ってる? 人は生きる妨げになるような記憶を意図的に忘れることができる。そういう脳の機能がある。あんたの場合はまさにそれ。お母さんの死をきっかけに、その過去を無意識へと押し込んだ。あんたは自分の過去を否定したの。……その時、あんたの時間は止まってしまった。その止まった時間の中に、あの娘──仲谷椛もいた」


 優吏はそこまでを言い切り、悲しげに俯く。


「……でも、思い出したんでしょ?」


 再び顔を上げると表情を和らげ、言葉を継いだ。


「だったら、あんたの片想いは私が終わらせてあげなくちゃ。これでも『片想い成仏委員会』の一員だから」


 体がぶる、と震えた。優吏はすべてを分かっていた、すべてを知っていた──

 俺は震える声で、やっとの思いで、言葉を紡いだ。


「俺さ、椛に会いたいって……会わなくちゃって思ってる。でも、こいつらは俺が椛に会えば、お前たちを殺すって言ってる。くだらないとは思うけど、でも、単なる脅しじゃないことも分かる」


 それに対する優吏の返答は早かった。


「いいえ、そんなことにはならない。ねっ、太陽」


 その刹那──身をひるがえした太陽が白衣の男の首元に手刀を一発、ふいを突かれて怒声を上げる黒人傭兵の鳩尾に蹴りを一発、二発、三発──

 やがて倒れ込んだ二人の男を見下ろし、太陽は自由になった手首をプラプラさせた。


「手錠ってね、親指の関節を外すと抜けるんだよ」


 手錠が床に落とされガシャンと音を立てる。俺は唖然とした。

 流鏑馬も驚いたようだったが、すぐに平静を取り戻したらしく、


「……念のために言っておくが状況は変わらないよ。小湊心が椛に会うなら、きみらは死ぬ。例え今日、この場を逃れたところで変わらない。世界の果てまで追いかけてでも始末する」


 無表情、そして淡々と言った。


「志信ちゃん……!?」


 月麦が悲鳴のような声を上げた。反発するように流鏑馬のスーツに掴み掛かる。

 そんな姪っ子をたしなめるように、流鏑馬は月麦の頬へと手を添える。その頬には涙が伝っているようだった。


「……断言する。あんたは私たちを殺せない」


 再び声を上げたのは優吏だった。

 まだ言うか、とばかりに呆れ笑いを浮かべる流鏑馬を真っ直ぐに見据え、言葉を継ぐ。


「私が手に入れた情報……『Culicidae-Humanoid』、だっけ? そのデータ、あっちこっちのSNSに予約投稿しておいたから」


 流鏑馬の体がピクリと揺れた。

 それを目にした優吏はニヤリとほくそ笑み、


「私が開発したアプリを使って、私にしか投稿を解除できないようにしてある。つまり、私を殺せばすべての情報が世界に拡散される」


 毅然と言って流鏑馬を睨み付ける。


「……分かる? 私を殺しても、心の邪魔をしても、国家機密とやらを世界中にぶちまけることになるって言ってんの!」


 流鏑馬の顔色が初めて変わった。


「……参ったな、いつの間にそんな準備をしていた? 本当にタフな子だな……」

「手札は最後まで取っておくものよ」


 それから俺を見やって、優吏は言う。


「ほら心、分かったらさっさと行って。あの娘──仲谷椛は今、学校にいる」


 太陽を見れば、やれやれという笑顔で頷いている。

 ──次の瞬間、俺は部屋を飛び出していた。

 流鏑馬の舌打ち、その脇の外国人傭兵の怒声、俺を呼ぶ月麦の声──それらが飛び交うのを耳にしながら、俺は通路をひた走った。


 ……俺の仲間は、変だ。

 依頼人の山本が行方をくらまして以降、本来事務所としては調査を続けなくともよかった。少なくとも仲谷椛という人物にこだわる必要はなかった。

 それでも優吏がこの案件に執着したのは、行き過ぎた責任感のせいだと思っていた。けれど優吏は、両親を失った過去から止まってしまった俺の時間を動かすために、そのためにこだわり続けていた。


 幼馴染の優吏は昔の俺を知っている。

 過去、一人の少女が俺の家で暮らしていたことを知っている。

 どのタイミングかは分からないけど、その少女が仲谷椛であることに気付いたあいつは、それを俺に思い出させようとした。それをきっかけに俺の──止まったままの過去を、もう一度動かそうとした。

 今思えば慰労会やその宿泊先の情報も、優吏がわざと山吹に流したのかもしれない。仲谷椛と俺を鉢合わせるために。あいつのことだから太陽にもサポートをお願いしただろう。


 つまり、何も分かっていないのは俺だけだったのだ。

 ……あいつら、どれだけお人好しなんだ、本当に。


 エレベーターの前にたどり着き、呼び出しボタンを押す。しかし反応がなかった。左右を見渡すとエレベーターから向かって右にさらに細い通路が伸びていた。

 俺は、どこに続くかも分からないその通路をひた走った。


 今さら恋がどうの、愛がどうのと言うつもりはない。そういう感情がプラスの力を発揮するとも思えない。恋愛を、片想いを肯定するつもりなんてない。

 でも俺は今、仲谷椛に会わないと必ず後悔すると、本能的に確信している。


 薄暗い通路は程なく途切れ、行き止まりに梯子が掛けられていた。梯子の先を見上げると避難ハッチのような蓋がある。

 勢い俺は梯子を上り、そのハッチから顔を出した。

 それはホテルの駐車場らしき場所に繋がっていた。俺はハッチから飛び出し、辺りの状況を確認した。舗装された地面に白線が引かれ、さまざまな車が止められている。かなり広くてすべては見渡せず、屋根もあるため位置も階層も判然としない。


 とにかく出口を探そうと駆け出した時、聞き覚えのある声が俺を呼び止めた。


「しんしん、こっち! 早う!」


 揺れる視界に、赤の軽ワゴンの前で手を振る女性の姿が映る。


「──しずく!? 帰ってなかったのか!?」


 駐車場で待機してくれと頼んだのは昨日の昼過ぎ。となると一晩中ここで待っていたことになる。

 俺はしずくの元へと駆け寄った。


「……ずっと待ってるなんて思わなかった」

「見損なわんで。誰も助けとらんのに、一人で帰るわけなかろうが」


 甲高い声で言って、少女のように笑う。


「行くんやろ、乗って」


 まるですべてを知っているかのように、しずくは言った。

 そうして助手席のドアが開けられた時――


「残念だね、その車はパンクさせてある」


 背後から鋭い男の声がした。振り返ると流鏑馬の姿があった。

 それに驚く間もなく、続いて「きゃあ」としずくの悲鳴がこだまする。見れば外国人傭兵に羽交い絞めにされていた。


「どうやって追いついた」


 睨みつけて言う。流鏑馬はその視線をいなすよう首を傾け、薄く笑みをこぼした。


「このホテルには幾つか抜け道があってね。悪いが待ち伏せさせてもらった」

「……優吏と太陽はどうした?」

「何もしていないから安心したまえ。……まったく、かなり手を焼かされたが」


 流鏑馬は嘆息混じりに言う。二人伴っていた外国人傭兵が今は一人。もう一人が太陽とやりあっているのかもしれない。


「さて、条件がかなり変わってしまった。こうなるともう椛には会わせられない。観念してもらおうか。さっきも言ったがその車は動かない」


 そう言って流鏑馬は肩を竦めた。

 背後では口を塞がれたしずくが、う~う~呻き声を上げている。……これはもう、どうにもならなそうだ。俺はふう、とため息を吐いた。


「ああ分かった、もう分かったから……しずくを離してやってくれ」

「ほう、椛のことは諦めてくれるんだね?」

「……ああ。もうこれ以上、仲間を危険な目に合わせたくない」


 もともとそのつもりだった。

 もういい、運命に従わなくてはならない時だってある。俺は両親のことでそれを学んだ。もう、あんなしんどい思いはしたくない──


 ――もういいや


 そう呟いた瞬間──男の絶叫が轟いた。

 振り向けば、しずくがありたっけの歯力で外国人傭兵の腕に噛みついている。堪らずしずくを引き離した外人の股間に、今度は渾身の蹴りが炸裂した。さっきの数倍悲痛な叫びが上がった。

 呆然とする俺をよそに、しずくは続けざまに流鏑馬へと飛び掛かる。


「しんしん、うちはな、後悔しとらん!」


 しずくが叫ぶ。流鏑馬がその体を引きはがそうと全身を捩った。


「……うちは必死に! 恋をしとった!」


 しずくは流鏑馬の腰に取り縋り、決して離れようとしなかった。


「傷ついたっていい! そういうもんやから! だから、あんたも――」


 必死の形相で、それでもしずくはニコリと笑って、言った。


「──だからあんたも、行ってこい!」


 その言葉に、俺は衝動のまま駆け出した。

 椛に会いたいと願う。伝えたいことがある。

 そのために仲間たちがサポートしてくれている。こんな俺のために必死に伝えてくれている。

 記憶を取り戻した俺は、全力で走る――しかし次の瞬間、眼前には地面が迫っていた。


「きみは椛を……彼女たち(・・・・)を甘く見すぎている」


 意識が朦朧とする中、声の主を見上げる。流鏑馬が拳銃のようなものを手にしていた。背中に強い痛みと痺れがあった。


「世界で最も人を殺している生物を知っているか? ……蚊だよ。一年間で何十万人もの人間が蚊に命を奪われている。いいか、彼女たち(・・・・)を決して侮ってはいけない。迂闊に触れれば命を失うことになる」


 ──なんだ、またか。あんた、以前にも似たような話をしていたじゃないか。


「だが彼女たち(・・・・)は悪意はもちろん、罪悪感も持ってはいない」


 ──思えば俺は、この男に踊らされていただけかもしれない。


 この意味の分からない話に翻弄され、それでも彼女を追い、彼女と触れ合うほどにその想いを焚きつけられ、おびき寄せられるようにこのホテルに忍び込み、月麦との関わりの中で記憶を取り戻し──そうしてこの感情を認めた。


「だがね、生きるという理の中で死が起こるのは当然のことだ。それは自然の摂理だ。命が重いなんていうのは人が作りだしたまやかしに過ぎない。このだだっ広い宇宙に生命が生まれ、そして死ぬ。ただそれだけの話なのに」


 その語りをおぼろげに聞きながら、俺は彼女のことを思い出していた。

 そしてまた一つ、気が付いた。

 俺が怖かったのは傷つくことなんかじゃない。後悔することだったんだ。


 ――初恋の記憶は、俺にそんなことを教えてくれた。

四章はここまでになります。残りは最終章のみです。

(ここまで読んでくださった方、ありがとうございます)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ