File08・感情と記憶
窓から差し込む月明かりが、隣を歩く月麦の顔を青く照らす。
いかにも眠そうな子供ながらハッとさせられる上品な顔立ちは、麗しの眠り姫とでも言うべきだろうか。おそらくは十歳にも満たない子供だとは思うが、妙に大人っぽい雰囲気がある。
この子はこの子で何者なのだろうか。
「お待たせしました」
カチャリと扉が開き、仲谷が顔を覗かせた。
月麦を連れて部屋を訪ねたところ寝具を整えるので待ってくださいと言われ、しばし廊下に待機していた。ひどく眠たげな月麦の様子から部屋に入るなりベッドに倒れ込んでしまいそうなので、シーツなり何なりを整えていたのだろう。
ちなみに太陽はしずくを迎えに温泉施設に向かっている。俺が行ってもよかったのだが先方のご要望により月麦姫のお世話役に命じられたので仕方がない。
「心くん、それじゃ行きますよ~」
仲谷に預けようと月麦の背を押すと、ギュッと手が握られた。
「……ちょ、ちょっと、おい?」
そのまま部屋に入ろうとするので、俺はリードに抵抗する犬の如くその場に踏みとどまる。
振り返った月麦は不満げに頬を膨らませた。
「ちょっとなぁに? もう眠いんだけど」
「だから俺は部屋には入らないってば!」
「我がまま言わないの。一緒に寝る約束したでしょ」
「いや、してない、してない!」
このお姫様は顔見知りの他人と距離を詰めすぎだ。もっと警戒心を持つべきである。
そんなこんなで押し問答をしていると仲谷がクスリと笑い、
「よろしければお入りください」
と屈託のない笑顔で言った。
「オハイリクダサイ!」
片言まじりにリピートした月麦が、一層強く手を引いてくる。
俺はその手を咄嗟に解き、逃げるようにその場を後にした。ご立腹らしいお姫様のわめき声を後ろに聞きながら廊下を曲がり、そのまま自室へと転がり込む。
バタンと閉じた扉を背にしてようやくひと息つくことができた。
ドクンドクン、と心臓が早鐘を打っている。
先程の仲谷の笑みが思い起こされ、顔が熱くなった。そんな自分の頬をピシャリとはたき、心臓の付近を掴むようにしながら自分を落ち着けることに専念する。
取り乱している自分がひどく情けなかった。
何故ならその要因となっている感情が──自分が嫌悪するあの感情に似ているからだ。
そしてそれは、俺が彼女に近付きたくない理由でもある。
俺はここに来る前、「仲谷椛にはもう近付かない」と優吏に言った。それは調査にあたっての弊害となるからで、その不利益を回避するというのが理由だった。
──けれど俺からすれば、理由はそれだけではない。
にわかに頭痛がしてベッドに腰を下ろす。さらに吐き気がして枕に顔をうずめた。
──彼女のことを考えたくない。なのに考えずにいられない。
矛盾したこの感覚は、学校で彼女に再会した日から徐々に強くなっている。そしてそれは俺がこれまで幾度となく触れてきた、あの感情によく似ている──それもどういうわけか、つい最近芽生えたものではない、そんな気がする。
太陽が言っていた彼女の美貌がどうとか、そういうことじゃない。もっとずっと深いところに根付いている、胸を焦がすような感情──
――冗談じゃない。
片想い成仏委員会なんてものを運営し、今まで散々講釈を垂れてきた俺がそんな感情に振り回される。
そんなのは屈辱でしかない。俺からすれば甘酸っぱい想いだとか胸のトキメキなんかとは対極にあるものだ。
俺は両親のようには決してならない──
その時ふいに扉がノックされた。
物思いに耽っていた俺はびくりと肩を揺らし、太陽としずくが戻ってきたんだろうと思い直し、自分を落ち着かせる。
「……開いてるよ」
そう返事をするとカチャリと扉が開いた。そろそろと人が入ってくる気配がある。
そういえば電気を点けていなかったな、と今更ながらに気付いた。
「電気、点けてもいいぜ。悪いけど先に休ませてもらってる。思ったより早かったんだな──」
「ごめんなさい」
想定外の返事とその声に、今度は体が跳ね上がった。本当に心臓が止まったかと思った。
俺を驚かせたその声の主は、傍らのベッドに腰を下ろし「ごめんなさい」ともう一度言う。
「もうお休みになられていたのに」
暗がりの中──仲谷椛の赤い瞳が俺を見つめていた。
「どうして、ここに?」
そう尋ねるのがやっとだった。彼女は少しはにかむように笑ってみせた。
「……少しだけお話させてください。これで最後にしますから」
その微笑みが月明かりで青く照らし出されている。
「……最後?」
「はい。これ以上私に付きまとわれても迷惑でしょうから」
上体を起こした俺を、彼女は真っ直ぐに見つめていた。何か強い覚悟を決めている、そういう表情をしていた。
彼女に出ていってもらうかそれとも自分が出ていくか──そんな考えを巡らせていた自分が卑怯に思えてくる。
「……わかった。話そう」
俺はそう言って、彼女と向き合うように座りなおした。
彼女は嬉しそうに微笑んで、改めてその口を開いた。
「覚えていますか? 私たちが初めて出会った日のこと」
含みのある物言いに俺は首を傾げる。それについては先日図書室で話したばかりだ。
「パーティ会場でのことだよな? 仲谷が具合悪そうにしてて、それを見かけた俺が声をかけて……」
言いながら自分が早口であることに気付く。緊張しているのか焦っているのか、しどろもどろで舌でも噛んでしまいそうだった。手にじんわりと汗が滲んでくる。
そんな俺に、彼女は意外な言葉を返してきた。
「いいえ、違います」
俺とは対照的な、ゆっくりした穏やかな口調だった。
「違う……?」
問い返す俺に、彼女はこくりと頷いて言う。
「心さま。感情と記憶の関係をご存知ですか」
俺は首を横に振る。突然話題が変わったことを不思議に思った。
彼女が言葉を継ぐ。
「感情は記憶の質に影響を与えます。喜びでも悲しみでも怒りでも、その感情が強ければ強いほど、鮮明な記憶として脳に残る」
俺は頷いた。
身に覚えがあるし、そういうものなんだろうと思う。
「……ただ、その逆もあります。生きるのに妨げとなる記憶は抑圧されて、思い出せなくなってしまう。人の記憶は錯覚ばかりです」
彼女はそう言って立ち上がり、俺のすぐ隣に並ぶように腰を下ろした。
ぎしりとベッドが軋み、肩が触れ合った。ふわりと甘い香りがした。
「思い出されませんか」
彼女はそう言い、俺の手を取った。反射的に体をのけ反らせてしまうと、彼女の握る手の力が強くなった。
視線を向けると、赤い宝石のような瞳が俺を見つめていた。きゅっと唇を引き結び、睨むように俺を見つめるその瞳はどこか不安げで、真剣な色が澱みなく表れている。
彼女の手は温かかった。その体温に、俺は不思議と気持ちが落ち着くのを感じた。それは奇妙な感覚だった。彼女を拒絶したくて仕方なかったはずの俺は今、言いようのない安心感を覚えている。
──ルビーレッドの瞳は何かを訴えかけている。
ふと、彼女の言うように俺は大切な何かを忘れてしまったんじゃないか、そんなふうに思った。けれど本当に何かを忘れているのか、ただ忘れた気になっているのか、それすらも判断できない。
「君は誰なんだ」
そんな言葉が口を衝いて出た。
改めて彼女の姿を確認する。陶器のような白肌と漆のような黒髪。すっきりした鼻に少し薄い唇。涼しげな目元、赤い宝石のような虹彩。今にも消えてしまいそうな儚さを思わせる、どこか現実味のない少女。
その彼女が、囁くように言った。
「思い出してください」
その時──はだけた胸元が視界に入り、俺は視線を逸らしクルリと背を向けた。
それが誤解を与えたのか、彼女は語気を強めて言った。
「どうか、逃げないで」
俺は頭をぽりぽりと掻く。
そういう誤解ならそれでもいいというか、むしろそのほうが都合はいいけれど、後々に影響しそうなのでちゃんと伝えておく。
「……ああいや、そうじゃなくて、胸がはだけてる」
彼女がきゃっ、と小さく悲鳴をあげて胸元を隠す。
なんとも気まずい沈黙が流れ、彼女は場を取りなすように、再度その口を開いた。
「でもあの、やはり心さまは逃げていると思います」
「いやでも、ジロジロ見るよりはいいんじゃないかな」
「そ、そのことではありません!」
どうやら胸の話ではなかったらしく正面から睨まれてしまった。
「……心さまのお仕事のことです。片想いしている人は馬鹿だ、とか仰られてますよね。それについてずっと一言申し上げたかったのです」
なんと、意外なところに飛び火した。どうやら片思い成仏委員会の営業動画のことを言っているらしい。
「いや、馬鹿とまでは言ってないんだけど。ずっと同じ人を好きでいる必然性はないというか、そういう話なわけで……」
それに彼女はムッ、と頬を膨らませた。
「それって穿った見方をしすぎてはいませんか? ひねくれているというか」
「……? でも、実らない恋愛を続けても何も得をしないだろ。ただ無駄に病むだけだ」
「その考え方がひねくれているのです。恋愛に無駄も何もありません。そもそも損得勘定で考えるものではありませんから」
遠慮のない物言いだった。良いか悪いか、はだけた胸のおかげで場の緊張がほぐれたらしい。
彼女は上目遣いで俺を睨み、さらに言葉を続けた。
「それに矛盾しています。──だって、心さまはずっと、私のことを好いているではありませんか」
ゴン、という音が室内に響く。狼狽えるあまり後頭部を壁にぶつけてしまった。
確かに俺はそれによく似た感情を自覚している。けれどそんな素振りをおくびにも出したつもりはない。
戸惑いを隠せずにいる俺に、彼女がにこりと微笑みかける。
「もちろん、私の思い上がりでなければ、ですけど」
そう口にした彼女を見つめていると──ゴーンと鐘を突くような音が鳴り響いた。驚き、二人して体を揺らす。
どうやら壁掛け時計が0時を告げるチャイムのようだ。夜中に鐘を鳴らすような時計を客室に置くなと思いながら、いつの間にかもうそんな時間なのか、と思い至る。さすがにもう太陽としずくが戻ってくる頃だ。
それを察してか──彼女は言った。
「少しだけ、夜の海を見に行かれませんか」




