File10・失われていたもの
──解離性健忘。
当時、そんな名称を医師の口から聞いたような覚えがある。
人はトラウマ級の嫌な記憶を、自然に忘れてしまうことがあるという。日常生活や社会常識といった記憶は保たれていても、ある個人的な記憶だけが抜け落ちてしまう。
父が、母を殺した記憶。最愛の両親を、共に失った記憶──
深く、真っ暗なところに沈んだソレを、俺は慎重に手繰り寄せた。
ふと気付けば窓の外が白みはじめていた。青黒かった東の空に陽の光が差し始めている。夜明けのその光が深い記憶の闇を照らすかのように、俺の過去も鮮明になっていった。
じわじわ、じわじわ……真っ黒に塗りつぶされた記憶が、本来の色を取り戻していく。その中には彼女──仲谷椛の姿もあった。
やがて朝を迎え、すやすやという寝息が耳に入ってきた。
ベッドに目を向けると、月麦のあどけない寝顔があった。壁掛け時計を見れば、五時を少し回っている。
俺は立ち上がった。
優吏は、それに太陽は大丈夫だろうか。しずくは無事に帰れただろうか。今は連絡手段がない。バンケットスタッフとして従事中、スマホなどの預けた私物を回収する予定でいたのだが、あまりにドタバタしたせいでその機会を逸してしまった。
どうするべきか考えていると、月麦がむくりと上体を起こした。
「……心くん、おはよう……ふあぁあ~」
欠伸をし、つぶらな瞳をこしこしと擦る。
「ごめん、起こしちゃったか。……あのさ俺、そろそろ行くよ」
そう伝えると、月麦はニッコリと微笑んだ。
「そっか~。ええと、優吏ちゃんと太陽くんと……それに、椛ちゃんのところに行くんだね」
俺は頷いた。すると月麦はベッド脇に置いてあったランドセルを手繰り寄せ、何かを取り出した。
「これ、わたしのなんだけど、心くんにあげちゃう」
その小さな手には錦のお守り袋が握られている。
「お守り? 貰っちゃっていいのか?」
「うん、あげる。……心くん、ちゃんと思い出せたみたいだね、エラいね」
月麦は瞳をキラキラさせ、うんうん頷きながら言った。
俺は差し出されたお守りを手に取った。
「ありがとう。ランドセルがあるってことは、月麦は小学生だったんだな」
何とはなしに言う。おそらく三、四年生くらいだろうか。
ところが月麦は気まずそうに俯いて、
「……わたし、年齢的には中学一年生。学校には行けてないけど」
そう寂しそうに言った。
正直、驚いた。言動が幼かったせいかもっと子供だと思い込んでいた。ハッとさせられるような顔立ちは確かに、少女というより女性のものかもしれない。
「そっか、ごめん。妙に大人びたところがあるなとは思ってたんだけど」
思わずジッと見つめていると、月麦は頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。それからとてとてと冷蔵庫に向かい、ペットボトルのお茶を取り出す。
その瞬間、俺は冷蔵室にあるなにかに目を奪われた。
「……月麦、その赤いの、なんだ?」
デキャンタのようなガラス容器、それに赤い液体が満たしてある。しかしその色味はワインやジュースのそれとは明らかに異なっている。
月麦はハッとしたように慌てて冷蔵庫を閉じると、
「……ただのジュースだよ」
そう呟くように言って視線を落とした。
束の間、俺は中条の言葉を思い起こす。
――その女は、血を必要としている
心臓がドクリと脈打った。
俺には記憶を取り戻してなお、分からないことがある。
「なあ、月麦が言ってた『人とはいえない人』って──」
その時だった。ふいに部屋のドアが、ガチャリと開かれた。
驚いて視線を向けた俺は、入ってきた男の姿に言葉を失う。黒髪をオールバックに撫でつけた、黒いスーツの男――
「センシティブな情報の調査はプライバシーの侵害だよ、探偵くん」
流鏑馬志信──
その両サイドには外国人の男二人を連れ立っている。昨晩俺と追いかけっこをした挙句、山吹にしばかれたあの傭兵たちだ。
「ここで何をしている。ちゃんと忠告したつもりだったが」
高圧的な口調で言うと、流鏑馬はチラリと月麦を見やり、
「月麦。こっちにきなさい」
そう言って手招きをした。
月麦は何かを言い淀んでいるようだったが、結局は渋々流鏑馬の元へと歩み寄り、申し訳なさそうに俺を振り返った。
その小さな頭を撫でながら、流鏑馬がまた口を開く。
「先日の温泉ではこの子が世話になったそうだな。月麦は私の姪っ子でね、一応は礼を言っておこう」
その事実はなんだかすごくショックだ。麗しのお姫様が、まさかこの蝙蝠みたいな男と血が繋がっているとは。
俺は顔を上げ、口を開く。
「その子には俺も世話になったし、礼なんていい。……それより、優吏を返してほしい」
そう、仲間を返してくれさえすればそれでいい。──そしてその要求は、意外にもあっさり受け入れられた。
流鏑馬はフッとほくそ笑み、言ったのだ。
「いいだろう。では行こうか、あの子もきみが来るのを心待ちにしている」




