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蚊らくり彼女  作者: ようへい
四章 片想う
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File08・追懐の日③

 頭を打ったせいか疲労のせいか、想像以上に体が動かなかった。

 止む無く、俺は山吹の肩を借りて歩いた。男として情けないが、既に思い切り助けられているので今更気にすることでもない。


 歩きながら少しだけ話をした。

 優吏のことについて訊くと、怪我もなく無事とのことだった。立場上、詳細な居場所までは伝えられないとのことだ。そのまま信用していいものか疑念も湧いたが、ひとまずは安心した。直感的なものであって確証はないが、山吹が嘘を吐くタイプとは思えなかったからだ。状況を隠したいのであればおそらく、「あなたには話せない」と率直に言ってくるだろう。


 後は何故俺を助けたか、だが──


「あなたを助けたのは椛さまのため。あなたのためじゃない」


 飄々と山吹は言った。要するに俺に何かあっては仲谷が悲しむから、ということのようだ。

 ちなみにあの外国人たちは流鏑馬が雇った傭兵とのことだった。それをあんなふうに撃退してしまい、それこそ山吹の立場は大丈夫なのかと訊ねてみると、


「あいつらは仲間っていうか一時的な雇われだから、別に。私はあくまで椛さまの兵隊だし。……まあ、先生にはまた怒られるだろうけど」


 と、そんなふうに説明してくれた。ちなみに先生とは流鏑馬のことだ。

 要するに山吹は自己判断で俺を助けたのだった。慰労会の旅先で会った時にも「私の独断」と話していたことを思い出す。髪がバッサリ切られているのも、当時の責任を取らされてのことだそうな。

 何とも自由な兵隊だが──今回もそのおかげで救われた。


 改めて礼を告げると、山吹は表情を変えずに言った。


「あなたには、椛さまのことを知る義務がある。それまでリタイアしてもらうわけにはいかない」


 知る義務、という言葉に少なからず動揺してしまう。

 俺は忘れていた過去を取り戻しつつある──でもそれはまだ断片的で、ただの妄想なんじゃないかというくらい漠然としたものだ。それはきっと、俺自身が思い出すことを恐れているからに違いなかった。

 山吹はある客室の前で足を止めた。


「この部屋なら安全だから中に居て。先客がいるけど、あなたにとってキーパーソンといえる人だから」


 その客室は、俺が宿泊者名簿から目星をつけた一室だった。マスターキーを使っても鍵が回らず、入室できなかった部屋だ。

 そのドアを山吹はポケットから取り出した鍵ですんなり開錠すると、


「私にできるのはここまで。それじゃ」


 指にかけたキーホルダーをくるりと回して言い、さっさとどこかに行ってしまった。

 その後ろ姿を見送った俺は、ぽかんと立ち尽くす。ここでボーっとしてはいられないが、ドアノブを握ろうという気にもなれなかった。

 するとふいに、ドアの向こうから声がした。


「ねぇ、誰かいるの~?」


 そろそろとドアが開き、一人の少女が顔を覗かせる。


「……あれ? 心くん?」


 俺は目を丸くした。それは慰労会の温泉宿で出会った少女──月麦だった。

 呆然と立ち尽くす俺に、パッと花が咲くような笑顔が向けられる。


「なぁんだ、心くんじゃん。入りなよ~」


 そうして手を引かれるまま部屋に入ると、月麦は笑顔のままこちらを振り返り、


「心くん、怪我してる。ちょっと待ってね」


 そう言ってキャビネットから絆創膏を取り出した。


「えへへ、貼ってあげる~」


 どうやら顔を擦りむいていたらしい。月麦はベッドに座るよう俺を促すと、おでこに絆創膏を貼りつけてくれた。

 そのなんとも優しい手付きに、俺はふっと緊張が解けるのを感じた。


「……ありがとう、月麦」

「いいよ~。少しは落ち着いたかなぁ。お顔、真っ青だったよ?」


 頬っぺたを桃色に染めて無邪気に言う。

 突然ここを訪れた俺を、月麦は理由一つ尋ねることなく迎え入れてくれたのだ。


「突然ごめんな。少しここに居させてもらってもいいかな」

「もちろんだよぉ~。具合が悪かったらベッドを使ってね」

「ありがとう、助かる。……月麦はこの部屋で何してるんだ?」

「明日、志信ちゃんと飛行機に乗るから、ここにお泊りするの」


 それを聞いて驚く。

 明日は流鏑馬がイギリスに渡航する日だ。仲谷や山本だけでなく、月麦も同行する予定になっているのか。


「志信ちゃんって、流鏑馬のことだよな」


 月麦はこくこく頷いた。


「そうだよ、流鏑馬志信ちゃん。心くん、志信ちゃんのこと知ってたっけ?」

「ああいや、知ってるというか……」


 その男から仲間を取り戻すために来た、とはさすがに言いづらい。どうやら月麦は流鏑馬と近しい関係のようだ。

 それならそれで情報を集めるチャンスかもしれないが、月麦を相手に詮索することは憚られた。相手は純粋な女の子だし、何よりこうして俺を助けてくれている。

 どう返したものか言い淀んでいると、月麦は小首を傾け、その小さな口を開いた。


「心くんはさ、椛ちゃんのお見送りに来たんでしょ?」


 俺は唖然と黙り込んでしまう。心臓がドクリと音を立て、脈打った。

 どうして月麦はそんなことを訊いてくるのだろう。そう思いながら、頭の片隅では、やっぱり仲谷も渡航するのか、とぼんやり考えていた。

 もちろん俺がここに来た理由は仲谷に会うためじゃない。優吏と山本を救い出すためだ。それを頭では分かっているのに、月麦の問いかけを即座に否定できずにいる。仲谷椛のことが、その笑顔が、泣き顔が、脳裏に去来している。


 月麦は小さな指を顎にあてると、天井を仰ぎ見て言った。


「でもね、椛ちゃんここにはいないよ。学校に行ってるから」

「……学校に?」


 思わず訊く。今は夏休みのはずだ。

 すると月麦はニコリと微笑んで言った。


「外国に行く前にね、やっておきたいことがあるんだって。多分だけど、心くんに関係することじゃないかな」


 ──俺に関すること?


 この少女は一体何の話をしているのだろう。突然のことに頭が混乱し、言葉を発することができない。

 月麦はサイドテーブルに置かれたスマホに手をやり、


「わたしね、実は頼まれてることがあって」


 小さなお姫様らしからぬ大人びた口調で言い、液晶に映し出された写真をこちらに差し向けた。

 それは少女の写真だった。


 まだ少しあどけない赤い瞳をした少女が、花に囲まれて幸せそうに微笑んでいる。肩に届くくらいのボブヘアー、薄紫色をしたフリルのドレス、首元には黒のリボンチョーカー。今のイメージとはかなり違うけれど、その少女は紛れもなく──仲谷椛だった。


 胸の奥がギュッと締め付けられる。初めて目にした写真のはずなのに、それはどこか懐かしく、こころの深いところを乱した。

 訳が分からないまま、俺は訊ねる。


「頼まれたって、誰に、何を?」


 すると月麦は驚くことを口にした。


「優吏ちゃんに、この写真を心くんに見せてあげて欲しいって」


 ──優吏が?

 驚きのあまり言葉を失う。幼い頃の仲谷の写真を、俺に見せる──そんなことを、優吏が?

 そもそも優吏は慰労会に参加していないのだから、月麦とは面識がないはずだ。


 そんな俺に対し、月麦は我が意を得たり、とばかりにつぶらな瞳を細めて言った。


「うふふ、驚いたでしょ。優吏ちゃんはね、少し前までわたしと同じおうちで暮らしてたんだよ~。仲良くなって、心くんのこともたくさんお話ししたんだから」


 俺は絶句する。とある邸宅に軟禁されているとは聞いていたが、それが月麦の暮らす家だとは思いもよらなかった。だから月麦に頼みごとができたわけか。


「でもなんで優吏が、この写真を俺に?」


 すると月麦は小さく吐息した。


「それはさ、心くんに思い出して欲しいからでしょ」


 ──思い出す。その言葉にぎくりと心臓が揺れる。

 俺はおそるおそる視線を持ち上げ、月麦を見やった。


「あいつも、仲谷のことを知ってるのか?」


 月麦は、ええ~と不満そうに唸った。


「だって優吏ちゃんは、心くんの幼なじみでしょ。心くんの昔のことも知ってて当たり前じゃん。わたしね、優吏ちゃんから心くんの過去を聞いたとき、応援しようって、そう決めたの。だからこうして協力してるんだよ」


 俺の何を聞いて、何を応援しようというのか──そんなふうに思いながら、自分自身の、ポッカリと空いた記憶にこころを向けてみようと試みる。黒々と塗りつぶされたままの過去が、俺にはある。それをどこかで、理解はしている。


 月麦はこましゃくれた子供みたいにふふっと笑い、


「わたしは椛ちゃんと心くんのこと、応援したい。だから二人がちゃんと再会できるように、協力したい。そう思ってるのはきっと、わたしだけじゃないと思う」


 ──仲谷と、俺のこと。

 記憶の片隅に言いようのない痛痒が生じた。思い出せなくて、いや、思い出したくなくて、こころの深い淵に押し込めたまま、取り出せずにいるもの。


 月麦は言った。


「心くん、もういい加減目を覚ましなよ」


 それは「開けゴマ」だった。

 刹那、記憶と感情が濁流のごとく押し寄せ、俺の脳裏に幻影を浮かび上がらせた。記憶の奥底に沈むようにある暗闇、その先を覗き見るかのような──



 寂しげな彼女の笑顔、切ないまでの慕わしさ。

 だが次の瞬間その感情は渦潮に吞み込まれるように掻き消え、絶望と恐怖に容貌を変える。


 父の奇声、母の悲鳴。それを聞きつけて玄関廊下をひた走る、自分の足元、その足音──

 リビングのドアを開いた。刹那、赤い色が鮮やかに迸った。

 それは、母の首筋からぴゅうぴゅうと溢れ出る鮮血の赤だった。

 父が手にする果物ナイフに粘りついた血糊が、糸を引く。

 その時、俺の喉から漏れ出た叫びは、絶望ではなく祈りだった。

 助けてほしい、そう祈った。でも、ただの現実に救いの手が差し伸べられるはずもなかった。


 ──だから俺は心を閉ざしたんだ。だって、そうするしか方法がなかった。

 記憶を閉ざし、すべてを忘れることでしか自分を守ることができなかった。

 子供がクレヨンで画用紙を塗りつぶすように、俺は俺の記憶を真っ黒に塗りつぶしていった。

 消えていく。ぐしゃぐしゃ、ぐしゃぐしゃと音を鳴らしながら、黒く消えていく。

 そうして塗りつぶされていく。父の顔も、母の顔も。


 彼女の顔も──



 ──気付けば俺はベッドに横たわっていた。いつのまにか眠っていたようだった。

 上体を起こすと、だいじょうぶ? と声がした。振り向くと、隣のベッドで月麦が頬杖をついて、こちらを見つめていた。


 俺はため息を吐く。

 さまざまな感情が取り巻いていたが、その中でとりわけ際立っていたのは、月麦に対する感謝の気持ちだった。この少女は、俺の記憶の(かんぬき)をそっくり取り除いてくれたのだ。

 俺は絞り出すように言った。


「一つだけ教えてほしい。月麦は一体、なんで……」


 俺のことを助けてくれるのか。

 すると少女は「言ったでしょ、応援したいって」と前置いて、寂しげな笑みを浮かべた。


「それにわたしも、椛ちゃんとおんなじ、人とはいえない人だから」

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