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蚊らくり彼女  作者: ようへい
四章 片想う
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File10・失われていたもの

 ──解離性健忘。

 当時、そんな名称を医師の口から聞いたような覚えがある。

 人はトラウマ級の嫌な記憶を、自然に忘れてしまうことがあるという。日常生活や社会常識といった記憶は保たれていても、ある個人的な記憶だけが抜け落ちてしまう。


 父が、母を殺した記憶。最愛の両親を、共に失った記憶──

 深く、真っ暗なところに沈んだソレを、俺は慎重に手繰り寄せた。


 ふと気付けば窓の外が白みはじめていた。青黒かった東の空に陽の光が差し始めている。夜明けのその光が深い記憶の闇を照らすかのように、俺の過去も鮮明になっていった。

 じわじわ、じわじわ……真っ黒に塗りつぶされた記憶が、本来の色を取り戻していく。その中には彼女──仲谷椛の姿もあった。


 やがて朝を迎え、すやすやという寝息が耳に入ってきた。

 ベッドに目を向けると、月麦のあどけない寝顔があった。壁掛け時計を見れば、五時を少し回っている。

 俺は立ち上がった。

 優吏は、それに太陽は大丈夫だろうか。しずくは無事に帰れただろうか。今は連絡手段がない。バンケットスタッフとして従事中、スマホなどの預けた私物を回収する予定でいたのだが、あまりにドタバタしたせいでその機会を逸してしまった。


 どうするべきか考えていると、月麦がむくりと上体を起こした。


「……心くん、おはよう……ふあぁあ~」


 欠伸をし、つぶらな瞳をこしこしと擦る。


「ごめん、起こしちゃったか。……あのさ俺、そろそろ行くよ」


 そう伝えると、月麦はニッコリと微笑んだ。


「そっか~。ええと、優吏ちゃんと太陽くんと……それに、椛ちゃんのところに行くんだね」


 俺は頷いた。すると月麦はベッド脇に置いてあったランドセルを手繰り寄せ、何かを取り出した。


「これ、わたしのなんだけど、心くんにあげちゃう」


 その小さな手には錦のお守り袋が握られている。


「お守り? 貰っちゃっていいのか?」

「うん、あげる。……心くん、ちゃんと思い出せたみたいだね、エラいね」


 月麦は瞳をキラキラさせ、うんうん頷きながら言った。

 俺は差し出されたお守りを手に取った。


「ありがとう。ランドセルがあるってことは、月麦は小学生だったんだな」


 何とはなしに言う。おそらく三、四年生くらいだろうか。

 ところが月麦は気まずそうに俯いて、


「……わたし、年齢的には中学一年生。学校には行けてないけど」


 そう寂しそうに言った。

 正直、驚いた。言動が幼かったせいかもっと子供だと思い込んでいた。ハッとさせられるような顔立ちは確かに、少女というより女性のものかもしれない。


「そっか、ごめん。妙に大人びたところがあるなとは思ってたんだけど」


 思わずジッと見つめていると、月麦は頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。それからとてとてと冷蔵庫に向かい、ペットボトルのお茶を取り出す。

 その瞬間、俺は冷蔵室にあるなにか(・・・)に目を奪われた。


「……月麦、その赤いの、なんだ?」


 デキャンタのようなガラス容器、それに赤い液体が満たしてある。しかしその色味はワインやジュースのそれとは明らかに異なっている。

 月麦はハッとしたように慌てて冷蔵庫を閉じると、


「……ただのジュースだよ」


 そう呟くように言って視線を落とした。

 束の間、俺は中条の言葉を思い起こす。


 ――その女は、血を必要としている


 心臓がドクリと脈打った。

 俺には記憶を取り戻してなお、分からないことがある。


「なあ、月麦が言ってた『人とはいえない人』って──」


 その時だった。ふいに部屋のドアが、ガチャリと開かれた。

 驚いて視線を向けた俺は、入ってきた男の姿に言葉を失う。黒髪をオールバックに撫でつけた、黒いスーツの男――


「センシティブな情報の調査はプライバシーの侵害だよ、探偵くん」


 流鏑馬志信──

 その両サイドには外国人の男二人を連れ立っている。昨晩俺と追いかけっこをした挙句、山吹にしばかれたあの傭兵たちだ。


「ここで何をしている。ちゃんと忠告したつもりだったが」


 高圧的な口調で言うと、流鏑馬はチラリと月麦を見やり、


「月麦。こっちにきなさい」


 そう言って手招きをした。

 月麦は何かを言い淀んでいるようだったが、結局は渋々流鏑馬の元へと歩み寄り、申し訳なさそうに俺を振り返った。

 その小さな頭を撫でながら、流鏑馬がまた口を開く。


「先日の温泉ではこの子が世話になったそうだな。月麦は私の姪っ子でね、一応は礼を言っておこう」


 その事実はなんだかすごくショックだ。麗しのお姫様が、まさかこの蝙蝠みたいな男と血が繋がっているとは。

 俺は顔を上げ、口を開く。


「その子には俺も世話になったし、礼なんていい。……それより、優吏を返してほしい」


 そう、仲間を返してくれさえすればそれでいい。──そしてその要求は、意外にもあっさり受け入れられた。

 流鏑馬はフッとほくそ笑み、言ったのだ。


「いいだろう。では行こうか、あの子もきみが来るのを心待ちにしている」

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