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蚊らくり彼女  作者: ようへい
三章 蚊らくりの少女
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File09・人じゃない

 俺と仲谷は草履をつっかけ、宿の玄関を出て行った。


 夜の暗がりを進んで車道を横切り、防潮堤から海辺に続く階段を降りる。俺は自然と仲谷の手を取っていた。街灯が少なくて暗い上、草履では足元も覚束ない。

 海辺は砂浜になっていて、ジャリジャリした砂が足と草履の隙間に入り込んできた。


 海は黒いうねりを打ちながら月明かりに白く煌めいて、静かな波音を立てている。

 仲谷は俺の手を離し、砂浜を海の方へと進んだ。


「私には両親がいません」


 言いながら波打ち際で振り返る。海を背にしたまま、語りかけるように言葉を紡いだ。


「父と母を失い、住むところを失い、暫くして今の仲谷家に引き取られることになりました」

「……それじゃ、仲谷っていうのは」

「もともとの姓ではありません。ですから、心さまにはできれば『椛』と呼んでほしい」


 彼女はどこか寂しそうに言った。

 その口ぶりからすると俺が以前は名前で呼んでいたことがあるかのようだ。


「……俺が忘れてることって?」


 先ほどの疑問の答えを尋ねる。すると彼女はゆるやかに首を振った。


「私からは申し上げたくありません。ご自身で思い出してください」

「じゃあせめて、きみが何者か教えてほしい」


 仲谷の肩がピクリ、と揺れる。

 確かに何も分かっていないのは自分が無力であるせいだ。それでも今はこのまま引く気にはなれない。

 彼女は俺にとって何者で、どうして俺に近付いてくるのか。俺は何故、彼女に特別な感情を抱き、彼女は何故、そのことを知っているのか──何も分からないまま、知らないままでは納得ができない。


「ですから言ったではありませんか。探偵ならご自身でお調べに──」

「何一つとして教えてくれないのか」


 半ばやけっぱちに彼女の言葉尻をかき消す。我ながらいじけた子供のようだ。

 彼女は憂うように瞼を伏せ、静かに口を開いた。


「……では一つだけ、ヒントを差し上げます」


 寂しそうに微笑み、瞳を持ち上げる。


「今の私は、人とはいえないかもしれません」


 いつの間にか雨がポツポツ降り始めていた。

 押し黙ったままの俺を見つめながら、彼女が言葉を継ぐ。


「それはいいのです。私自身覚悟を決めていたことですから」


 彼女が何を言いたいのか分からなかった。


「……人とはいえない?」


 問いかけてはみたものの、その質問の意味すらよく分からない。こんな質問を、人に対してしているのだから。

 しかし彼女はそれを肯定した。


「はい、人とはいえません」


 雨が強まり海面を打ち始める。その雨音が却って静寂を強調していた。


「……ただそれでも。人としての気持ちは残っている」


 海の上に浮かぶ月はいつしか雨雲に覆われ、ただぼんやりとした光だけを滲ませている。


「あなたの言うとおり、恋愛感情は単なる脳の機能に過ぎない。吊り橋理論のように、感情と認知はあやふやな関係かもしれない。でもその感情が芽生えたことには必ず意味があると──私はそう思います」


 彼女の赤い瞳が雨夜に滲んでいる。


「人というのは愛する人と記憶を結び付ける生き物。その人と歩いた道を歩けば、その時の光景を、感情を、ありありと思い出せるもの」


 雨粒を映した瞳は赤い宝石のようだ。


「私は両親を失ってから本を読んでばかりいました。そして、その隣にはあなたがいた。私はその時の光景を、感情を、今でもはっきり思い出すことができる」


 その瞳から涙がこぼれ落ちる。それがただの雨雫でないと分かるのは、彼女の情動が真っ直ぐに伝わってくるからだろうか。


「……思い出されませんか?」


 再びそう問いかけられると、ギュッと胸が締め付けられる気がした。心臓を鷲づかみにされているような。痛いような苦しいような、懐かしいような切ないような。

 彼女の名前を呼べば、何か思い出せるだろうか。


「……椛」


 彼女がコクリと頷いた。

 もう一度、その名前を呼ぼうとしたその時──


 ごう、と空気が揺れて一つの影が彼女と重なり、攫っていった。そうして彼女は砂浜へと倒れ込んでいた。

 何が起きたのか分からず呆然とする俺の耳に、雨音に混じり野生の獣のような息巻きが聞こえてくる。


「ここにいたのか、仲谷」


 ねっとりとした声音。その影の正体に俺は驚きの声を上げた。


「中条……!?」


 雨に湿った泥のような砂浜に、彼女が押さえつけられている。


「何してるんだ、てめぇ!」


 勢い、中条の肩に掴みかかった。

 しかし情けなくも簡単に弾き返された俺は、次の瞬間には砂浜に突っ伏していた。


「小湊、邪魔をするな」


 顔面の感覚が麻痺している。殴られたらしい頬が段々と激しい熱を帯び始めた。

 情けなく突っ伏したまま中条を見上げると、奴は彼女を抱きかかえたまま、胡乱な目つきで俺を見下ろしていた。


「お前やっぱり、仲谷を独り占めするつもりだったろう」


 彼女は気を失っているらしかった。

 言葉の意味が分からず、分かる必要もなく、俺は夢中で立ち上がり中条に掴みかかる。しかし腹部に強烈な膝蹴りを入れられ、成すすべなくその場にうずくまった。


「返さないよ、お前なんかに」


 仲谷は物じゃないだろう、そう叫ぶつもりが呻き声にしかならない。

 そのまま彼女が連れ去られていく。俺はその背中に縋るように、よたよたと中条を追っていく。砂浜を踏みしめる足が重い。口から何か溢れ出てくるので拭ってみると血液だった。

 二人の背中が遠ざかっていく。俺は自分自身に絶望していた。


「待て、頼むから、待ってくれ」


 それもほとんど声になってはいなかった。意識が徐々に遠のいていく。

 ──まさかこのまま、彼女を攫われる?

 何も思い出せないまま、何も知らないまま、何も出来ずに今回もまた。

 ──駄目だ、意識が遠ざかる。誰か彼女を助けてくれ。


 そう祈った時、何者かが俺の腕を抱え起こした。


「しっかりして。あなたのせいで私まで怒られる」


 見覚えのある顔が俺を睨みつけている。


「……おさげ眼鏡」


 すると山吹は眉根を寄せ、いかにも不快そうに言った。


「おさげ眼鏡……って、私のこと?」

「それどころじゃないんだ、仲谷が」


 中条が向かった先を指差す。

 しかしその先に見えたのは中条ではなく、肩を怒らせて歩み寄る金髪──瀬崎玲於の姿だった。


「またてめぇか、このゴミクズ野郎……!!」


 その怒声はライオンの咆哮のようだ。


「姉さん、手加減してあげて。一応は怪我人──」


 山吹が言い終えるより先に蹴り飛ばされ、俺は再三砂浜へと顔を埋める。

 しかし今度はすぐさま上体を起こし、瀬崎の後方──彼女が連れ去られた方角を指差す。


「それどころじゃ……」


 そう言いかけ、俺を蹴り飛ばした瀬崎がその彼女を抱えていることに初めて気が付いた。

 その後方を見れば顔をひどく腫らした中条が、スーツを着た別の女性二人に腕を捻りあげられている。

 俺はやっと状況を察し、胸をなでおろした。どうやら彼女は無事に救出されたらしかった。


 瀬崎は彼女を丁寧な仕草で山吹へと預けると、ずかずかと俺に歩み寄り、胸ぐらに掴みかかってきた。


「何ホッとしてんだ? お前のせいだぞ? お前のせいでお嬢様は危険な目にあった。それも助け出したのは私らだ。お前、恥ずかしくないのか?」


 何も言い返せるはずがなかった。


「あんたの言うとおりだよ。情けないし、みっともない。……それでも、仲谷が助かったのなら、今はそれでいい。悪かった」


 胸ぐらを掴む手に力がこもり、ブルブル震え出す。


「……お前なんかが、お前なんかが、お嬢様に……」


 今にも齧りついてきそうな野獣そのものの形相。


「……決めた、私はそのうちお前を排除する。口実なんていくらでも作ってやる。それまで残り少ない余生をせいぜい楽しめ。お前みたいな弱者は黙って殺られるしかない。──それが怖ければ、二度と私らの前にその面を晒すな。大人しく木陰にでも隠れていやがれインパラ野郎」


 怒気をはらんだ声でひと息に言い、瀬崎は俺を突き飛ばした。

 よろめき、尻もちをつく。そんな俺を見下ろす瀬崎の目には──気のせいだろうか、憐憫の色が湛えられているようにも感じられた。


 やがて瀬崎がくるりと踵を返し、その時同時に、後方にいる瀬崎の仲間たちがアッ、と叫び声を発した。


「中条!」


 見れば中条が海に向かって駆けていく。どうやら拘束を振り解いたらしかった。瀬崎がチッと舌打ちをする。

 中条が向かう先は夜の海──そこに陸地は見当たらない。一体何処へ逃げるつもりなのかと、呆然とそんなことを思う俺の耳に、か細い声が聞こえ届いた。


「……思い出して」


 それは彼女の声だった。

 意識を取り戻したらしく、山吹に抱きかかられたままジッと俺を見つめている。


「……思い出して」


 朦朧としながら、小さな手を胸に当て、か細い声で、まるで悲鳴のように、彼女は俺に訴えかけていた。

 瀬崎と山吹もそんな彼女に気を取られたようだった。ハッとして中条に視線を戻すと、その姿は海の沖の方にあった。

 風が吹いて雨が強まり、波がうねる海の中、水面から顔だけを浮かべた中条が叫ぶ。


 ──僕は、あんたらに利用されるつもりはない


 雨風の中、断末魔の叫びのようなその迫真さが、俺たちのいる砂浜にまで響きを伝えてくる。


 ──小湊、お前は絶対にその女を手に入れることはできない

 ──お前は、その女の秘密を何一つとして分かってはいない


 黒々とした海の中、パクパクと動くその口の中だけが赤く際立っている。


 ──一つ教えてやる、その女は人間の血を必要としている

 ──それも保存された血液じゃない、生き血を求めている


 そして中条は黒い波に攫われながら、最後に、


 ──その女は人じゃない


 と叫んだ。それを最後に黒々とした海に呑み込まれて消えた。


 海の藻屑となる。それはあきらかに中条の意思による行動だった。

 それがどれほど異常なことかを上手く認識できないまま、俺はただ呆然と黒い海を眺めながら、優吏から聞いたあの言葉を思い出していた。


 ──Culicidae-Humanoid


 蚊と呼ばれる昆虫の学名。蚊。人の生き血を吸う生物。


 中条は「その女は血を必要としている」と言った。その言葉を現実とどう結び付ければいいのかまるで分からない。あまりに現実離れしていて何の推測もしようがない。


 振り返ると仲谷はまた気を失っていた。

 生気を失った顔は白く、か弱く、儚く、美しかった。


 ──ふと、その彼女の体が糸に繋がれているような、そんな錯覚に襲われた。

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